2011年11月13日日曜日

“自我”から“真我”へ

私のブログの
タイトルは
「今日は残りの
人生の最初の日」
というタイトルを
つけました。

それは、
私たちには
今日という括り
正確に言えば
今、ここ
この瞬間しか
確かな時は
ないからです。

今日は最初の日であり、
最後の日かも
知れません。

私は、今この瞬間に
このブログを
書いています。

この瞬間に
自分の意識を
全集中させて

このブログが
一人でも
多くの人の
目に止まり
何かを感じて
もらえば
うれしいなあという
気持ちで
パソコンに
向かっています。

今、この瞬間で
なけらば
伝えられないのです。
昨日は終わり
明日は永遠に
来ないからです。

私たちには
今日、今ここの
この瞬間しか
時間は与えられて
いないのです。

多くの人が
これから先も
今までのように
永遠に生き続けられる
ような感覚で
一日一日を
送っています。

私がいつも
このブログで
書いていますように

私たちの
実相である魂は
永遠の生命を
持つものであります。

しかし、
肉体を持ちながら
いつまで
今のこの人生を
体験できるのかは
知っているものは
いないのです。

このブログを
書いている最中に
終わるかも
知れませんし

明日なのか
何年先なのか
誰も知らないのです。
期限付きの人生を
体験しているのです。

今、若い人たちは
確率的には
まだ、何十年も
あるかも知れませんが

今回の大震災でも
感じたと思いますが
多くの方が
一瞬に自分の人生を
強制的に遮断
されました。

天災は時と場所を
選ぶ訳では
ありません。

私の体験でも
私の一番最初の孫は
一年にも満たずに
突然死で
この世を後にしました。

孫はこの世に
何を体験しに
来たのでしょう?
孫の母親(私の娘)や
父親や私や女房を
含めて
その関係性において
それぞれに
その後の人生に
影響を及ぼしたことは
まぎれもない事実です。

そう考えますと
今日は残りの人生の
最初の日です。
今日だけは
今の瞬間だけは
確かに
この肉体を持って
貴重な体験を
味わっています。

もっと
このタイトルに
秘められた
今日という
重要性
今この瞬間という
時を大切に
生きなければならないと
感じます。

そのためには
このブログでも
よく取り上げています
“自我”と“真我”
について
考察を深め
一日でも早く
自我なる自分から
真我なる自分への
覚醒が望まれるのです。

“自我”とは
“偽我”ともいい
偽者の自分です。

限定つきの
期限の中で
肉体を持ち
あらゆる体験を
していく中で
肉体から
生み出されるところの
五感のみの体験に
囚われていく
我のことです。

この“自我”は
五感と言う
自分の感覚器官を
喜ばせるものと
そうでないものの
分離を促します。

あらゆる判断が
その我にある
ものですから
人も出来事も
我を中心に物事を
考えることになります。

そうなると
どう反応するかというと
“自我”である
我を基準として
考えますので、

自分以外の
他の出来事や他人の
問題点ばかりが
気になるように
なっていきます。

つまり“自我”は
粗探しの
名人の我です。

“自我”は
我のみ良しの心です。
その“自我”の我が、
不快に思うのは

他人のこんなことが
問題だからなのだ!
女房が亭主が
上司が部下が
政治家が国家が
システムが等々
自分以外のところに
犯人を捜し、
問題の原因を
探します。

“自我”は
自分の問題点は
気にならないのです。

今までの
社会は
家庭においても
職場においても
国家間においても
“自我”が幅を
利かせていた
時代であったと
言えるのでは
ないでしょうか?

競争社会において
声を大きくして
主張することが
いいとされてきました。

権力を持つものは
その自らの力を
行使し支配を
し続けてきました。

お金もそうです。
持っているものと
持っていないもの

武力もそうです。
核を持つ国は
持たない国を
脅かしその力で
もって
リーダーシップを
持ち続けてきました。

歪んだ力の行使です。

その結果は
どうでしたか?
この地球上に
考えられないような
アンバランスを
創造したのです。

地球上の
数パーセントの人が
地球上の富の
90パーセント以上を
占有しています。

一方では
もう一ヶ月以上も
不衛生な水と
わずかなパンの
一切れで
命を繋いでいます。

結局は
多くの富を
占有したとて
それを
失いたくないために
もっともっとと
求めていきます。

一日も安心した
平和な心には
なれないのです。

“自我”の心が
大きければ
大きいほど
すべてが苦しく
感じるように
なるのです。
誰も真の満足は
得られないのです。

これからは
今までのように
“自我”のまま
生きることは
できない時代に
入ってきます。

世界の70億人の
人たちや
すべての動植物や
万有万物が
共生する時代が
必然的に
やってきます。

このままでは
地球規模で
崩壊して
しまうのです。

“自我”のまま
我良しとし
これ以上
進めていくことは
できないのです。

今日からは
自分を
省みる視点
すなわち
今、起こっている
出来事のすべては

自らの内に
問題の原因が
あるのだという
視点です。
まず、内省しなければ
なりません。

“自我”による
思いが
すべての問題を
引き起こしている
張本人なのです。

その“自我”なる
思いを見つめ

その原因たる我を
真なる我に
聖なる我に
置き換えて
いかなければ
ならないのです。

この世の変化は
私たちの
心が改善され
変化しなければ
起こらないのです。

自らの内に
思いやりと慈しみの
愛の種を蒔かずに
すばらしい世の中が
訪れることは
ありません。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちは
今、この瞬間の
今、いるところで
“真我”を自覚
するのです。

まだ、
私の周囲にも
自分の今までの
人生を否定する
人たちが多く
見受けられます。

しかし、それは
過去の自分が
発してきた
思いと行動の
結果なのです。

他の誰かが
その否定する人生を
創ったわけでは
ありません。

過去は既に亡霊です。
そんなことを
いつまでも
引きずらないで
ください!

