2011年10月8日土曜日

『生命の実相』を振り返る!

今日は何十年かぶりかで
谷口雅春先生の
『生命の実相』講義の
カセットテープを
聞かせていただきました。

『生命の実相』の
14巻、教育扁について
講義した内容でしたが
久しぶりに
谷口先生のお声に接し
懐かしさと
又、新鮮な気持ちで
聞くことが
できました。

その中で
子どもの
教育法について

とても大切な内容が
語られていますので
紹介したいと
思います。

私たちは
ともすれば
人前において
子どもを前にして
自分の子どものことを
語るとき

謙遜からか
不用意に
子どもの
欠点を語ることが
多いと思います。

それについて
谷口先生は
強く警鐘を
鳴らしておられます。

『人前だからと言って
自分の子どもを
へりくだって、
この子は
とても、
いたずら好きで
だめなんですとか、

この子は
随分、
馬鹿でして
などと言うな!

かくの如き謙遜は
子どもの創造力を
自分の欠点のほうへ
働かしめ、
子どもの自信力を
めちゃめちゃにして、
子どもの成長に
邪魔を置く事に
なるのである。』

親は謙譲の精神で
人前で
子どもを褒めるのも
如何かと思う
気持ちは
特に、日本人の
気質的には
あるように
思いますが

子どもからすれば
親の立場での
言葉の力が
まるで
暗示に
かかったように
潜在意識下に
浸透して
しまうものです。

親は世間話程度に
買い物の途中とか
家での近所の方との
会話の中で
いろいろ話を
しているだけで、
特に悪気は
ないのですが、

私の場合を
思い出しても
その時の
一言一句は
いいことも
悪いことも含めて
よく
覚えています。

さらに
谷口先生は
語られます。

『諸君よ
何も
神が創ったところの
人間を指して、
それが例え
自分自身だからとて、
また、自分自身の
肉親の子だからとて、
へりくだって、
ダメだからとか
馬鹿だとか、
かりそめにも
悪く言わねば
成らない理由は
ないではないか!

それは創り主なる
神への冒涜である。
それは我々を創って、
生命を与え給える
ある者を穢すものだ。
穢すだけではない。
自分自身の運命を
自分自身の
子の運命を
知らず知らずのうちに
ダメにしつつあるのだ。』

そして、
谷口先生は
神の子を預かる
親としての
子に対する責任として
強く教育について
叱咤をしています。
続けます。

『子どもをして、
彼自身を
神の子なりと
信ぜしめよ!

父はその子を
その全能の力にて
常に完全に導き給い、
無限成長に導き給い、

どんな不遇の場合にも
必ず守り育ててい給う
ことを信ぜしめよ。

どんな場合にも
失望しない心。

取り越し苦労を
しない心。

摂理に信じ任せきって、
安所たる安心を
している心。

倒れても倒れても
又、起き上がる
ことの出来る心。

これらは幼児に
心に刻まれた
完全円満なる神を
父とする創造から
力強く生まれ出て
くるものである。

こういう自覚を
子どもに
持たせるように
しなければならない。』

私たちの中に
備わっている
無限なる力は

私たちの子どもは
勿論のこと
すべてに
備わっているもので

その力を
掘り出すためには
人間神の子の実相
完全円満
全知全能なる
無限力を
自身の内部に
持つことを
信じて疑わない
心を育てることです。

その自覚は
まだ幼い時から
持たせるのが
良い事として
谷口先生は
次のようにも
語られています。

『人間を信ぜよ
神の創造を信ぜよ
生まれたままの
人間を信ぜよ 
それは幼子だ。
幼子に
宿っている天才は
まだ供託しない
ダイヤモンドだ
傷のつかない高貴だ』

そして、
『人間の成長は
常にこの神の子の
自覚から
始まらなければならない。

大地に
根を下ろさなければ
偉大なる
成長は望まれない。

大生命に
根を下ろさなければ
偉大な
成長は望まれない。

その大生命に
根を下ろしている
即ち神の生命に
根を下ろしているのが
人間神の子である
という自覚を
子どもに
持たせるというのが
必要である。』

そして
結びとして

『円満な神の姿を
小児の心に描かせよ!

