今日のブログも
引き続き
呂新吾(りょしんご)さんの
『呻吟語』(しんぎんご)
から進めていきます。
呂新吾(りょしんご)さんは、
1536年から
1618年の人で
その当時、中国は
明の末の時代でした。
呂新吾さんは
陪臣(ばいしん)といって
現在の
高級官僚だった方で
地方長官を
歴任していました。
その時代は
あちこちで
政争があり
国は混乱していました。
呂さんは
官僚として
政治改革をしなければ
ならないと思っていて、
改革案なるものを
作っていました。
しかし、
呂さん自身も
その政争の中に
巻き込まれて
陪臣から退くことに
なるのです。
その時の呂さん自身の
体験を通して
人間観や処世訓として
書かれたのが
『呻吟語』であります。
呻吟という意味は
嘆きうめくこと
ですので、
呂さん自身の魂から
絞り出すように
書きとめた言葉
だったと
思われます。
自らも地方の長官として
人材の任命や登用、
或いは移動等も
したでありましょう。
そういう体験の中で
多くの
才智と機知があり、
弁が立つ者
いわゆる
聡明才弁の者を
重用する弊害を
身に染みて
経験したのだと
思います。
呂新吾さんの
『呻吟語』を
守屋洋さんが編・訳を
された本が
徳間書店から出版
されています。
とても解りやすく
解説していますので、
是非、お読みに
なってください。
その守屋洋さんの本の
はしがきに
こう書かれています。
引用させていただきます。
「『呻吟語』という書名は、
「病気に苦しみながら
発する沈痛なうめき声」
なのだという。
呂新吾の生きた時代は、
現代と同じように
混迷の時代であった。
かれもまた、
われわれと同じように、
一人の社会人として、
また組織の責任者として、
悩んだり
苦しんだりすることが
多かったにちがいない。
だが、かれはそういう
悩みや苦しみに反省を
加えることによって、
かれなりの確信に
達していったらしい。
それを折にふれて
記録にとどめたのが、
のちに『呻吟語』として
まとめられたのだという。
『呻吟語』もまた、
人間とはどうあるべきか、
人生を
どう生きるべきかなど、
われわれにとって
切実な問題を
さまざまな角度から
解き明かしている。
これを読めば、
必ずやわれわれの
当面する問題について
多くの示唆を
汲みとることが
できるであろう。」
とあります。
他に、『呻吟語』は
安岡正篤先生訳著の
『呻吟語を読む』も
致知出版社から
出版されています。
安岡先生の本も、
大変わかりやすく、
『呻吟語』を
学べる本です。
こちらも、
是非、お読みに
なってください。
その両方の本から
私のメモを見ながら
紹介していきます。
「過ちを指摘されたら喜べ」
というのがあります。
そこには、こう
書かれています。
守屋さんの訳です。
「自分の過ちを
指摘してくれるのは、
必ずしも過ちのない人
だとは限らない。
過ちのない人に
過ちを指摘してほしいと
願っていたのでは、
一生かかっても
自分の過ちを耳にする
機会はないであろう。
相手がたとえ
どんな人であれ、
過ちを指摘して
もらえるのは、
ありがたいことだと
思わなければならない。
相手に過ちがあろうと
なかろうと、
そんなことを
気にしている
暇はないのである。」
とあります。
この言葉は
私自身
大変身に染みた
言葉でした。
特に、若い頃の私は
ひとつ過ちを
指摘されれば、
相手の過ちを
みつけては何倍にも
言い返し、
逆上していました。
そんな状況ですから
誰も私に指摘して
くれる方がいなくなって
しまいました。
敢えて言えば女房ぐらい
それでさえ、言い返して
いましたね(笑)
今、思えば
大変勿体無いことを
してしまったと
反省しています。
女房を含めて
私に指摘をしてくれた
方々に対しまして
この場を借りて
お詫びしたいと
思います。
「ごめんなさい。
許してください。
愛しています。
ありがとうございます。」
年をとると
自然に過ちを
指摘してくれる方は
こちらから望んでも
いなくなります。
若い方は
是非、自分の過ちを
指摘してくださる。
家族や友人や先輩を
大切にして下さいね。
さらに
「相手の人物いかんは
問わない」というのが