今日の自分が
明日を創るのです。
今、この瞬間に
思いを変えることが
できれば、
明日は
やってくるのです。

私たちは
この世に
生かされている
存在なのです。

実は
生かされて
いるだけで
ありがたいのです。

この世の
稀有な貴重な瞬間を
確かに体験させて
頂いているのです。

その体験の目的は
誰にでも備わって
いるところの
“真我”を発見する
ためだけに
あるのです。

私たちには
特別に
創造力
(想像力)という
神の性質の
偉大なる力を
与えられて
生かされました。

これが
人間をして
万物の霊長と
呼ぶ
ひとつの所以で
ありました。

しかし、
人間はこれを
履き違え

肉体に捕らえられ
“自我”なる
偽者の我の中で

独りよがりの又、
分離と闘争や
侵略や
奪取といった
不幸の想像力
(創造力)を
行使し、

核兵器や爆弾等も
創造してきました。

それは
諸刃の刃であり
開発した
身をも滅ぼす
自らにも害が及ぶ
創造であったのです。

真実は
“真我”の心で
創造力(想像力)を
大いに発揮して
愛の想像(創造)を
するために
神は人間に
創造(想像)の
自由を与えたのです。

この創造力
(想像力)は
無限大の力です。

永遠に
創造し続けます。

みんなが共生し
平和と安心を
創造する力です。

これからは
“真我”という
真なる我
神なる我が
この世に
地上ユートピアを
実現する原動力に
なるのです。

私たちが
その礎となるのです。
頑張ってまいりましょう。

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年11月11日金曜日

「もう一人の自分」



昨日のブログ
続きのような内容に
なりますが、

この世の混乱や
苦難・困難の意味は

あらゆる体験を通じて
私たちの魂を
鍛錬して成長
させるための
神からの貴重な
プレゼントなのです。



私たちの
本来の魂は
根源なる神に
繋がるところの
真我(神我、仏我、良心)
であるのです。
永遠不滅で
不変な心なのです。

その不変なるものを
中心に宿し
肉体を持ち
10%の顕在意識を
表面に現わしながら
この世を経験して
いるのです。

その現れている
ところの表面なる
意識が
肉体こそ自分と
思い込み
真我意識をさらに
奥へ奥へと
追いやっていきます。
それが自我意識です。
私たちの
ネガティブな面の
意識です。

偽我意識とも言います。
偽者の自分です。
我のみ良しと
思う意識です。

我のみ良し
なのですから
我より優れるものに
嫉妬し
怒り、謗り
怨んだりします。

我より劣るものを
軽蔑し
罵り、のけ者にします。
私たちの
嫌な面の個性です。

私たちは
あらゆる輪廻の中で
この自我意識に
嵌って
いろいろな罪や闇を
創ってきました。
それを業(カルマ)と
いいます。

その業(カルマ)が
あるからこそ
何回もこの世に
降りてくるのです。

それを業(カルマ)の
刈り取りと言います。

自分が他に与えた
気持ちは
自分自身が
味わって見なければ
わからないでしょう!

それが
苦しみや悲しみ
混乱の意味なのです。

この世に
肉体を持つ前に
指導する立場の
霊と共に
今回の人生計画を
考えるときに

今回こそ
「自我をなくす!」と
決めてくるのです。
そして、
この世に
生まれてくるのです。

なぜならば
自我を持ったまま、
霊の世界に
帰った場合、
その自我の個性に
沿った世界に
行くことになります。

これを宗教や宗派に
よっては地獄と
呼ぶところもあります。

しかし、
事実は
神や指導霊や
閻魔さんが
強制的に行かす
訳ではありません。

霊の世界に帰って
自らの今生の目的と
実際の人生が
まるで映画でも
見るように
映し出されるのです。

一人の例外もなく
明らかになるのです。
自ずから
波長同通の法則が
働くのです。

強い自我意識で
他を一切無視し
傍若無人の行為を
してきた人たちの
行く先は
地獄そのものの世界と
思うかも知れませんが

自分と同類の
自我意識を
持った者同士が
自然発生的に
集合するのです。

霊の世界は
ある意味
例外なく公平無比の
世界なのです。

毎日、毎日
嫌な自分の個性を
相手に見るのです。
似たもの同士が
集まるのですから
いかに強い自我を
持っていても
いずれは
自ずと反省する
ようになります。

このような
システムで
次回、
生まれ変わった場合は
「絶対に
自我をなくす!」と
強く心に
決めるのです。

霊の世界では
波長の違う魂は
一緒にいることは
できない世界です。

この世だけが
すべての次元の
魂が混在する
ことのできる
極めて貴重な
玉石混交の
世界なのです。

それも時間が
限定されています。
肉体の死を持って
時間切れになるのです。

ある意味では
どんな苦難や困難で
あっても
ずっと続くことは
ありません。

有限なのです。
今しか、しかも
この世界でしか
体験できないのです。

それも
自分自身で
望んだ体験です。

その苦難や困難な
体験は
自らの偽者の我を
あぶりだし

本来の我である
真我(神我)に戻る
ためにあるのです。

苦しい中で
あぶりだされた
その自我こそ
今回の生で克服
しなければならない
テーマであるのです。

この世でいう
善や悪というものは
絶対のものでは
ありません。

それは、自我で見た
善や悪だからです。
見方においては
善にも悪にも
なるのです。

どんな悪人に見える
人であっても
自我という意識を
捨てたときには

そこに現れるのは
絶対的な善が
あるのみなのです。

完全なる神性が
あるのです。

永遠に不変なる
存在なのです。

だから
今、悩み、苦しみ、
悲しみの渦中に
いる人には
頑張って
欲しいのです。

どんなに
大きな困難だと
思えるような
出来事が
襲ってきても

耐えられない
ものなど何も
ありません。

この世の
どんな混乱も
あなたの心を
傷つけることなど
できないのです。

あなたの本来の心は
永遠不滅の
真我なのです。

無限なる心を
傷つけることは
不可能なのです。

傷ついているのは
自我意識だからに
過ぎないのです。

ですから
今、目の前に
起こっていることを
静観して眺めて
見てください。

その状態が
何をあなたに
語ろうとしているのか?

