2011年10月21日金曜日
「汝、幼子の如くあれ!」
私は
赤ちゃんが
大好きです。
赤ちゃんを
嫌いという人には
お目にかかった
ことはありません。
赤ちゃんなら
人間も動物も
大好きです。
大人が嫌いと
言う訳では
ありませんよ!
見てるだけで
思わず
誰もが
笑顔になる存在
それが
赤ちゃんだと
思うんです。
純真無垢な
表情や仕草
ひとつひとつが
天使そのものの
愛らしさと
そして
高貴ささえも
漂わせています。
赤ちゃんを
見ていると
神の子であることに
疑いをはさむ
余地はありません。
イエスさまは
言いました。
「汝!幼子の如くあれ!」と。
赤ちゃんのように
純真無垢で
ニュートラルな
すばらしい状態に
帰りなさい!と
仰っておられる
のでしょう。
私たちも
誰もが例外なく
最初は
赤ちゃんだったんです。
(私は、だいぶ昔ですが・・・)
でも
その赤ちゃんのときを
自分で見ることは
できません。
正確には
現在の
自分自身でさえ
この眼で
見ることは
できないのです。
自分の眼で
見れるのは
鏡という媒体を通して
見る自分のような
ものです。
肉体的なものは
すべて
限界があり
有限なものです。
私たちは
赤ちゃんを見て
純粋を
永遠を
無限を
優しさを
ほほえみを
光明を
高貴を
美しさを
愛を
そして
癒しを
感じます。
それは
肉眼で見て
心の眼で
感じるのです。
これらすべての
特性は
神の特性です。
最初に神をつけて
神の純粋
神の永遠
神の無限
神の愛と・・・
置き換えられる
言葉ばかりです。
私たちの奥底にある
神の特性、
いわゆる神性が
感応して
赤ちゃんに神を
見るのです。
私たちは
生まれたときから
元々
神性
仏性
霊性
イデア
理念と
呼ばれてきた
高貴なものが
備わっていたのです。
しかし
私たちは
この肉体に
徐々に
慣れるに従って
その高貴なるものを
忘れていきます。
成長して
認識が入り、
分別がつくように
なってきます。
良いとか
悪いとか
判断基準を
持つようになり、
自分の価値観を
創っていきます。
そして
絶えず過去に
引っ張られ、
過去の認識
というものに
つかまって
そこから
抜け出せなく
なっていきます。
私たちは
過去の認識
昨日までの認識が
今日の行動を
決定しています。
他の人から
罵詈雑言を
浴びれば
自分も
言い返します。
私の場合は
他の人の何倍かは、
声を荒げて
その上を
いかなければ
とても気が
済みませんでした。
或いは
怖くて
尻尾を巻いて
逃げ出すかも
知れません。
相手が会社の
上司かなんかだったら
明日は
会社に行くのさえ
嫌になり
休んでしまうかも
知れません。
このように
私たちは
過去の記憶への
対処から
行動を決定して
いるのです。
そして
そうこう
していると
知らず
知らずのうちに
自分と他人と
区別をし
あの人は悪い!
あの人はいい!と
自分の価値感で
判断を
していくように
なっていきます。
日常につかまって
しまうのです。
その頚木から
逃れなければ
なりません。
赤ちゃんは
そのままで
光輝いています。
神々しさも感じます。
「汝、幼子の如くあれ!」
この言葉は
真理そのものです。
赤ちゃんは
何ひとつ疑うことを
知りません。
自分の中の神を
金輪際
疑っていません。
そのままを
ありのままを
表現します。
そうしたら
神の愛の表現に
なるのです。
私たちも
何も変わりません。
今からでも
遅くないのです。
聖書の中の
マタイ伝
第13章12節に
こう書かれています。
「それ誰にても
持てる人は
与えられて
いよいよ豊かならん。
されど持たぬ人は
その持てるものをも
取らるべし」
この意味は
「既に自分の内に
神の生命が
宿っていて、
無限の力が
備わっている
と自覚した人は、
ますます
神性が現れて
純粋を
永遠を
無限を
優しさを
ほほえみを
光明を
高貴を
美しさを
愛を
そして
癒しを
この現象界に置いて
発揮できるのである。
しかし
その自覚の
ないものは
自分が持っている
わずかな
長所でさえも
覆い隠されて
しまうのである。」
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この瞬間
神の無限が
備わっていることを
信ぜよ!
一瞬たりとも
疑うな!
幼子のように
今、ここ
この瞬間の
自覚こそが
私たちの神が
歓喜の雄叫びを
あげるのだ!
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年10月20日木曜日
“内在する創造主と繋がる!”
私たちは
偶然に
この世に
生まれてきた方は
ひとりもいません。
すべて
神の意志により
神の愛の法則によって
生まれてきました。
すべてを
創られた
創造主である神は
万象万物を創造し、
すべての被造物の中に
存在しています。
宇宙には
創造主である神の
唯一の
宇宙生命しか
ありません。
それがエネルギーと
呼ばれている
ものでもあり
すべての
万象万物に
このエネルギーが
宿っているのです。
お釈迦さまは
色即是空(しきそくぜくう)
空即是色(くうそくぜしき)
色心(神)不二
(しきしんふじ)と
仰いました。
空なる生命と
色なる肉体(物質)とは
一秒たりとも
離れては
存在できない。
空(生命)即(すなわち)、
是(これ)色(肉体)であり、
色(物質)即(すなわち)
是(これ)空(神)であり、
色(物質)と心(神)は
不二である。
不二は
二つないのですから、
別々にあるのでは
ないのです。
一つしかない。
ということです。
私たちの生命は
宇宙に唯一の
宇宙生命の
分霊なのです。
生きとし
いけるものの生命は
万象万物には
すべて神の
完全遺伝子を
宿してないものは、
ないのですが
私たちは
そのことを
忘れているのです。
まだ多くの人間は
肉体こそが自分だと
肉体が生きていると
思い込んでおり、
肉体の中の
頭脳がすべてを
司っていると
考えているのです。
教育は全て
外から与えるものとし、
昔から
読み書き算盤を
勉強して
知識を得ることに
時間を費やしています。
これも必要では
あります。
ただ、
外部情報の習得を
専門として
表面意識しか
使わない教育を
しています。
人間が本来
持っているところの
偉大なる意識
潜在意識を
一切無視した、
教育です。
潜在意識の内側に
超意識、
神意識があり、
これが創造主の
宇宙意識
そのものであり、
私たち
すべての内部に
神の完全遺伝子という
記憶が
備わっています。
このことを
イエスさまは
この潜在意識に
在るところの
「神に
繋がらなければ
不毛である」と
仰られたのです。
知識とは
外からくるもの、
物質次元から
くるものですから、
永遠の知識
なるものはなく、
一定のものは
ありません。。
智慧とは
内からくるもの、
インスピレーションや
ひらめき
啓示です。
神の意識から
くるもので
普遍であり
永遠のものです。。
お釈迦さまは
「外を観るなかれ、
自らの内を観よ!」
と弟子たちに
よく仰っていました。
私たち
一人ひとりの意識は
創造主である神と
繋がっているのです。
その大いなる智慧は
内に潜在しています。
宇宙創成からの
神の智慧が
備わっています。
その智慧は
学ばなくても
魂が記憶している
真実の情報です。
表面意識は外から、
五感を通じて
学びますが、
潜在意識は
五感を離れて
頭脳を黙らせる
ことでしか
働かないのです。
お釈迦さまが
「内観せよ!」
ということも、
「瞑想する!」
ことも同じことです。
イエスさまも
「聖者は
沈黙を守る、
汝の密室にて祈れ!」
と言われました。
すべては
潜在意識なる
神なる意識に
繋がる
唯一の方法だからです。
沈黙とは五感である、
表面意識を
沈黙させる
という意味です。
密室とは
見えない世界に
意識を向けよ!