完全な仏の姿を
小児の心に描かせよ!

如何なる場合にも
自己が全能なる神、
又は仏の愛の手に、
抱かれていて
何の危険も無い
ものだという自信を
子どもの時代から
人間の心に植え付けよ。

幼児からの
この自信は
将来のその人の
運命を決するのだ!』

こう力強く
締め括るので
あります。

『今日は残りの人生の最初の日』

私が
この肉体こそすべてと
物質にまみれていた時

最初に出会った
真理が
この谷口雅春先生の
『生命の実相』でした。

24歳でした。
その時の衝撃は
月並みな表現ですが
目からウロコでした。

それからの
私は真理に夢中になり
あらゆる
精神世界の書籍や
哲学書、
宗教本を
読み漁りました。

しかしながら
ご都合主義の
真理もどきで
あったと思います。

実生活と
真理が
ちぐはぐに
なっていて
真理の実践からは
程遠い状態だったと
思います。

60歳を過ぎて
やっと
生かされているという
実感らしいものが
分かり始めたと
いうのが正直な
ところです。

しかし常に
修行の身です。

昔、谷口先生から
教わった
この言葉を
常に意識して
毎日を送りたいと
思っています。

“我が魂の底の底なる神よ!
無限の力湧き出でよ!”

“我が魂の底の底なる神よ!
無限の力湧き出でよ!”

生かしていただいてありがとうございます。

2011年10月7日金曜日

“エネルギーとは?”

今日は
エネルギーについて
考えてみたいと
思います。

エネルギーとは
一体何でしょう?

エネルギーとは
生命のことです。
生命は、
即エネルギーで、
生命エネルギーと
言います。

霊的エネルギーと、
同一のエネルギーで
或いは
宇宙エネルギーとも
言います。

私たちが霊と
読んでいるものも
エネルギーです。
真性エネルギーと
言うのは
聖霊のことを
指しています。

このエネルギーは
全宇宙に
遍満しています。

このエネルギーは
智慧を纏った
エネルギーであり、
唯一不二の
エネルギーです。

"気“という言葉も
あります。

この"気“も
エネルギーと
置き換えることが
できます。

病気とは
エネルギーが
病んだ状態のことを
言います。

正気とは
エネルギーを
正しく使っている
状態のことを
言います。

気高い人とは
エネルギーの高い人、
いわゆる
調和が取れている
人のことです。

気落ちとは
エネルギーが
落ち込んでいる
人のことを言います。

このように
エネルギーと
“気”は同じ意味です。

大気は
大きいエネルギーであり
大生命であり
大霊のことです。

病気や邪気や
気落ちという
エネルギーが
あるのでは
ありません。

元々、
エネルギーは
唯一無二ですから
生命エネルギー
そのものしか
ありません。

万有万物
すべてに
同じエネルギーが
備わっています。

病気や邪気や
狂気と
正気や本気
気高いことの違いは

エネルギーの
使い方次第である
ということです。

エネルギーを
正しく使っているか
エネルギーを
間違って使っているか
だけなのです。

エネルギーは
私たちの
身・口・意という
媒体を使います。

いわゆる
言葉、思い。行いに
於いて
正気で
正しいエネルギーの
使い方をしているか
邪気で
間違えたエネルギーの
使い方をしているか

このエネルギーの
使い方が大きな
分かれ道になります。

何が原因して
病気や苦しみが
あるのでしょう?

