本日も引き続き
谷口雅春先生の
ご講話テープの
「預言の的中とその限界」
第三弾を紹介させて
いただきます。
これが、最終となります。
まず、本日は
まず最初に
仏教での預言として
法華経の
如来寿量品・自我偈を
抜粋しています。。
「衆生、劫尽きて、
この世が
大火に焼かるると
見るときにも、
我が浄土は
安穏にして
天人常に充満せり」
「人類の劫尽きての
劫(こう)とは
(天体が生まれ、
天体が消滅する
周期のことを言う。
一つの周期を一劫と
言う)
大惑星と衝突して
劫火に焼かれて
しまうけれども
我が浄土は
安穏にして
天人常に充満せり
(自分の住む
仏の国土は
安穏で天人が充満して、
いろいろあらゆる
すばらしいものが
行われている
美しい世界で
天から“まんだらけ”
という美しい花の雨が
咲き乱れている世界です。」
「でも衆生の
目から見れば、
憂怖こもごもの
苦悩がいっぱい
充満している。
迷いの心が
組み合わされて
いる世界である。
滅びる世界は
いつか来るのである。
世界終末の世界が
いつかは訪れる。
と言う意味を
含んでいます。」
「キリスト教においても
新約聖書
マルコ伝第24章
マルコ伝第13章に
世界の終末が書いています。
マルコ伝第13章には
その時の前兆を
知れと言う事で
このように書いています。」
「時の兆しを知れ。
我はキリストの
再臨である。
最後の審判に出てきた
のであるといって、
預言をして
惑わすものが出てくる。
(世界終末の前兆
として出てくる。)
汝ら人に惑わされぬ
ように心せよ。
戦と戦のうわさを
聞いて驚くな。
かかることは
あるけれども、
未だ終りにはあらず。
即ち民は民に、
国は国に逆らいてたたむ。
またところどころに
地震や飢饉がある。
これらは
生みの苦しみの始めなり。
汝ら自ら心せよ。
人々、
汝らを衆議所に渡さん。」
「親でも兄弟でも
子どもでも
密告制度にして、
人々は
身内を密告したり
訴えて革命に忠実な
ものだとして
助かろうとする
見苦しい状態の
時期が来る。
衆議所とは
(人民裁判のような
ことをする場所を指す。)
そういうことが
前兆として現れる
と言っている。
しかし、
その時期については
明らかにしていない。
天の使いも知らず、
イエスも知らず、
ただ神しかしらない。
とマルコ伝の13章には
書いてあるので、
1999年7月と
いうのは嘘である。
時期は神しか知らない
他に誰も
知らないのだから
ノストラダムスが
知る由がない。」
ただ、察知するには
時の兆しを知ることと
マルコ伝第13章には
書いてあります。
「イチジクの木よりの
その枝、
既に柔らかくなりて
葉、恵めば、
夏の近きを知る。
かくのごとく、
我らの
事の起こるを見れば、
人の子(キリスト)、
既に近ずきて、
門べに至るを知れ。
(再臨のキリストが
天から天下ってきて、
最後の審判を行う。
その時、
天変地異が起こって
多くの人類が
滅びてしまいます。)」
「しかし、
その時は神しか
知らないのである。
我はキリストの再来
であるという、
偽キリスト、
偽預言者が出てきて
奇跡を行う時、
世界終末の時の兆し、
キリストの再来は
決して肉体を持った
霊的手品師みたいな
奇跡を起こすのではない。
それは、
本当のイエスの再臨
ではないのである。」
「汝ら心せよ、
予め、これを皆、
汝らに告げおくなり。
日は暗く、
月は光を放たず、
星は空より落ち、
天にある万象、
震え動かん。
その時人々、
人の子(キリスト)の
大いなる力と
栄光をもて、
雲に乗り気たるを見る。
天に異称あり。
その日には
身ごもりたる女と、
乳を飲まする女とは
災いなるかな。」
「それでは
どういう姿で来るのか、
雲に乗って再臨する。
天に異称ありとは
天変地異が起こる
という意味。。
それで
赤ん坊などを
連れている女たちは
逃げ場を
注意しなければ
ならないということを
イエスが
言ったというので、
それをまともに
最後の審判が
すぐにでも始まると
信じたのは聖パブロです。
コリント全書の
