◆相馬の酪農家自殺、「原発なければ」と書き残し
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110614-00000091-yom-soci
福島第一原発の事故で、牛を処分して廃業した福島県相馬市の酪農家男性(50歳代)が
「原発さえなければ」と書き残して自殺していたことが13日、わかった。
関係者によると、男性は今月11日、小屋で首をつった状態で見つかった。小屋の壁に白チョークで「仕事する気力をなくしました」「残った酪農家は原発にまけないで」と記していた。
男性が住む地区は当初、加工前牛乳が出荷停止となり、男性は乳を搾っては捨てていた。今月初旬までに約30頭を処分した。男性は親の代から酪農を続けており、姉は本紙の取材に「(弟の死は)子どもたちのことを思えば話したくない。しかし、原発の件は訴えたい」と語った。
酪農家仲間だった男性(51)は「避難区域ではないため、補償はないだろうと繰り返していた」といい、農業男性(53)は「連絡をとるたびに『原発ですべてを失った』と悩んでいた」と話した。
東日本大震災が
起こって1~2週間ほど
経った頃だと思います。
福島の野菜農家の方の
自殺が報じられたのは
まだ、
記憶に新しいことです。
福島第一原発事故で
基準値を超える
放射線物質が出て
対象野菜の出荷停止が
決まった翌日、
丹精こめて作って、
出荷するつもりだった、
キャベツ畑を
直前まで見て回った後に、
首を吊って、
命を絶ったとのことでした。
6月13日に
自殺された酪農家の方も
そして、野菜農家の方も
心中を察すると
その絶望感は如何ばかりで
あったでしょう。
日本に於ける
自殺者の数は
毎年3万人を超えています。
今年は
先月(5月)の自殺者が
過去ワースト1と
発表されたばかりです。
大震災や原発
景気悪化や失業
いろいろな社会不安が
人の心を蝕み
自らの命を絶つ
行動に走ったのだと思います。
皆様の中にも
一度や二度は
自殺を考えた方も
いることでしょう。
ただ、
本質の価値観
永遠性の観点から
この自殺の
意味するものは
どうでしょうか?
このブログを通じて
一貫して
語っていることは
私たちの
本来備わっている
神性を
躓き転びながら、
また、
打ちのめされながらも
思い出す道です。
私たちは
永遠性の中で
魂を進化させる目的で
自らが
環境や性別
両親や家族
肉体的能力
精神的能力
感情的能力
時間という要素を
選択し、
実体化させています。
魂の
あらゆる部分の設計は
学ぶために
自分にとっての、
最適な環境を
作り出しています。
永遠性の観点
輪廻転生の観点から
この自殺の意味は
自分で選んで
設計した
人生の設計図を
自らが
破棄することになります。
一冊しかない
人生の問題集を
解くのを停止する
ということになります。
この設計図に沿った
あなたの人生は
あなただけにしか、
歩むことはできません。
誰も、
変わって歩む
ことはできません。
この、
あなたの問題集は
誰も、
解いてあげる
ことはできません。
この
歩むのをやめたために
使わなくなった
設計図や
解かなかった
問題集は
一体、
どこにいくのでしょうか。
次の生、
来世に持ち越しとなります。
あなたは、
繰り返しの人生を
送りたいでしょうか?
絶望感や
恐怖感や
不信感や
不安感や
嫌悪感等々
不満足な部分を持ったまま
今生を絶った時、
それは、
未来世に
先送りになります。
私たちは
これからも
現象的には
いろいろな
苦難・困難が
目の前に
立ちはだかってくるでしょう。
しかし、
私たちが
肉体を持ち
人間という
制限された
存在形態を
とっているのは、
その制限された形で
受け取る
必要があると
いうことを示しています。
私たちは
今回の人生で
実力をあげ
嫌悪感や不安感を払拭し、
本質の光を照らし出し、
愛をいっぱい持って、
故郷に帰りたいものです。
今生を終えるとき
すべてのものと和解し
すべてのものに感謝して
旅立ちたいと思います。
ありがとうございました。
2011年6月15日水曜日
2011年6月14日火曜日
内観とは
お釈迦さまは
内観をしなさいと
お弟子さんに
よく言っていました。
内観とは
内を観ること
字の如しです。
それでは
内を観るとは
どういうことでしょう。
自らの内の
神性を観る
と言うことです。
瞑想と
同じことです。
私たちの
本質の価値観である
無限
一なるもの
久遠を観る
と言うことです。
神の
性質であるところの
愛
光
真理
完全性を観る
と言うことです。
なぜ、
お釈迦さまは
弟子たちに
内観を
勧めたのでしょうか
私たちは
日常
肉体を持った
人間として、
どうしても、
物質に
重きを置いた
生活をしがちです。
お釈迦さまの時代の
2600年前に遡っても
眼・耳・鼻・
舌・身・意の
感覚器官が
お弟子さん
ひとりひとりの
迷妄の元だったようです。
世を捨て
出家をした
お弟子さんでさえ
この肉体の持つ
五感に
惑わされることも
少なくなかったのでしょう。
内観とは
本来の意識に
戻る行為です。
その意識は
全知全能
無限エネルギー
プラスの
エントロピーです。
日常に在るとき
私たちは
肉体の持つ器官に
縛られている状態です。
自縄自縛です。
そうすると
エネルギーが
低くなっていきます。
内観とは
その自縄から
自分を
解放する行為です。
自らが
自らを束縛し
自らが
自らを制約した
低い意識から
解放し
エネルギーを
高めることです。
私たちは、
その一瞬一瞬を
