2011年10月17日月曜日
「真なる美とは・・」
私の家の
わずかばかりの
庭の片隅に
一昨年亡くなった
母親が数年前
植えてくれた
菊の花が
あざやかな黄色い花を
咲かせてくれています。
感覚的には
他の花と比べて
特別にという訳では
ないけれども
私にとっては
とても美しいのです。
それは
既にあの世に
旅立った母親が
遺してくれたという
感慨と
その菊の花が持つ
生命の表現とが
相俟った
調和美のような
美しさかもしれません。
その菊の花を
見ながら
こう思いました。
美しいということは
肉眼という
感覚を通して
感じるけれども、
美そのものは
感覚的でも
物質的でもない
ところに
存在しています。
その菊の花が持つ
生命がいかに
表現されているか
という永遠性の
中に
美が存在するのだと
思うのです。
ただ、
感覚に快いもの
だけのものは
飽きてしまいます。
有限であるものに
真なる美は感じる
ことはないのです。
そのものが持つ
生命の
永遠なる輝きを
見るのだと
思うのです。。
そこに無限なる愛を
感じざるを得ません。
それは、永遠に
滅びることのない
美しさであるのです。
愛こそが美なのであり、
美はすべての混沌を
秩序よく
統合させ得る
エネルギーを
秘めています。。
その秩序的発展こそ
美なる本質では
ないでしょうか。
モーツァルトの
メロディも
雑然とした旋律を
大愛なる力によって
秩序よく組み合わせて
聞くものに
永遠の感動を
極上の美しさを
醸しだすのです。
雑然とした
一本一本の
孤立した草花も
大愛の偉大なる
秩序によって
整然とした
バランスの美を
見るものにも
生命を与える
生け花の極意に
なるのです。
私たちの
この肉体も
そうだと思います。
秩序の
組み合わせによって
陰と陽の
バランスが生じ、
物質の原子ができ、
その原子が分子に
分子が細胞に
細胞が心臓や
あらゆる内臓になり、
すべての宮が
形成されます。
そして、
その宮に神なる
生命が宿り、
生き生きとした
実感を
味わうのです。
すべては
秩序が整然と
組み合わされ
上のものは上へ
下のものは下へ
右のものは右へ
左のものは左へと
治まるとことに
治まって
落ち着いていくのです。
そこに
私たちは
永遠なる
無限なる
生命からの現われの
美を見るのである。
私たちは、
永遠という
時間概念の上での、
見方、
考え方、
生き方を
することによって
無限なる生命からの
現われを
感じることが
できます。
今生だけの
限定された時間に
捉えられた
生き方は、
分離を生み、
雑然のまま
混沌から
抜け出すことは
出来ません。
その生き方や
心情の持ち方は
大きな違いを
もたらすのです。
対象は何であれ
物事を
一点だけで見ますと、
全体を見失います。
目先の点だけを
見て進みますと、
迷うこと、
不安に成ること、
に繋がります。
悩んでいる人たちの
多くは
限定的な視点で
ものを見ています。
今の自分の
生活の中で、
永遠なる視点
無限なる視点
完全なる視点
不滅なる視点
本質なる視点
実相なる視点で
見ることです。
見ようと
努力をするだけでも、
視野は広がります。
視野が広がれば、
進む道に
少しずつでも
光が差し始めます。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この瞬間に
永遠なるものを
見つめるのです。
永遠なるものに
気づかない限り
本質なる
真理も
愛も
美も
人生も
光彩を放つことは
ありません。
有限の視点で
見るものは
焦点が
ぼやけています。
歪んでいます。
幻であり
影でしかないのです。
影を見て
執着をして
悩み、苦しんでいるに
過ぎないのです。
今、この瞬間に
無限を
見つめてください。
無限には
思いやりの心
生命の表現としての
真なる美しさ
秩序整然なるものの
すべてが
備わっています。
この道を
見つめることが
この世における
真・善・美の
完成に
到る道に
繋がることに
なるのです。
今日も共有ありがとうございます。
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