ということです。
私たちは
この物質世界にあって、
目に見えない愛や光
永遠や無限を
どれだけ発見し
どれだけ感じ取って
いけるのでしょうか。
その鍵は
真我(神我)意識に
繋がることが
不可欠なのです。
その方法が
瞑想なのです。
霊性を磨き
霊性を高めない限り
真実の見方は
出来ないのです。
家族や友人
あらゆる人たちや
様々な出来事に
対しての
ものの見方
考え方にしても
表面だけを見て
判断をするように
なっていきます。
その見方は
本質から離れた
歪んだ見方です。
影だけを見て
判断している
偽者の見方しか
できない人間に
なってきます。
愛や光は
目には見えません。
しかし、
誰も愛と光が
ないという人は
いません。
確かにあるものです。
あなたの見るものは
真実を映し出して
いますか?
表面的な
ものの見方に
真実なるものは
見えないのです。
あなたの見方、
受け止め方を
変えれば
まったく違う
世界の中で
生きていけます。
それは
この現実世界をも
変えていく力に
なっていくのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この日から
神の意識の
完全遺伝子を
潜在意識に
受け継いだ
神の跡取り息子
神の跡取り娘としての
自覚を持って
行動しましょう!
神の愛の
表現者として
肉体と生命を
与えて
いただいたのですから
生かしていただいて
ありがとうございます。
偶然に
この世に
生まれてきた方は
ひとりもいません。
すべて
神の意志により
神の愛の法則によって
生まれてきました。
すべてを
創られた
創造主である神は
万象万物を創造し、
すべての被造物の中に
存在しています。
宇宙には
創造主である神の
唯一の
宇宙生命しか
ありません。
それがエネルギーと
呼ばれている
ものでもあり
すべての
万象万物に
このエネルギーが
宿っているのです。
お釈迦さまは
色即是空(しきそくぜくう)
空即是色(くうそくぜしき)
色心(神)不二
(しきしんふじ)と
仰いました。
空なる生命と
色なる肉体(物質)とは
一秒たりとも
離れては
存在できない。
空(生命)即(すなわち)、
是(これ)色(肉体)であり、
色(物質)即(すなわち)
是(これ)空(神)であり、
色(物質)と心(神)は
不二である。
不二は
二つないのですから、
別々にあるのでは
ないのです。
一つしかない。
ということです。
私たちの生命は
宇宙に唯一の
宇宙生命の
分霊なのです。
生きとし
いけるものの生命は
万象万物には
すべて神の
完全遺伝子を
宿してないものは、
ないのですが
私たちは
そのことを
忘れているのです。
まだ多くの人間は
肉体こそが自分だと
肉体が生きていると
思い込んでおり、
肉体の中の
頭脳がすべてを
司っていると
考えているのです。
教育は全て
外から与えるものとし、
昔から
読み書き算盤を
勉強して
知識を得ることに
時間を費やしています。
これも必要では
あります。
ただ、
外部情報の習得を
専門として
表面意識しか
使わない教育を
しています。
人間が本来
持っているところの
偉大なる意識
潜在意識を
一切無視した、
教育です。
潜在意識の内側に
超意識、
神意識があり、
これが創造主の
宇宙意識
そのものであり、
私たち
すべての内部に
神の完全遺伝子という
記憶が
備わっています。
このことを
イエスさまは
この潜在意識に
在るところの
「神に
繋がらなければ
不毛である」と
仰られたのです。
知識とは
外からくるもの、
物質次元から
くるものですから、
永遠の知識
なるものはなく、
一定のものは
ありません。。
智慧とは
内からくるもの、
インスピレーションや
ひらめき
啓示です。
神の意識から
くるもので
普遍であり
永遠のものです。。
お釈迦さまは
「外を観るなかれ、
自らの内を観よ!」
と弟子たちに
よく仰っていました。
私たち
一人ひとりの意識は
創造主である神と
繋がっているのです。
その大いなる智慧は
内に潜在しています。
宇宙創成からの
神の智慧が
備わっています。
その智慧は
学ばなくても
魂が記憶している
真実の情報です。
表面意識は外から、
五感を通じて
学びますが、
潜在意識は
五感を離れて
頭脳を黙らせる
ことでしか
働かないのです。
お釈迦さまが
「内観せよ!」
ということも、
「瞑想する!」
ことも同じことです。
イエスさまも
「聖者は
沈黙を守る、
汝の密室にて祈れ!」
と言われました。
すべては
潜在意識なる
神なる意識に
繋がる
唯一の方法だからです。
沈黙とは五感である、
表面意識を
沈黙させる
という意味です。
密室とは
見えない世界に
意識を向けよ!
ということです。
私たちは
この物質世界にあって、
目に見えない愛や光
永遠や無限を
どれだけ発見し
どれだけ感じ取って
いけるのでしょうか。
その鍵は
真我(神我)意識に
繋がることが
不可欠なのです。
その方法が
瞑想なのです。
霊性を磨き
霊性を高めない限り
真実の見方は
出来ないのです。
家族や友人
あらゆる人たちや
様々な出来事に
対しての
ものの見方
考え方にしても
表面だけを見て
判断をするように
なっていきます。
その見方は
本質から離れた
歪んだ見方です。
影だけを見て
判断している
偽者の見方しか
できない人間に
なってきます。
愛や光は
目には見えません。
しかし、
誰も愛と光が
ないという人は
いません。
確かにあるものです。
あなたの見るものは
真実を映し出して
いますか?
