先日の
ある例会で
すばらしい
お話を聞かせて
いただきました。
ゲストとして
東京の
代々木上原で
開業されている
吉田クリニックの
吉田健太郎院長が
来場され
大変興味ある
お話を
されました。
吉田先生の許可も
ありましたので
皆様にも
共有して
いただきたいと
思います。
まず
吉田先生の
名刺が
とても
ユニークです。
名刺の表面には
「何もし内科
吉田クリニック
院長 吉田健太郎」
そしてその裏面には
吉田クリニックの
基本理念が
書かれています。
そこには
こう書いてありました。
「人間は治るようにできている
■ 理念■
薬に頼らない
医者に頼らない
病院に頼らない」と
いうものです。
名刺だけではなく
吉田先生自体が
大変ユニークな方で
一切飾り気のない方で
全身から
あたたかな雰囲気が
滲み出ていて
とっても親しみを感じる
先生です。
いっぺんにファンになって
しまいました。
こんな先生に
かかったら
治らない病気も
治ってしまうと
思います。
吉田先生は
はじめから医学を
志した訳ではなく
名古屋大学の文学部を
卒業したあとは
仲間たちは
大体が一流の会社や
官庁等に
就職していったが
吉田先生は
東京の実家に戻り
定職もつかず
週に2~3度
家庭教師をしながら
渋谷界隈を
ぶらぶらとして
昼間は駅前の喫茶店で
野球が好きだったもので
あらゆるスポーツ新聞を
読み尽し
その後、
パチンコ屋に行って
勝ったら
おいしいものを食べ
負けたら
本屋や図書館に行って
本を立ち読みする
というような
毎日を送って
いたのだそうです。
両親には
大変、迷惑をかけました
とおっしゃっていました。
吉田先生は
こう言います。
当時の私の思いは
「決まりきった人生は
選択したくない!」と
思っていた。
いわゆる、
「いきがってたんですね!」と
おっしゃっていました。
「何ものにも
属していない
ということは
束縛がないものだから
自由ですね!」と言って
笑っておられました。
そういう生活を
長く続けていた最中
本屋や図書館に
行くのが
唯一の日課になっていて
特に好んで読んだのが
宗教や霊的なものの本が
多かったそうです。
そのときに目に触れた
本の中に
シュバイツァーさんの
伝記が
あったそうです。
その本の中に
シュバイツァーさんが
30歳のときに
貧しい人たちを
助けたいと
医療の道を
志したというところを
吉田先生は読み、
「自分も
納得できるような
人生を送ろう!」と
決意をしたのだそうです。
当時、
薬漬け、
検査漬け、
手術偏重といった
現代医療の
あり方への疑問を
感じていた吉田先生は
シュバイツァーさんと
同じ医療の道に
進みたいと
思い至ったのだそうです。
そして、29歳から
資格を取るために
猛勉強をし
30歳のとき
千葉大学医学部に再入学し
36歳から
念願の医者に
なったのだそうです。
しばらくは
大病院に
勤務していましたが
理想の医療を
手がけるために
14年ほど前に
クリニックを
開業したのです。
吉田クリニックの
HPには
自身のクリニックの
紹介のところには
こう書かれています。
「西洋医学を基礎におきつつ、
東洋医学や運動療法、
スポーツ、温泉療法などを
積極的にとりいれ、
体にやさしい治療、
形式にとらわれない
医療に取り組んでいる。
また、薬をなるべく
使わない医療を目指し、
健康の要は「食」
である事に着目し、
農業、畜産、健康食品に
興味を持ち、
研究、調査を展開中。
現在、日本胎盤臨床研究会」
理事長を務める。
以上が
吉田先生の
現在に到るまでの
簡単な流れでした。
なかなか
面白そうな方でしょう?
さて
本題の医療についての
お話に
これから
入ります。
まず
“人体から社会を考える”
というテーマで
お話をしてくれました。
ヒトの体は
200種類
60兆個の細胞から
できているのだそうです。
すごい数の細胞が
私たちの身体の中には
あるんですね!
これだけでも
大変な驚きです。
(細胞の断面図です。)
この60兆個もの
全ての細胞は、
まったく同じ
DNAを保持して
いると言うのですから
さらに不思議ですよね!
それが整然と
統制が取れていて
戦うことなく
平和に機能して
いるのでだそうです。
一方、その細胞を
内部に持つ
人間の世界は
明日にでも
地球上の人口が
70億人を超える
そうですが
平和どころか
いつも争いと殺戮の
真っ只中にいます。
変な話ですが
人間は
私たちの中で
整然と働いている
この細胞に
負けている。
細胞に見習いなさいと
言いたいです。
この細胞ができる
きっかけとなる
受精に到るまでには
私たちは
大変な競争を
勝ち抜いてくる訳です。
一億分の一以上の
確率で
激戦を勝ち抜いて
たったひとつの
細胞となるのです。
たったひとつ
一等賞にならない限り
産まれることは
ないのです。
私たち一人ひとりが
その激戦の結果
代表として
産まれてきたのです。
吉田先生は
仰います。
「他の2等賞以下の
すべての
人生の代表としての
自覚を持つことです。
その分まで
人生を大切に
生きなければ
なりません。」と
そして、
ヒトは受精卵という
たった一つの細胞が
一つから
二つになり
二つから
四つとなり
四つから
八つとなり・・・・・
卵割していきます。
その卵割、
増殖、分化を
繰り返しながら
それぞれ脳になったり
心臓になったりして
あらゆろ内臓に
なったり
肛門になったり
皮膚、骨、筋、毛髪等々
とても
バランスよく
眼も二つ
指は5本づつと
私は肛門は嫌だ!とか
わがままも言わず
そして
37週で約2兆個の
細胞を持つ新生児が
誕生するのです。
すばらしく機能された
身体です。
それぞれの
細胞が同じ
DNAを持つの
だそうです。
いわゆる、
心臓になる
予定の細胞は
他のそれぞれの
細胞になるDNAに
ふたをする
のだそうです。
そして
一つの心臓になると
言うのですから
もうこれは
奇跡と言う他
ありません。
人間がこういう
メカニズムを
創れると思われますか?
生命科学の
第一人者の
村上和雄先生をして
“サムシンググレート”
と言わしめた存在
神の存在なくして
このような奇跡が
起こる訳が
有り得ません。
DNAは
デオキシリボ核酸といって
1953年に
ワトソンさんと
クリックさんによって
構造が解明されました。
核、直径
1000分の
数ミリという
一つの細胞の
一つの核に
そのヒトを構成する
すべての
遺伝情報が
入っていると
言うのですから
どうですか?
もうすごいでしょう!
胎児の分裂の速さは
がん細胞よりも
早いんだそうです。
そして
吉田先生の話は
誕生から
成長、死に
話が及んできます。
死ぬことが
いかに重要であるかを
お話してくれました。
ヒトの細胞は
60兆個と言いましたが
ヒト細胞の分化は
60兆個で
止まるように
出来ているのだそうです。
このことを
自死遺伝子と言って
分化した細胞では
この遺伝子に
鍵を掛けない
んだそうです。
例えば
5本の指は
初めはグローブの
ようであって
開いていない
のだそうです。
一本一本の
指の隙間の
遺伝子が死ぬ
ことによって
その部分の
成長ホルモンが
止まることによって
指が開くように
なるのだそうです。
このように
死ぬこと、
止めることは
とても重要である
ことがわかります。
まず
受精からして
そうです!
生き残る精子は
一つです。
他は死んでいくのです。
器官形成には
多くの細胞が
死んでいきます。
だいたい20歳くらいで
身長の伸びは
止まります。
止まらなければ
ジャイアント馬場さん
(ちょっと古いか)
みたいに
2メートル、3メートルに
なってしまいます。
成長ホルモンが
減少していくのです。
それぞれに
死ぬことが
なかったら
大変なことに
なってしまいます。
また人間の
肉体生命も
200年も300年も
生きても
それはそれで
大変でしょう?
