2011年11月8日火曜日

「大力量人」

“無門関”という
無門慧開さんによって
編集された48則の
公案集があります。

この“無門関”は
下記の言葉に
現わされる如くの
意味でつけられた
のだそうです。

「頌 (じゅ) に曰く
大道無門、千差路有り。
此の關を透得せば、
乾坤(けんこん)に獨歩せん。」


「頌 (仏教の思想を
述べた詩句の意味)
曰くとは、
ほとけの世界は、

入り口がない
大きな道のような
ものであり、

そこはまるで
千もの路が交差
しているような所です。

この門のない関を
透り抜けて、
行き着く
ことができれば、

乾坤(天と地)或いは
(陰と陽)の間を
ひとりで歩いている
ような自由を
自らの手に入れる
ことになるのです」

上記の
“無門関”の講義を
谷口雅春先生が
したことが
あります。
私の真理ノートから
抜粋します。

第20則の
「大力量人」
(だいりきりょうじん)です。

「松源和尚曰く
大力量の人、
何によってか、
足をもたげ
起こさざる。

大力量の人、
何によってか、
また口を開くこと
舌頭上にあらざる。」

意味は
松源和尚いわく
大力量の人は、
どうしたわけか
脚を上げて、
起ちあがる
ことができない

またいわく
口を開いたけれど
舌頭上に
なにも言葉がない。

大力量人とは
単なる力量がある
という程度のもの
ではなく、

あらゆる能力を
持っているもの
いわゆる、
無限の能力者である。

すべての人間には
この無限の
神の生命が
宿っているのである。

神の無限の力を
持ちながら
何故それを
発揮できないのか?

私たちは
もっと自由に
世の中を走り回り
人々を救える
ようにできている。

また、
もっと自由に
神の言葉を語り
人々に光明を
与えることもできる
ようにできている。

その神の無限の力
生命の実相である
大力量人で
あることを
自覚しなさい。

別の言い方で
言いますと
限界は自分の
心の中にある。

決して
限界をつくる
べからずと
言うことでも
あります。

この世においては
自分は大力量人と
自覚しない限り

足をもたげ
起こさざる。
であり、

また口を開くこと
舌頭上にあらざる。
訳であります。

自覚こそ
とても大事なのです。

それを
語る上で
やはり
谷口先生が自身の
「光明道中記」という
本の解説をしたメモが
真理ノートに
書き留めて
ありましたので
紹介します。

これは
お釈迦さまの
ご誕生の日の
4月8日のメモです。

まだ、修行中の
お釈迦さまに
天の使いが
語りかける内容です。

4月8日
釈迦新生の日、
(ご誕生の日)
天の使い:
「お前は何を
求めているのだ?」

お釈迦さま:
「私は永遠を
求めているので
ございます。
私はその方法を
捜し求めている
のでございます。」

天の使い:
「どこにも
永遠を求める
ことはいらない。
お前が
永遠そのものだ。」

お釈迦さま:
「この私が
永遠そのものですか?」

天の使い:
「そうだ、
そのお前が
永遠者なのである。
そして、
そのお前と言うのは
肉体を指している
のではない。

その肉体を
現わしている
そのお前の
生命そのもの
それが永遠である。

永遠が今、
お前の中に
生活している。
永遠が今、
お前とともに
歩いているのだよ。」

という
お釈迦さまと
天の使いの
対話です。

天の使いは
私たちにも
同じことを
伝えているのです。

私たちは
自分自身が
永遠で
無限の存在であり、
今、ここに
永遠とともに
歩いているのです。

人間の本体は
この肉体では
ないのです。

肉体の奥に
霊妙極まりなき
存在ありとして、

それこそが
神の作り給いし
人間の本体で
あるのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日、この瞬間に
永遠なる自覚を
無限なる自覚を
持つのです。

地上に
神のイメージが
具体化して
出現しているのが
人間の本質で
あるのです。

神は全知全能で
大力量なのです。

私たち自身にも
大力量が
備わっている
ということです。

この真なる力を
発揮するときは
今、この瞬間に
与えられたところの
神の恩寵であり
神の最大の
私たちへの
プレゼントなのです!

生かしていただいて
ありがとうございます。

0 件のコメント:

コメントを投稿