表面的な
ものの見方に
真実なるものは
見えないのです。
あなたの見方、
受け止め方を
変えれば
まったく違う
世界の中で
生きていけます。
それは
この現実世界をも
変えていく力に
なっていくのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この日から
神の意識の
完全遺伝子を
潜在意識に
受け継いだ
神の跡取り息子
神の跡取り娘としての
自覚を持って
行動しましょう!
神の愛の
表現者として
肉体と生命を
与えて
いただいたのですから
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年10月18日火曜日
「命宣(いのり)とは?」
昨日は
私が
恒例としている
地元にある
氷川神社に
感謝奉納に行って
まいりました。
皆さんが
思い思いの願いを
絵馬に託し
書き記して吊るして
いる場所に
女房が
思いを込めて
折った千羽鶴を
皆さんの
願いが
叶えられますようにと
奉納して
まいりました。
3月11日以降は
千羽鶴を
宮城の被災者の
子どもたちに
鎮魂の目的で
送付してきましたので
今年に入ってからは
三度目の
千羽鶴奉納です。
私自身は
神前で
心厳かに
生かされていることの
感謝をさせて
いただいています。
身が引き締まる
瞬間です。
毎月1日、15日に
近い、土曜か日曜に
行っています。
昨日は、
土日に所用が
重なったため
昨日の早朝に
伺わせて
いただきました。
そうしましたら
神社の
入り口に
「東日本大震災
復興祈願」の
のぼり旗が
鳥居の左右に立てて
ありました。
私は朝起きて
一番先に
仏壇に向かって
先祖の
縁によって
連綿と続く
繋がりにおいて
肉体を
与えられ
今、生かされて
いることの奇跡に
感謝をさせて
いただいたのち
内在する神仏に
大生命を
与えられ
生かされて
いることに
感謝をさせて
いただいております。。
それから
東日本大震災が
起きた3.11の
翌日から
「東日本大震災において
被災された方々
並びに
復興に
全力を尽くして
おられる方々を
お救いください!」と
祈っております。
昨日は
この朝の祈りの
言葉を
心を込めて
「東日本大震災
復興祈願」
として
氷川神社の
神前で
祈らせて
いただきました。
本当に
早く復興され
力強く
立ち直って
いただきたいと
思います。
以前のブログにも
書きました
祈りとは
命宣(いのり)とも
書くが如く
生命を
宣言することです。
単純に
祈りで終わらずに
行動に繋げる
積極的なものです。
五感から離れて
こころを整え、
実相を全身全霊に感じ、
行動することに
繋げる力強い
行為です。。
私は仏前や
神前において
自分の
お願い事は
一切しないことに
しています。
苦しいときの
神頼みでは
駄目なのです。
また、欲得からの
お願い事は
言語道断です。
ただ
宇宙にある叡智
この宇宙を巧みに
設計するところの
無限の神に
生かされていることの
感謝を奉げると共に
私たちの
魂の奥底に
創造主である
神の叡智が
宿っています。
そこには
私たちが
“かく在りたい!”
という本源の
使命なるものが
あるのです。
使命といったら
重ければ
「何かを為す!」という
強い希望や
強いねがいが
潜在しています。
これは
誰一人も
例外なく
すべての人たちに
ある理念です。
この現実界において
成就すべきものが
厳然として
あります。
神の意識の世界に
私たちの内部に
あるところの
神の意識と
同一の源泉が
私たちが
この世で
果たさなければ
ならない
こととして
夢となり
願いとなって
現れてくるのです。
その願いは
生命からのものです。
命の宣言です。
祈りは
命宣(いのり)となり
自然(じねん)に
合掌し
神との統合を
果たしていく
秩序ある
儀式と言えます。
従って
単なる
お願い事の類の
祈りに関しては
否定的に
ならざるを
得ません。
神は
私たちの内部に
存在しているのです。
私たちの
真からの願いは
語らずとも
知っているのです。
私たちに
早く気づいて欲しいと
願っているのです。
私たちの
自我からの
個人的な願い事や
「私の仕事を成功させてくだい!」
「私の病気を治してください!」
「私をお金持ちにしてください!」
「私を幸せにしてください!」
等々の祈りについては
神を外部に置く
行為として
感心するものでは
ありません。
私たちの本質は
自らにその力を
有する存在なのです。
依存する心が
元々の
無限力を
弱めていくのです。
また、
このような
祈りは
「仕事がうまくいっていない!」
「病気である!」
「貧乏である!」
「不幸である!」
ことを宣言しているのです。
上記のことは
神の世界には
一切ないのです。
神の世界には
生老病死も
ありません。
不幸もないのです。
物資の欠乏や
希望の成就は
神の世界にないのです。
だから
波長が合わないのです。
神は
全知全能にして
無限の大霊です。
そこに
波長を合わせるのです。
命宣なのです。
それは神様からの
贈り物なのです。
既に成就している
という
確信を持って
手を差し出して
受け取ることです。
その開かれた中に
勇気を持って
突き進むことです。
「汝ら祈りて
何事にても求むるとき、
既にそれを
受けたりと信ぜよ!
すなわち、
汝はそれを得ん!」
信念を強く
持つことです。
自分の心の中に
乏しさを
描きながら
祈ったところで
乏しさの波動を
さらに引き寄せる
だけです。
「我これを
為さんと欲す!
神が為さしめ
給うのである!」
神は
全知全能です。
その
全知全能の力が
私たちに宿って、
それを
成就させるのである。
既にそれは
成就して
いるのである。
そう信じ、
行動するのです。
努力するのです。
努力をすることが、
魂が進化に
繋がっていくのです。
自分の内部の
奥の奥なる
鉱泉を掘り出す努力!
この努力を
引き出すために
鉱脈は
敢えて
深いところに
埋まっているのです。
「神は自ら
救くるものを救く」
とは
自らが努力を
するから
神も救けることが
できるのです。
努力して心を
鍛錬するのです。
強く思い描く
努力をしなければ
なりません。
求めるものは
必ずあるのです。
それを
既に受けたりと
するのです。
欲する事物を
心に強く描くのです。
「信念、
岩をも貫く!」のです。
一滴の雨水は
長い時間をかけて
岩に穴を開けるのです。
諦めないことです。
それが
魂の奥底からの
源泉であるならば
決して
途中で掘るのを
やめては
いけません。
あと少し掘れば
そこに
ダイヤモンドの
鉱石に
到達するのです。
種を蒔いたら
種の中には
もう既に
花の形が
出来ています。
蕾が出てきて、
それぞれの
個性に合わせた
色彩を持つ
形になって、
花が咲いて、
そして
果実が
実るというイデア!