想像してみてください。
ただ一点
がん細胞だけは
無限に細胞分裂を
繰り返すのだそうです。
自死遺伝子にふたを
してしまうのだそうです。
鍵がかかって
死ぬことができず
増え続けるのです。
他の細胞との
情報交換を
まったく拒否を
してしまう
無法者なのです。
厄介な細胞です。
がん細胞も
一つの細胞から
分裂、増殖します。
分別なく
他の組織まで
進入するのです。
転移していきます。
縄張りを
強引に奪っていく
悪漢やくざのような
ものです。
他の細胞は
胃なら胃
食道なら食道と
わきまえて
他の領域は
一切侵すことは
ありません。
そして
吉田先生は
人間の持つ
ホメオスタシスという
話をしてくれました。
ホメオスタシスとは
日本語では
恒常性といい
生命の生命たる
所以です。
少々、
自分自身の
身体の内部環境が
乱れたとしても
元に戻る力や
治す力が
備わっています。
細胞数も60兆個で
一定に
保たれていますし、
体温や
血圧
血液
組織液
水等々が
少々乱れても
常に
戻す力があるのです。
病気というのは
この恒常性が
乱れた状態を
言うのです。
基本的には
身体の内部環境を
維持することによって
病気は防ぐことが
できるのです。
それは
消化・吸収
呼吸
排泄を意識し
心がけることだと
吉田先生は言います。
いろいろな
ウィルスやばい菌等々
外敵から
恒常性を保つための
仕組みは
病気にならないための
防御
病気になった場合
白血球やリンパ球など
追い出そうとする力
免疫
もし壊された場合の
細胞増殖因子や
凝固因子など
再生する能力等の
力がそなわっています。
そのことは
私たちの身体が
教えてくれる
大変貴重な生き方に
繋げていくことが
できるということです。
そして
吉田先生は
“頼らない生き方”を
私たちに
提唱してくれました。
自らに頼る
そのために
頼れる力をつけること
日本人というのは
どちらかというと
頼ることが
好きな民族
なんだそうです。
そう言われてみれば
確かに
そうかもしれません。
学校や学校に頼る。
会社の看板や
肩書きや地位に頼る。
組織に頼る。
国に頼る。
他に頼ることは
自分が成長する
機会を逃すものだと
吉田先生は
仰います。
医療においても
特に日本人は
頼りがちであると
先生は言います。
それで
最初に話した
吉田クリニックの名詞に
書かれていた理念に
繋がっていきます。
薬に頼らない
医者に頼らない
病院に頼らない
例えば
薬に頼ることは
違う種類のばい菌が
入ってきた場合
無力である。
また
自分には
再生力があるにも
かかわらず
その再生力を発揮
できなくなると
言われて
自分の力で処理できる
力があるのです!と
力強く仰ったのです。
人体は良くなるように
出来ています。
自然治癒力が
備わっているのです。
薬や医者や病院に
頼ることは
その元々持っている力
自然治癒力を
弱めることになって
真の健康の機会を
逃すことになると
仰ってお話を
終えました。
付録として
村上和雄先生の言葉と
島田洋七さんの
おばあちゃんの
佐賀の
がばいばあちゃんの
言葉を添えて
くださいました。
すばらしい名言です。
村上先生の抜粋です。
☆ 笑いの効果
「笑いが血糖値を下げる」
笑いは、
心身の免疫作用を
強化する
お金のかからない薬
ともいえる。
☆ 祈り
「願いから祈りへ」
自分のための願い事から
地球のため、
宇宙のための
「祈り」に
変わった時、
その「祈りは」、
すごいエネルギーを持つ。
がばいばあちゃんの
抜粋です。
「みんな偉い人には
なれない。
頭を使う人もいれば、
労働者もいる。
総合力で
世の中は成り立ってるばい」
「ばあちゃん、正露丸は
胃腸薬やろう!」
「何飲んだって、同じ事くさ」
ばあちゃんは薬に頼らない
人だったのだ。
はしかで熱が出て、
僕はうんうん唸っていた。
体温計をみると、
38.2度
「よし、大丈夫、お前なら、
40度は出せる」
いかがでしたか?
私たちには
こんな偉大な力が
備わっているのです。
吉田先生が
仰るように
頼ることをやめて
自らのエネルギーを
最大限に
発揮させることこそが
自らの身体が
教えてくれた
貴重な生き方に
繋がっていくのでは
ないでしょうか?
そう思わせて
いただきました!
『今日は残りの人生の最初の日』
私たちは
この奇跡の連続で
今を生きているのです。
自分は
神の遺伝子を持った
全(まった)き
かけがえのない
特別な存在です。
今の瞬間から
自らを頼み
他に依存しないよう
努めましょう!
そうすると
私たちの内部の
細胞の一つひとつが
私たちと共に
働き出すのです。
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年10月30日日曜日
2011年10月28日金曜日
“この世の意味”
一昨日は
谷口雅春先生の
「生命の実相」講義の
テープの中から
創世記の第2章
アダムとイヴの物語を
紹介しましたが
アダムとイヴが
蛇に唆されて
善悪の知恵の実を
食して以来
絶対善は包み隠され
二元性の中で
あらゆる迷妄の中に
私たちは
ある訳ですが
別の観点で言えば
それはそれで
私たちに取って
必要なものである
と言う言い方も
あると思います。
二元性があるから
闇によって
光の輝度はより
輝きを増すように
もう一方の
負の働きによって
プラスの働きの
すばらしさが
際立つという
局面もある訳です。
包み隠すという
この語源が
“包み”から“罪”と
なったのですが、
アダムとイヴ以来
私たちに
つきまとうところの
闇や影そして
否定性や悪や
罪などの部分は
私たちの
輪廻の中での
この現実界での
階梯を上るうえでの
カリキュラムの
一部でもある訳です。
そう考えると
私たちが
小学校から
中学校へ
さらに高校や大学に
進むように
人生の成長にとっての
条件ともいい得る
部分だと思います。
あらゆる闇の部分
混沌や疑惑
絶望や怒り
苦痛や困難は
私たちの心が
もう一方の
平和や安心や
統合や癒し
優しさ、愛の
光の部分を
歪めているやり方の
反映として
現れているに過ぎず
この肉体を持つ間の
経験則でしか
ない訳で
結局は
宇宙の根源である
愛と光を
より見出すために
愛と光を
賛美するために
現れる
プロセスとしてあるに
過ぎないものです。
私たちは
永遠の魂の進化の
道筋にあるものです。
今、その途上に
どのようなことが
起こっていようが
それは
いずれ到達する
エデンの花園への
重要な道筋なのです。
神はアダムとイヴを
エデンの花園から
追放しました。
この真実の意味は
蛇と言う
闇の象徴を現わし
魂と肉体の
分離という幻想の
闇の中に
アダムとイヴを
置いてきました。
そのアダムとイヴは
私たちです。
その幻想の闇の中に
深く入り込み
もがき苦しみ悩み
人は経験を得るのです。
そして、
その迷路から
抜け出し
幻想から真実の
永遠の全体性へと
戻っていくのです。
その間も
私たちを
創造した神は
私たちと
一刻も離れずに
始終、愛のまなざしで
見守っているのです。
そして
私たち自身が
この現実界において
あらゆる経験を
創造して
いっているのです。
私たちは
本質の部分は
創造者であり
それと同時に
肉体や個性は
被造物である訳です。
どんなことであろうが
自分の行う創造に
対する責任を
受け入れるという
姿勢を持つことは
必要です。
その姿勢を
持った上で
私たちは
この肉体を
持っている以上
その肉体を持つ意味も
ある訳ですから
肉体から起こる
迷妄は
誰でも
起こる部分です。
その人間的な部分を
離れた上での
天上人のみの
悟りも又、
ないのです。
エデンの花園は
永遠の生命の世界です。
その真実なる
永遠を知るために
私たちは
この限られた世界に
有限の肉体に
閉じこもって
不自由な
悩み多き人生を
歩んでいます。
永遠なる真の意味を
無限なる真の意味を
自由なる真の意味を
求めて
『今日は残りの人生の最初の日』
この瞬間、瞬間に
私たちは
進化の道筋の
旅の中で
正しい道に
いるのです。
今、自分に
起こっていることを
受け入れましょう
それは
あなたが未来の
状態になるために
必要なステップ
なのですから
その上で
あなたの心と
直観に従って下さい。
心は頭脳よりも