言葉や
思いや
行いにおいて
悪い方向に
エネルギーを
使うと
エネルギーを
消耗し
調和を崩し、
病気や
苦しみを
創るのです。

これは
本来備わっている
生命エネルギーを
正しい方向に
使っていない
からなのです。

元々の
備わっている
生命エネルギーは
愛と調和です。

愛と調和に
生きるということが
生命エネルギーを
正しく使うと
いうことです。

生命エネルギーとは
神です。
神の御心に適った
言葉、思い、行いを
したかが
すべての
苦悩から
自由になる道なのです。

真の自由を
得ることとは
真理は愛であり
調和であることを
知ることにあります。

神は愛であり、
調和なのです。
それが、

“真理は汝を
自由ならしめん“

とイエスさまが
語った言葉なのです。

また、さらに
イエスさまは

“神は自らを
助くものを助く”

“汝の救い主は
汝自身なり“

とも語っています。

生命エネルギー
霊的エネルギーを
正しく使うこと
これが唯一の
信仰なのです。

愛と調和に
生きているものは
本当の信仰を
持っているものです。

すべての
創り主は
自分自身です。

エネルギーを消耗
させるのも
自分自身です。

取り越し苦労や
持ち越し苦労
心配性は
寝ても覚めても
むやみに
エネルギーを
消耗させます。

消極的な言葉や
消極的な思いや
消極的な行いは
エネルギーを
放出します。

人を憎んだり
怒りや悪口などの
破壊的想念は
エネルギーを消耗し
極端な場合
自らの血液の中に
毒素を放出するのです。

積極的な言葉
積極的な思い
積極的な行いは
生命エネルギーと
同調し
エネルギーが
補給されるのです。

このことを
正気といい
正想念であり
神と波長が合う
エネルギーを
正しく使うことが
できるのです。

結局のところ
蒔いた種は
自らが必ず刈り取る。
という法則通り

言葉、思い、
そして、行いにおいて
どうエネルギーを
使ったかが
試されるのです。

愛と調和に
生きるということは
自分の都合の
いいものだけを
愛するというのでは
ありません。

自分に都合の
いいものを
愛するのであれば
誰でも
愛することは
できます。
ヤクザとて
愛するのです。

都合の悪いものは
憎むというのでは、
まだ、
善悪の知恵の実を
食べているのです。

神は絶対の善です。
神は完全無欠です。
法則そのものなのです。

決して
憎んでは
ならないのです。

憎むと誰が
損をするのでしょう?
自分自身です。

盛られた毒を
食しては
ならないのです。
サタンの誘惑に
負けては
ならないのです。

私たちを
迫害するものや
罵るものさえ
愛することです。

これが
正しい
生命エネルギーの
使い方です。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日という一日、
このエネルギーを
正しく使って
いきましょう。

自らの言葉や思い、
そして、行いを正す。
身、口。意を正す。
真理に生きる。
行う。
歩む。
為す。
実行するという
実践行為が、
いかに
大切なものかを
心がけて
いこうでは
ありませんか。

ありがとうございます。

2011年10月6日木曜日

「真の人間の本質」


このブログで
何回も紹介させて
いただいています。
山元加津子さんの本が
サンマーク出版から
11月上旬に刊行予定です。

タイトルは
「手をつなげば 
あたたかい」です。
是非、
読んで
頂きたい本です。



どんな本か
興味のある方は
今回は
サンマーク出版から
サキ読みのページが
あって

一章まるごと
読めますので
是非、このサキ読みを
読んで頂いてから
本を購入してください。

プロローグも含め
42Pも読めるのです。
私も読みましたが
一章を読んで
涙が止まりませんでした。
出版の日まで
ワクワクします。

このサキ読みのページに
この本
「手をつなげば あたたかい」
の宣伝コピーが
載っています。
紹介します。

“誰もが
みんな持っている
優しい力が、
人々の心を開いて
つないでいく。

「かっこちゃん」の
愛称で
親しまれている
特別支援学校の先生が
愛を込めて紡ぐ、
大切なこと。

「忘れないでね。
うれしいことは、
すぐそばにある。“

多くの人に
読んで欲しい本です。
サキ読みのページです。


それと
山元加津子さんの
メルマガ
宮ぷー こころの架橋
プロジェクト」に
こんな紹介もして
ありましたので
掲載します。

“私、この本に今、
すごく多くの
思いを込めています。
意思伝達のこと、
植物状態から
帰還すること、
雪絵ちゃんの思いなども、
この本には
少しずつですが書きました。