既に種の中に
理念が
備わっているのです。
「汝、それを
受けたりと信ぜよ!」
既に傍に来ている
という強い信念を
持つのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
「与えよ!
さらば与えられん!」
あなたは
今まで
人々に
どれだけの
福を与えてきましたか?
福の種を
蒔いてきましたか?
その種の中に
無限なる
永遠なる鍵が
備わっていました。
でも
今日はスタートの日
今からでも
遅くはありません!
今日、出会う人々に
福の種を
善なる種を
蒔いていこうでは
ありませんか。
そのことこそが
一日一日の
命宣(いのり)の
生活なのです。
ありがとうございます。
私が
恒例としている
地元にある
氷川神社に
感謝奉納に行って
まいりました。
皆さんが
思い思いの願いを
絵馬に託し
書き記して吊るして
いる場所に
女房が
思いを込めて
折った千羽鶴を
皆さんの
願いが
叶えられますようにと
奉納して
まいりました。
3月11日以降は
千羽鶴を
宮城の被災者の
子どもたちに
鎮魂の目的で
送付してきましたので
今年に入ってからは
三度目の
千羽鶴奉納です。
私自身は
神前で
心厳かに
生かされていることの
感謝をさせて
いただいています。
身が引き締まる
瞬間です。
毎月1日、15日に
近い、土曜か日曜に
行っています。
昨日は、
土日に所用が
重なったため
昨日の早朝に
伺わせて
いただきました。
そうしましたら
神社の
入り口に
「東日本大震災
復興祈願」の
のぼり旗が
鳥居の左右に立てて
ありました。
私は朝起きて
一番先に
仏壇に向かって
先祖の
縁によって
連綿と続く
繋がりにおいて
肉体を
与えられ
今、生かされて
いることの奇跡に
感謝をさせて
いただいたのち
内在する神仏に
大生命を
与えられ
生かされて
いることに
感謝をさせて
いただいております。。
それから
東日本大震災が
起きた3.11の
翌日から
「東日本大震災において
被災された方々
並びに
復興に
全力を尽くして
おられる方々を
お救いください!」と
祈っております。
昨日は
この朝の祈りの
言葉を
心を込めて
「東日本大震災
復興祈願」
として
氷川神社の
神前で
祈らせて
いただきました。
本当に
早く復興され
力強く
立ち直って
いただきたいと
思います。
以前のブログにも
書きました
祈りとは
命宣(いのり)とも
書くが如く
生命を
宣言することです。
単純に
祈りで終わらずに
行動に繋げる
積極的なものです。
五感から離れて
こころを整え、
実相を全身全霊に感じ、
行動することに
繋げる力強い
行為です。。
私は仏前や
神前において
自分の
お願い事は
一切しないことに
しています。
苦しいときの
神頼みでは
駄目なのです。
また、欲得からの
お願い事は
言語道断です。
ただ
宇宙にある叡智
この宇宙を巧みに
設計するところの
無限の神に
生かされていることの
感謝を奉げると共に
私たちの
魂の奥底に
創造主である
神の叡智が
宿っています。
そこには
私たちが
“かく在りたい!”
という本源の
使命なるものが
あるのです。
使命といったら
重ければ
「何かを為す!」という
強い希望や
強いねがいが
潜在しています。
これは
誰一人も
例外なく
すべての人たちに
ある理念です。
この現実界において
成就すべきものが
厳然として
あります。
神の意識の世界に
私たちの内部に
あるところの
神の意識と
同一の源泉が
私たちが
この世で
果たさなければ
ならない
こととして
夢となり
願いとなって
現れてくるのです。
その願いは
生命からのものです。
命の宣言です。
祈りは
命宣(いのり)となり
自然(じねん)に
合掌し
神との統合を
果たしていく
秩序ある
儀式と言えます。
従って
単なる
お願い事の類の
祈りに関しては
否定的に
ならざるを
得ません。
神は
私たちの内部に
存在しているのです。
私たちの
真からの願いは
語らずとも
知っているのです。
私たちに
早く気づいて欲しいと
願っているのです。
私たちの
自我からの
個人的な願い事や
「私の仕事を成功させてくだい!」
「私の病気を治してください!」
「私をお金持ちにしてください!」
「私を幸せにしてください!」
等々の祈りについては
神を外部に置く
行為として
感心するものでは
ありません。
私たちの本質は
自らにその力を
有する存在なのです。
依存する心が
元々の
無限力を
弱めていくのです。
また、
このような
祈りは
「仕事がうまくいっていない!」
「病気である!」
「貧乏である!」
「不幸である!」
ことを宣言しているのです。
上記のことは
神の世界には
一切ないのです。
神の世界には
生老病死も
ありません。
不幸もないのです。
物資の欠乏や
希望の成就は
神の世界にないのです。
だから
波長が合わないのです。
神は
全知全能にして
無限の大霊です。
そこに
波長を合わせるのです。
命宣なのです。
それは神様からの
贈り物なのです。
既に成就している
という
確信を持って
手を差し出して
受け取ることです。
その開かれた中に
勇気を持って
突き進むことです。
「汝ら祈りて
何事にても求むるとき、
既にそれを
受けたりと信ぜよ!
すなわち、
汝はそれを得ん!」
信念を強く
持つことです。
自分の心の中に
乏しさを
描きながら
祈ったところで
乏しさの波動を
さらに引き寄せる
だけです。
「我これを
為さんと欲す!
神が為さしめ
給うのである!」
神は
全知全能です。
その
全知全能の力が
私たちに宿って、
それを
成就させるのである。
既にそれは
成就して
いるのである。
そう信じ、
行動するのです。
努力するのです。
努力をすることが、
魂が進化に
繋がっていくのです。
自分の内部の
奥の奥なる
鉱泉を掘り出す努力!
この努力を
引き出すために
鉱脈は
敢えて
深いところに
埋まっているのです。
「神は自ら
救くるものを救く」
とは
自らが努力を
するから
神も救けることが
できるのです。
努力して心を
鍛錬するのです。
強く思い描く
努力をしなければ
なりません。
求めるものは
必ずあるのです。
それを
既に受けたりと
するのです。
欲する事物を
心に強く描くのです。
「信念、
岩をも貫く!」のです。
一滴の雨水は
長い時間をかけて
岩に穴を開けるのです。
諦めないことです。
それが
魂の奥底からの
源泉であるならば
決して
途中で掘るのを
やめては
いけません。
あと少し掘れば
そこに
ダイヤモンドの
鉱石に
到達するのです。
種を蒔いたら
種の中には
もう既に
花の形が
出来ています。
蕾が出てきて、
それぞれの
個性に合わせた
色彩を持つ
形になって、
花が咲いて、
そして
果実が
実るというイデア!