創造しているのです。
私たちは、
自分が思っている
通りのもので、
それ以上のものでも、
それ以下のものでも
ありません。
神は無限者です。
その本質は
私たちにも
厳然として
備わっています。
自我を見るか
真我(神我)を観るか
偽我を見るか
無限我を観るか
肉体我を見るか
久遠我を観るか
なのです。
私たちは、
修業して
無限となる
のではありません。
お釈迦さまも
長い迷妄から
自らを
解き放ちました。
お釈迦さまは
シャーキャ族の
カピラヴァストゥ国の
城主の王子として
物質的には
何不自由ない
裕福な生活を
送っていました。
しかし、
その生活に
疑問を感じ
29歳の時に
出家をし
その後
6年間に亘り
厳しい修行を
続けました。
ある時
水辺で
身体を清めている時
あまりの
やせ衰えた
お釈迦様の姿に
見るに見兼ねて
一人の乙女が
乳粥を差し上げました。
この乙女が
スジャータという人で
コーヒーのお供
スジャータという
ミルクの名称にも
なった方です。
その乳粥を食べて
顔に赤みがさし
みるみる
元気になっていきました。
その時の悟りが、
自分が王子として
何不自由なく
毎日を送っていたことも
厳しい修行に
明け暮れて
このように
痩せさらばえたとしても、
そのどちらにも
真理はなかった。
中道の道(正しい道)にこそ
真理があった。
それが
四諦八正道という
有名な教えになりました。
それは、
その身そのままで、
今、即、仏である。
今、即、無限である。
私たちには、
元々
仏の持つ性質
即ち、
仏性が皆に備わっている。
「一切衆生 悉有仏性」である。
その、仏のように
正しく見
正しく語り
正しく思い
正しく行い
正しく生活し
正しく努力し
正しく念じ
正しく内観する
ことが
真理への道であると
悟ったのです。
真実の
内観とは、
私たちの
本質であるところの
無限を
凝視する、
無限への
一心集中です。
私たちの
こころの内の
神仏に
スポットを当て
私たちを
光り輝かせる
ことなのです。
内観をしなさいと
お弟子さんに
よく言っていました。
内観とは
内を観ること
字の如しです。
それでは
内を観るとは
どういうことでしょう。
自らの内の
神性を観る
と言うことです。
瞑想と
同じことです。
私たちの
本質の価値観である
無限
一なるもの
久遠を観る
と言うことです。
神の
性質であるところの
愛
光
真理
完全性を観る
と言うことです。
なぜ、
お釈迦さまは
弟子たちに
内観を
勧めたのでしょうか
私たちは
日常
肉体を持った
人間として、
どうしても、
物質に
重きを置いた
生活をしがちです。
お釈迦さまの時代の
2600年前に遡っても
眼・耳・鼻・
舌・身・意の
感覚器官が
お弟子さん
ひとりひとりの
迷妄の元だったようです。
世を捨て
出家をした
お弟子さんでさえ
この肉体の持つ
五感に
惑わされることも
少なくなかったのでしょう。
内観とは
本来の意識に
戻る行為です。
その意識は
全知全能
無限エネルギー
プラスの
エントロピーです。
日常に在るとき
私たちは
肉体の持つ器官に
縛られている状態です。
自縄自縛です。
そうすると
エネルギーが
低くなっていきます。
内観とは
その自縄から
自分を
解放する行為です。
自らが
自らを束縛し
自らが
自らを制約した
低い意識から
解放し
エネルギーを
高めることです。
私たちは、
その一瞬一瞬を
創造しているのです。
私たちは、
自分が思っている
通りのもので、
それ以上のものでも、
それ以下のものでも
ありません。
神は無限者です。
その本質は
私たちにも
厳然として
備わっています。
自我を見るか
真我(神我)を観るか
偽我を見るか
無限我を観るか
肉体我を見るか
久遠我を観るか
なのです。
私たちは、
修業して
無限となる
のではありません。
お釈迦さまも
長い迷妄から
自らを
解き放ちました。
お釈迦さまは
シャーキャ族の
カピラヴァストゥ国の
城主の王子として
物質的には
何不自由ない
裕福な生活を
送っていました。
しかし、
その生活に
疑問を感じ
29歳の時に
出家をし
その後
6年間に亘り
厳しい修行を
続けました。
ある時
水辺で
身体を清めている時
あまりの
やせ衰えた
お釈迦様の姿に
見るに見兼ねて
一人の乙女が
乳粥を差し上げました。
この乙女が
スジャータという人で
コーヒーのお供
スジャータという
ミルクの名称にも
なった方です。
その乳粥を食べて
顔に赤みがさし
みるみる
元気になっていきました。
その時の悟りが、
自分が王子として
何不自由なく
毎日を送っていたことも
厳しい修行に
明け暮れて
このように
痩せさらばえたとしても、
そのどちらにも
真理はなかった。
中道の道(正しい道)にこそ
真理があった。
それが
四諦八正道という
有名な教えになりました。
それは、
その身そのままで、
今、即、仏である。
今、即、無限である。
私たちには、
元々
仏の持つ性質
即ち、
仏性が皆に備わっている。
「一切衆生 悉有仏性」である。
その、仏のように
正しく見
正しく語り
正しく思い
正しく行い
正しく生活し
正しく努力し
正しく念じ
正しく内観する
ことが
真理への道であると
悟ったのです。
真実の
内観とは、
私たちの
本質であるところの
無限を
凝視する、
無限への
一心集中です。
私たちの
こころの内の
神仏に
スポットを当て
私たちを
光り輝かせる
ことなのです。
2011年6月13日月曜日
不完全を愛す
私たちは、
不完全な