あなたの魂のことを
一番知っているのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
谷口雅春先生の
「生命の実相」講義の
テープの中から
創世記の第2章
アダムとイヴの物語を
紹介しましたが
アダムとイヴが
蛇に唆されて
善悪の知恵の実を
食して以来
絶対善は包み隠され
二元性の中で
あらゆる迷妄の中に
私たちは
ある訳ですが
別の観点で言えば
それはそれで
私たちに取って
必要なものである
と言う言い方も
あると思います。
二元性があるから
闇によって
光の輝度はより
輝きを増すように
もう一方の
負の働きによって
プラスの働きの
すばらしさが
際立つという
局面もある訳です。
包み隠すという
この語源が
“包み”から“罪”と
なったのですが、
アダムとイヴ以来
私たちに
つきまとうところの
闇や影そして
否定性や悪や
罪などの部分は
私たちの
輪廻の中での
この現実界での
階梯を上るうえでの
カリキュラムの
一部でもある訳です。
そう考えると
私たちが
小学校から
中学校へ
さらに高校や大学に
進むように
人生の成長にとっての
条件ともいい得る
部分だと思います。
あらゆる闇の部分
混沌や疑惑
絶望や怒り
苦痛や困難は
私たちの心が
もう一方の
平和や安心や
統合や癒し
優しさ、愛の
光の部分を
歪めているやり方の
反映として
現れているに過ぎず
この肉体を持つ間の
経験則でしか
ない訳で
結局は
宇宙の根源である
愛と光を
より見出すために
愛と光を
賛美するために
現れる
プロセスとしてあるに
過ぎないものです。
私たちは
永遠の魂の進化の
道筋にあるものです。
今、その途上に
どのようなことが
起こっていようが
それは
いずれ到達する
エデンの花園への
重要な道筋なのです。
神はアダムとイヴを
エデンの花園から
追放しました。
この真実の意味は
蛇と言う
闇の象徴を現わし
魂と肉体の
分離という幻想の
闇の中に
アダムとイヴを
置いてきました。
そのアダムとイヴは
私たちです。
その幻想の闇の中に
深く入り込み
もがき苦しみ悩み
人は経験を得るのです。
そして、
その迷路から
抜け出し
幻想から真実の
永遠の全体性へと
戻っていくのです。
その間も
私たちを
創造した神は
私たちと
一刻も離れずに
始終、愛のまなざしで
見守っているのです。
そして
私たち自身が
この現実界において
あらゆる経験を
創造して
いっているのです。
私たちは
本質の部分は
創造者であり
それと同時に
肉体や個性は
被造物である訳です。
どんなことであろうが
自分の行う創造に
対する責任を
受け入れるという
姿勢を持つことは
必要です。
その姿勢を
持った上で
私たちは
この肉体を
持っている以上
その肉体を持つ意味も
ある訳ですから
肉体から起こる
迷妄は
誰でも
起こる部分です。
その人間的な部分を
離れた上での
天上人のみの
悟りも又、
ないのです。
エデンの花園は
永遠の生命の世界です。
その真実なる
永遠を知るために
私たちは
この限られた世界に
有限の肉体に
閉じこもって
不自由な
悩み多き人生を
歩んでいます。
永遠なる真の意味を
無限なる真の意味を
自由なる真の意味を
求めて
『今日は残りの人生の最初の日』
この瞬間、瞬間に
私たちは
進化の道筋の
旅の中で
正しい道に
いるのです。
今、自分に
起こっていることを
受け入れましょう
それは
あなたが未来の
状態になるために
必要なステップ
なのですから
その上で
あなたの心と
直観に従って下さい。
心は頭脳よりも
あなたの魂のことを
一番知っているのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
2011年10月26日水曜日
「神との一体感~復活」
今日も時間が
ありましたので
谷口雅春先生の
テープを
聞きました。
その中に
創世記の第2章に
書いてあるところの
おなじみの
アダムとイヴの
お話を話して
いられました。
皆様も
聞いたことがある
お話なので
知っている方も
いられると
思いますが
紹介しますね!
『神がアダムとイヴ
という人間の祖先を
創られて、
エデンの園
(永遠生命の世界)という、
幸福ばかりが
充満している世界に
住まわせられた
のでありますが、
ところが
蛇が出てきて、
エデンの楽園の
中央部に
聳えているところの
知恵の木の実
(善悪を知る木)を指して、
「あの実は大変おいしい、
神様があれを
食べるなと仰っても、
あれを食べると
人間が賢くなって
神様が治めにくく
なるから、
神様が食べるなと
言われたのであって、
死にはしないから
食べなさい!」
と誘惑します。
最初は奥さんである
イヴを誘惑する。
蛇の知恵によって
誘惑されたのです。
蛇は全身を
土の塵の上に
這うところの
動物であって、
土の塵は
物質の象徴である。
物質で人間が
出来ているのである
肉体人間が
本当の人間である
という蛇の知恵、
その知恵の木の実を
アダムと
イヴが食べました。
その時に
「汝らは塵ならば
塵に帰るべきなり!」と
神が宣言をし、
追放されました。
という物語です。
この蛇が授けた
五感の知恵を捨てて、
生命の木の実を
食べ直さなければ
ならない。
生命の実の姿(相)
英語で言えば
アット・ワン・メン、
“あがない”とい
意味ですが
‘一体である“と
いう意味でもあります。
罪をあがない、
神と一体であると
自覚さえすれば
塵が消えるのである。
その自覚が
包み隠されているのが
罪なのである。』
と話されておりました。
神が人間を創った
このアダムとイヴの
時代は
人間は
元々不死の世界
エデンの楽園に
住んでいたのです。
ところが
アダムとイヴが
蛇にそそのかされて
善悪の知恵の
木の実を
食べて以来
人間の
不死性
永遠の生命と
絶対的善世界という
本質的なものが
覆い隠され
肉体である
物質的なものばかりが
重点を置く時代と
善と悪という
二元性の時代が
今日まで続いて
いるのです。
本来は
絶対善こそ
実相であり
肉体は仮相であり
物質は無常であるのです。
生命が離れた瞬間
物質である肉体は
脱ぎ捨てられた
オーバーの如くの
存在でしかありません。
そして
この現実界は
二元性に縛られて
悪も実在するような
錯覚を植えつけられて
いるのです。
悪は善を一時的に
閉ざしているに
過ぎず
単なる影であり
ゆがみにしか
過ぎないもの
実体のないものです。
谷口先生は
さらに
クリスチャン
サイエンスという団体の
開祖であるところの
メリー・レイカー
エディ夫人の本
「サイエンス・アンド・ヘルス」
を引用されました。
「あがないは
人間が神と一体になる
具体的実行であり、
それによって
人間は神の子として
真理・生命・愛を
反映するのである。
ナザレのイエスは
父の子、
神と人間との
一体なる真理を説き
これを実証したのである。
イエスは勇敢に
五感の示す
感覚的実証を
否定し去り、
唯物的戒めに反対し、
彼の神癒の力によって、
すべての反対者に
対して
実際的反駁を
行ったのである。」
このことを
紹介され
イエスの十字架は
肉体の抹殺(クロス)で
あるとともに
復活(プラス)である。
クロスを
真っ直ぐにすると
+になる。と
説明を加えられたのです。
そして、
善のみしか
創らない神に対して、
善もあり
悪もあると認めたため
悪があるように
見えるのである
悪や病気は
自己処罰である。
神様のこしらえた
世界に
悪や病気が
ある筈がない。
人間自身が
神と和解して
いないから
あるように
見えるのである
神と和解し
神なる
生命の実相を
拝むのであると
結ぶのであります。
『今日は残りの人生の最初の日』
私たちは
今日、
この瞬間から
復活を果たせるのです。
あがない
神と一体になる
この自覚こそ
復活の証なのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
ありましたので
谷口雅春先生の
テープを
聞きました。
その中に
創世記の第2章に
書いてあるところの
おなじみの
アダムとイヴの
お話を話して
いられました。
皆様も
聞いたことがある
お話なので
知っている方も
いられると
思いますが
紹介しますね!