それに合わせて、
フェイスブックで
「山元加津子の本」の
ページを作りました。
アドレスです。

あまり
フェイスブックのことを
よくわかって
いないのですが、
「いいね」を押してい
ただくと、
新しい本の情報なども、
メールで
お伝えできる
ようなのです。
それから、
みなさんで本の
お話もできるとのことで、
ぜひ、「いいね」を
押していただけたら
うれしいです。

最新刊の
『手をつなげば、
あたたかい。』の
情報や、
読者プレゼントなどを
こちらでご案内していく
予定です。“と
書いてありました。

是非、宜しく
お願いいたします。

この本を
このブログで
紹介するのも

私の昨日のブログ
すべては繋がっている!
でお話したように。
自と他は別のものではなく
一つであるとの
実感がいたします。

私たちは
一なる本源である
神の
共通的生命として
現れています。

この生命は
無限であり永遠です。
肉体という
物質を脱ぎ捨てても
確かな実感を持って
存在し続けるものです。

神は
大霊であり
大愛です。
万有万物
どんなものにも
唯一無二の神が
備わっています。

すべては
ひとつの生命を
個別に見ているのが
他という認識です。

事実は
同じ生命なのです。
肉体人間を見るは
偽我です。
偽我は個我で仮想です。

霊的人間を見るは
真我です。
真我は普遍我で実相です。

自も他も
同一の神様の生命
個にして普遍
普遍にして
個なるものです。

その唯一無二の
生命を育て合って
いるのです。

それが
真の我(神の我)の
自覚です。

自と他を区別する
こころこそ
苦難・困難を
創ります。

分離を創ります。

私たちはひとつなのです。
あなたの喜びは
私の喜びであり
あなたの悲しみは
私の悲しみでも
あります。

私たちの
本質的なこころは
本当のこころは
真なる我は
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるものしか
存在しないのです。

偽者の
偽我(自我)のこころに
惑わされては
いけません。
唯の、勘違いを
しているのです。

偽なるものは
こころの視野から
去ったのである。

醜なるもの、
暗黒なるもの、
憎悪、
怨恨等は
私たちの心から
去ったのである。

心配や
恐怖や
取りこし苦労は、
我が心に
坐を占めることが
できないのある。

唯、神のみ
我が心の中に
坐を占めたもうて、
そこより
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるものを
放射したまうのある。

神が坐した
その中心は
何者も
害することは
できないのです。

神は
完全無欠であり

一部の罪の意識は
包みがほぐれ
もはや
光のみが実在する
だけなのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今という瞬間
永遠の今を悟ることが
できるのです。

真の人間の本質のみに
意識を振り向けることです。

善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるもの
無限なるもの
永遠なるもの
不滅なるもの
普遍なるもの
実相なるもの
それが
真の我なる実体なのです。

ありがとうございます。

2011年10月5日水曜日

「すべては繋がっている!」

昨日のブログを見て
女房の妹や
離れている
家族のものや
友人たちから
退院祝福のメールを
いただきました。

この場をお借りして
お礼を申し上げたいと
思います。

いつも
気に留めていただいて
ありがとうございます。

こうやって
皆さんと
繋がっているのだという
実感が湧くときです。
心より
感謝しています。

その中で
茨城から
中秋の名月の時に
写真を送ってくれた
友人からのメールと

いつも
このブログで
紹介させて
頂いている
中国の友人
メールを
紹介させてください。

茨城の友人からは
2通いただきました。

『今、帰って来て
ブログみました。

良かった。
本当に良かった…。
こうゆう時って
何か言うんだろうけど、
言葉がみつからない。
ただただ良かった
本当におめでとう。

アーカメロディさんの
普段からのおこないを
神はみてたんだなぁ。

アーカメロディさんたち
二人への
神様からの
プレゼントですね。
心からおめでとうございます。
がんばったね奥さん。』
○○より

『退院おめでとう。
何もお役にたてませんが、

幸いな事に目の前が
昔から山全体が
「ご神体」として
崇められている筑波山です。

日本人の祖神として
「古事記、日本書記」に
そのご神徳が書かれている
国内屈指の古社もあります。

その山容が二峰並ぶため
自然に男女二柱の祖神が
祀られたそうです。
「いざなぎの神いざなみの神」と
日本神話でも
伝えられています。

家内安全夫婦和合
奥さんと二人いつまでも
楽しく過ごせますよう
その山に毎日手を合わせます。
今の私に出来る
唯一の事だから…』
○○

心よりの祝福
どんな
すばらしい言葉よりも
ちゃんと
伝わっていますよ!
本当に
ありがとうございます。


そういえば
○○さんから

筑波山の神社の
写真も送って
いただきましたね!