完全存在です。
この三次元における
現象世界では
相対的な完全性しか
ありません。
お互いに愛し、
愛されるためには
不完全なまま
優しく
慈しみ
おだやかに、
心より
愛し合うことです。
不完全さも
自分です。
その自分を
やさしく、
許してください。
不完全で
あるがゆえに
成長も
望めるのです。
不完全を
愛してください。
受け入れてください。
受け入れるがゆえに
自由になれるのです。
不完全さを
拒否しないでください。
否定性は
自由を妨げます。
私たちは
魂の進化のために
この地球に
自ら、
望んできました。
完璧で
あることに
こだわらずに
多くのことを
体験してください。
ただ、
不完全さに
安住しなければ
いいのです。
不完全さの中に
真理に向かう
縁(よすが)が
上手に
隠されています。
私たちが
見つければ
いいのです。
私たちは
本質においては
完全存在です。
安心して
不完全な
自分を
光を妨げている
自分を
自分の
闇の部分を
満たされていないと
感じる部分を
隔てられているという
魂の痛みを
混乱する
自分を
慈愛をもって
受け入れ
そして、
手放してください。
その、
不完全さの
プロセスこそが
光を見出す
鍵なのです。
その
不完全さの
プロセスこそが
無限なる道
永遠不滅なる道へ
繋がっていくのです。
不完全な
完全存在です。
この三次元における
現象世界では
相対的な完全性しか
ありません。
お互いに愛し、
愛されるためには
不完全なまま
優しく
慈しみ
おだやかに、
心より
愛し合うことです。
不完全さも
自分です。
その自分を
やさしく、
許してください。
不完全で
あるがゆえに
成長も
望めるのです。
不完全を
愛してください。
受け入れてください。
受け入れるがゆえに
自由になれるのです。
不完全さを
拒否しないでください。
否定性は
自由を妨げます。
私たちは
魂の進化のために
この地球に
自ら、
望んできました。
完璧で
あることに
こだわらずに
多くのことを
体験してください。
ただ、
不完全さに
安住しなければ
いいのです。
不完全さの中に
真理に向かう
縁(よすが)が
上手に
隠されています。
私たちが
見つければ
いいのです。
私たちは
本質においては
完全存在です。
安心して
不完全な
自分を
光を妨げている
自分を
自分の
闇の部分を
満たされていないと
感じる部分を
隔てられているという
魂の痛みを
混乱する
自分を
慈愛をもって
受け入れ
そして、
手放してください。
その、
不完全さの
プロセスこそが
光を見出す
鍵なのです。
その
不完全さの
プロセスこそが
無限なる道
永遠不滅なる道へ
繋がっていくのです。
2011年6月12日日曜日
友人からのメール②
前々回のブログで
紹介させていただいた
中国から帰国した
友人からメールが届きました。
私は、そのブログの中で
彼のことを、精神世界に
精通している人だと書きました。
彼は、
台湾時代に
道学研究会という
真理の道を
探求する会に出会い
研鑽に励んでいます。
知遇を得てから度々、
道学の先生のことや
真理の話を
聞かせていただいています。
現在、
その道学の
創始者の先生は
お亡くなりになりましたが、
創始者の方の遺志を継いで
道学研究会で学んだ真理を
この現象界の中で
実践されています。
その友人からの
メールを紹介します。
とても、彼らしい
すばらしい波動の
あたたかいメールです。
『僕は
もう10年より前
インドの
マザー・テレサ様の
開いた学校に
行きましたが、
尋ねる勇気は
ありませんでした。
人力車で尋ねた道端に
テレサ様の教会の
女性が3人歩きます、
その姿は
世界一の輝きを
放出しておりました。
私のようなものには、
見つめることすらできません。
何も期待せず
信じた行いをするものの
神々しい姿は、
何よりも美しいものです、
私は
心から皆に奉仕したいのですが、
自分を捨てていません。
在家のままであります。
すべてを捧げきる、
そのことへの
こだわりさえない姿は、
この人々の自覚は
どうして
作られるのでしょう。
縁あるものは
兄弟であります。
あなたの苦しみは
私の苦しみです。
心が同期したとき、
その方は
私を心の支えとしてくれます。
その方は
私の杖となり
私を見守ります。
それが私たちの、
もう作られている道であります。
所有しているものを
思い出せばよいだけです。
上帝が
あなたを
私のところへ
与えてくれました。
この暖かな波動は
作られたものではありません。
買うことも
願うこともそこにはなく、
私のところへ来ました。
現生の中で一番の宝です。
そして磨きあいます。
光は皆を
最後の一人まで照らします。
人と生れ出たこの世界が
私たちとつながり、
私たちと生きています。
自分は、
人の素晴らしさを
上帝に伝えるために
生れ出てきたこと、信じています、
中国の皆様の仕事に
真心を伝えたとき、
自分が
日本人だということを
皆様が忘れ、
アジアの仲間となります。
磨きさらに磨く時、
みなさんの目に
光の波動が差し込みます。
その時、皆の
私を見る目が変わります。
仲間とされたとき
道が開きます。
暖かな波動は、
言葉を必要としない、
人との同期が始まります。
感謝の心と
暖かな安らぎが訪れ、
また道を歩きます。
己などありません、
皆様の心の粒が私です。
道学研究会 ○○』
い?かがでしたか
下記は
マザー・テレサさんの
言葉です。
「世界平和のために
何をしたらいいのか」と聞かれて
『帰って家族を
