2011年9月14日水曜日

“絶望感の底が意味するもの”

昨日は
とても嬉しい事が
ありました。

入院している
女房の体重が
27キロから
30キロに
なっていました。

まだ、入院して
昨日は5日目
外見からは
判らないのですが、
体重計に
乗りましたら
きっかり
30キロを示しました。

思わず
二人共々
目を合わせて
「良かったね!」と
喜びました。

今回の入院は
22回目の入院です。
8年間に亘って
大体年間に
3回づつ入院して
きました。

数年前にも
一回あったのですが、
普段でも食欲が
ないのに関わらず
口から
入れるものを
一切、
拒否して
しまうのです。
食欲中枢に
問題があるらしく
食べたいという気が
起こらないようです。

ここ何ヶ月かは
少しでも
食べてもらおうと
柔らかいものや
女房の
好みのものや
栄養ドリンク等々
手を変え品を変え
与えようとしますが、

目の前に
一緒に
1時間ぐらい
ついてあげて
食べることに
集中させながら
わずかなものを
食べてもらうように
していました。

歩行もままならず
毎日椅子に
座って
千羽鶴を
折っているだけの
生活リズムです。

(千羽鶴は
今回の
東日本大震災で
亡くなった
子どもたちにと
鎮魂の意味で
折っています。
もう、既に
3000羽の
千羽鶴を
送らせて
いただきました。)

そんな状態で
体力が
どんどん
低下していました。

今年の初めに
入院し
手術をして
退院して以来

定期的な
検査を
してきましたが
体力が
低下しているため
手術が
先延ばしに
なっていました。

今回は
先生も
見るに見かねて
体力の回復と
栄養管理と
リハビリのために
入院を勧めて
頂きました。

手術が
耐えられる
基礎的な
体力を
つけることが
目的です。

私の女房は
食道がんです。
食道の3分の2は
がんに侵されて
いました。

8年前に
別の病院で
がんではないけど
がんの一歩手前の
上皮なんとかという
病名で
入院したことが
あります。

しかし、
そこでは
手術も無く
治癒した
ということで
確か
三週間ほどで
退院しました。

退院後
半年くらい
経ってから
先ほど
お話したような
食欲低下が起こり
どんどん
痩せてきて
ひとりでは
歩けない状態に
なってしまい、

ある時
トイレに
立とうとした
瞬間に
転んでしまいました。

その時に
中指が完全に
逆向きになって
折れてしまいました。

近くの病院に
行って
中指の
レントゲンと共に
身体の
レントゲン等を
撮ってくれました。

その時に
その病院で
判明しました。

私だけが
先生に
呼ばれました。
「重度の食道がんです!」
そう言いました。

半年くらい前に
がんの一歩手前
ということで
治ったと
思ったのに
重度の食道がんと
言われて
耳を疑いました。

勿論、
そのことも
先生に聞きましたが
そういうことは
よく
あるんだそうです。

調べるために
細胞を取るのですが
ちょっとずれた
場合に

そう
判断することも
あるんだそうです。

それで、
その病院の
紹介状を持って
今、
お世話になっている
病院に
最初の入院を
することに
なりました。

先生と
今後の
病気治療について
話し合いを
持ちました。

その当時の
女房の体重は
26キロでした。
ほとんど限界でした。

先生は
本当は食道を
全摘出したいが

食道の位置が
背骨やあばら骨に
囲まれているために
大手術になる。

女房の場合
それには
耐えられないだろう。

リスクが大き過ぎる。
と言ってくれました。

他は
放射線治療と
抗がん剤治療を
やっていくの
だけれども
これも
今の体力だと
持たないかも
しれない。

無理の無い
ところだと
内視鏡で手術をする
方法がある。

しかし、これも
身体に
負担が
かからないと
言う訳ではない。

それと
一度に
2~3センチ程しか
切除できないので
切除して
傷を治して

また、入院して
切除するを
繰り返さなければ
ならないので
時間が
かかることと

何回も
やっている内に
傷が
治ろうとして
皮膚が
盛り上がるので
他のがん細胞が
切除しにくくなる。

また、
その間に
がんが
他に進行する
場合もあって
時間との
戦いになる
との説明でした。

私は
元々、
放射線治療や
抗がん剤治療に
対して
疑問を
持っていましたので

二も無く
この内視鏡治療を
選択しました。

この8年の間
女房は
二度ほど
生死を彷徨いました。

ただ、
体力が無いため
がんの進行も
遅かったために、
新しい進行は進まず
一年に三回ほどの
手術のテンポで
進むことが
できました。
何が幸いするか
解りません。