皆さんにも
お裾分けしますね!

荘厳な神社です。





そして
中国の友人からです。

『アーカメロディ兄さんへ
奥様退院
おめでとうございます。

兄の喜びの顔が
浮かび上がり、
暖かな気持ちになります。

すべては
奇跡のようなもの、
この一日の、
今のこの時間が
嬉しくてたまらない。
この時間を与えてくれた、
病にも
感謝したい気持ちでしょう。

つまり余計なものは
何一つないと思います。
僕たちは
楽園の中にいます。

真実の時間を持てる人は
常に安らかな笑顔で
みなさんを
見守ることができます。』

本当にそうですね!
余計なものは
何一つありません。
今、この瞬間が
真実の時間であり
確かな時間である

真実の時間は
このままで
極楽浄土ですよね!

この二人の友人からの
メールを読んでいて
あらためて
感じることは

自と他は
別のものでは無く
すべては
繋がっていると
いうことです。

皆、
自分のことのように
喜び
祈ってくださいます。
その
祈りとは
命宣(いのり)です。
自分の生命の息吹を
宣言することです。

生命は
神そのものです。
神そのものの我を
現わして
祈ってくれます。

無限と
自分の生命と
波長を合わせて
祈って下さる
行為が
宇宙に
遍満しているところの
無限を
引き寄せることが
出来ます。

その無限に
不可能など
ありません。
それは
愛からしか
生まれることは
ないからです。

愛の無いところに
無限は
生まれることは
ありません。

すべては
愛から出発するのです。
私たちも
神の愛により
生かされているものです。

愛なくば
すべては
不毛です。

私たちが
この現象界に
生まれた目的は

今、目の前にいる人を
愛することです。
愛を通してのみ
本源と一つに
なれるのです。

その愛は
人を選択しません
条件は何もないのです。
無所得です。
条件付の愛などと
言うものは
盲愛なのです。

自分が
望んだものしか
現れることは
ないのですから

それが
どういうふうに
現れようと
自分のものです。
自と他は
別のものでは
ありません。

思いやりと
慈しみでもって
その人の
本質であるところの
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるもののみに
こころを
振り向けてください。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間を
体験し、
無条件の愛を持って
感じ取ること
それが出来たとき
神の愛の
深遠さ、
気高さ、
偉大さを
知ることになるのだと
思うのです。

今日も共有
ありがとうございます。

2011年10月4日火曜日

“確かな瞬間”

今日は
とても嬉しい日です。

お陰さまで
女房が退院しました。

今後は
自宅で
リハビリをしながら、
次の手術まで
体力をあげて
いくように
お医者さんからの
課題つきです。

共に
頑張って行こうと
思います。

女房は
とても元気で
本来の自分を
取り戻しつつ
あるように
見えます。

今は
時間をかけながらも
食事の支度を
しています。

我が家にとっても
久しぶりの
光景です。

何よりも
幸せな瞬間です。

そんな時
ふと
昔読んだ本を
思い出しました。

早速
その本を探し
手元に持って来ました。

その本は
「人生について数字が
教えてくれること」
というタイトルで
著者は、
ジョージ・シャフナーさんと
いう方です。
角川書店から
発行されています。

その中の第一章に
あなたがあなたになった確率
というテーマがあり
書いています。

抜粋したいと
思います。

『地球には現在60億ほどの
人間が住んでいる。
となると、その中の一人なんて
取るに足りない存在だと
思えるかもしれないが、
そうではないという証拠がある。
グウェンドリン・シャープを
例にとって考えてみよう。