既に種の中に
理念が
備わっているのです。
「汝、それを
受けたりと信ぜよ!」
既に傍に来ている
という強い信念を
持つのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
「与えよ!
さらば与えられん!」
あなたは
今まで
人々に
どれだけの
福を与えてきましたか?
福の種を
蒔いてきましたか?
その種の中に
無限なる
永遠なる鍵が
備わっていました。
でも
今日はスタートの日
今からでも
遅くはありません!
今日、出会う人々に
福の種を
善なる種を
蒔いていこうでは
ありませんか。
そのことこそが
一日一日の
命宣(いのり)の
生活なのです。
ありがとうございます。
2011年10月17日月曜日
「真なる美とは・・」
私の家の
わずかばかりの
庭の片隅に
一昨年亡くなった
母親が数年前
植えてくれた
菊の花が
あざやかな黄色い花を
咲かせてくれています。
感覚的には
他の花と比べて
特別にという訳では
ないけれども
私にとっては
とても美しいのです。
それは
既にあの世に
旅立った母親が
遺してくれたという
感慨と
その菊の花が持つ
生命の表現とが
相俟った
調和美のような
美しさかもしれません。
その菊の花を
見ながら
こう思いました。
美しいということは
肉眼という
感覚を通して
感じるけれども、
美そのものは
感覚的でも
物質的でもない
ところに
存在しています。
その菊の花が持つ
生命がいかに
表現されているか
という永遠性の
中に
美が存在するのだと
思うのです。
ただ、
感覚に快いもの
だけのものは
飽きてしまいます。
有限であるものに
真なる美は感じる
ことはないのです。
そのものが持つ
生命の
永遠なる輝きを
見るのだと
思うのです。。
そこに無限なる愛を
感じざるを得ません。
それは、永遠に
滅びることのない
美しさであるのです。
愛こそが美なのであり、
美はすべての混沌を
秩序よく
統合させ得る
エネルギーを
秘めています。。
その秩序的発展こそ
美なる本質では
ないでしょうか。
モーツァルトの
メロディも
雑然とした旋律を
大愛なる力によって
秩序よく組み合わせて
聞くものに
永遠の感動を
極上の美しさを
醸しだすのです。
雑然とした
一本一本の
孤立した草花も
大愛の偉大なる
秩序によって
整然とした
バランスの美を
見るものにも
生命を与える
生け花の極意に
なるのです。
私たちの
この肉体も
そうだと思います。
秩序の
組み合わせによって
陰と陽の
バランスが生じ、
物質の原子ができ、
その原子が分子に
分子が細胞に
細胞が心臓や
あらゆる内臓になり、
すべての宮が
形成されます。
そして、
その宮に神なる
生命が宿り、
生き生きとした
実感を
味わうのです。
すべては
秩序が整然と
組み合わされ
上のものは上へ
下のものは下へ
右のものは右へ
左のものは左へと
治まるとことに
治まって
落ち着いていくのです。
そこに
私たちは
永遠なる
無限なる
生命からの現われの
美を見るのである。
私たちは、
永遠という
時間概念の上での、
見方、
考え方、
生き方を
することによって
無限なる生命からの
現われを
感じることが
できます。
今生だけの
限定された時間に
捉えられた
生き方は、
分離を生み、
雑然のまま
混沌から
抜け出すことは
出来ません。
その生き方や
心情の持ち方は
大きな違いを
もたらすのです。
対象は何であれ
物事を
一点だけで見ますと、
全体を見失います。
目先の点だけを
見て進みますと、
迷うこと、
不安に成ること、
に繋がります。
悩んでいる人たちの
多くは
限定的な視点で
ものを見ています。
今の自分の
生活の中で、
永遠なる視点
無限なる視点
完全なる視点
不滅なる視点
本質なる視点
実相なる視点で
見ることです。
見ようと
努力をするだけでも、
視野は広がります。
視野が広がれば、
進む道に
少しずつでも
光が差し始めます。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この瞬間に
永遠なるものを
見つめるのです。
永遠なるものに
気づかない限り
本質なる
真理も
愛も
美も
人生も
光彩を放つことは
ありません。
有限の視点で
見るものは
焦点が
ぼやけています。
歪んでいます。
幻であり
影でしかないのです。
影を見て
執着をして
悩み、苦しんでいるに
過ぎないのです。
今、この瞬間に
無限を
見つめてください。
無限には
思いやりの心
生命の表現としての
真なる美しさ
秩序整然なるものの
すべてが
備わっています。
この道を
見つめることが
この世における
真・善・美の
完成に
到る道に
繋がることに
なるのです。
今日も共有ありがとうございます。
2011年10月15日土曜日
“人生は心一つ”
すべての
幸・不幸は
私たち
一人ひとりの
ものの見方、
考え方次第であります。
人は
同じ出来事に
出会っても
それぞれに
違う捉え方をします。
ある人にとっては
不平や不満の
種になり、
物事を
暗黒の面ばかりに
焦点をあて
常にストレスを
感じながら
苦悩の道を
歩むことになります。
ある人にとっては
喜びの源泉として
発芽し
善いことのみに
焦点をあて
光り輝く
光明世界が
訪れるのです。
どちらが
いいと思いますが?
そういわれたら
論を待たず
善いことのみに
焦点を当てた方が
いいに
決まっていると
答えるでしょう!
いいに
決まっているのに!
でも?
この件だけは
善いなどとは
絶対に
捉えられませんよ!
という
声が聞こえて
きそうです。
しかし、
“人生は心一つの
置きどころ“と
言うじゃありませんか!
どんなことにも
喜びの源泉は
見つけることは
できるのです!
それは
どんなことにも
真理が
潜んでいるからです。
五感の
視覚で見ないで
こころの眼で
見て御覧なさい!
この世の中に
何一つの
無駄はないのです!
無駄がない
というのは
実は
現れていることは
すべて
あなたの心を
写している
鏡として
現れているのですから
無駄など
ある訳が
ありません。
無駄どころか
その出来事という
現象面を見て
今のあなたの
心の状態が
どう在るのかを
知ることが
できるのです。
暗黒面に
焦点を
合わせてる時は
あなたの
心が歪んでいる
からなのですから、
当然ながら
現れる出来事も
歪んで
現れるのです!