『神がアダムとイヴ
という人間の祖先を
創られて、
エデンの園
(永遠生命の世界)という、
幸福ばかりが
充満している世界に
住まわせられた
のでありますが、
ところが
蛇が出てきて、
エデンの楽園の
中央部に
聳えているところの
知恵の木の実
(善悪を知る木)を指して、
「あの実は大変おいしい、
神様があれを
食べるなと仰っても、
あれを食べると
人間が賢くなって
神様が治めにくく
なるから、
神様が食べるなと
言われたのであって、
死にはしないから
食べなさい!」
と誘惑します。
最初は奥さんである
イヴを誘惑する。
蛇の知恵によって
誘惑されたのです。
蛇は全身を
土の塵の上に
這うところの
動物であって、
土の塵は
物質の象徴である。
物質で人間が
出来ているのである
肉体人間が
本当の人間である
という蛇の知恵、
その知恵の木の実を
アダムと
イヴが食べました。
その時に
「汝らは塵ならば
塵に帰るべきなり!」と
神が宣言をし、
追放されました。
という物語です。
この蛇が授けた
五感の知恵を捨てて、
生命の木の実を
食べ直さなければ
ならない。
生命の実の姿(相)
英語で言えば
アット・ワン・メン、
“あがない”とい
意味ですが
‘一体である“と
いう意味でもあります。
罪をあがない、
神と一体であると
自覚さえすれば
塵が消えるのである。
その自覚が
包み隠されているのが
罪なのである。』
と話されておりました。
神が人間を創った
このアダムとイヴの
時代は
人間は
元々不死の世界
エデンの楽園に
住んでいたのです。
ところが
アダムとイヴが
蛇にそそのかされて
善悪の知恵の
木の実を
食べて以来
人間の
不死性
永遠の生命と
絶対的善世界という
本質的なものが
覆い隠され
肉体である
物質的なものばかりが
重点を置く時代と
善と悪という
二元性の時代が
今日まで続いて
いるのです。
本来は
絶対善こそ
実相であり
肉体は仮相であり
物質は無常であるのです。
生命が離れた瞬間
物質である肉体は
脱ぎ捨てられた
オーバーの如くの
存在でしかありません。
そして
この現実界は
二元性に縛られて
悪も実在するような
錯覚を植えつけられて
いるのです。
悪は善を一時的に
閉ざしているに
過ぎず
単なる影であり
ゆがみにしか
過ぎないもの
実体のないものです。
谷口先生は
さらに
クリスチャン
サイエンスという団体の
開祖であるところの
メリー・レイカー
エディ夫人の本
「サイエンス・アンド・ヘルス」
を引用されました。
「あがないは
人間が神と一体になる
具体的実行であり、
それによって
人間は神の子として
真理・生命・愛を
反映するのである。
ナザレのイエスは
父の子、
神と人間との
一体なる真理を説き
これを実証したのである。
イエスは勇敢に
五感の示す
感覚的実証を
否定し去り、
唯物的戒めに反対し、
彼の神癒の力によって、
すべての反対者に
対して
実際的反駁を
行ったのである。」
このことを
紹介され
イエスの十字架は
肉体の抹殺(クロス)で
あるとともに
復活(プラス)である。
クロスを
真っ直ぐにすると
+になる。と
説明を加えられたのです。
そして、
善のみしか
創らない神に対して、
善もあり
悪もあると認めたため
悪があるように
見えるのである
悪や病気は
自己処罰である。
神様のこしらえた
世界に
悪や病気が
ある筈がない。
人間自身が
神と和解して
いないから
あるように
見えるのである
神と和解し
神なる
生命の実相を
拝むのであると
結ぶのであります。
『今日は残りの人生の最初の日』
私たちは
今日、
この瞬間から
復活を果たせるのです。
あがない
神と一体になる
この自覚こそ
復活の証なのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
2011年10月23日日曜日
“自らの実相を観ること”
私たちは
『今日は残りの人生の最初の日』
なのですから、
今日は誕生日であり、
さらに
今日以降、
いつかは必ず
死にます。
これは、予言です!(笑)
この予言は、
絶対に外れません!
しかし、
死ぬといっても
永遠の生命が
今のお借りしている
肉体から抜けるに
過ぎないのですが。
しかし、
肉体を
持っているときに
肉体のみを我として
生きた人たちの場合
生命の意識が
おぼろげながらも
あるものですから
自分が死んだのか
どうか
訳のわからない
状態が続き
戸惑ってしまうようです。
そのために
四十九日間の
現実界に
留まる時間として
猶予期間を
与えられます。
この期間に
自分がもう
肉体存在ではないこと
しかし
確かな実感として
生きているという
意識上の感覚が
段々と明瞭に
なってきます。
肉体の時は
洋服の上から
痒いところを
掻くような
ものでしたが、
肉体が
無くなりますと
その洋服が
無いのですから
意識の感覚が
何倍何十倍にも
なってきますので
自分が生前に
為した行為を
細部に到るまで
まるで映画でも
見るが如く
ありありと
思い出すことに
なります。
例え、自分が
忘れている
ようなことでも
見せられるように
なりますので
誤魔化しは
きかないのです。
ですから
生前に
自分の内在する
良心など
まるで、
存在しないように
振舞った場合は
その行動の結果
人に与えた
心の痛みや
苦しみを
自分自身が
増幅して
その痛みや、
その苦痛を
感じなければ
ならないことに
なっています。
誰かが罰を
与えるのではなく
自分自身が
肉体を喪って初めて
自我(偽我)の意識が
徐々に薄れてきて
本来、誰にでも
備わっていた
ところの
真我(神我)の意識が
現れてくるのです。
その自分の良心が
自分の行いを
裁くことに
なるのです。
自らが
一生懸命になって
蓋をしていた
この良心は
誰も
誤魔化すことは
できないのです。
良心に
反する行為は
良心によって
清算されるのです。
勿論
人に喜びを与えたり
良心に沿った
生き方をした
場合においては
祝福されます。
その
良心に反する行為
並びに
良心に沿った行為を
秤にかけ
どちらに重きを
置いた人生を
歩んだのかを
決定し
四十九日の後
その後の
自らの赴く
波長領域へと
自らが選択を
することになります。
これは
肉体の死後。
例外なく
行われることです。
死に逝く
ほとんどの人々は
この肉体のある時に
「もっと人の為に
なることを
やっておきたかった!」と
心から思い
反省して
涙を流すのです。
誰でも
この肉体を
脱ぐときが必ず来ます!
そうしたら
私たちが
この世限りの
物質に収まっている
存在なんかで
無いことは
誰でも
直ぐ分かり
思い知らされるのです。
私たちは
永遠なる生命を
持つ無限なる
存在です。
永遠不滅なのです。
全知全能の存在
なのです。
そんな
偉大なものを
与えられているのに
なぜ、
一時的な享楽に
現を抜かして
いるのですか?
他を責め
罵っているのですか?
分離をして
戦っているのですか?
自らの生命の
実相を
自覚する
ことです。
自らの生命の実相を
自覚するとは
自らの内に
大いなる宝が
備わって
いることを
知ると
いうことです。
その
大いなる宝は
使っても使っても
減ることの無い
無限なる宝です。
無限なる宝は
愛であり
光であり
善であり
慈しみや
優しさです。
愛は与えても
与えても
尽きることの無い
与えれば
与えるほど
増え続け
世界を
穏やかにする力です。
光は与えても
与えても
尽きることの無い
与えれば
与えるほど世界を
輝かせる力です。
善も
慈しみも
優しさも
与えれば
与えるほど世界は
安心と平和に
包まれていきます。
私たちは
神の愛の
法則によって
すべてを
受け取り済みなのです。
受け取っておいて
何で!
奥の奥に
仕舞い込んで
ひとつも
使おうと
しないのですか?
仕舞っておいて
わざわざ
自分の心を
偽我の殻に
閉じ込めて
自分の心を
苦しめ
悲しませています。
偽者の我に
騙されては
いけません!
