2011年12月18日日曜日

「正しい生き方を学ぶ」

本日も
呂新吾さんの
呻吟語』から
始めさせて頂きます。

安岡正篤先生訳著の
「呻吟語を読む」の中に
「四つの難」
事を行うものの心得を
抜粋いたします。

「自分が判断したことを
人に伝えることで、
4つ難しいものがあると、
呂新吾が
『呻吟語』の中で
整理しています。

(本文)
進言に四難有り。
人を審(つまびら)かにし、
己を審かにし、
事を審かにし、
時を審かにす。
一も不審有れば、
事必ず済(な)らず。

(解説) 
人は、多彩な知識が
あったとしても、
相手をよく見て
伝えなければならぬ
ことはいうまでも
ありません。

自分は
どういう人間で
あるかということを
知っておくことが
必要です。
耳学問で
己に似つかわしくない
放言をしてみたところで、
相手に通じるはずは
ありません。

第三に、
事を内容を
しっかり取られることは、
言うまでもありません。

最後に、
何事にも時、
時機というものがあって、
それを逸するとかえって
害をおよぼすことがある。

この四つのうち一つでも、
はっきりできなければ、
事はかならず成功しないと
訓示ともいえる
四つの難です。」

ほとんどの問題や
トラブルの元は
上記の四難によるもの
と言いましても
過言ではないと
思います。

どうして
あんなに社会的にも
認められた方が
あんなに
すばらしいことを
やっているにも
関わらず
上手くいっていない
のだろうということは
世間にたくさん
あります。

私も含めて
ほとんどの人が
体験しているのでは
ないかと思います。

それと、
私も大好きな
故事の中で
「四知」というものが
ありますが、
これは、
南朝宋時代の
『後漢書』の中の
「楊震伝」(ようしんでん)
にある
故事です。

“天知る、
神知る、
我知る、
子知る、
何ぞ知る無しと
謂わんや“
というものです。

「楊震伝」は
後漢、安帝時代の
名臣だった
楊震さんのことを
伝えた逸話です。

楊震さんが
東莱郡の
太守(長官)だった時
王密さんという
優秀な人間を
茂才として推挙しました。

茂才とは
官吏登用試験の
合格者のことです。
王密さんが優秀なので
官吏登用試験に
合格しては
いませんでしたが、
長官である
楊震さんは、
王密さんを
推挙したのです。

喜んだ王密さんは
夜中に
楊震さんの家を訪れ
賄賂として金十斤を
贈ろうとしたのです。
断る楊震さんに
王密さんはさらに
賄賂を進めるのです。
王密さんは
こう言いました。

“暮夜無知者”

“今は夜ですから、
誰も見ていませんから
知られることは
ありません“

それに対して
楊震さんは
こう言葉を返すのです。

“天知、神知、
我知、子知、何謂無知“

冒頭の故事

天知る、
神知る、
我知る、
子(あなた)知る、
何ぞ知る無しと
謂わんや

“(誰も知るまいと
思っても)
天や神が知っている
だけでなく、
私が知っており、
あなたも知っているでは
ありませんか“

この楊震さんの
断りの言葉に
王密さんは
自らを恥じて
帰ったという
故事です。

安岡先生は
この『後漢書』の中の
「楊震伝」を例に
あげながら
「呻吟語を読む」の中で
こう書いています。

「無知を欺く、
知る無きを欺く
というのは
まだどこかに
忌(い)み
憚(はばか)る心、
何ものかを
畏れつつしむという
良心的な
反応の心である。

この内心の
びくびくするという
忌憚の心が
誠と偽との
分かれる関門である。
ところが
知る有るを
畏れないというのは、
これはもう
忌憚の心もない。

人間にとって
最も大事なものは
敬恥の心でありまして、
その敬恥の心が
悪い方に働くと
忌憚の心になる。
従って忌憚の心を
失ってしまったら、
これはもう
「此れ死生の関」
でありまして、
正に死の道である。
まだ人に知られては
困るという間は
良心が死に切って
おらぬからである。」