逆に
光明面に
焦点を
合わせていれば
現れる出来事は
喜びと幸せに
満ちたことしか
現れません。
だから
あなたの
ものの見方、考え方
次第なのです。
ものの見方、考え方
によって
喜びなのか
不平、不満なのか
幸福なのか
不幸なのか
善くも
悪くも
楽しくも
つまらなくも
なるのです。
だから
光明面を
見ればいいのです!
簡単でしょう!
笑わないと
楽しく
ならないのです!
楽しいから
笑うのでは
ないのです。
どんな事態に
出会ったとしても
笑い飛ばしましょうよ!
“笑う門には福来る”と
言うでは
ありませんか!
福が来るから
笑うのでは
ありません。
いつも明るく
にこにこしている
門(家)には、
自然と幸福が
訪れるという
ことわざです。
空海さんの
「宗秘論」の中に
こんな言葉があります。
“幸不幸を論ずるのは、
皆迷いの世界での
ことである。“
この意味は
“さまざまな
出来事は
自分の心が
つくり出した
現象であることに
気づいていない。
幸不幸は
すべて
自分自身の
心の内に
あるのである。
それを
外に探すこと自体が
心の迷いである。“
と言っているのです。
出来事に
幸不幸は
ないのですから
出来事に
左右されることは
ありません。
自分の見方こそ
点検してください。
幸福の方に
舵を向ければ
いいのです。
笑ってしまえば
いいのです。
自分の考え方こそ
点検してください
一心に
光明を
見つめるのです。
自分のこころの
在り方を
常に見つめるのです。
そして、
自分の心が
すべての原因である
と気づいたとき、
空海さんが
言うところの
迷いは晴れ、
幸せとは何か
ということにも
目覚めるのです。
空海さんの
著した「秘蔵記」には
こうも書かれています。
“心というものは
無形無相であり、
本質的には清浄で
一点の穢れもない
完全円満なもの、
それは、
あたかも
満月のような
ものである“
もともと
満月のような
完全なものが
私たちの実相なのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
もともと
完全なるものが
不完全を体験しに
来ているのです。
今日、今の瞬間
笑い飛ばして
みてください。
不完全なるものは
幻想であることが
身をもって
理解できますよ!
ありがとうございます。
幸・不幸は
私たち
一人ひとりの
ものの見方、
考え方次第であります。
人は
同じ出来事に
出会っても
それぞれに
違う捉え方をします。
ある人にとっては
不平や不満の
種になり、
物事を
暗黒の面ばかりに
焦点をあて
常にストレスを
感じながら
苦悩の道を
歩むことになります。
ある人にとっては
喜びの源泉として
発芽し
善いことのみに
焦点をあて
光り輝く
光明世界が
訪れるのです。
どちらが
いいと思いますが?
そういわれたら
論を待たず
善いことのみに
焦点を当てた方が
いいに
決まっていると
答えるでしょう!
いいに
決まっているのに!
でも?
この件だけは
善いなどとは
絶対に
捉えられませんよ!
という
声が聞こえて
きそうです。
しかし、
“人生は心一つの
置きどころ“と
言うじゃありませんか!
どんなことにも
喜びの源泉は
見つけることは
できるのです!
それは
どんなことにも
真理が
潜んでいるからです。
五感の
視覚で見ないで
こころの眼で
見て御覧なさい!
この世の中に
何一つの
無駄はないのです!
無駄がない
というのは
実は
現れていることは
すべて
あなたの心を
写している
鏡として
現れているのですから
無駄など
ある訳が
ありません。
無駄どころか
その出来事という
現象面を見て
今のあなたの
心の状態が
どう在るのかを
知ることが
できるのです。
暗黒面に
焦点を
合わせてる時は
あなたの
心が歪んでいる
からなのですから、
当然ながら
現れる出来事も
歪んで
現れるのです!
逆に
光明面に
焦点を
合わせていれば
現れる出来事は
喜びと幸せに
満ちたことしか
現れません。
だから
あなたの
ものの見方、考え方
次第なのです。
ものの見方、考え方
によって
喜びなのか
不平、不満なのか
幸福なのか
不幸なのか
善くも
悪くも
楽しくも
つまらなくも
なるのです。
だから
光明面を
見ればいいのです!
簡単でしょう!
笑わないと
楽しく
ならないのです!
楽しいから
笑うのでは
ないのです。
どんな事態に
出会ったとしても
笑い飛ばしましょうよ!
“笑う門には福来る”と
言うでは
ありませんか!
福が来るから
笑うのでは
ありません。
いつも明るく
にこにこしている
門(家)には、
自然と幸福が
訪れるという
ことわざです。
空海さんの
「宗秘論」の中に
こんな言葉があります。
“幸不幸を論ずるのは、
皆迷いの世界での
ことである。“
この意味は
“さまざまな
出来事は
自分の心が
つくり出した
現象であることに
気づいていない。
幸不幸は
すべて
自分自身の
心の内に
あるのである。
それを
外に探すこと自体が
心の迷いである。“
と言っているのです。
出来事に
幸不幸は
ないのですから
出来事に
左右されることは
ありません。
自分の見方こそ
点検してください。
幸福の方に
舵を向ければ
いいのです。
笑ってしまえば
いいのです。
自分の考え方こそ
点検してください
一心に
光明を
見つめるのです。
自分のこころの
在り方を
常に見つめるのです。
そして、
自分の心が
すべての原因である
と気づいたとき、
空海さんが
言うところの
迷いは晴れ、
幸せとは何か
ということにも
目覚めるのです。
空海さんの
著した「秘蔵記」には
こうも書かれています。
“心というものは
無形無相であり、
本質的には清浄で
一点の穢れもない
完全円満なもの、
それは、
あたかも
満月のような
ものである“
もともと
満月のような
完全なものが
私たちの実相なのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
もともと
完全なるものが
不完全を体験しに
来ているのです。
今日、今の瞬間
笑い飛ばして
みてください。
不完全なるものは
幻想であることが
身をもって
理解できますよ!