怒りや
憎しみや
妬みや
嫉み
貪りは
一次の歪みによる
感情に
過ぎないのです。
そんなものを
受け取っては
なりません。
あなたの心を
無限なる愛で
無限なる光で
満たしていくのです。
そうすれば
あなたの内にある
神性が発露して
喜びと
思いやりの
現状が現れて
くるのです。
見える現状が
がらりと
変わっていくのです。
すべては
自分の心がけ
次第なのです。
心は思いひとつです。
同時に違うことを
受け入れることは
できないのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今日はあなたの
誕生日!
そして、
今日以降、
あなたは
いつ死んでも
おかしくないのです。
だとすると
今この時間を
心より
抱きしめてください。
この瞬間は
永遠なのです。
生かしていただいて
ありがとうございます。
『今日は残りの人生の最初の日』
なのですから、
今日は誕生日であり、
さらに
今日以降、
いつかは必ず
死にます。
これは、予言です!(笑)
この予言は、
絶対に外れません!
しかし、
死ぬといっても
永遠の生命が
今のお借りしている
肉体から抜けるに
過ぎないのですが。
しかし、
肉体を
持っているときに
肉体のみを我として
生きた人たちの場合
生命の意識が
おぼろげながらも
あるものですから
自分が死んだのか
どうか
訳のわからない
状態が続き
戸惑ってしまうようです。
そのために
四十九日間の
現実界に
留まる時間として
猶予期間を
与えられます。
この期間に
自分がもう
肉体存在ではないこと
しかし
確かな実感として
生きているという
意識上の感覚が
段々と明瞭に
なってきます。
肉体の時は
洋服の上から
痒いところを
掻くような
ものでしたが、
肉体が
無くなりますと
その洋服が
無いのですから
意識の感覚が
何倍何十倍にも
なってきますので
自分が生前に
為した行為を
細部に到るまで
まるで映画でも
見るが如く
ありありと
思い出すことに
なります。
例え、自分が
忘れている
ようなことでも
見せられるように
なりますので
誤魔化しは
きかないのです。
ですから
生前に
自分の内在する
良心など
まるで、
存在しないように
振舞った場合は
その行動の結果
人に与えた
心の痛みや
苦しみを
自分自身が
増幅して
その痛みや、
その苦痛を
感じなければ
ならないことに
なっています。
誰かが罰を
与えるのではなく
自分自身が
肉体を喪って初めて
自我(偽我)の意識が
徐々に薄れてきて
本来、誰にでも
備わっていた
ところの
真我(神我)の意識が
現れてくるのです。
その自分の良心が
自分の行いを
裁くことに
なるのです。
自らが
一生懸命になって
蓋をしていた
この良心は
誰も
誤魔化すことは
できないのです。
良心に
反する行為は
良心によって
清算されるのです。
勿論
人に喜びを与えたり
良心に沿った
生き方をした
場合においては
祝福されます。
その
良心に反する行為
並びに
良心に沿った行為を
秤にかけ
どちらに重きを
置いた人生を
歩んだのかを
決定し
四十九日の後
その後の
自らの赴く
波長領域へと
自らが選択を
することになります。
これは
肉体の死後。
例外なく
行われることです。
死に逝く
ほとんどの人々は
この肉体のある時に
「もっと人の為に
なることを
やっておきたかった!」と
心から思い
反省して
涙を流すのです。
誰でも
この肉体を
脱ぐときが必ず来ます!
そうしたら
私たちが
この世限りの
物質に収まっている
存在なんかで
無いことは
誰でも
直ぐ分かり
思い知らされるのです。
私たちは
永遠なる生命を
持つ無限なる
存在です。
永遠不滅なのです。
全知全能の存在
なのです。
そんな
偉大なものを
与えられているのに
なぜ、
一時的な享楽に
現を抜かして
いるのですか?
他を責め
罵っているのですか?
分離をして
戦っているのですか?
自らの生命の
実相を
自覚する
ことです。
自らの生命の実相を
自覚するとは
自らの内に
大いなる宝が
備わって
いることを
知ると
いうことです。
その
大いなる宝は
使っても使っても
減ることの無い
無限なる宝です。
無限なる宝は
愛であり
光であり
善であり
慈しみや
優しさです。
愛は与えても
与えても
尽きることの無い
与えれば
与えるほど
増え続け
世界を
穏やかにする力です。
光は与えても
与えても
尽きることの無い
与えれば
与えるほど世界を
輝かせる力です。
善も
慈しみも
優しさも
与えれば
与えるほど世界は
安心と平和に
包まれていきます。
私たちは
神の愛の
法則によって
すべてを
受け取り済みなのです。
受け取っておいて
何で!
奥の奥に
仕舞い込んで
ひとつも
使おうと
しないのですか?
仕舞っておいて
わざわざ
自分の心を
偽我の殻に
閉じ込めて
自分の心を
苦しめ
悲しませています。
偽者の我に
騙されては
いけません!
怒りや
憎しみや
妬みや
嫉み
貪りは
一次の歪みによる
感情に
過ぎないのです。
そんなものを
受け取っては
なりません。
あなたの心を
無限なる愛で
無限なる光で
満たしていくのです。
そうすれば
あなたの内にある
神性が発露して
喜びと
思いやりの
現状が現れて
くるのです。
見える現状が
がらりと
変わっていくのです。
すべては
自分の心がけ
次第なのです。
心は思いひとつです。
同時に違うことを
受け入れることは
できないのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今日はあなたの
誕生日!
そして、
今日以降、
あなたは
いつ死んでも
おかしくないのです。
だとすると
今この時間を
心より
抱きしめてください。
この瞬間は
永遠なのです。
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年10月21日金曜日
「汝、幼子の如くあれ!」
私は
赤ちゃんが
大好きです。
赤ちゃんを
嫌いという人には
お目にかかった
ことはありません。
赤ちゃんなら
人間も動物も
大好きです。
大人が嫌いと
言う訳では
ありませんよ!
見てるだけで
思わず
誰もが
笑顔になる存在
それが
赤ちゃんだと
思うんです。
純真無垢な
表情や仕草
ひとつひとつが
天使そのものの
愛らしさと
そして
高貴ささえも
漂わせています。
赤ちゃんを
見ていると
神の子であることに
疑いをはさむ
余地はありません。
イエスさまは
言いました。
「汝!幼子の如くあれ!」と。
赤ちゃんのように
純真無垢で
ニュートラルな
すばらしい状態に
帰りなさい!と
仰っておられる
のでしょう。
私たちも
誰もが例外なく
最初は
赤ちゃんだったんです。
(私は、だいぶ昔ですが・・・)
でも
その赤ちゃんのときを
自分で見ることは
できません。
正確には
現在の
自分自身でさえ
この眼で
見ることは
できないのです。
自分の眼で
見れるのは
鏡という媒体を通して
見る自分のような
ものです。
肉体的なものは
すべて
限界があり
有限なものです。
私たちは
赤ちゃんを見て
純粋を
永遠を
無限を
優しさを
ほほえみを
光明を
高貴を
美しさを
愛を
そして
癒しを
感じます。
それは
肉眼で見て
心の眼で
感じるのです。
これらすべての
特性は
神の特性です。
最初に神をつけて
神の純粋
神の永遠
神の無限
神の愛と・・・
置き換えられる
言葉ばかりです。
私たちの奥底にある
神の特性、
いわゆる神性が
感応して
赤ちゃんに神を
見るのです。
私たちは
生まれたときから
元々
神性
仏性
霊性
イデア
理念と
呼ばれてきた
高貴なものが
備わっていたのです。
しかし
私たちは
この肉体に
徐々に
慣れるに従って
その高貴なるものを
忘れていきます。
成長して
認識が入り、
分別がつくように
なってきます。
良いとか
悪いとか
判断基準を
持つようになり、
自分の価値観を
創っていきます。
そして
絶えず過去に
引っ張られ、
過去の認識
というものに
つかまって
そこから
抜け出せなく
なっていきます。
私たちは
過去の認識
昨日までの認識が
今日の行動を
決定しています。
他の人から
罵詈雑言を
浴びれば
自分も
言い返します。
私の場合は
他の人の何倍かは、
声を荒げて
その上を
いかなければ
とても気が
済みませんでした。
或いは
怖くて
尻尾を巻いて
逃げ出すかも
知れません。
相手が会社の
上司かなんかだったら
明日は
会社に行くのさえ
嫌になり
休んでしまうかも
知れません。
このように
私たちは
過去の記憶への
対処から
行動を決定して
いるのです。
そして
そうこう
していると
知らず
知らずのうちに
自分と他人と
区別をし
あの人は悪い!