あります。
そこには
こうあります。
これも守屋さんの本を
引用したメモから
抜粋させて
いただきます。
「発言を聞き
行動を観察する、
これは
相手の人物を
判断する
ポイントである。
発言には
耳を傾けるが
人物のいかんは
問わない。
これは
自分を向上させる
ポイントである。
ところが、
近ごろの人間は
すばらしい
教えを聞いても、
「話すことは立派だが、
おやりになって
いることが
それに伴わない。
あいつの
話すことなど
聞いても仕方がない」
と言って、
受け付けようとしない。
こういう人間は
思いちがいをしている。
そもそも相手の発言に
耳を傾けるのは、
自分にとって
プラスに
なるからである。
自分にプラスに
なるならば、
相手の人物が
どうあろうと、
いっこうに
構わないではないか。」
その通りであります。
私たちは
どんな人間からも
いや、人間だけではなく
生きとしいけるもの
すべてから学べます。
そう考えると
どんな時も無駄では
なくなります。
すべては自分の進化の
ためにあるのです。
又、リーダーが
人を使うときの
重要な心がけとして
「相手の能力を引き出す」
という箇所があります。
「駱駝(らくだ)は
百鈞もの重さを
背負うことができるが、
蟻はわずか
一粒のものしか
背負うことができない。
それで駱駝も蟻も
全力をつくして
いるのである。
象は数石もの
水を飲みほすが、
鼠はわずか
一勺の水しか
飲むことができない。
それで象も鼠も
腹一杯に
飲んでいるのである。
君子が人を使う場合、
必ずしも同じような
実績を期待しない。
相手がそれぞれの長所を
発揮できるように
しむけるのである。」
人にはそれぞれに
すばらしい特性が
備わっています。
その特性をきちんと
見て、適材適所に
配置するのが
リーダーとして
とても必要なことです。
そして、
小さなことから
大きなことまで
争いの種は尽きません。
例えば
国と国の戦争という
大きなもので
あろうとも
はじめは
小さなことが原因で
その小さなうちに
種を摘み取る
努力を怠った結果
大きくなっていくのです。
『呻吟語』の中には
こういうのも
書かれています。
「譲れば争いは起こらない」
という箇所です。
これも
守屋さんの訳です。
引用します。
「二つの物が
ぶつかれば、
必ず音をたてる。
二人の人間が
交われば、
必ず争いが起こる。
音をたてるのは、
両方とも
固いからである。
両方とも
柔らかいなら、
音はたたない。
一方が固くても
一方が柔らかいなら、
やはり音はたたない。
争いが起こるのは、
双方とも
欲の皮が突っぱって
いるからである。
双方とも譲るなら、
争いは起こらない。
一方が欲深でも、
一方が譲るなら、
これまた
争いは起こらない。
それよりも
さらに望ましいのは、
柔らかいほうが
固いほうを軟化させ、
譲ったほうが
欲深い相手を
感化させることだ。」
そして欲について
天の欲と人の欲の
違いを下記のように
書かれています。
「有天欲 有人欲
吟風弄月 傍花随柳
此天欲也 声色貸利
此人欲也 天欲不可無
無則禅
人欲不可有 有則穢
天欲則好底人欲
人欲即不好底天欲」
「欲には天のものと
人のものがある。
風と歌い、
月と遊び、
花を傍らに、
柳に随う、
これは天の欲である。
名声、色、利子を
貪るのは、
人の欲である。
天の欲は
持つべきであり、
持たないならば、
禅となってしまう。
一方、人の欲は、
持つべきでない。
持てば、穢れる。
天の欲は、
人が
持つべきものであり、
人の欲は、
天の欲ではない。」
呂新吾さんが
一等の資質という
「深沈厚重」な人と
言うのは
まさしく
人の欲とは無縁な
自我我欲のない
実相を感得していた
人であったのでしょう。
今日も
『呻吟語』に
ついて
書かせて
いただきましたが
これから所用が
ありますので
安岡先生の
『呻吟語を読む』等の
メモも紹介したいので
明日以降も
引き続き
『呻吟語』の中からの
学びを共有させて
頂きたいと思います。
生かして頂いて
ありがとうございます。
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