ありがとうございます。
2011年10月14日金曜日
「生命の無限のゲーム」
今日は
森田 玄さんの
ブログに
紹介されていました
ポール・ホーケンさんの
「生命の無限のゲーム」を
転載いたします。
共有してください。
森田 玄さんは
千葉の鴨川の山中で
農園をされていて
その農園生活を
ブログにして
紹介して
くれています。
そして
奥様の
きくちゆみさんと共に
9.11のアメリカ
同時多発テロの
真相追及や
原発・放射能問題や
平和運動及び健康の面でも
ローフードによる
デトックス等を
提唱しています。
また、
知る人ぞ知る
『マシュー君の
メッセージ』の
翻訳を
いち早く
自身のブログ
「玄のリモ農園
ダイアリー」で
紹介している方です。
私も玄さんや
奥様のゆみさんとも
面識があり
愛読している
ブログです。
その
マシュー君の
メッセージは
ナチュラル
スピリット社から
「新しい時代への輝き・
マシューブック 3」
スザンヌ・ワード著
森田 玄訳で
刊行されています。
森田さんの
翻訳は
前回の
マシューブック2
「新しい時代への啓示」
に続く2冊目の
翻訳です。
今回の
「新しい時代への輝き」は
愛のヒーリング・パワー、
光と愛のはたらき、
祈りのはたらき、
地球のアセンション、
ワクチン接種、
レプタリアンの影響、
2012年、
ニビル(惑星X?)、
フォトンベルト、
インディゴと
クリスタルチルドレンほか
あらゆるメッセージが
混迷の時代を
生き抜く私たちを励まし、
元気づける。
これからの人類の
向かうべき道筋と
私たち自身の
生き方の指針を示す
「輝きの書」です。
どうか、購入して
お読みください。
それでは
森田さんのブログから
ポール・ホーケンさんの
「生命の無限のゲーム」
を転載させていたさきます。
ポール・ホーケン
『あなたたち
一人ひとりは
驚くべき存在です。
いまあなたには
1000兆の
細胞があります。
1000の100兆倍です。
それらの細胞のうち
約900兆は
人間のものではありません。
それらはウイルスや
バクテリア
そして微生物です。
皮肉なことですが、
人間をつくっているものは
人間ではないのです。
それらが
そこにいてくれるお陰で、
あなたは
フルーツのように
数日で腐らずに
済んでいるのです。
ですから
それらのただ乗りの
ものたちに
感謝しなければ
なりません。
でもここで
あなたにあることを
経験して
もらいたいのです。
と言うのは、
あなたの
からだの中では
毎秒セプティリアン
(10の24乗)のことが
起きているからです。
これは
1に24個の0がつく数です。
このセプティリアンという
数字を想像する
もうひとつの方法は、
いま知られている
宇宙にある
すべての星と
惑星を足した数の
10倍と
言えばいいでしょう。
ではあなたに質問です。
あなたは
それを感じられますか?
本当にですよ。
1セプティリアンの
体内での相互作用を。
それが生命と
呼ばれるものです。
あなたは
感じられるのです。
ただ私たちは話に忙しく、
その感覚を
無視しているのです。
もう一つ質問です。
誰がそれを
やっているのですか?
もしあなたが
それらの
1000兆の細胞を
コントロールしようとしたら、
どうなるでしょう?
あなたは死ぬでしょう。
あなたがいま
感じているのが
生命です。
それは
無限のゲームです。
ゲームには
2種類あって、
有限なものと
無限なものがあります。
生命は
無限のゲームを
発明しました。
人類は
有限のゲームを
発明しました。
有限のゲームには
厳しいルールがあり、
勝者と敗者があります。
それらはCEO、
銀行、
ウォールストリート、
MBA(経営学修士)、
政治、
アメリカ大統領とか
呼ばれます。
そして
常に敗者がいます。
持続可能性と
修復は
無限のゲームを
やることです。
無限のゲームでは、
ゲームの進行を
妨げるような
ものがあれば、
いつでも
そのルールを
変えられます。
あなたが
止めようとしても、
ゲームを
止めようと思う人は
だれもいません。
無限のゲームは
先払いです。
つまり将来の金庫に
貯めておくのです。
それは、
家族、
子どもたちと
筏(ラフト)に乗って
コロンビア川下りを
すること、
ハックルベリー・
フィン遊びと
呼ばれます。
サンバとか
ヒップホップのような
語り歌、
物語り、
ツリーシッティング
(樹上占拠)とか
呼ばれます。
これらは、
気持の優しい人たちが
私たちの未来と
私たちの子どもたち
そして私たちの
惑星地球を
支えるためにしている
限りない方法なのです。』
転載以上
いかがでしたか?
皆様は
この
ポール・ホーケンさんの
「生命の無限のゲーム」を
どういうふうに
感じましたか?
このブログを
読まれている方は
理解していると
思います。
『今日は残りの人生の最初の日』
生命の無限のゲームは
今、この瞬間から
始まっているのです。
今が、無限であり、
永遠なのですから。
ありがとうございます。
森田 玄さんの
ブログに
紹介されていました
ポール・ホーケンさんの
「生命の無限のゲーム」を
転載いたします。
共有してください。
森田 玄さんは
千葉の鴨川の山中で
農園をされていて
その農園生活を
ブログにして
紹介して
くれています。
そして
奥様の
きくちゆみさんと共に
9.11のアメリカ
同時多発テロの
真相追及や
原発・放射能問題や
平和運動及び健康の面でも
ローフードによる
デトックス等を
提唱しています。
また、
知る人ぞ知る
『マシュー君の
メッセージ』の
翻訳を
いち早く
自身のブログ
「玄のリモ農園
ダイアリー」で
紹介している方です。
私も玄さんや
奥様のゆみさんとも
面識があり
愛読している
ブログです。
その
マシュー君の
メッセージは
ナチュラル
スピリット社から
「新しい時代への輝き・
マシューブック 3」
スザンヌ・ワード著
森田 玄訳で
刊行されています。
森田さんの
翻訳は
前回の
マシューブック2
「新しい時代への啓示」
に続く2冊目の
翻訳です。
今回の
「新しい時代への輝き」は
愛のヒーリング・パワー、
光と愛のはたらき、
祈りのはたらき、
地球のアセンション、
ワクチン接種、
レプタリアンの影響、
2012年、
ニビル(惑星X?)、
フォトンベルト、
インディゴと
クリスタルチルドレンほか
あらゆるメッセージが
混迷の時代を
生き抜く私たちを励まし、
元気づける。
これからの人類の
向かうべき道筋と
私たち自身の
生き方の指針を示す
「輝きの書」です。
どうか、購入して
お読みください。
それでは
森田さんのブログから
ポール・ホーケンさんの
「生命の無限のゲーム」
を転載させていたさきます。
ポール・ホーケン
『あなたたち
一人ひとりは
驚くべき存在です。
いまあなたには
1000兆の
細胞があります。
1000の100兆倍です。
それらの細胞のうち
約900兆は
人間のものではありません。
それらはウイルスや
バクテリア
そして微生物です。
皮肉なことですが、
人間をつくっているものは
人間ではないのです。
それらが
そこにいてくれるお陰で、
あなたは
フルーツのように
数日で腐らずに
済んでいるのです。
ですから
それらのただ乗りの
ものたちに
感謝しなければ
なりません。
でもここで
あなたにあることを
経験して
もらいたいのです。
と言うのは、
あなたの
からだの中では
毎秒セプティリアン
(10の24乗)のことが
起きているからです。
これは
1に24個の0がつく数です。
このセプティリアンという
数字を想像する
もうひとつの方法は、
いま知られている
宇宙にある
すべての星と
惑星を足した数の
10倍と
言えばいいでしょう。
ではあなたに質問です。
あなたは
それを感じられますか?