あの人はいい!と
自分の価値感で
判断を
していくように
なっていきます。
日常につかまって
しまうのです。
その頚木から
逃れなければ
なりません。
赤ちゃんは
そのままで
光輝いています。
神々しさも感じます。
「汝、幼子の如くあれ!」
この言葉は
真理そのものです。
赤ちゃんは
何ひとつ疑うことを
知りません。
自分の中の神を
金輪際
疑っていません。
そのままを
ありのままを
表現します。
そうしたら
神の愛の表現に
なるのです。
私たちも
何も変わりません。
今からでも
遅くないのです。
聖書の中の
マタイ伝
第13章12節に
こう書かれています。
「それ誰にても
持てる人は
与えられて
いよいよ豊かならん。
されど持たぬ人は
その持てるものをも
取らるべし」
この意味は
「既に自分の内に
神の生命が
宿っていて、
無限の力が
備わっている
と自覚した人は、
ますます
神性が現れて
純粋を
永遠を
無限を
優しさを
ほほえみを
光明を
高貴を
美しさを
愛を
そして
癒しを
この現象界に置いて
発揮できるのである。
しかし
その自覚の
ないものは
自分が持っている
わずかな
長所でさえも
覆い隠されて
しまうのである。」
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この瞬間
神の無限が
備わっていることを
信ぜよ!
一瞬たりとも
疑うな!
幼子のように
今、ここ
この瞬間の
自覚こそが
私たちの神が
歓喜の雄叫びを
あげるのだ!
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年10月20日木曜日
“内在する創造主と繋がる!”
私たちは
偶然に
この世に
生まれてきた方は
ひとりもいません。
すべて
神の意志により
神の愛の法則によって
生まれてきました。
すべてを
創られた
創造主である神は
万象万物を創造し、
すべての被造物の中に
存在しています。
宇宙には
創造主である神の
唯一の
宇宙生命しか
ありません。
それがエネルギーと
呼ばれている
ものでもあり
すべての
万象万物に
このエネルギーが
宿っているのです。
お釈迦さまは
色即是空(しきそくぜくう)
空即是色(くうそくぜしき)
色心(神)不二
(しきしんふじ)と
仰いました。
空なる生命と
色なる肉体(物質)とは
一秒たりとも
離れては
存在できない。
空(生命)即(すなわち)、
是(これ)色(肉体)であり、
色(物質)即(すなわち)
是(これ)空(神)であり、
色(物質)と心(神)は
不二である。
不二は
二つないのですから、
別々にあるのでは
ないのです。
一つしかない。
ということです。
私たちの生命は
宇宙に唯一の
宇宙生命の
分霊なのです。
生きとし
いけるものの生命は
万象万物には
すべて神の
完全遺伝子を
宿してないものは、
ないのですが
私たちは
そのことを
忘れているのです。
まだ多くの人間は
肉体こそが自分だと
肉体が生きていると
思い込んでおり、
肉体の中の
頭脳がすべてを
司っていると
考えているのです。
教育は全て
外から与えるものとし、
昔から
読み書き算盤を
勉強して
知識を得ることに
時間を費やしています。
これも必要では
あります。
ただ、
外部情報の習得を
専門として
表面意識しか
使わない教育を
しています。
人間が本来
持っているところの
偉大なる意識
潜在意識を
一切無視した、
教育です。
潜在意識の内側に
超意識、
神意識があり、
これが創造主の
宇宙意識
そのものであり、
私たち
すべての内部に
神の完全遺伝子という
記憶が
備わっています。
このことを
イエスさまは
この潜在意識に
在るところの
「神に
繋がらなければ
不毛である」と
仰られたのです。
知識とは
外からくるもの、
物質次元から
くるものですから、
永遠の知識
なるものはなく、
一定のものは
ありません。。
智慧とは
内からくるもの、
インスピレーションや
ひらめき
啓示です。
神の意識から
くるもので
普遍であり
永遠のものです。。
お釈迦さまは
「外を観るなかれ、
自らの内を観よ!」
と弟子たちに
よく仰っていました。
私たち
一人ひとりの意識は
創造主である神と
繋がっているのです。
その大いなる智慧は
内に潜在しています。
宇宙創成からの
神の智慧が
備わっています。
その智慧は
学ばなくても
魂が記憶している
真実の情報です。
表面意識は外から、
五感を通じて
学びますが、
潜在意識は
五感を離れて
頭脳を黙らせる
ことでしか
働かないのです。
お釈迦さまが
「内観せよ!」
ということも、
「瞑想する!」
ことも同じことです。
イエスさまも
「聖者は
沈黙を守る、
汝の密室にて祈れ!」
と言われました。
すべては
潜在意識なる
神なる意識に
繋がる
唯一の方法だからです。
沈黙とは五感である、
表面意識を
沈黙させる
という意味です。
密室とは
見えない世界に
意識を向けよ!
ということです。
私たちは
この物質世界にあって、
目に見えない愛や光
永遠や無限を
どれだけ発見し
どれだけ感じ取って
いけるのでしょうか。
その鍵は
真我(神我)意識に
繋がることが
不可欠なのです。
その方法が
瞑想なのです。
霊性を磨き
霊性を高めない限り
真実の見方は
出来ないのです。
家族や友人
あらゆる人たちや
様々な出来事に
対しての
ものの見方
考え方にしても
表面だけを見て
判断をするように
なっていきます。
その見方は
本質から離れた
歪んだ見方です。
影だけを見て
判断している
偽者の見方しか
できない人間に
なってきます。
愛や光は
目には見えません。
しかし、
誰も愛と光が
ないという人は
いません。
確かにあるものです。
あなたの見るものは
真実を映し出して
いますか?
表面的な
ものの見方に
真実なるものは
見えないのです。
あなたの見方、
受け止め方を
変えれば
まったく違う
世界の中で
生きていけます。
それは
この現実世界をも
変えていく力に
なっていくのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この日から
神の意識の
完全遺伝子を
潜在意識に
受け継いだ
神の跡取り息子
神の跡取り娘としての
自覚を持って
行動しましょう!
神の愛の
表現者として
肉体と生命を
与えて
いただいたのですから
生かしていただいて
ありがとうございます。
偶然に
この世に
生まれてきた方は
ひとりもいません。
すべて
神の意志により
神の愛の法則によって
生まれてきました。
すべてを
創られた
創造主である神は
万象万物を創造し、
すべての被造物の中に
存在しています。
宇宙には
創造主である神の
唯一の
宇宙生命しか
ありません。
それがエネルギーと
呼ばれている
ものでもあり
すべての
万象万物に
このエネルギーが
宿っているのです。
お釈迦さまは
色即是空(しきそくぜくう)
空即是色(くうそくぜしき)
色心(神)不二
(しきしんふじ)と
仰いました。
空なる生命と
色なる肉体(物質)とは
一秒たりとも
離れては
存在できない。
空(生命)即(すなわち)、
是(これ)色(肉体)であり、
色(物質)即(すなわち)
是(これ)空(神)であり、
色(物質)と心(神)は
不二である。
不二は
二つないのですから、
別々にあるのでは
ないのです。
一つしかない。
ということです。
私たちの生命は
宇宙に唯一の
宇宙生命の
分霊なのです。
生きとし
いけるものの生命は
万象万物には
すべて神の
完全遺伝子を
宿してないものは、
ないのですが
私たちは
そのことを
忘れているのです。
まだ多くの人間は
肉体こそが自分だと
肉体が生きていると
思い込んでおり、
肉体の中の
頭脳がすべてを
司っていると
考えているのです。
教育は全て
外から与えるものとし、
昔から
読み書き算盤を
勉強して
知識を得ることに
時間を費やしています。
これも必要では
あります。
ただ、
外部情報の習得を
専門として
表面意識しか
使わない教育を
しています。
人間が本来
持っているところの
偉大なる意識
潜在意識を
一切無視した、
教育です。
潜在意識の内側に
超意識、
神意識があり、
これが創造主の
宇宙意識
そのものであり、
私たち
すべての内部に
神の完全遺伝子という
記憶が
備わっています。
このことを
イエスさまは
この潜在意識に
在るところの
「神に
繋がらなければ
不毛である」と
仰られたのです。
知識とは
外からくるもの、
物質次元から
くるものですから、
永遠の知識
なるものはなく、
一定のものは
ありません。。
智慧とは
内からくるもの、
インスピレーションや
ひらめき
啓示です。
神の意識から
くるもので
普遍であり
永遠のものです。。
お釈迦さまは
「外を観るなかれ、
自らの内を観よ!」
と弟子たちに
よく仰っていました。
私たち
一人ひとりの意識は
創造主である神と
繋がっているのです。
その大いなる智慧は
内に潜在しています。
宇宙創成からの
神の智慧が
備わっています。
その智慧は
学ばなくても
魂が記憶している
真実の情報です。
表面意識は外から、
五感を通じて
学びますが、
潜在意識は
五感を離れて
頭脳を黙らせる
ことでしか
働かないのです。
お釈迦さまが
「内観せよ!」
ということも、
「瞑想する!」
ことも同じことです。
イエスさまも
「聖者は
沈黙を守る、
汝の密室にて祈れ!」
と言われました。
すべては
潜在意識なる
神なる意識に
繋がる
唯一の方法だからです。
沈黙とは五感である、
表面意識を
沈黙させる
という意味です。
密室とは
見えない世界に
意識を向けよ!