大切にしてあげて下さい。』
私たちは、
今生、
縁あって
出会うことが
できた人たちを
大切にする。
愛していく。
信頼していく。
小さなことだけど
精一杯の大きな愛で
大切にする。
家庭で
地域で
職場で
今日、
出会った人々や
植物や
動物たちを
大切にする。
真理は
何も特別なことでは
ありません。
今日一日
愛の言葉や
慈しみからの
行いの実践こそが
私の友人が書いてくれた
メールの最後の部分
『仲間とされたとき
道が開きます。
暖かな波動は、
言葉を必要としない、
人との同期が始まります。
感謝の心と
暖かな安らぎが訪れ、
また道を歩きます。
己などありません、
皆様の心の粒が私です。』
に、繋がっていくのだと
学ばせていただきました。
ありがとうございます。
紹介させていただいた
中国から帰国した
友人からメールが届きました。
私は、そのブログの中で
彼のことを、精神世界に
精通している人だと書きました。
彼は、
台湾時代に
道学研究会という
真理の道を
探求する会に出会い
研鑽に励んでいます。
知遇を得てから度々、
道学の先生のことや
真理の話を
聞かせていただいています。
現在、
その道学の
創始者の先生は
お亡くなりになりましたが、
創始者の方の遺志を継いで
道学研究会で学んだ真理を
この現象界の中で
実践されています。
その友人からの
メールを紹介します。
とても、彼らしい
すばらしい波動の
あたたかいメールです。
『僕は
もう10年より前
インドの
マザー・テレサ様の
開いた学校に
行きましたが、
尋ねる勇気は
ありませんでした。
人力車で尋ねた道端に
テレサ様の教会の
女性が3人歩きます、
その姿は
世界一の輝きを
放出しておりました。
私のようなものには、
見つめることすらできません。
何も期待せず
信じた行いをするものの
神々しい姿は、
何よりも美しいものです、
私は
心から皆に奉仕したいのですが、
自分を捨てていません。
在家のままであります。
すべてを捧げきる、
そのことへの
こだわりさえない姿は、
この人々の自覚は
どうして
作られるのでしょう。
縁あるものは
兄弟であります。
あなたの苦しみは
私の苦しみです。
心が同期したとき、
その方は
私を心の支えとしてくれます。
その方は
私の杖となり
私を見守ります。
それが私たちの、
もう作られている道であります。
所有しているものを
思い出せばよいだけです。
上帝が
あなたを
私のところへ
与えてくれました。
この暖かな波動は
作られたものではありません。
買うことも
願うこともそこにはなく、
私のところへ来ました。
現生の中で一番の宝です。
そして磨きあいます。
光は皆を
最後の一人まで照らします。
人と生れ出たこの世界が
私たちとつながり、
私たちと生きています。
自分は、
人の素晴らしさを
上帝に伝えるために
生れ出てきたこと、信じています、
中国の皆様の仕事に
真心を伝えたとき、
自分が
日本人だということを
皆様が忘れ、
アジアの仲間となります。
磨きさらに磨く時、
みなさんの目に
光の波動が差し込みます。
その時、皆の
私を見る目が変わります。
仲間とされたとき
道が開きます。
暖かな波動は、
言葉を必要としない、
人との同期が始まります。
感謝の心と
暖かな安らぎが訪れ、
また道を歩きます。
己などありません、
皆様の心の粒が私です。
道学研究会 ○○』
い?かがでしたか
下記は
マザー・テレサさんの
言葉です。
「世界平和のために
何をしたらいいのか」と聞かれて
『帰って家族を
大切にしてあげて下さい。』
私たちは、
今生、
縁あって
出会うことが
できた人たちを
大切にする。
愛していく。
信頼していく。
小さなことだけど
精一杯の大きな愛で
大切にする。
家庭で
地域で
職場で
今日、
出会った人々や
植物や
動物たちを
大切にする。
真理は
何も特別なことでは
ありません。
今日一日
愛の言葉や
慈しみからの
行いの実践こそが
私の友人が書いてくれた
メールの最後の部分
『仲間とされたとき
道が開きます。
暖かな波動は、
言葉を必要としない、
人との同期が始まります。
感謝の心と
暖かな安らぎが訪れ、
また道を歩きます。
己などありません、
皆様の心の粒が私です。』
に、繋がっていくのだと
学ばせていただきました。
ありがとうございます。
2011年6月11日土曜日
自分の内の無限
私たちは、
個人として
両親から生まれ
姓名を持ち
肉体を持っています。
その両親も
それぞれに
それぞれの
両親から生まれ
肉体を持ってきました。
これは、
延々と続いてきました。
また、
今後も続いていきます。
今、
自分が存在しているのも
この永遠の営みの中で
先祖の縁をいただいて
きたからであり、
見えない先祖に対して
今、
生かされている
ことの感謝を
日々、
手向けていくことは
何より、大切なことです。
以前のブログにも
触れましたが、
私たちは、
私たちが、
両親を選択して
この時代を
この環境をも
選択してきました。
私も、
よく、親にいいました。
「好きで、
生まれてきたわけじゃない。
頼んでもいないのに、
勝手に生みやがって!」
皆さんは、
言ったことは
無いかもしれませんが、
思ったことは
一度くらいは
あるのではないでしょうか。
しかし、
事実は両親が
勝手に生んだ
わけではないのです。
私たちが、選んで
生まれてきました。
無知なるがゆえに
発した私の言葉に
恥じ入るばかりです。
それでは、
そこに
生命を
与えている存在
それは、
何なのでしょうか?