そこから
あなたは
何を汲み取らなければ
ならないのか?を

もう一人の
本来の
自分の視点で
冷静に
見つめることです。

『今日は残りの人生の最初の日』

このもう一人の
本来の自分こそ
真我なのです。
真我は愛そのものです。
愛の視点で
今の状態を
見つめるのです。

その視点
真我なる、愛なる視点を
通すことによって
天界の扉は
開いてくれるのです。

生かして頂いて
ありがとうございます。

2011年11月10日木曜日

「自分を知る道」

この世に
トラブルや
あらゆる混乱の種は
尽きることのない
ように
次から次へと
現れてくるように
見えます。

いろんな人間関係の
中で起こっている
家庭間の問題
嫁、姑の世代間
ギャップによる
トラブルや
夫婦間の価値観の
相違による軋轢や
親子の絆の希薄
による虐待問題や
学校でのいじめ問題
職場での
上司との折り合いや
政治的な思想間闘争や
様々なシステムへの
不満から来る
デモやストライキ
等々

日常的なトラブルから
国家間の戦争に
到るまで
様々な混乱や
混沌は
後を絶ちません。

そして
世界は
大震災や津波
原発事故
水害や旱魃と
自然災害も
今までより以上に
規模も数も
増加しているように
見えます。

なぜ?
神も仏もあると
いうのでしたら
このような
闇の世界を
そのままにして
おくのでしょう?

神も仏も
あるものか?と
思う方も
いるかも知れません!

しかしながら
ここで
本当の事実を
告げなければ
なりません。

事実は
今、起こっている
混乱と
思われるものは

すべてが、
神の計画の中の
青写真にあること
であるのです。

これはすべて
神のお考えなのです。

あらゆる混乱や闇と
思えるものは
私たちの魂の
成長のために
用意させられた
仕掛けであるのです。

私たちに
様々な経験を
させるために
現れているのです。

私たちの
目の前に起こる
人や出来事は
私たちの魂の
進化に必要
不可欠なのです。

この混沌は
私たちの
試練として
立ちはだかっている
というのが
事実なのです。

苦難や困難の
感覚を味わって
苦難・困難の
意味を探り
そして克服して
力量をあげて
いくのです。

ブレが大きければ
大きいほど
それを克服した時に
より魂の成長も
大きいのです。

このことは
私たちに対する
神の深遠なる
愛であるのです。

私たちの
創り主である神は
私たちに
10%の自己意識を
顕在させて
残りの90%を
潜在意識下
(神意識)に潜め
その場所を
住居としました。
共に体験をするため
見届けるためです。

私たちは
原始にも生まれ
裸で暮らし
土地を開墾したり
或いは
狩猟をしたり
火を使う技術を
覚えたり
何千万年という間に
いろいろな人種を
体験し、
国籍や性別
或いは職業や
貧富の経験や
あらゆる戦い、
宗教の違い等々
ありとあらゆる
体験を続けている
存在です。

ある時は貧乏を
体験して
貧乏の感覚を味わい
貧乏の原因や
貧乏からの脱却という
体験を積みます。
或いは
克服できないまま
極貧の一生を
経験したりします。

ある時は逆の体験
大金持ちでの
感覚を通じて
どのように考え
人と関わったのか
どんなお金の使い方を
したのか
その結果どんなことを
学ぶのかを
体験していきます。

大病の経験も
そうです。
何が原因して
病気になったのか?
その意味するところを
徹底的に学ぶのです。

当事者としての場合と
或いは、
その当事者の
介護や看護を
するものとしての
体験も積むのです。

ある時は
王様で
ある時は奴隷で
また、それぞれが
立場を変わって
体験をしたり
それぞれの
立場での感覚を
味わいます。

戦争で
殺す側に立ったり
殺される側にも
立ったり
するのです。

敵同士で
ありながら
助け合う
体験もあるし
味方であるのに
共に憎しみ合う
体験もします。

人の犠牲になる
経験
人を貶める経験

あらゆる
天災や事故に遭い
不慮の死を遂げたり
大切な人を
喪って
悲嘆に暮れる日々を
送ったりもします。

事故の加害者になって
苦しむ経験も
あったかも知れません。

一生、伴侶と縁が無く
独身で過ごす体験や
プレーボーイ
プレーガールで
奔放なまま生きて
相手を苦しめる体験

また、逆の経験も
味わうのです。
どれだけ相手が
苦しかったかを
知るのです。

それも
私たちに取って
どんな体験が
魂が成長・進化を
し続けていくのか
すべては
精妙な計画なのです。

この地上にある
すべてのものは
神の御心なくして
現れるものなど
ひとつもないのが
真実なのです。

すべては
魂を成長させ
進化させるための
体験なのです。
これは
神の偉大な
愛の法則なのです。

肉体的には
悲惨な形での
死を経験したことも
数多く体験して
きました。

しかし、
私たちの魂には
神と同様に
永遠の生命が
与えられています。

不死不滅なのです。
永遠で無限な
存在として
創造されて
いるのです。

そして
神は
この肉体に
宿っている間も
私たちと
一秒たりとも
離れたことは
ありません。

ある時は
共に涙し
ある時は
私たちを励まし
ある時は共に喜んで
くれているのです。
あなたはそれを
感じている筈です。

あなたの魂を
鍛えんがために
あなたが
気がつくまで
いつまででも
待ってくれる存在
感じたことは
ないでしょうか?

あなたが
大変な苦難、困難に
出合って悩みの
渦中にある時
共に在ってくれて
励まし共に
涙する存在
感じたことが
あるでしょう!