ということです。
私たちは
この物質世界にあって、
目に見えない愛や光
永遠や無限を
どれだけ発見し
どれだけ感じ取って
いけるのでしょうか。
その鍵は
真我(神我)意識に
繋がることが
不可欠なのです。
その方法が
瞑想なのです。
霊性を磨き
霊性を高めない限り
真実の見方は
出来ないのです。
家族や友人
あらゆる人たちや
様々な出来事に
対しての
ものの見方
考え方にしても
表面だけを見て
判断をするように
なっていきます。
その見方は
本質から離れた
歪んだ見方です。
影だけを見て
判断している
偽者の見方しか
できない人間に
なってきます。
愛や光は
目には見えません。
しかし、
誰も愛と光が
ないという人は
いません。
確かにあるものです。
あなたの見るものは
真実を映し出して
いますか?
表面的な
ものの見方に
真実なるものは
見えないのです。
あなたの見方、
受け止め方を
変えれば
まったく違う
世界の中で
生きていけます。
それは
この現実世界をも
変えていく力に
なっていくのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この日から
神の意識の
完全遺伝子を
潜在意識に
受け継いだ
神の跡取り息子
神の跡取り娘としての
自覚を持って
行動しましょう!
神の愛の
表現者として
肉体と生命を
与えて
いただいたのですから
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年10月18日火曜日
「命宣(いのり)とは?」
昨日は
私が
恒例としている
地元にある
氷川神社に
感謝奉納に行って
まいりました。
皆さんが
思い思いの願いを
絵馬に託し
書き記して吊るして
いる場所に
女房が
思いを込めて
折った千羽鶴を
皆さんの
願いが
叶えられますようにと
奉納して
まいりました。
3月11日以降は
千羽鶴を
宮城の被災者の
子どもたちに
鎮魂の目的で
送付してきましたので
今年に入ってからは
三度目の
千羽鶴奉納です。
私自身は
神前で
心厳かに
生かされていることの
感謝をさせて
いただいています。
身が引き締まる
瞬間です。
毎月1日、15日に
近い、土曜か日曜に
行っています。
昨日は、
土日に所用が
重なったため
昨日の早朝に
伺わせて
いただきました。
そうしましたら
神社の
入り口に
「東日本大震災
復興祈願」の
のぼり旗が
鳥居の左右に立てて
ありました。
私は朝起きて
一番先に
仏壇に向かって
先祖の
縁によって
連綿と続く
繋がりにおいて
肉体を
与えられ
今、生かされて
いることの奇跡に
感謝をさせて
いただいたのち
内在する神仏に
大生命を
与えられ
生かされて
いることに
感謝をさせて
いただいております。。
それから
東日本大震災が
起きた3.11の
翌日から
「東日本大震災において
被災された方々
並びに
復興に
全力を尽くして
おられる方々を
お救いください!」と
祈っております。
昨日は
この朝の祈りの
言葉を
心を込めて
「東日本大震災
復興祈願」
として
氷川神社の
神前で
祈らせて
いただきました。
本当に
早く復興され
力強く
立ち直って
いただきたいと
思います。
以前のブログにも
書きました
祈りとは
命宣(いのり)とも
書くが如く
生命を
宣言することです。
単純に
祈りで終わらずに
行動に繋げる
積極的なものです。
五感から離れて
こころを整え、
実相を全身全霊に感じ、
行動することに
繋げる力強い
行為です。。
私は仏前や
神前において
自分の
お願い事は
一切しないことに
しています。
苦しいときの
神頼みでは
駄目なのです。
また、欲得からの
お願い事は
言語道断です。
ただ
宇宙にある叡智
この宇宙を巧みに
設計するところの
無限の神に
生かされていることの
感謝を奉げると共に
私たちの
魂の奥底に
創造主である
神の叡智が
宿っています。
そこには
私たちが
“かく在りたい!”
という本源の
使命なるものが
あるのです。
使命といったら
重ければ
「何かを為す!」という
強い希望や
強いねがいが
潜在しています。
これは
誰一人も
例外なく
すべての人たちに
ある理念です。
この現実界において
成就すべきものが
厳然として
あります。
神の意識の世界に
私たちの内部に
あるところの
神の意識と
同一の源泉が
私たちが
この世で
果たさなければ
ならない
こととして
夢となり
願いとなって
現れてくるのです。
その願いは
生命からのものです。
命の宣言です。
祈りは
命宣(いのり)となり
自然(じねん)に
合掌し
神との統合を
果たしていく
秩序ある
儀式と言えます。
従って
単なる
お願い事の類の
祈りに関しては
否定的に
ならざるを
得ません。
神は
私たちの内部に
存在しているのです。
私たちの
真からの願いは
語らずとも
知っているのです。
私たちに
早く気づいて欲しいと
願っているのです。
私たちの
自我からの
個人的な願い事や
「私の仕事を成功させてくだい!」
「私の病気を治してください!」
「私をお金持ちにしてください!」
「私を幸せにしてください!」
等々の祈りについては
神を外部に置く
行為として
感心するものでは
ありません。
私たちの本質は
自らにその力を
有する存在なのです。
依存する心が
元々の
無限力を
弱めていくのです。
また、
このような
祈りは
「仕事がうまくいっていない!」
「病気である!」
「貧乏である!」
「不幸である!」
ことを宣言しているのです。
上記のことは
神の世界には
一切ないのです。
神の世界には
生老病死も
ありません。
不幸もないのです。
物資の欠乏や
希望の成就は
神の世界にないのです。
だから
波長が合わないのです。
神は
全知全能にして
無限の大霊です。
そこに
波長を合わせるのです。
命宣なのです。
それは神様からの
贈り物なのです。
既に成就している
という
確信を持って
手を差し出して
受け取ることです。
その開かれた中に
勇気を持って
突き進むことです。
「汝ら祈りて
何事にても求むるとき、
既にそれを
受けたりと信ぜよ!
すなわち、
汝はそれを得ん!」
信念を強く
持つことです。
自分の心の中に
乏しさを
描きながら
祈ったところで
乏しさの波動を
さらに引き寄せる
だけです。
「我これを
為さんと欲す!
神が為さしめ
給うのである!」
神は
全知全能です。
その
全知全能の力が
私たちに宿って、
それを
成就させるのである。
既にそれは
成就して
いるのである。
そう信じ、
行動するのです。
努力するのです。
努力をすることが、
魂が進化に
繋がっていくのです。
自分の内部の
奥の奥なる
鉱泉を掘り出す努力!