それこそが、
宇宙に遍満するところの
生命エネルギーであり
すべての
生きとし生けるものに、
生命を
宿しているところの
創造主である
神なのです。
私にも
あなたにも
鉱物や
動植物にも
ひとつの
エネルギーが
同じ
エネルギーが
存在しています。
私たちが、
人間として
この肉体ありきと
思っているものは、
ただの物質に過ぎません。
生命が
離れたと同時に、
呼吸をすることも、
動くことも
一切なくなります。
これが、
肉体における死
というものです。
これから、
暑い夏がきます。
コートを着る役目は
終わりましたので
もう、
着ることはありません。
コートは着なくても
最新の薄手の
クールビズは着ていきます。
このように
コート(肉体)の役目が
終わっても、
生命としては、
永遠に
生き続けていきます。
生命は永遠であり
久遠であり
無限であり
不死です。
私たちは
創造主の
エネルギーを
宿したもの
創造主の子
神の子です。
この大いなる真理を
久しく
忘れていただけです。
肉体のみを
すべてと思い
肉体を
喜ばすことのために
物質を得ることのために
空間を時間を
浪費してきました。
その間でも
生命エネルギーである神は
一秒たりとも
共に在ってくれて
一度も離れたことは
ありませんでした。
その大いなる寛容の性質
その大いなる愛の性質
その大いなる慈しみの性質
その大いなる信頼の性質
その大いなる美の性質
その大いなる善の性質
本質であるところの
燦然とする光そのものの
神の性質を
私たち
ひとりひとりに
わけ隔てなく
宿してくれています。
本質に生きるとは、
本来の自分
神の子であることの
自覚に立ち返り
久遠に生きる。
永遠不滅の
無限に生きることです。
それは、
私たち
ひとりひとりの内に
わけ隔てなく
宿っているところの
神性を
顕現する
神の我を
顕現することです。
内(神・天・仏)なる声が
インスピレーションとなり
今の一瞬を
神の表現者として
現すことが
真理の実践であり
悟りでもあると思います。
二千六百年前の
お釈迦さまや
二千年前の
イエスさまを
通して語られた真理も
私たちの
インスピレーションから
語られる言葉も
ひとつの神である
無限から
語られる真理です。
同じ無限です。
無差別の神です。
無限なる神は
人の上に人を創らず
人の下にも人を創る
ことはありません。
私たち
ひとりひとりの内に
お釈迦さまや
イエスさまと同じ
神が宿っています。
“汝の救いは、汝自身なり"と
イエスさまが説きました。
私たち
ひとりひとりが
救い主なのです。
救世主は
遥か遠い雲の彼方に
いるのではないのです。
2011年6月10日金曜日
友人からの学び
昨日は、中国でファッション関係の店舗設計で
成功している友人が帰国して、
三軒茶屋の彼の事務所でビジネスの話をしたあとに、
食事をご馳走になりました。
彼は、30年ほど前に、台湾に渡り、一から、
台湾や中国本土のファッション業界の発展のために、
頑張ってきました。
また、評判を聞き付けた方たちから、
依頼されて飲食店等の設計も、
手掛け成功させている人で、
日本の多くのデパートが
台湾に進出する際にも
彼に依頼するほどのスーパー設計士です。
彼の設計での真骨頂は決して
妥協しないことに
あると思います。
施主が求めるものであれば、
世界中を視野に入れて、
どんな材料でも
どんな技法でも手に入れてきます。
また、どこの国に行っても、
ファッション業界に関わらず、
あらゆる業界に関心を示し、
常に研究を怠たりません。
一見、設計に関係ないようですが、
店員の接客マナーや
商品の並べ方、
なぜ流行っているのか、
又流行っていないのか。
斬新なデザインや
アイデア、
写真に撮ったりデッサンしたり
ビジュアライゼーションを高め
積極的に設計に取り入れています。
『設計士として、
ただ、図面を書くだけなら、
僕でなくてもできる。』
細部にわたって隅々まで配慮し
その実現のために全エネルギーをかけ
大きな仕事を成し遂げていく
彼の仕事の背景には
この仕事を愛していること
また、顧客に喜んでもらえることが
何よりも幸せであることにあると思います。
彼の関係した顧客の店舗は100%成功し、
評判が評判を呼び引っ切り無しに設計施工の
依頼が舞い込み、大忙しの日常を送っている。
彼は言う、
『今、僕の意を汲む中国人スタッフ10人ほどと、
業界に関係している外部の材料関係の工場の社長は
全員莫迦(ばか)ばかり、
損得関係なく仕事が好きで好きでたまらない。
ひとつの仕事を全力で成し遂げることは元より、
より良いものを作るためなら時間もお金も
関係の無い奴ばっかり!!』
まさしく、彼自身がその通りの人で、
こだわらない性格で無欲でさらに寛容で
とてもエネルギッシュな人で、
彼が話し始めると
夢や希望が周囲に満ち満ちてきます。
その場にいる全員が巻き込まれて、
笑いに包まれ積極・無限・超プラスの
空間が醸し出されていく、
いつまでもそこから立ち去りたくない
気持ちにさせられる人なのです。
精神世界にも精通しており、
人間の永遠性、
輪廻や神の表現者としての
自分の在り方も知っていて、
私としてはどんな話でも
楽に話すことのできる人の内のひとりです。
その彼が今の日本に警鐘をならす。
『昨今の日本は、