その試練の中でも、
なるべく大きな事故は
起こさないように、
常に見守り

重要な局面に
おいては
直観という
インスピレーションを
与え続けているのです。

しかし、
私たちは
この世に
はまり込んでしまい
90%の神意識を
忘れてしまいます。

10%の自我意識が
あまりにも強く
なり過ぎて
聞く耳を
持たないように
なってくるのです。

してはいけないことを
やろうとした時に
胸に圧迫感を
覚えて嫌な気持ちに
なったことが
あるでしょう!

それが
あなたの中で
常に見守っている
神のサインなのですよ!

その行動を
止めようとして
いるのです。
その度に
あなたが感じるように
サインを出し続けて
いるのです。

あなたは
気のせいだとして
自我のまま
それを無視しているに
過ぎないのです。

或いは
感じていても
打ち消して
しまうのです。
自我という
偽者の自分の
言い訳が
もたげてしまう
からです。

嘘をついても
神は
すべてを
知っているのです。

あなたの行動の
善悪も
あなたの真実も
神はお見通しなのです。
どんな小さなことでも
知っています。

あなたが
人に善を施したならば
胸元から
押えきれない喜びが
湧いてくるでしょう。
これが
神の祝福なのです。
「よく、やった!」と
褒めてくれて
いるのです。

悪いことを
してしまった時、
嘆きの心で
「あーしまった!」と
サインを
送っているのです。

あなたに
気づかせるために
胸が圧迫する
感覚です。

それで
心が苦しくなるのです。

あなたの
真なる心
真我(神我)が
あなたに
気づかせるのです。

このように
私たちの
日常の生活の中でも
一時も休むことなく
神が働いて
くれているのです。

大いなる
神の愛が
溢れてやむことは
ないのです。

これが、
真我という私、
愛の御心(みこころ)、
神の御心(みこころ)
なのです。

本来の私、
真我からの私は
愛しかないのです。
すべては
愛のみが
存在するのです。

「私を見たものは、
神を見たものである。
なにものも
神を見たことは
ないけれども、
私を知ったものは、
神を知ったものである。」

この聖書の言葉の
私と言うのは
真我(神我)の
ことです。

真我の私を
見るもの
即ち、見つけたものは、
神を発見できた
ものなのです。

真我(神我)
到達でしか
真理は
わからないのです!

真理は私たちの
内部に在るものです。

真理は外を
いくら探しても
見つからないのです。
あなたの内側にのみ
発見できるのです。

真の我を
知ったものは、
はじめて真理を
語ることが
できるのです。

それは
愛を発見したからです。
この愛は、
お父さんやお母さん
兄弟や子どもたちの
家庭愛から始まり
隣人への愛、
そして国民への愛、
全世界の人類への愛、
果ては、
別の惑星にまで
愛が波及して
いくのです。

私が真の私を
知ったから、
この真の我は
神のご意志であり、
神の御(み)言葉で
あるからです。

何が本物か?
何が偽者か?は
私を見たもの、
私を知ったものしか
わからないのです。

いわゆる
真我からでなければ、
わかり得ないのです。

この世の無知や
苦難、困難を
克服したとき、
魂が進化し、
真我となるのです。

自分自身を知ったとき
光があたるのです。
神を知るのです。
愛を知るのです。

いかに
私たちの経験の
価値が大きいことが
理解できたのでは
ないでしょうか!

真我になったときが、
世の光になるのです。

あの世に地獄が
あるのでは
なかったのです、
この世に地獄は
存在します。

正確には
自分こそ我なり
肉体こそ我なりと思い
神から離れた時
真っ暗闇になるのです。

何故かというと
神は光だからです
光が射さないのです。
闇なのです。
その闇に留まることが
地獄なのです。

地獄も体験しなければ
私たちの
本当の故郷を
見出すことは
できないのです。
味わってみなければ
解らないのです。

地獄とは
自分が光を遮っている
部分にしか
過ぎないことを
経験するのです。

そして地獄を
克服するのです。
この地上界における
実体を知り、
真の我を知り、
初めて
神は愛深き方だと
わかるのです。

今から現れてくる
如何なる困難も
あなたの前から
姿を消します。
それは真我を
知ったからです。

この困難や苦難と
思えしものは
あなたに
克服されるために
現れているのです。

光は闇を消すのです。
闇と光の戦いなのです。
あなたの心の中で
戦っているのです。

いかなる悪も
愛という武器には
適わないのです。

最後は
愛が勝つのです。
愛は
神の力なのです。
愛は
神のエネルギーです。
愛は
神の現われなのです。

積極的に
闇に立ち向かって
いくのです。

偽者の自分
偽我から
真我(神我)へと
念いが変わることこそ
真の勇者として
生まれ変わるのです。

いかなる環境が
目の前に起きようとも、
闇の中にいながら
闇を怖れない自分、
闇を喜んで
受けて立つ自分を
体験します。

今、どんな苦境に
あろうとも、
いつかは感謝できる
自分が来るのです。

人生の困難が
魂の糧であったと
思える時が。

あなたを
傷つけた人は
あなたの前に現れた
敵と見えし人は、
あなたの
魂の成長のために
使わされた
犠牲者なのです。

神の深遠な
愛の計画の中で
魂の深奥のレベルで
その役割を
担ってくれて
いるのです。

イエスさまが仰った
「汝の敵を愛せよ!」とは
そのことを
見通されて
いたからこそ
伝えることができた
真理なのです。

私たちは
そのお陰で
闇を克服する
知恵と力を
つけていくことが
できるのです。

これを魂の成長と
いうのです。

今、この地上界は
混沌と闇の
真っ只中に
あるように
見えます。

しかし
そのすぐ先には
新しい時代が
訪れようとしています。
愛の時代です。

アクエリアスの時代の
周期に入っていると
聞いたことが
ありませんか?