グウェンは
アメリカ北部太平洋岸に住む、
人類学専攻の女子大学生だ。
グウェンという人間を
作り上げているのは、
遺伝子をのせている
46本の染色体である。

染色体のうち23本は
母親のセシリアから、
あとの23本は、
セシリアと離婚して以来、
グウェンとは
別れて暮らしている
父親から受け継いだ。

父親も母親もそれぞれ
46本の染色体を持っている。
46本の染色体は
23組のペアになっていて、
子どもに伝わるときには、
各ペアの二本のうちどちらかが
選ばれる、こうして
母親からの23本と、
父親からの23本が、
グウェンの46本の
染色体になったわけである。

母親から受け継ぐ23本が
特定の組み合わせになる確率は。
二分の一、かける、二分の一、
かける、二分の一・・・と、
二分の一を
23個掛け合わせれば出る。
答えは
838万8608分の一。
これは宝くじが当る
確立よりも低い
(ワシントン州発売の
宝くじで、
約700万分の一の確立)。

計算を簡単にするために、
ざっと1000万分の一として、
父親から受け継ぐ染色体も、
特定の組み合わせになる確率は
1000万分の一だから、
グウェンがグウェンになった確率は
100兆分の一となる。』

この後、
この本のこの章では

このグウェンの父親と母親が
知り合った大学は
男子生徒が1000人
女子生徒が1000人
互いにこの1000人の中から
結婚する確率や
グウェンの父親や母親が
彼自身及び彼女自身に
なった確率並びに
さらに両親が不妊症で
なかった確率や、
子どもを作る前に
死んだり離婚しなかった確率
母親、父親の両親が
この世に存在した確率
さらに、それぞれのその先祖が
存在した確率・・・・。等々
確率を探っていきます。

天文学的確率に
なるので省きますが
グウェンがグウェンに
なった確率は途方も無く
小さな確率でしかない。
奇跡としか言いようの無い
確率になります。

これは、私たちも同様で
ひとりひとりの生命は
計り知れないスケールでの
宇宙の営みと言えると
思うのです。

その中で
夫婦となったり
友人となったり
家族となったり

例え
喧嘩相手であっても
関連し合うことは
もう奇跡中の奇跡と
言えるでしょう。

今日、
女房が家に帰ってきて
ご飯の支度をしている
瞬間に
この本を思い出しました。

今、
この瞬間に
私の目の前に
起こっている
一般的には
日常的なことでは
あるが
この光景は
まさに奇跡としか
いいようのない思いが
浮かんで来たのです。

特別なことのように
奇跡を見ている
ように感じました。

しかし、
それは
本当にそうなのかも
知れません。
いや、
そうなのです。

私たちは
この日常の瞬間、瞬間に
いつも
天文学的な確率の
場面を見ているのです。

この瞬間は
何と
かけがえのない瞬間で
あるのだろう!
二度と同じことは
訪れることは
ないのに
唯、やり過ごして
しまうことの多いことよ!

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間の
この場所が
自分にとって
最善の場所であり

それ以外に
ないのではないか!

今、このときよりも
最良の瞬間など
どこにも
ないのではないか!

今、この瞬間しか
存在しないのに
なぜ?
充分に今を
感じようと
しないのだろう!

この瞬間を
味わうために
この世に
生まれてきたのに

はじめから
奇跡の連続で
この世に
生まれ出たのに

他に何があると
いうのでしょう。

悟りとは
己を知り
今、この瞬間に
生きることでは
ないか?

自分を知り
自分に気づき
自分を取り戻すこと

本来の自分に
帰ること

その
あるべき姿で
今、この瞬間に
生命を輝かすこと

今、
目の前に
現れている人や
出来事に
生命を顕現すること

このことが
解脱に
至る
一番の近道なのでは
ないでしょうか?