このままでいると
世界から取り残されていくのではないかと危惧する。
それは、すべてが規格化され
一定の枠に嵌め込もうとする考え方の蔓延だ。
例えば、自分の業界であったとしても、
今の日本から学ぶものが少なくなっている。
それは、グローバルな視点で
より良いものを取り入れる風土が
喪われていることだと思う。
施主がこんなものを造りたいと思う、
業者は、
それは素人のあなただから発想できるもので、
プロの目からすれば絶対にできることではないと、
出来ない理由をひとつひとつ並べて否定する。
だから、
プロが選択した
安全なこの規格を選びましょうと施主に妥協させる。
もちろん、国として政策上、
守るべき権益はあるのはわかる。
しかし、どんなものにでも、
業界団体や各組織が関わってきて、
価格の安定化とシステムや製品の規格化を進め、
外部からのいい製品・システムを
受け付けないよう圧力をかけてくる。
長い間、台湾と中国で仕事に携わってきて、
今や中国は一部のものを除いて、
ほとんどのものは世界の工場として
製造することができる力も技も持ってきた。
最初のうちは粗悪品も多く、
問題にならないと思っていたが、
最近の中国ではほとんどのものが
日本を凌駕している。
ファッション業界においても
ユニクロを筆頭にたくさんの
メーカーが中国で製品をつくっている。
ヨーロッパのブランド品のほとんどは中国でつくっている。
それは、いいものが安く出来るからである。
僕の仕事の店舗設計は、施主が求めるものは
どうしても造りたいと思っている施主の理念でもあるので、
絶対に造ってあげようと情報を求めてどんな所にも探しにいった。
その結果のほとんどは私を充分に満足させ、
この国のダイナミックさと奥深さをより感じずにはいられなかった。
大陸を横断しながら、100件も200件も回っていると
中にはすごい達人に出会うことができる。
一緒に考えてあげると期待に応えてくれる人たちである。
否、期待以上の成果もたくさん生み出してくれた。
施主の求めるものは規格品ではない、自分だけの物である。
いわゆる、ひとつひとつをオーダーメイドで造るのである。
それも、とびっきり安く。そんな達人たちをいろいろなパーツで、
例えば、家具やガラス製品や照明や壁紙や石等々を
造る人を工場を発見することができた。
台湾や中国の私が携わった店舗は、その努力とお蔭で、
そんな施主の理念が実現されている。
そこには、携わったすべての人たちの
成し遂げた喜びがある。
今の日本の店舗には残念ながら、理念が見当たらない。
かつて、終戦後、日本も今の中国のように世界を真似て
いろいろな製品を造ってきた。
暫くは粗悪品と揶揄されたこともある。
しかし、その後、世界を凌ぐ技術を持ち
世界第二位の大国にまで伸し上がってきた。
今の中国はその日本がたどった道を猛追して、
もはや抜き去ったものも少なくない。
そのことは認めて、
いい製品で安く流通できるものは、
受け入れる広い度量を持つこが
今の日本に必要だと思う。
私は、私が経験してきて培ってきたものを、
自分という小さな枠で使うのは
本当にもったいないと思っている。
お世話になった業界や日本に、
希望があれば使ってもらいたいと思っている。
日本の家に店舗に事務所に人が集うところに
オリジナルの創造力が開花し、
それも安く造ることができたら、
喜びの輪も広がっていくと思う。
それが実現できれば嬉しい!』
彼の言うように、
創造する力を喪い、
挑戦することをやめれば、
この日本に日本人に
活力は戻ってこないと思います。
成功することが
すべてではありません。
私たちは、
この世で大きいことはできません。
小さなことを
大きな愛をもって行うこと、
それが大切なのではないでしょうか。
そのことを、
学ばしてもらったように思います。
成功している友人が帰国して、
三軒茶屋の彼の事務所でビジネスの話をしたあとに、
食事をご馳走になりました。
彼は、30年ほど前に、台湾に渡り、一から、
台湾や中国本土のファッション業界の発展のために、
頑張ってきました。
また、評判を聞き付けた方たちから、
依頼されて飲食店等の設計も、
手掛け成功させている人で、
日本の多くのデパートが
台湾に進出する際にも
彼に依頼するほどのスーパー設計士です。
彼の設計での真骨頂は決して
妥協しないことに
あると思います。
施主が求めるものであれば、
世界中を視野に入れて、
どんな材料でも
どんな技法でも手に入れてきます。
また、どこの国に行っても、
ファッション業界に関わらず、
あらゆる業界に関心を示し、
常に研究を怠たりません。
一見、設計に関係ないようですが、
店員の接客マナーや
商品の並べ方、
なぜ流行っているのか、
又流行っていないのか。
斬新なデザインや
アイデア、
写真に撮ったりデッサンしたり
ビジュアライゼーションを高め
積極的に設計に取り入れています。
『設計士として、
ただ、図面を書くだけなら、
僕でなくてもできる。』
細部にわたって隅々まで配慮し
その実現のために全エネルギーをかけ
大きな仕事を成し遂げていく
彼の仕事の背景には
この仕事を愛していること
また、顧客に喜んでもらえることが
何よりも幸せであることにあると思います。
彼の関係した顧客の店舗は100%成功し、
評判が評判を呼び引っ切り無しに設計施工の