あらゆる
識者や本や文献に
おいて
地球の次元上昇や
精神の時代の到来
また26000年に
一回の周期で
大きく価値観が
動く時代に突入して
いるとも伝え聞きます。

私が感じるのも
同じように感じます。
今までの時代は
混乱が分離を生み
魂の体験の時代でした。

これからは
統合の時代です。
今までの経験から
得た愛を発揮する
時代に入って
いくでしょう。

人間の魂の完成の
周期に入っていく
ように感じられます。

新しい夜明けが
始まろうとしています。

夜明け前は
暗いものです。

しかし、
いかにこの世が
混乱しようが
迷ってはいけません。
その出来事に
囚われてもなりません。

今、現れている
この世の困難は
新しい夜明けの
善なる前兆であるのです。

今の混乱は
光に向かう
転換期のために
あるのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間に
あなたに
闇や困難が
現れているのなら
幸いであります。

あなたを
強くするために
あなたの無知を
智慧へと誘わんとする
神の愛を知るからです。

受けて立とうでは
ないですか!
力強く

闇や困難に
感謝をしましょう!

闇がなければ
夜明けの光の
眩さを感じることも
できないのです。

生かして頂いて
ありがとうございます。

2011年11月8日火曜日

「大力量人」

“無門関”という
無門慧開さんによって
編集された48則の
公案集があります。

この“無門関”は
下記の言葉に
現わされる如くの
意味でつけられた
のだそうです。

「頌 (じゅ) に曰く
大道無門、千差路有り。
此の關を透得せば、
乾坤(けんこん)に獨歩せん。」


「頌 (仏教の思想を
述べた詩句の意味)
曰くとは、
ほとけの世界は、

入り口がない
大きな道のような
ものであり、

そこはまるで
千もの路が交差
しているような所です。

この門のない関を
透り抜けて、
行き着く
ことができれば、

乾坤(天と地)或いは
(陰と陽)の間を
ひとりで歩いている
ような自由を
自らの手に入れる
ことになるのです」

上記の
“無門関”の講義を
谷口雅春先生が
したことが
あります。
私の真理ノートから
抜粋します。

第20則の
「大力量人」
(だいりきりょうじん)です。

「松源和尚曰く
大力量の人、
何によってか、
足をもたげ
起こさざる。

大力量の人、
何によってか、
また口を開くこと
舌頭上にあらざる。」

意味は
松源和尚いわく
大力量の人は、
どうしたわけか
脚を上げて、
起ちあがる
ことができない

またいわく
口を開いたけれど
舌頭上に
なにも言葉がない。

大力量人とは
単なる力量がある
という程度のもの
ではなく、

あらゆる能力を
持っているもの
いわゆる、
無限の能力者である。

すべての人間には
この無限の
神の生命が
宿っているのである。

神の無限の力を
持ちながら
何故それを
発揮できないのか?

私たちは
もっと自由に
世の中を走り回り
人々を救える
ようにできている。

また、
もっと自由に
神の言葉を語り
人々に光明を
与えることもできる
ようにできている。

その神の無限の力
生命の実相である
大力量人で
あることを
自覚しなさい。

別の言い方で
言いますと
限界は自分の
心の中にある。

決して
限界をつくる
べからずと
言うことでも
あります。

この世においては
自分は大力量人と
自覚しない限り

足をもたげ
起こさざる。
であり、

また口を開くこと
舌頭上にあらざる。
訳であります。

自覚こそ
とても大事なのです。

それを
語る上で
やはり
谷口先生が自身の
「光明道中記」という
本の解説をしたメモが
真理ノートに
書き留めて
ありましたので
紹介します。

これは
お釈迦さまの
ご誕生の日の
4月8日のメモです。

まだ、修行中の
お釈迦さまに
天の使いが
語りかける内容です。

4月8日
釈迦新生の日、
(ご誕生の日)
天の使い:
「お前は何を
求めているのだ?」

お釈迦さま:
「私は永遠を
求めているので
ございます。
私はその方法を
捜し求めている
のでございます。」

天の使い:
「どこにも
永遠を求める
ことはいらない。
お前が
永遠そのものだ。」

お釈迦さま:
「この私が
永遠そのものですか?」

天の使い:
「そうだ、
そのお前が
永遠者なのである。
そして、
そのお前と言うのは
肉体を指している
のではない。

その肉体を
現わしている
そのお前の
生命そのもの
それが永遠である。

永遠が今、
お前の中に
生活している。
永遠が今、
お前とともに
歩いているのだよ。」

という
お釈迦さまと
天の使いの
対話です。

天の使いは
私たちにも
同じことを
伝えているのです。

私たちは
自分自身が
永遠で
無限の存在であり、
今、ここに
永遠とともに
歩いているのです。

人間の本体は
この肉体では
ないのです。

肉体の奥に
霊妙極まりなき
存在ありとして、

それこそが
神の作り給いし
人間の本体で
あるのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日、この瞬間に
永遠なる自覚を
無限なる自覚を
持つのです。

地上に
神のイメージが
具体化して
出現しているのが
人間の本質で
あるのです。

神は全知全能で
大力量なのです。

私たち自身にも
大力量が
備わっている
ということです。

この真なる力を
発揮するときは
今、この瞬間に
与えられたところの
神の恩寵であり
神の最大の
私たちへの
プレゼントなのです!

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年11月6日日曜日

「諸行無常を深める!」

一昨日は
紅葉を見たくなって
車で日光の方へ
足を伸ばしてみました。

東北自動車道で
宇都宮ICで居り
日光宇都宮道路で
今市ICで
降りるあたりから
紅葉のパノラマが
開けてきました。
黄色や赤色や
まだ緑色もたくさん
交ざっていて
色彩豊かな
自然が織り成す
最高のご馳走です。


あまり美しいので
さらに車を走らせ
紅葉に魅せられるまま
奥に奥に入って
いきました。

走っていますと
“平家の里”の
看板が目に
飛び込んできました。
もう湯西川に
入っていました。

平家と言えば
どうしても
思い浮かぶのが
中学生のときに
暗記させられた
「平家物語」の
冒頭部分です。
皆さんも
覚えさせられたのでは
ないでしょうか?

「祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。」

祇園精舎の鐘の音には、
この世のすべての現象は
常に変化していくものだ
という響きがある。
沙羅双樹(曼珠沙華)の
花の色は、
どんなに勢いが盛んな者も
必ず衰えるのであると
いう道理をあらわしている。
権力を持ったものも
長くはその権力を
維持することはできない。
それは春の夜の
夢のようである。
勢い盛んで強い者も、
結局は滅び去る。
それは風に吹き飛ばされる
塵と同じようである。

その後に
仏教を勉強したので
お釈迦さまが
説いた
基本的な教えの
三法印(四法印)の
最初に掲げられている
重要な教えが
この「平家物語」の
中にも書かれています
諸行無常という
言葉であります。

折角、
ここまできたので
“平家の里”を
見学させていただきました。

京に栄華を誇った
平家は
源平の戦いに敗れ
源氏の厳しい
追っ手から逃れて
平家が落人として
流れ流れて安住した地が
この下野の国、秘境
湯西川だったようです。

この“平家の里”では
その落人たちの
生き様や
生活様式を
後世に長く保存
継承する拠点として
復元したのだそうです。

その中の
床(ゆか)しどころ
という展示館に
平 清盛像と
その嫡子
平 敦盛像が
展示されています。


その敦盛の
一の谷の合戦の
エピソードが
書かれていました。

『一の谷の合戦で、
源氏方の熊谷直実が
敦盛を押えつつ
首を取ろうとすると、
16・7の美少年で
あるのに驚いて、
「首を取ることなど
できない。
助けてやりたい」と
泣く泣く敦盛の首を
取りました。
その後、直実は
弓矢取る身の
虚しさを自覚して
仏門に入り、
紅顔の貴公子を悼んだ』

このときの直実の
心境はいかばかりか
思い至ると
思わず涙を
流さずにはいられない。

この時、
直実も
人間の身心の無常観を
感じたのでは
ないでしょうか。

「王朝文芸の宗教的史観四」
“源氏物語と平家物語の比較”
梅光女学院大学の
村田 昇先生が
書かれています。
P24を抜粋します。

無常の美学
「宇宙生命の
創造的進化の秩序を
顕現するものは美である。
外なる自然飛花落葉も、
人間の身心も無常である。
故に美である。
宇宙生命の秩序を
教える仏教は美学である。
その経典は文芸である。
砥園精舎の鐘は、
諸行無常、
是生滅法、
生滅々已、
寂滅為楽と響き、
沙羅双樹の花の色は、
盛者必衰の理を
現すが故に美である。
これを最初に謡う平曲は、
無常観念詩である。
私は詩とは
直観した宇宙生命
秩序をことばを縁として、
十分に響流している
ものと思考している。
生も病も老も死も、
種も熟も脱も、
生も住も異も滅も、
すべて宇宙の秩序である。
無常である。
美である。
かく道得された処が、
浬禦寂滅である。」
抜粋了

村田先生の
この無常の美学の
部分を読むにつけ
この仏教の重要な
教えである。
諸行無常がいかに
大切な教えで
あることが
理解でき

さらにお釈迦さまが
2600年前に
悟りを開くに到った
過去世の因縁としての
物語である
ジャータカ物語
→本生譚
(ほんしょうたん)の中に
ある雪山童子
(せっせんどうじ)の
お話を思い出します。

『お釈迦さまの前世の
修行者が
ヒマラヤの雪山で
一生懸命に
修行をしていました。
そのあまりにもの
ひたむきさに
感心した仏法の
守護神である
帝釈天は
羅刹(らせつ)という
鬼神の姿に身を変えて
修行者の前に現れて
こう唱えるのです。
「諸行無常、是生滅法」
「諸行無常なり、
是れ生滅の法なり」

この真理の二句を聞いた
修行者は
この教えに大いに
感動し喜びました。
しかし、修行者が
まわりを見回して見ると
そこに立っているのは
恐ろしい形相の鬼だあった。

修行者はその鬼のような
姿の羅刹に向かって
「今の言葉はあなたが
唱えたのでしょうか?」
と聞きました。
そうすると
「そうだ!」と答えたので、
さらに
「今の教えはまったくの
真理です。では
どのように生きたら
良いのでしょうか?
知っていられるなら
その続きを是非とも
お教え願いたい!」
そう修行者が聞きますと、
その鬼は答えました。
「勿論、知っている
しかし、何も食べて
いないので、腹が減って
続きを唱えられん!」

修行者は
「私が探して来ますので、
何が食べたいのですか?」
と聞きました。
鬼は
「人間の肉を食べたい!」
と言いました。
そこで修行者は、
真理を求めるために
命を捨てる覚悟をして
言いました。
「解りました。
私の身体でよければ、
あなたに差し上げるので
続きの真理を
聞かせてください!」
と言います。
鬼は真理の二句を
唱えました。
「生滅滅已、寂滅為楽」
「生滅を滅し終わって、
寂滅をもって楽となす」
修行者は
これを聞いて驚喜し、
「後世の人の為に
この真理は
残さなければならない!」と、
この四句を
岩に刻み谷底に
自らの身を
投げ打ったのです。
その瞬間、
鬼神、羅刹の姿から
元の帝釈天に戻って、
やさしく修行者の
からだを受けとめ
礼拝したのです。』

お釈迦さまの
前世の雪山童子が
命を賭してまで
知りたいと思った
その教えこそ
この諸行無常の教え
という意味で
諸行無常偈といい、
雪山童子の教え
という意味で
雪山偈とも
言われています。

“諸行無常”
(しょぎょうむじょう)
すべての存在は
移り変わるものである。
“是生滅法”
(ぜしょうめっぽう)
是がこの生滅する
この世の法えである
“生滅滅已”
(しょうめつめつい)
生滅へのとらわれから
己を滅し尽くして
“寂滅為楽”
(じゃくめついらく)
寂滅の境地に到り
楽と為すのである。
という法えなのです。

これを和訳したものが
「いろは歌」と
いわれています。
空海さんの作と
言われています。

いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそ
つねならむ
うゐのおくやま
けふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