今日の
今という瞬間
そんな実感が
湧いた
瞬間でした。

この瞬間を
見つめ続けて
いきたいと
思うのです。

ありがとうございます。

2011年10月3日月曜日

“和顔愛語”

今日は
ある雑誌に
載っていました。
“ブス25箇条”
というのを紹介します。

これは
宝塚歌劇団の
いたるところに
張られている
のだそうです。

1、笑顔がない。
2、お礼を言わない。
3、おいしいと言わない。
4、精気がない。
5、自信がない。
6、愚痴をこぼす。
7、希望や信念がない。
8、いつも周囲が悪いと思っている。
9、自分がブスであることを知らない。
10、声が小さくいじけている。
11、なんでもないことに傷つく。
12、他人に嫉妬する。
13、目が輝いていない。
14.いつも口がへの字の形をしている。
15、責任転嫁がうまい。
16、他人をうらやむ。
17、悲観的に物事を考える。
18、問題意識を持っていない。
19、他人につくさない。
20、他人を信じない。
21、人生においても仕事においても意欲がない。
22、謙虚さがなく傲慢である。
23、人のアドバイスや忠告を受け入れない。
24、自分がもっとも正しいと信じ込んでいる。
25、存在自体が周囲を暗くする。

いかがでしょうか?
当てはまるところは
ありましたか?

これと逆のことを
やれば
美人になれる!

分かる気がします。
いわゆる美人とは
姿、形に非ず
ものの見方・考え方に
あるということが
わかります。

ものの見方・考え方が
美しい見方
美しい考え方を
することが
美人なのです。
それが美しい
行動に繋がって
いきます。

タカラジェンヌ出身の
女優さんは
黒木 瞳さんや
天海佑希さん
真矢みきさん等々
長い間
人気を保って
活躍されています。

この“ブス25か条”を
参考に
いつも意識を
向けて
守っているからかも
しれませんね。

この“ブス25か条”の
一番に
「笑顔がない」が
あげられています。

仏教では「和顔愛語」と
いうのがあります。
重要な徳目として
これは
二番目にあげられている
「お礼を言わない」
「おいしいと言わない」
を含めての意味です。

笑顔と優しい言葉を
投げかけることは
人間関係を
スムーズにいかせる
ためには
欠かすことの出来ない
ことです。

この「和顔愛語」は
どなたにもできる
一番効能がある
尊い布施の
実践行であると
お釈迦さまも
仰っています。

これも
因果の理法なのです。
にこやかな笑顔と、
明るい挨拶は、
世の中を照らします。

人を幸せにしていきます。
笑う門には
福がやってきます!
笑いを蒔けば
笑いがやってくるのです、
善因善果です。

楽しいから
笑うのでは
ないのです。
笑うから
楽しいのです。

反対に
悲しいから
泣くのではなく
泣くから
悲しいのです。
とも言えます。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日という瞬間、
あなたは
明るい笑顔と
優しい言葉を
意識して
投げかけてみましょう。