依頼が舞い込み、大忙しの日常を送っている。
彼は言う、
『今、僕の意を汲む中国人スタッフ10人ほどと、
業界に関係している外部の材料関係の工場の社長は
全員莫迦(ばか)ばかり、
損得関係なく仕事が好きで好きでたまらない。
ひとつの仕事を全力で成し遂げることは元より、
より良いものを作るためなら時間もお金も
関係の無い奴ばっかり!!』
まさしく、彼自身がその通りの人で、
こだわらない性格で無欲でさらに寛容で
とてもエネルギッシュな人で、
彼が話し始めると
夢や希望が周囲に満ち満ちてきます。
その場にいる全員が巻き込まれて、
笑いに包まれ積極・無限・超プラスの
空間が醸し出されていく、
いつまでもそこから立ち去りたくない
気持ちにさせられる人なのです。
精神世界にも精通しており、
人間の永遠性、
輪廻や神の表現者としての
自分の在り方も知っていて、
私としてはどんな話でも
楽に話すことのできる人の内のひとりです。
その彼が今の日本に警鐘をならす。
『昨今の日本は、
このままでいると
世界から取り残されていくのではないかと危惧する。
それは、すべてが規格化され
一定の枠に嵌め込もうとする考え方の蔓延だ。
例えば、自分の業界であったとしても、
今の日本から学ぶものが少なくなっている。
それは、グローバルな視点で
より良いものを取り入れる風土が
喪われていることだと思う。
施主がこんなものを造りたいと思う、
業者は、
それは素人のあなただから発想できるもので、
プロの目からすれば絶対にできることではないと、
出来ない理由をひとつひとつ並べて否定する。
だから、
プロが選択した
安全なこの規格を選びましょうと施主に妥協させる。
もちろん、国として政策上、
守るべき権益はあるのはわかる。
しかし、どんなものにでも、
業界団体や各組織が関わってきて、
価格の安定化とシステムや製品の規格化を進め、
外部からのいい製品・システムを
受け付けないよう圧力をかけてくる。
長い間、台湾と中国で仕事に携わってきて、
今や中国は一部のものを除いて、
ほとんどのものは世界の工場として
製造することができる力も技も持ってきた。
最初のうちは粗悪品も多く、
問題にならないと思っていたが、
最近の中国ではほとんどのものが
日本を凌駕している。
ファッション業界においても
ユニクロを筆頭にたくさんの
メーカーが中国で製品をつくっている。
ヨーロッパのブランド品のほとんどは中国でつくっている。
それは、いいものが安く出来るからである。
僕の仕事の店舗設計は、施主が求めるものは
どうしても造りたいと思っている施主の理念でもあるので、
絶対に造ってあげようと情報を求めてどんな所にも探しにいった。
その結果のほとんどは私を充分に満足させ、
この国のダイナミックさと奥深さをより感じずにはいられなかった。
大陸を横断しながら、100件も200件も回っていると
中にはすごい達人に出会うことができる。
一緒に考えてあげると期待に応えてくれる人たちである。
否、期待以上の成果もたくさん生み出してくれた。
施主の求めるものは規格品ではない、自分だけの物である。
いわゆる、ひとつひとつをオーダーメイドで造るのである。
それも、とびっきり安く。そんな達人たちをいろいろなパーツで、
例えば、家具やガラス製品や照明や壁紙や石等々を
造る人を工場を発見することができた。
台湾や中国の私が携わった店舗は、その努力とお蔭で、
そんな施主の理念が実現されている。
そこには、携わったすべての人たちの
成し遂げた喜びがある。
今の日本の店舗には残念ながら、理念が見当たらない。
かつて、終戦後、日本も今の中国のように世界を真似て
いろいろな製品を造ってきた。
暫くは粗悪品と揶揄されたこともある。
しかし、その後、世界を凌ぐ技術を持ち
世界第二位の大国にまで伸し上がってきた。
今の中国はその日本がたどった道を猛追して、
もはや抜き去ったものも少なくない。
そのことは認めて、
いい製品で安く流通できるものは、
受け入れる広い度量を持つこが
今の日本に必要だと思う。
私は、私が経験してきて培ってきたものを、
自分という小さな枠で使うのは
本当にもったいないと思っている。
お世話になった業界や日本に、
希望があれば使ってもらいたいと思っている。
日本の家に店舗に事務所に人が集うところに
オリジナルの創造力が開花し、
それも安く造ることができたら、
喜びの輪も広がっていくと思う。
それが実現できれば嬉しい!』
彼の言うように、
創造する力を喪い、
挑戦することをやめれば、
この日本に日本人に
活力は戻ってこないと思います。
成功することが
すべてではありません。
私たちは、
この世で大きいことはできません。
小さなことを
大きな愛をもって行うこと、
それが大切なのではないでしょうか。
そのことを、
学ばしてもらったように思います。
2011年6月9日木曜日
花たちのささやき
昨日の朝は
小雨が降っていて
とても気持ちのいい朝でした、
自分の
オフィスに行きがてら
ブログに添付するのに
アジサイの花でも撮ろうかと
思って、外出しました。
ものの一分もしないうちに、
近所のお宅の玄関の横に、
きれいな百合の花が咲いていました。
思わず、立ち止まりうっとり、
とっても美しい
ピンクとホワイトのアンサンブル、
乙女百合でしょうか?