色は匂へど
散りぬるを
(諸行無常)
我が世誰ぞ 
常ならむ
(是生滅法)
有為の奥山
今日越えて
(生滅滅已)
浅き夢見じ
酔ひもせず
(寂滅為楽)
となります。

「色は匂えど散りぬるを」
花は匂い立つほどに
咲き乱れていても
やがては散ってしまう
ものである。そのように
すべての存在は
一定のものなど何もない
変化してしまうものである。
という「諸行無常」を
示しています。

「我が世誰ぞ常ならむ」
この世に存在するもので
生滅しないものは何もない
これが真理なのです。

「有為の奥山今日越えて」
有為とは作られたもの
という意味で、
原因と条件があって
万物は存在するのです。
縁が変われば、
それに応じて
常に姿も変わります。
「無常」です。

有為の奥山を
越えて観るならば、
苦しみ悩みは
「夢のようなもの」
なのであるとして、

「浅き夢見じ酔いもせず」と
繋がるのです。
寂滅をもって楽と為す。

「この世の中は
無常である。だから、
何とかしようと
あがいてはいけません。
まず、自我を捨てる
ことです。
執着に囚われずに
「寂滅」の状態
煩悩の火が消え
やすらぎの状態に
なった時に
無や空の境地に
到るのです。」

紅葉を見ようと
思い立った所から
湯西川にまで到り
そして、
“平家の里”の
「平家物語」の冒頭に
繋がり
“諸行無常”の
「雪山偈」となり
「いろは歌」にまで
広がってしまいました。

ただ、思いつくまま
気の向くまま
書いてみました。
これも
“諸行無常”なのでしょう!

おつきあい
ありがとうございます。

2011年11月2日水曜日

一  二  三(ひと ふた み)

「天の数歌」
(あめのかずうた)を
ご存知でしょうか?
神様をお祭りする際の
祝詞です。
下記のものです。

ひと ふた み
一  二  三

よ いつ むゆ
四  五  六

なな や ここの
七  八  九

たり もも ち よろづ
十  百  千  万

一(ひと)は
霊(ひ)也、火也、日也。

二(ふた)は
力(ちから)也、
吹く呼吸(いき)也。

三(み)は
体(たい)也。元素也。

四(よ)は
世界の世(よ)也。

五(いつ)は
出(いず)る也。

六(むゆ)は
燃(むゆ)る也。

七(なな)は
地(ち)成る也。

八(や)は
弥々益々(いよいよますます)の意也。

九(ここの)は
凝り固るの意也。

十(たり)は
完成の意也。

百(もも)は
諸々の意也。

千(ち)は
光也、血汐の血也。

万(よろづ)は
夜(よ)出(いづ)るの意也。

之を大括して
略解すれば、
霊力体
(れいりきたい)に
よって世が発生し、
水火の呼吸(いき)
燃え上り、
初めて地成り、
弥々益々水火の気
凝り固りて
完全無欠の
宇宙天界は完成され、
諸々の地の光は
暗夜(あんや)に
出現して
総てのものの
目に入ると
いふ言霊にして、
造化三神の
神徳を称へ奉り、
其の徳にあやかりて
紫微(しび)天界を
修理固成
(しゅうりこせい)し、
諸神安住の清所
(すがと)に
照らさむとの意を
謳(うた)ひ
給ひしものと知るべし。

『出口王仁三郎著
「霊界物語」第73巻
天祥地瑞 子の巻
第一篇紫微天界、
第10章・
嫁ぎの御歌より抜粋』

出口王仁三郎
口述による
81巻からなる
「霊界物語」の中で
天地創造のプロセスを
表わした数歌なのです。

ヒト、フタ、ミー・・・
と数を数えていきます。
一(ひと)は
霊(ひ)也、火也、日也。
とあります。
一(ひと)は

ひ(火)が
と(点)もる
創造の火を点す
という意味であります。
そして
一は人(ひと)でも
あるのです。
もう一つの
創造の霊が止まる
ひ(霊)が
と(止.)どまる
器が
人である訳です。

霊魂が
止まって
宿っている存在が
ひと(人)なのです。
ひとは等(ひと)しい
一なる本源の大霊が
等しく宿っている
存在が人(ひと)
なのです。

二(ふた)は
力(ちから)也、
吹く呼吸(いき)也。
とあります。
二(ふた)は
一(ひと)の人(ひと)に
二は仁となり、
人(じん)に通じる。
仁は(ひとし)、
等(ひと)しいでもあり
人(ひと)に通じる。
自分に対して
別人でありながら
二人を等しい(仁)とする。
自と他は
別のものではないに
通じます。

三(み)は
体(たい)也。元素也。
三(み)は身(み)であり
体(たい)ですから
身体となり、肉体と成ります。

霊力体
(れいりきたい)に
よって世が発生してと
成るわけです。

霊は神であり
神が私たちの
肉体に
一人の例外もなく
等しく
宿り給うのである。

それが
一  二  三
ひと ふた み
です。

昨日のブログでも
言いましたように
自分と他者は
別のものでは
ないのです。
仁(じん)であり
仁(ひとし)いのです。

ですから
良くも悪くも
他者に対しての行為は
自分に必ず帰るのです。
鏡の反射なのです。


私たちは
神社に参拝して
何に対して
参拝していると
お思いでしょうか?

自らに内在する神に
参拝をし
自らの神性を
拝んでいるのです。

自らの神性に対して
お願い事など
する必要など
まったくないのです。
むしろ、
内在する神に
感謝を捧げる
ことなのです。
自らの神性を
鏡に反射させ
感謝の心で
拝みあうことです。

『今日は残りの人生の最初の日』

一  二  三
ひと ふた み
今、この瞬間に
天地創造は
始まるのです。

自らが
この短い人生の
創造者であるのです。

すでに
備わっている
良心に沿った
生き方を
心がけましょう!