本当にですよ。
1セプティリアンの
体内での相互作用を。
それが生命と
呼ばれるものです。
あなたは
感じられるのです。
ただ私たちは話に忙しく、
その感覚を
無視しているのです。
もう一つ質問です。
誰がそれを
やっているのですか?
もしあなたが
それらの
1000兆の細胞を
コントロールしようとしたら、
どうなるでしょう?
あなたは死ぬでしょう。
あなたがいま
感じているのが
生命です。
それは
無限のゲームです。
ゲームには
2種類あって、
有限なものと
無限なものがあります。
生命は
無限のゲームを
発明しました。
人類は
有限のゲームを
発明しました。
有限のゲームには
厳しいルールがあり、
勝者と敗者があります。
それらはCEO、
銀行、
ウォールストリート、
MBA(経営学修士)、
政治、
アメリカ大統領とか
呼ばれます。
そして
常に敗者がいます。
持続可能性と
修復は
無限のゲームを
やることです。
無限のゲームでは、
ゲームの進行を
妨げるような
ものがあれば、
いつでも
そのルールを
変えられます。
あなたが
止めようとしても、
ゲームを
止めようと思う人は
だれもいません。
無限のゲームは
先払いです。
つまり将来の金庫に
貯めておくのです。
それは、
家族、
子どもたちと
筏(ラフト)に乗って
コロンビア川下りを
すること、
ハックルベリー・
フィン遊びと
呼ばれます。
サンバとか
ヒップホップのような
語り歌、
物語り、
ツリーシッティング
(樹上占拠)とか
呼ばれます。
これらは、
気持の優しい人たちが
私たちの未来と
私たちの子どもたち
そして私たちの
惑星地球を
支えるためにしている
限りない方法なのです。』
転載以上
いかがでしたか?
皆様は
この
ポール・ホーケンさんの
「生命の無限のゲーム」を
どういうふうに
感じましたか?
このブログを
読まれている方は
理解していると
思います。
『今日は残りの人生の最初の日』
生命の無限のゲームは
今、この瞬間から
始まっているのです。
今が、無限であり、
永遠なのですから。
ありがとうございます。
2011年10月11日火曜日
『今日は残りの人生の最初の日』です。
『今日は残りの
人生の最初の日』
このブログの
タイトルです。
人生の最初の日
なのですから。
あなたの
誕生日でもあります。
あなたは
産声をあげて
泣いています。
周囲の人たちは
お産婆さんも
(私の時代はそうでした)
産婦人科の先生も
看護師さんも
お父さんが来ていれば
お父さんも
或いはお兄ちゃんも
お姉ちゃんも
おじいちゃんや
おばあちゃんも
あなたの誕生を
これ以上ないくらいの
笑顔を湛えて
歓迎しています。
みんな
一瞬でも
目をそらすまいと
あなたに
あたたかい眼差しを
贈ります。
看護師さんは
あなたをタオルに包み
お母さんに
「男の子ですよ!」
或いは
「女の子ですよ!」と
言いながら
あなたを
大事にそーっと
手渡しをしています。
お母さんは
目に涙を溜めながらも
あなたをはれ物に
触るように
両手を携え
あなたを抱いています。
あなたの誕生に
生命の
かけがえのなさに
この神秘に
感動しています。
歓喜の瞬間です。
今日は
誕生日ですから
初めて
産まれたのですから
昨日までのあなたは
ないのですよ!
ないのに
あると思って
過去のことに
思い煩わないで
ください。
今日は誕生日
みんなが
「おめでとう!」と
声をかけてくれて
お父さんも
お母さんも
人生で最大の喜びに
浸りきっています。
そうやって
あなたは
産まれました。
あなたには
明るい展望しか
開けてないのです。
それなのに
なんですか
その渋面は
笑ってください!
あなたが
これから
迎えるであろう
あらゆる
記念日の中で
今日こそは
絶対に
忘れることのない
あなたの
誕生日なのですから
あなたの
その愛くるしい
微笑を、
みんなに
たっぷりと
見せてあげて
ください!
今日は
最初の日ですから
一年の最初の日は
1月1日元旦です。
元旦は
物事の始めであり、
一年の計は
元旦にありといって
新しい
決意でもって
何かを
実行しようと
決める日です。
あなたは
元旦の今日
この一年を
どんなことが
起ころうとも
明るい心で
乗り切っていく!と
決意しました。
決意したものは
365日
やり通そうと
考えると
荷が重くなって
決意倒れに
なるかもしれません。
だから
少なくても
今日という
確かな括りのなかで
今日一日
明るい心を持って
人に接して
みましょうよ!
今日一日であれば
できそうに
思えませんか?
でも
明るい心を持つには
今日、何があっても
悲しんでは
いけませんよ。
どんなことを
言われても
怒っては
いけませんよ。
何事が起こっても
失望をしては
いけませんよ。
だって
起こってしまった
出来事は
もう既に
起こってしまって
今は無いのですから
済んで
しまったことに
いちいち
悲しんだり
怒ったり
失望したりしても
いいことは
ひとつもないです。
あなたにとって
悪いことは
今だかつて
ひとつも
起こったことは
ありません。
すべては
一新していく
姿なのですもの!
結局のところ
済んで
しまったことは
過去の出来事に
過ぎません。
今日という瞬間、
この「今」に生きる
ことしか
あなたには
ないのです。
過去は
死にました。
未来は
来るかどうかも
わからないのです。
「今」こそ
確かに
生きています。
常に
生きています。
「今」の中に
あらゆる
生きとし生けるもの
万有万物が
煌めき
輝いています。
「今」は
常に
喜びに満ち
「今」は
いつまでも
美しいまま
なのです。
「今」は
永遠で
無限であり
逞しく
強靭な
無敵を
現わします。
「今」
この瞬間に
すべての
真なるもの
善なるもの
美なるものが
収斂されているのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この瞬間
明るい心で
すべてに
接するのです。
そうすると
私たちの人生には
喜びしかないと
いうことが
確かな感覚を持って
感じられるのです。
ありがとうございます。
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