去年の暮れ近くに
咽頭がんが
みつかり
それは切除し
今も咽頭がんが
みつかりました。

今回、
体力が回復して
その咽頭がんと
他の食道がんを
切除する
予定でいます。

この8年間の間に
多くのがん患者とも
知り合いに
なりました。

女房より
軽かった
同じ食道がんの
方も
亡くなりました。

体力の無いことは
いいことでは
ありませんが
がんも
エネルギーです。
負の
エネルギーです。

元気のある方の
エネルギーを
食べて侵食します。

がんと言っても
いろいろな種類があり
予想の出来ない
動きをします。
徐々に侵食し
身体を弱らせ
止めを刺すもの。

また、
あんなに
元気だったのに
と思うぐらい
あっという間に
侵食し
一気に広がり
生命を
終わらせるもの
等々

一概に
語れるものでは
ありません。

多くの人の
多くの絶望感と
そこから
這い上がろうとする
生きる強さも
見てきました。

その人たちにも
守るべき
家族も居ます。

或いは
夫であったり
妻であったり
子供であったり
父母であったり
その人たちを
支える人たちの
様々な
表情の中に

それぞれの
人生ドラマを
感じてまいりました。

女房も
数々の
絶望を
口には出さぬが
感じていたのは
近くにいるものは
感じます。

人が
絶望を感じるとは
どういうことでしょう?

読んで字の如く
望みを
絶たれた状態
理想は消え
目標を見失った
状態のことです。

以前
メンタルトレーニングに
関する仕事を
したことは
以前のブログにも
書きました。

その時に
岡山にある
篠原クリニックに
行ったことが
あります。
そこの院長は
篠原佳年先生で
サンマーク出版から
「快癒力」等
多くの本も
書かれている方です。

その先生とは
その後何回か
東京に来られたときに
ホテルで会ったり
お付き合いをさせて
いただいていました。

その時に
聞かせていただいた
話で
印象に残ったことが
ありました。

ある時
東京から
岡山の
篠原クリニックへ
ある会社の社長と
その部下と
思われる方が
篠原先生の
ご著書を見て
わざわざ
やってきました。

その部下の方が
話を切り出しました。

「先生、
我が社の社長は
末期のがんに
侵されています。

東京の有名な病院に
悉く診断して
もらいましたが
あと3ヶ月の命だと
言われてしまいました。

先生の本を読んで
先生なら治せると思って
わざわざ
岡山まで来ました。
先生、何とか我が社の
社長のがんを
治して頂けません
でしょうか?