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年11月1日火曜日

「願いから祈りへ」

一昨日のブログでは
吉田クリニックの
吉田健太郎先生の
お話を紹介させて
いただきました。


吉田先生が
付録で
生命科学の第一人者
である
村上和雄先生の
お言葉を抜粋されて
いられました。

もう一度紹介させて
いただきます。



☆祈り「願いから祈りへ」
“自分のための
願い事から、
地球のため、
宇宙のための
「祈り」に
変わった時、
その「祈りは」。
すごいエネルギーを
持つ。“
という言葉です。

昨日のブログの
吉田先生の
お話も
簡単に振り返って
みたいと思います。
私たちの身体は
200種類
60兆個の細胞から
出来ていること。
その細胞が
整然と統制され
平和裏に機能
していること

そして
その細胞は
受精卵と言う
たった一つの細胞が
卵割、増殖、分化を
繰り返し
37週目には
約2兆個の細胞を持つ
赤ちゃんになって
誕生すると言うこと

その受精卵に
なるには
一千億分の一の
激戦を勝ち抜いて
1等賞になったもの
だけに与えられる
栄光だと言うこと

そして
その細胞の中の
さらに
直径1000分の
数ミリの核の中に
私たちを構成する
すべての
遺伝情報が
入っていること

そして
誕生、成長、死を
迎えること
死ぬことの重要性
五本の指の間には
すきまがあるが
初めはグローブのように
なっている。
その隙間の遺伝子が
死ぬことにより
指は開くこと
成長ホルモンも
増殖ばかりは
しないこと
身長は伸び続けることは
ないように

私たちの身体には
ホメオスタシスが
あること
防御したり
免疫や再生の力が
備わっていること

自分の身体の中に
外部からの一切のものに
頼らなくとも
自然治癒力と言って
自分で治す力が
備わっていること

こんな
素晴らしい
身体の仕組みを
誰が創ったので
あろうか?

村上先生が
サムシング・グレートと
言われる存在
いわゆる
神がすべてを
創造したのであること


神が創造し
私たち一人ひとりに
内在している
良心として
存在しています。

良心としての
存在である
神性は
私たちの意識の
方向により
より活性化する
仕組みになっています。

冒頭の
村上先生の
「願いから祈りへ」に
ありますように
自分の
願望達成だけを
考えて
生きていきますと

一時的な
願望を達成した
場合でも
一抹の不安感が
持ち上げてきます。

良心としての神性は
正確なものさしです。

表面的意識である
自我による意識の
基準は
すべての人間が持つ
神性に合致しません。

エネルギーが落ち
生命力が
失われてくるのです。

それが
身体の仕組みの
バランスにも
影響を与えて
いくことになります。

私たちが
幸運を掴むのも
生命力を上げるのも
自分次第なのです。

自分の内にある
良心(神性)に
沿った生き方を
する事によって、
真の幸福が
訪れるのです。

この世では、
自我の欲求を
満たす事が、
幸福だと
勘違いをさせる
魔力に満ちています。

それにより
物質的には
豊かになり又、
その満足を得るために
さらに
自我の欲求を
あおるように
循環させています。

しかし、
それでは真からの
満足は絶対に
得られないのです。

自我なる欲求は
偽我による欲求です。
偽者の自分からの
欲求なのです。
この欲求が
真の満足を
得ることが
できないことは

欲求を満たした
つもりでも
又、次から次へと
欲求が泉のように
湧き出ることで
証明されます。

限界がないのです。
貪りの欲求なのです。

真なる我は
内在する神性です。
それが正しい
ものさしなのです。

良心とも
呼ばれるものです。
良心に背いた行動を
すると

虚しい気持ちで
現わされます。
寂しい気持ちで
現われてくるのです。

そうならないように
生きることが
心に安心感と
平安が訪れます。

地球のため
宇宙のために祈る
視点を持つことです。

他のために生きる
他の幸せを祈る
視点を持てば
エネルギーが
満ち満ちてきて
細胞の一つひとつが
活性化され
生命力も
増していくのです。

世のため、
人のため
地球のため
宇宙のために
自分が行った行為と
思いが、
自分自身を
形成させるのです。

他に対しての発信が、
実は自分のために
なるのです。
これは宇宙の法則です。
愛の法則なのです。

私たちは
神の絶対法則の
中に生かされて
いるのです。

それは愛という
絶対法則です。

神が
私たちを
無条件に愛し

何回も
闇につかまり
幻想に現を抜かして
いたとしても

一切の
非難もせず
待ち続けてくれる
神の偉大なる愛

どんな苦しみや
悲しみに
有るときでも

片時も離れず
寄り添ってくれる
神の大いなる慈悲

これが
大宇宙の法則なのです。

私たちは
どうでしょう!
他人のちょっとした
言葉や行為にも
惑わされて
自らの気分を害し
相手に対しても
非難や中傷を
したのではないですか?

しかし、
真実は
他にした行為や
言動のすべては、、
すべて自分に対して
行なっていたのです。

例え、この世で
反射されない場合でも

肉体の死後には
ひとりの例外もなく
明確に
なるのです。

この世で
目の前に
現れている出来事や
他人と
思われている人は
自分を映す
鏡なのです。

私たちは
他人を鏡にして
本当の自分を見、
そして、
本当の自分を
知るのです。

この反射は
良心からの
正しい
モノサシなのです。
一ミリも狂わない
正確無比の
反射鏡です。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日からは
自分は置いといて
他人に視点を
持つように
意識をして
みましょうよ!

私たちが
生かされている
地球に宇宙に
視点を持つように
意識をして
みましょうよ!

他人の幸せを
祈りましょう!

生かされている
この母なる大地や
父なる宇宙の
平和を心より
祈りましょう!

他が幸福で
平和で安全で
満ち満ちた
世界をイメージ
しましょう!

その視点を持つことが
私たちに
幸福で
平和で安全な
世界が
満ち満ちて
現れてくるのです。
自分が先では
ないのです。

生かして頂いて
ありがとうございます。