昔から、
「立てば芍薬、
座れば牡丹、
歩く姿は百合の花」
と形容されるがごとく、
どこからみても女性的な花です。
家にも
隣のお宅から頂いた
百合の花があるのですが
まだ、咲いていません。
いつ、咲いてくれるのか、楽しみです。
そして、
角を曲がって
100メートルくらいに公園があって、
その前に幼稚園があるのですが、
その脇にも
今度は白い百合が咲いていました。
私は白い百合も大好きです。
白い百合を眺めていると
そのままで、
こころ癒され、
清んでいくのが感じられます。
そう言えば、
白いユリの花は、
マドンナリリーと呼ばれ、
聖母マリアさまの
象徴として有名ですよね。
純潔の意味があるのだそうです。
もちろん、写真に収めました。
この梅雨の時期は
結構、
咲いている花の種類は多いので、
雨の中を歩くのが楽しみのひとつです。
私は、どんな花も大好きです。
私たちが、目をやれば
すぐ傍に存在していて、
夫々に、
自らの持つ
すばらしい個性を
充分に発揮して
美しい色彩と芳しい香りを
漂わせてくれています。
それは、何も求めず
唯、在ることの
神の表現者としての
本領発揮です。
私は、
その花たちを感じている時、
マザー・テレサさんの言葉を
思い出します。
『どんな人にあっても、
まず、
その人のなかにある、
美しいものを
見るようにしています。
この人のなかで、
いちばん
素晴らしいものはなんだろう?
そこから
始めようとしております。
そうしますと、
かならず
美しいところが見つかって、
そうすると
私は、
その人を
愛することが
できるようになって、
それが
愛の
はじまりとなります。』
私たちも、
マザー・テレサさんが語る
この言葉の想いを
我が想いとして
人と接する時
この美しい花たちのように
神の表現者として
愛を
インフルエンスして
いくことができると思うのです。
※勿論、アジサイの花も撮りました。
小雨が降っていて
とても気持ちのいい朝でした、
自分の
オフィスに行きがてら
ブログに添付するのに
アジサイの花でも撮ろうかと
思って、外出しました。
ものの一分もしないうちに、
近所のお宅の玄関の横に、
きれいな百合の花が咲いていました。
思わず、立ち止まりうっとり、
とっても美しい
ピンクとホワイトのアンサンブル、
乙女百合でしょうか?
昔から、
「立てば芍薬、
座れば牡丹、
歩く姿は百合の花」
と形容されるがごとく、
どこからみても女性的な花です。
家にも
隣のお宅から頂いた
百合の花があるのですが
まだ、咲いていません。
いつ、咲いてくれるのか、楽しみです。
そして、
角を曲がって
100メートルくらいに公園があって、
その前に幼稚園があるのですが、
その脇にも
今度は白い百合が咲いていました。
私は白い百合も大好きです。
白い百合を眺めていると
そのままで、
こころ癒され、
清んでいくのが感じられます。
そう言えば、
白いユリの花は、
マドンナリリーと呼ばれ、
聖母マリアさまの
象徴として有名ですよね。
純潔の意味があるのだそうです。
もちろん、写真に収めました。
この梅雨の時期は
結構、
咲いている花の種類は多いので、
雨の中を歩くのが楽しみのひとつです。
私は、どんな花も大好きです。
私たちが、目をやれば
すぐ傍に存在していて、
夫々に、
自らの持つ
すばらしい個性を
充分に発揮して
美しい色彩と芳しい香りを
漂わせてくれています。
それは、何も求めず
唯、在ることの
神の表現者としての
本領発揮です。
私は、
その花たちを感じている時、
マザー・テレサさんの言葉を
思い出します。
『どんな人にあっても、
まず、
その人のなかにある、
美しいものを
見るようにしています。
この人のなかで、
いちばん
素晴らしいものはなんだろう?
そこから
始めようとしております。
そうしますと、
かならず
美しいところが見つかって、
そうすると
私は、
その人を
愛することが
できるようになって、
それが
愛の
はじまりとなります。』
私たちも、
マザー・テレサさんが語る
この言葉の想いを
我が想いとして
人と接する時
この美しい花たちのように
神の表現者として
愛を
インフルエンスして
いくことができると思うのです。
※勿論、アジサイの花も撮りました。
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