楊震さんの態度は
天地・神に恥ない
「正々堂々」とした
立派な態度であります。

この四知の故事は
自宅の私の机の
目のつくところに
書いて貼ってあり、

常に言い聞かせる
言葉として
繰り返し
読ませて
いただいています。

そして、
安岡先生は
「呻吟語を読む」の中で

「天徳は只是れの無我、
王道は只是れ箇の愛人」

意味は、
無我こそ至上の徳。
王道も、人間に徹して
人間を愛することより
外にない。
と結ぶのです。

いわゆる
『呻吟語』全般に
流れているエキスは
人間としての
正しい生き方
人格を高めることの
重要性を
知らせようとした
呂新吾さんからの
メッセージなのです。

再度、守屋洋さんの
訳著の『呻吟語』の
第2章“教養”の中に
こう書かれています。

「広く学問を窮める。
すばらしい技術を
身につける。
これはこれで
一つの長所だと言ってよい。
だが、
人格の形成に
終わりがないのと比べれば、
これらのことは
ある段階にまで達すると、
それで終わってしまう。

重要なのは、
立派な人格の形成、
これである。

一人前の
社会人となるためには、
能力と人格の
両面にわたって
自分を鍛える必要がある。
呂新吾に言わせれば、
能力を身につけるのは
まだやさしい。
むずかしいのは
人格を磨くことだという。
現代の日本では、
人格形成の面が
おろそかにされている
嫌いがないでもない。」

さらに
第2章“修養について”
の中にこう
書かれています。

「鋭い切れ味は、
十分に磨いて
おかなければならない。

ただし、
切れ味は内に秘めて、
おっとりと構えている
必要がある。

昔から、
禍いをこうむるのは、
十人のうち九人が
切れる人物であった。
おっとりした人物で
禍をこうむったものは
一人もいないのである。

ところが近ごろの人間は、
ひたすら
切れ味の鈍さだけを
心配している。
これは愚か以外の
なにものでもない。

人間には、四つのタイプが
あるのだという。

「かしこかしこ」
賢いことを表に出し続ける

「かしこあほう」
賢くみせて実は中身が無い

「あほうかしこ」
無知・無関心を装い、
実は賢い人間

「あほうあほう」
全くの無知、無関心

言うまでもなく、
理想は
「あほうかしこ」である。
ここで呂新吾が
語っているのも、
これに近いかもしれない。 」

呂新吾さんが
『呻吟語』に
込めた思いは
何でありましょう?

単なる処世術として
著したものでは
ありません。

諸行無常の移ろい行く
この世の中にあって
勿論、その場その場を
対処していくこと
「才覚」を発揮する
ことも重要では
あります。

しかし、
そういう現象界で
あるから
変わらないものが
大切であるのです。

人間として
いかに正しい
生き方をしていくのか?
これは大変難しい
課題でもあります。

「このスピード時代の
世の中で
そんなことを
言っていたら
取り残されて
しまうよ!」という
声が聞こえてきそうです。

しかし
こんな時代だからこそ
忘れてはならないのです。

多くの売上をあげ
多くの利益を出す。
これは
素晴らしいことです。
それによって
多くの税金が払われ
社会は成り立っています。

でも、利潤のためには
何をやってもいい
とはならないのです。
それが一義ではないのです。

多くの経営者は
人格的にも
すばらしい方が
大半ではあります。

しかし、
才に溺れる
経営者も
後を絶たないのも
現実です。

私たちが
肉体を維持して
いくために
毎日、ご飯を食べて
栄養を与えているように

私たちの心にも
継続的に栄養を
与えていかねば
なりません。
正しい生き方を
示してくれる
この『呻吟語』のような
時代を超えた
先達たちの教えは
こちらがその気になれば
いつでも引き出す
ことができます。

リーダーだけでなく
人間としての
正しい生き方は
毎日、少しでもいいから
繰り返し
学んでいかなければ
筋肉にならないのです。
一日でも怠れば
直ぐに筋肉は落ちます。

継続こそ力なりです。
継続することによって
「人格」が形成されて
いくのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日、この大切な
あなたの貴重な瞬間に
あなたを高める瞬間に
していきましょう。

あなたが
知っている
正しい生き方を
示してくれる書物や
あらゆる媒体に
少しでも接してください。

そして
今日一日を
為し無事に終えることが
できたなら、
生かされていることに
感謝をし、
自らの行いを
振り返ってください。

そして、
人間としての
正しい生き方に
反した行ないを
為さなかったかどうかを
点検するのです。
為していたなら、
反省をすることです。

今日の因を知り
正すことにより
人格と言うのは
高められていくのです。

生かしていただいて
ありがとうございます。

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