それだけで
世界は変わるのです。

最後に
アメリカ先住民の
諺にある言葉を
共有してください。


『あなたが
生まれたとき

あなたは
泣いて

周りの人は
笑って
いたでしょう。

だから
あなたが
死ぬときは

まわりが
泣いて

あなたが
笑っているような
人生を
歩みなさい。』

ありがとうございます。

2011年10月2日日曜日

「我慢」と「適当」

先日、
36年前のメモを
見ていましたら
「我慢」という
意味が書かれていました。

一般的には
「我慢」という意味は
よい意味で
使われることが
多いと思います。

「何事も辛抱して
何かを成し遂げる」
意味合いで
使ったりします。

唯、この
「我慢」という言葉
基本的には仏教から
来ている
“七慢”の中の
一つなのです。

“七慢”とは
① 慢(まん)~
劣った他人に対して、
自分が勝っているといい、
等しい他人に対して、
自分は等しいという。

② 過慢(かまん)~
等しい他人に対して、
自分が勝っているといい、
勝っている他人に対して、
自分は等しいという。

③ 慢過慢(まんかまん)~
他人が勝っているのに
対して、
さらに勝るという。

④ 我慢(がまん)~
我あり、我が所有ありと
執着して、奢り高ぶる。

⑤ 増上慢(ぞうじょうまん)~
いまだ
悟っていないのに
我は
証得しているという。

⑥ 卑慢(ひまん)~
他人がはるかに
勝っているのに対し、
自分はわずかしか
劣っていないという。

⑦ 邪慢(じゃまん)~
悪行をなしても
悪をたのんで
驕り高ぶる。

我慢とは、
自己の中心に
我(が)があると考え、
その我を
拠り所として
心が驕慢であること。
とあり、

さらに、
己をたのんで
心の驕る煩悩と
書かれています。

我慢の心と
言うと
現代では
いい意味ですが

本当の意味は
いつも
このブログで
言っているところの
自我の心のことを
「我慢」と
言うのです。

自我であり
偽我のことです。

一方
「適当」という
言葉の意味も
書かれています。
「適当」とは、

「この仕事は
適当にやればいい!」とか
「あの人は
適当な人だ!」
というような
「いい加減!」の
意味で、
使われる方が
多いように思いますが。

「適当」とは
「適切かつ妥当」の
省略語ですので、
通常の解釈では
物事に対して
適切なのかを
判断しているといった
意味です。

そして
本来の「適当」とは
時、
場所、
人の三相応を得て
判断をするという
意味なのです。

このように
逆の解釈をする
言葉は
意外と多く
見受けられます。

「貴様」なんかも
本来は
いい言葉ですが
実際の使われ方は
人を蔑視した
言い方として
定着しています。

こういう言葉を
見つけてみるのも
たまには
面白いですね!

また、
探して見たいと
思います。

しかし、
折角、
36年前の
私のメモに
「我慢」の意味が
書かれていたのですから、
それを、たまたま
読んだのも
偶然では
ないでしょう!

「我慢」という
タイトルを
頂いたと思い
本来の
このブログのテーマ
として少し
書きたいと思います。
言葉の持つ
本来の意味
本質的な意味に
触れながら
書いていきます。

「我慢」が
“七慢”の
四つ目の慢であり、

「自己の中心に
我(が)があると考え、
その我を
拠り所として
心が驕慢であること。
とあり、

さらに、
己をたのんで
心の驕る煩悩」の
意味であると
書きました。

結局は
自らの感覚器官の
五感にのみ
囚われた状態

肉体こそ
物質こそ
すべてと思う
心の状態こそ
「我慢」であります。

この状態に
囚われている以上
“生老病死”や
“四苦八苦”から
自由になることは
できません。

私たちの内部に
本来、備わっている
ところの
真なる我に気づく
ことです。

真なる我とは
どういう意味を
いうのでしょうか。

真は“まこと”で
“まこと”の“ま”は
○(まる)のことで
“こと”は“言”のことで、
言葉のことです。

“まる”は
少しも欠けて
いないことを意味し
完全な相(すがた)
いわゆる実相のことです。

神が創り給いた
相(すがた)です。

“こと”は言葉のこと
‘初めに言葉ありき“
と聖書でも
書いてあります。

この言葉の意味は
神以外に
何も存在していない時から
ある言葉の事で
神の波動の事です。

真なる我とは
神なる我のことです。
この自覚を持つことが
値(音)打ちの自覚とも
いいます。

私たちの内部にある
ところの生命の響き(音)
バイブレーション
心の響きを
感ずることが
その人の値(音)打ちです。
それを真(神)価と
言います。

私たちには
神と同じ値(音)打ち
真価が内在しています。

このことが
人間の本質なのです。

本当の
真価を発揮する!とは
その人の神なる
値打ちを発揮する。

自己を
霊的人間として
自覚することを
言います。

「我慢」という
エゴからの自覚なのが

「真価」からの
自覚なのか

自覚の誤差を捨てて

本来なる
自己
真我意識を
自覚することが
大切です。

『今日は残りの人生の最初の日』

私は今日
「我慢」から離れ
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるもののみに
こころを
振り向けていきます。

本当の
値打ちのあることに
真価を
発揮します。

そして、
私から
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるものを
放射していきます。

私は
神の子です。
そして
あなたも

共有ありがとうございます。