第7章の冒頭に、
『「男は女に触れぬを
良しとする!」
それでも、
抑えることが
できないならば、
乱倫、乱交をする
性道徳が乱れるのは
いけないから、
その場合には
「男は各々その妻を持ち、
女はその夫を持つべし」
と言って、
夫婦は婚姻生活を
しなけらばならない
と伝えます。
処女(おとめ)
のことについては、
主に聞いたことは
ないけれども、
私は主に忠実に
仕えていたものとして、
私の意見をいいましょう。
と言い、
「例え妻を娶るとも
罪を犯すにはあらず。
処女(おとめ)
もし嫁ぐとも
罪を犯すにはあらず。
されどかかるものは、
その身苦しみに会わん。
我、汝らを苦しみに
会わすに忍びず、
兄弟よ我これ言わん。
時は縮まれり。」
時は縮まれりとは、
世界終末の時期は
逼迫しているのだから、
妊娠していたり、
子どもを育てたり
していくのは
大変だから、
結婚すると苦難に
合うことになる。と
書いてあります。』
「このように
前兆を見て、
惑わすものが
出てくるけれど、
そんなものは
信じてはいけない。
ノストラダムスが
予言をしたところの
アンリ2世のような
近いところの預言は
実現するのだけれど、
遠く先の預言は
朦朧としていて、
当るのが
難しいものである。
変わるかもしれません。
はっきりと言えない。
1999年の7の月に
世界最後の日が
来るという
ノストラダムスの
予言なんかも、
初めの予言が実現
したからと言って、
終りの予言も
実現するということは
決してないのである。」と
谷口先生は断定します。
次に確率の高い
預言者として
谷口先生が紹介したのは
ダニエルさんです、
『旧約聖書ダニエル書
第11章31節に
「彼より腕、起こりて、
清きところ
即ち難き城を穢し、
常供の物を取り除かせ、
荒す憎むべきものを立てん!」
それが悩みのときであって、
世界終末の
予告のようである。
そして第12章には、
「その時、
汝の民の人々のために、
立つところの大いなる君、
ミカエル立ち上がらん。」
ミカエルは
キリスト教では
最高の天の使いです、
ミカエルは
日本の神道で言えば、
住吉大神
(すみよしのおおかみ)
のような存在です。
「古事記」では
住江大神
(すみのえのおおかみ)
となっている、
いざなぎの大神、
いざなみの大神と
同じように
大神と書いているのは
他にはあまりないので、
ミカエルは
大天使と言ってもいい。
「これ悩みのときなり、
国ありてよりこのかた、
そのときに到るまで、
かかる悩み
ありしことなかるべし、
その汝の民は救われん。
すなわち
文にしるされたものは
皆、救われん。
(大天使ミカエルの
手に持っている
巻き物に書かれている
ものだけは救われる)
土の下に
眠りおるものの中の
多くのもの眼を覚まさん。
そのうち限りなき命を
得るものあり、
また恥辱を被りて
限りなく恥ずるものあり、
悟きもの
空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を
正しきに導けるものは
星の如くなりて
永遠に到らん。
ダニエルよ、
終りのときまで、
この言葉を伏し、
この文を封じおけ、
多くのもの行き渡らん。
そして知識増すべし。」と
ダニエル書の
最後の書に
将来の予言を書いてある。』
『このダニエル書を
日本に当て嵌めて
考えてみると
「荒す憎むべきもの」を
占領軍、原子爆弾と
捉える事もできる。
「清きところ」を神国日本
「常供の物を取り除かせ」
占領軍がやってきて、
神道指令を出して
常にお供え物を
取り除くように指令した。
伊勢神宮や靖国神社を
禁止したことに
当るかもしれない。
時の兆しを見て考えると、
「荒す憎むべきもの」が
何であるか?
清きところが日本なのか?
世界最後の日としての
起点として
考えることは出来る。
本当の終末の日が
起こるまで、
いつ終末の
大破壊が起こるか、
誰も天の使いも
イエスも解らない。
聖パウロが
その日が来ると、
孕める女と、
乳を飲ます女とは
苦しみを犯すから、
なるべく結婚するな!