この努力を
引き出すために
鉱脈は
敢えて
深いところに
埋まっているのです。
「神は自ら
救くるものを救く」
とは
自らが努力を
するから
神も救けることが
できるのです。
努力して心を
鍛錬するのです。
強く思い描く
努力をしなければ
なりません。
求めるものは
必ずあるのです。
それを
既に受けたりと
するのです。
欲する事物を
心に強く描くのです。
「信念、
岩をも貫く!」のです。
一滴の雨水は
長い時間をかけて
岩に穴を開けるのです。
諦めないことです。
それが
魂の奥底からの
源泉であるならば
決して
途中で掘るのを
やめては
いけません。
あと少し掘れば
そこに
ダイヤモンドの
鉱石に
到達するのです。
種を蒔いたら
種の中には
もう既に
花の形が
出来ています。
蕾が出てきて、
それぞれの
個性に合わせた
色彩を持つ
形になって、
花が咲いて、
そして
果実が
実るというイデア!
既に種の中に
理念が
備わっているのです。
「汝、それを
受けたりと信ぜよ!」
既に傍に来ている
という強い信念を
持つのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
「与えよ!
さらば与えられん!」
あなたは
今まで
人々に
どれだけの
福を与えてきましたか?
福の種を
蒔いてきましたか?
その種の中に
無限なる
永遠なる鍵が
備わっていました。
でも
今日はスタートの日
今からでも
遅くはありません!
今日、出会う人々に
福の種を
善なる種を
蒔いていこうでは
ありませんか。
そのことこそが
一日一日の
命宣(いのり)の
生活なのです。
ありがとうございます。
私が
恒例としている
地元にある
氷川神社に
感謝奉納に行って
まいりました。
皆さんが
思い思いの願いを
絵馬に託し
書き記して吊るして
いる場所に
女房が
思いを込めて
折った千羽鶴を
皆さんの
願いが
叶えられますようにと
奉納して
まいりました。
3月11日以降は
千羽鶴を
宮城の被災者の
子どもたちに
鎮魂の目的で
送付してきましたので
今年に入ってからは
三度目の
千羽鶴奉納です。
私自身は
神前で
心厳かに
生かされていることの
感謝をさせて
いただいています。
身が引き締まる
瞬間です。
毎月1日、15日に
近い、土曜か日曜に
行っています。
昨日は、
土日に所用が
重なったため
昨日の早朝に
伺わせて
いただきました。
そうしましたら
神社の
入り口に
「東日本大震災
復興祈願」の
のぼり旗が
鳥居の左右に立てて
ありました。
私は朝起きて
一番先に
仏壇に向かって
先祖の
縁によって
連綿と続く
繋がりにおいて
肉体を
与えられ
今、生かされて
いることの奇跡に
感謝をさせて
いただいたのち
内在する神仏に
大生命を
与えられ
生かされて
いることに
感謝をさせて
いただいております。。
それから
東日本大震災が
起きた3.11の
翌日から
「東日本大震災において
被災された方々
並びに
復興に
全力を尽くして
おられる方々を
お救いください!」と
祈っております。
昨日は
この朝の祈りの
言葉を
心を込めて
「東日本大震災
復興祈願」
として
氷川神社の
神前で
祈らせて
いただきました。
本当に
早く復興され
力強く
立ち直って
いただきたいと
思います。
以前のブログにも
書きました
祈りとは
命宣(いのり)とも
書くが如く
生命を
宣言することです。
単純に
祈りで終わらずに
行動に繋げる
積極的なものです。
五感から離れて
こころを整え、
実相を全身全霊に感じ、
行動することに
繋げる力強い
行為です。。
私は仏前や
神前において
自分の
お願い事は
一切しないことに
しています。
苦しいときの
神頼みでは
駄目なのです。
また、欲得からの
お願い事は
言語道断です。
ただ
宇宙にある叡智
この宇宙を巧みに
設計するところの
無限の神に
生かされていることの
感謝を奉げると共に
私たちの
魂の奥底に
創造主である
神の叡智が
宿っています。
そこには
私たちが
“かく在りたい!”
という本源の
使命なるものが
あるのです。
使命といったら
重ければ
「何かを為す!」という
強い希望や
強いねがいが
潜在しています。
これは
誰一人も
例外なく
すべての人たちに
ある理念です。
この現実界において
成就すべきものが
厳然として
あります。
神の意識の世界に
私たちの内部に
あるところの
神の意識と
同一の源泉が
私たちが
この世で
果たさなければ
ならない
こととして
夢となり
願いとなって
現れてくるのです。
その願いは
生命からのものです。
命の宣言です。
祈りは
命宣(いのり)となり
自然(じねん)に
合掌し
神との統合を
果たしていく
秩序ある
儀式と言えます。
従って
単なる
お願い事の類の
祈りに関しては
否定的に
ならざるを
得ません。
神は
私たちの内部に
存在しているのです。
私たちの
真からの願いは
語らずとも
知っているのです。
私たちに
早く気づいて欲しいと
願っているのです。
私たちの
自我からの
個人的な願い事や
「私の仕事を成功させてくだい!」
「私の病気を治してください!」
「私をお金持ちにしてください!」
「私を幸せにしてください!」
等々の祈りについては
神を外部に置く
行為として
感心するものでは
ありません。
私たちの本質は
自らにその力を
有する存在なのです。
依存する心が
元々の
無限力を
弱めていくのです。
また、
このような
祈りは
「仕事がうまくいっていない!」
「病気である!」
「貧乏である!」
「不幸である!」
ことを宣言しているのです。
上記のことは
神の世界には
一切ないのです。
神の世界には
生老病死も
ありません。
不幸もないのです。
物資の欠乏や
希望の成就は
神の世界にないのです。
だから
波長が合わないのです。
神は
全知全能にして
無限の大霊です。
そこに
波長を合わせるのです。
命宣なのです。
それは神様からの
贈り物なのです。
既に成就している
という
確信を持って
手を差し出して
受け取ることです。
その開かれた中に
勇気を持って
突き進むことです。
「汝ら祈りて
何事にても求むるとき、
既にそれを
受けたりと信ぜよ!
すなわち、
汝はそれを得ん!」
信念を強く
持つことです。
自分の心の中に
乏しさを
描きながら
祈ったところで
乏しさの波動を
さらに引き寄せる
だけです。
「我これを
為さんと欲す!
神が為さしめ
給うのである!」
神は
全知全能です。
その
全知全能の力が
私たちに宿って、
それを
成就させるのである。
既にそれは
成就して
いるのである。
そう信じ、
行動するのです。
努力するのです。
努力をすることが、
魂が進化に
繋がっていくのです。
自分の内部の
奥の奥なる
鉱泉を掘り出す努力!
この努力を
引き出すために
鉱脈は
敢えて
深いところに
埋まっているのです。
「神は自ら
救くるものを救く」
とは
自らが努力を
するから
神も救けることが
できるのです。
努力して心を
鍛錬するのです。
強く思い描く
努力をしなければ
なりません。
求めるものは
必ずあるのです。
それを
既に受けたりと
するのです。
欲する事物を
心に強く描くのです。
「信念、
岩をも貫く!」のです。
一滴の雨水は
長い時間をかけて
岩に穴を開けるのです。
諦めないことです。
それが
魂の奥底からの
源泉であるならば
決して
途中で掘るのを
やめては
いけません。
あと少し掘れば
そこに
ダイヤモンドの
鉱石に
到達するのです。
種を蒔いたら
種の中には
もう既に
花の形が
出来ています。
蕾が出てきて、
それぞれの
個性に合わせた
色彩を持つ
形になって、
花が咲いて、
そして
果実が
実るというイデア!
既に種の中に
理念が
備わっているのです。
「汝、それを
受けたりと信ぜよ!」
既に傍に来ている
という強い信念を
持つのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
「与えよ!
さらば与えられん!」
あなたは
今まで
人々に
どれだけの
福を与えてきましたか?
福の種を
蒔いてきましたか?
その種の中に
無限なる
永遠なる鍵が
備わっていました。
でも
今日はスタートの日
今からでも
遅くはありません!
今日、出会う人々に
福の種を
善なる種を
蒔いていこうでは
ありませんか。
そのことこそが
一日一日の
命宣(いのり)の
生活なのです。
ありがとうございます。
登録:
投稿 (Atom)