といったように、
間違いを犯すことに
なるかもしれない。』
と語られるのです。
そして
このノストラダムスの
予言詩をダニエル書との
比較で対比します。
『「大きな七の数が
巡り終わるとき
虐殺が起こる。
それは、
かの大きな千年から
そんなに
遠く立った時ではない。
そのとき
墓に入っていたものは、
そこから
出てくるであろう。」
五島 勉氏は、
ロバーツという方
の解釈として
「西暦○○○○年
12月に、
1999年を上回る
大戦争が起こって、
細々ながら大破壊から
逃れて生き残った
破滅後の人類の子孫が、
今度こそ一人残らず
滅び去るのだ。
そして
墓に入っていたものが
出てくると言うことは、
幽霊しかなくなる
と言うことであり、
完全に絶滅である。」
と解釈しているのである。
こういう
暗い解釈ができない
こともないけれど、
ダニエル書には、
「土の下に
眠りおるものの中の
多くのもの眼をさまさん。
そのうち限りなき命を
得るものあり、
悟きもの
空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を
正しきに導けるものは
星の如くなりて
永遠に到らん。」
すばらしい人間が
再び土から再生して
生まれてくると
書いてある。
悪い解釈の方に
味方をすると、
悪い心の思いを、
この地球上に
いっぱい漂わす。
心の思いが
互いに連絡して
組み合わされて、
丁度、
水蒸気が雲になるが如く、
現象界が生まれる
フィルムができる。
そのフィルムが
地上に悪いものを現わす。
悪いほうの
予言の解釈を
しないようにして、
いいように解釈する。
私はそう思う。』と
続けます。
そして、
谷口先生がご自身が
居られた教団、
大本教について
語るのです。
『最後の審判の
大破壊の日を予言して、
間違ったのが
かつての大本教です。
その時代に(谷口先生は)
大本教の機関紙の
雑誌の心霊界や
綾部新聞を編集していた。
大本教は教祖、出口ナオが
神懸かりになって、
明治25年正月元旦、
お筆先で神様の言葉を
自動筆記で書いたこと
から始まる。
そのお筆先はとても
読みにくいのです。
平仮名と数字で書いてある、
例えば
「ごくろうであるぞよ。」は
5と9は
数字で書いてあって、
後は平仮名で書いてある。
最後の審判の予言も皆、
平仮名で書いてある。
大本神癒には
「じしんかみなり
ひのあめふらして
たいらげるぞや」と
書いてある。
当時の幹部は、
「地震、雷、火の雨ふらし、
(隕石が夥しく降ってきて)
地上の人間は
皆、平らげられてしまう」と
解釈した。
そして、
大本教を信じて、
魂を清めて、
身を清めたものだけが
救われるというので、
皆、魂を清め、
身を清めていた。
しかも年限が
「めいじ55ねん
5がつ5にちは
けっこうなひであるぞよ」
と書いてあるので、
いよいよ
最後の審判だと
信者は注目していた。
大本教の信者の金持ちは、
当面の生活費を残し、
その他は教団に献金した。
年号変わって、その日は
大正11年5月5日、
しかし、
何事も起こらなかった。
(谷口先生は)
二年ほど前に
大本を後にしていたのである。
「最後の審判と言って、
皆殺しをするような
神様はない。
神様と言うのは
残虐なものでは
ないのである」と思って
大本教を出ていたのである。
「神は愛の神で
なければならない!」
と思って、
東京に出てきた。
論文集「聖道へ」
(しょうどうへ)を発表した。
それから、
「神罰を当てるような
神がおるか!」と
言うことで
「神を裁く」という
小説を書いた。
ところがこの「神を裁く」
という小説は、
東京の書籍小売店に
配給されたのが、
大正12年9月1日でした。
その日に
関東大震災が起きて、
この小説は
神から逆に裁かれた形で
皆焼けてしまった。
しかし、地方の書店で
残っていた
数十部の返品があって、
それをもとに
日本教文社から
「神を裁く」として
出ているのです。
あの頃(当時)
神をいかに見ているか。
最後の審判を
どう見ているか?
その中の、
「秘められたる神示」
57Pを抜粋する。
最後の審判の神示、
「キリスト再び来たりて、
裁くとは今のことである。
キリストとは
肉体にあらず真理である。
キリストとは
肉体にあらず光である。
肉体の我の来たるを、
待ち望むな。
我は既に、
ここに来たれるにあらずや。
我は道である、
真理である、
光である。
我、来たって迷いを裁き、
我、来たって闇を裁き、
すべての迷いと暗きとを、
地獄の火に投げ入れて、
これを焼き滅ぼす。
これこそ
最後の審判であると知れ。
されど恐るるなかれ。
我が教えは
恐怖の教えにあらず。
迷いを焼かるるものは
却って生き、
闇を焼かれるものは
却って光を現わさん。
病は癒され、
悩みは消えん。
焼かるるもは
汝にあらずして
偽者の汝である
からである。
偽者の汝は
神より出ずるに非ず、
神より出でざる汝は
実在に非ず。
実在に非らざる汝は
その真相を
暴露して消滅せん。
我が来たれるは、
真と偽と
実在と虚妄をより分けて、
偽りと虚妄とを
永久に
地獄の火術ざいの穴の中に
葬りて封印せんと
するためである。」
これは、
キリストの霊が
谷口先生に
降りて来たりて
筆記した神示であります。
谷口先生は重ねて
「予言には
やがて
起こるべき事実を
そのまま語られたり
書かれたりする予言と、
象徴的な預言とがある。
遠く起こるべく預言は、
今知らせては、
ならないものの預言で
象徴的な
預言とする場合が多い。
旧約聖書の黙示録に
書かれている預言は
そういう象徴的預言である。」
と言われました。
最後に5000年前の
エジプトの宗教家である
アガシャの預言を
紹介いたします。
この預言は
チェナーさんと言う
チャネラーを通じて
語られたものを
谷口先生が解説を
して頂いています。
「1944年9月22日に、
日本を一夜にして
破壊するある力について
予言があったのである。。
そして、9月29日には、
アメリカは
或るいけないものを
持っている。
それは巨大な爆弾だ。
1945年の3月3日
までの間に、
アメリカが
ほとんど一夜のうちに
日本を壊滅せしめる
ことが出来るであろう。」
そしてドイツの
ことについてもこう
預言しているのです。
「我々は、
いかに速やかに
戦争が終りに近ずくと
驚くであろう。
そして7月22日に
ほとんど一夜のうちに
間もなく終わる。」
さらに続けて
「1945年の
2月23日には、
ゲーリングに対して、
ある重大な
ニュースが出るであろう。
ゲーリングは
空軍総司令官という
戦争計画を遂行する
位置にありながら、
戦争の全計画を
引っくり返すような
ヒットラーに関する
秘密を暴露するだろう。
そして、さらに
重大なニュースとして、
4月26日に
ゲーリングが
辞職したと発表、
ヒットラーと
仲間割れをして、
ゲーリングの
死刑計画が発表される。
5月1日に
ヒットラーの
奇妙な死の広報が行われ、
それに次いで
ゲッペルス自殺の話等々、
重大な人物の話が
次々と預言されて
いるのである。
しかし、
世界最後の日については
はっきりと
予言はしていないのである。
将来のことについては、
アガシャは
「新しき世界は、
この地上には
1965年以後に
建設されるであろう。
それは非常に
平和な時代であるが、
人々はその変革の
準備として
地上を浄化するために、
地獄の
苦痛の如きものを
経過するであろう。
黄金時代は
確かに来つつあるが、
それが訪れる前に
人々の生活には
大きなショックが
与えられるはずである。
多くの不思議な
出来事が現われ、
人々はそれによって、
自分自身の中に
神の力が
あることを悟り、
眼を覚ましてくるであろう。
1965年までの期間は
多くの人々が
新しき神意、
偉大なる
世界同胞的理解のために
働く時期である。
1965年と
2020年の間に
無限の
進歩の時期が訪れる、
新アトランティスが
建設されるだろう。」
いかがでしたか?
三回にわたり
谷口先生のご講話テープ
「預言の的中と
その限界」を
学んできました。
ノストラダムスさんの予言と
アガシャさんの預言や
谷口先生の
「最後の審判の神示」を
対比してみて
明確になるのは、
未来への
大いなる希望であります。
ノストラダムスさんの
予言を貫くものは
暗黒の予言であり、
アガシャさんは
「多くの不思議な
出来事が現われ、
人々はそれによって、
自分自身の中に
神の力が
あることを悟り、
眼を覚まして
くるであろう。」
と語り、
大西洋の真ん中にあった
アトランティスの
高度の文明が、
再び建設されるだろうと
預言しているのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
イエスさまが
谷口先生を通じて
語ったところの
最後の審判は
「我は道である、
真理である、
光である。
我、来たって迷いを裁き、
我、来たって闇を裁き、
すべての迷いと暗きとを、
地獄の火に投げ入れて、
これを焼き滅ぼす。
これこそ
最後の審判であると知れ」
とあります。
迷いや闇は
自らの審判において
今、この瞬間に
焼き滅ぼし滅することが
できるのです。
今日が新しい時代への
出発なのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
0 件のコメント:
コメントを投稿