社長がいなければ
我が社は
存続できないのです!
お願いします。」

篠原先生は
「がんの
専門病院の
先生たちが
診断して、
3ヶ月の命と
いうものを、
私にも
治すことは
できません。

まず、
この
生きられる時間を
真剣に
生き切ることです。」
と言われたそうです。

その後、
その社長は
絶望の果てに
自殺をして
しまったそうです。

もう一人
女性の方で
末期のがんの方が
来られて
余命宣告をされた
方だったそうです。

その方も
先生の本を読んで
先述の社長さんと
同じように
先生に治してくれと
頼んだそうです。

先生は
同じように
治すことが
できないと
仰ったようです。

その方も
絶望をされて
肩を落として
帰られたそうです。

2~3年位経った
ある日
その方から
手紙が
来たそうです。

そこには
余命宣告された
がんが
すっかり
消えてしまったこと
その報告と
その時のお礼が
述べられて
いたそうです。

その方は
実は
その方には
息子があり
その息子が
その後
事故で
重度の障害に
なったのだ
そうです。

その為に
経済状態の事もあり
息子の看病や
介護をしなければ
ならない立場に
追い込まれて
しまったそうです。

自分の
病気どころでは
無くなって
しまいました。

一心不乱になって
医療費を
稼ぐために
働いて
あとは
息子の看病にと
大忙しの時間を
送っていたんだ
そうです。

とても
自分の
病気どころではなく、
病気を
忘れてしまって
いたようです、

そうして
気がついて
病院で
がんを
見てもらったら
がんは
消えていたという
お話でした。

この二人の
お話は
本当に
対照的な話です。

人はすべての
望みが絶たれたとき
命を失いたく
ないがために
自分の命を
自分で奪います。

その反面
がんの
余命宣告という
苦しさから
逃れようと
最後の可能性を
求めて
この篠原先生の
クリニックに来た
女性は
篠原先生の一言が
すべての望みを
絶たれたとき
可能性は無くなり
エゴが悲鳴を上げ
絶望のふちへと
落ちていきます。

そこまでは
先述の社長さんと
一緒です。
しかし、
彼女の目の前に
現れたものは
息子の事故による
息子の高度障害です。

自分のことを忘れ
自分の大切な
息子のために
すべてを注ぎます。

エゴがすべてを
放棄したとき
その時から
新しいすべてが
始まります。

愛の力が
湧き上がってきます。
愛は
最大のエネルギーです。

人は
エゴから離れ
愛に生きるとき
すべての
愛の属性である
癒しの力
無限の力
永遠の力が
最大限に
現れてきます。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちには
今という瞬間の
この毎瞬、毎瞬に
今、ある愛の力を
使うことができます。

人は
絶望という底に
突き当たったとき
エゴである
自我が崩れる
瞬間があります。

その先には
すべてに
備わっている
真我が
発芽するのです。
絶望のふちに
あるものは
大いなる
神性の
覚醒なのです。

今を生き切ることこそ
大切なことです。

今日も一日
愛の心を
意識して
送っていきましょう。

共有、ありがとうございます。

2011年9月13日火曜日

「中秋の満月と友人」

このブログでも
以前、紹介した
(「友人からのメール」参照)
茨城に住んでいる
古い友人から
昨日
久しぶりに
メールを頂きました。


そのメールには
稲穂が筑波山を
見上げながら
一面に
広がっています。

私はこういう風景が
大好きです。
日本の
原風景です。
懐かしさと共に
優しい気持ちに
なります。



今回の東日本
大震災において
友人の奥さんの
実家も
家は半壊し
この辺も
惨憺たる状態
だったようです。

友人は
焼き鳥屋さんを
やっていますが
震災後
頑張って
店を開けても
大変厳しい状態が
続き
落ち込んでいました。

送られてきた写真と
友人からのメールを
ここに
紹介します。

「毎度お世話さまです。
茨城は
相変わらず暑いです。
(エアコン無いため)
窓の外は稲刈りです。
自然は凄いです。
田植えから
刈りとりまで
自分は
何もしてない内に
米が出来るんだから?
何を伝えたいか
わかんなくなった。
俺は米に負けたのかな? 」
と書かれていました。

私からは
この写真、
ブログに
使わせてください!と
返信しました。

そしたら
友人から
筑波山の写真を
送ってくれて
こうコメント
されていました。

「どうぞ。
人間も景色も
毎日見ていると
素晴らしさが
わからなくなる。
俺だけ? 
田植えから
今日の稲刈りまで
稲の成長変化に
気ずかない自分は
あほかな~。

最近は感動とかときめき…
素直に生きてみます。
今の筑波山です。
数時間でかわるな~。 」

短いこのメールの
写真とコメントを
見て
思わず涙が
流れてきました。

彼とは
30数年に亘り
お付き合いを
しています。

実際の彼は
このコメントに
あるように
本当に
素直な人です。

しかし
表現の仕方が
自分の
本当の気持ちとは
裏腹のことを
言ったり
やったりします。
照れ隠しなのか
敢えて
そんな現わし方を
する人です。
他の人にも
多くの誤解を
与えてきました。

このメールの
短いコメントから
十分すぎるほど
彼の気持ちが
現れています。

彼の心の
内部が
変容しようと
している兆しを
感じました。

私からの
返信です。

「いい景色ですね!
筑波山を
毎日
眺められるのは、
それは
大変幸せな事ですよ。

自然は
人々が通り過ぎようが、
感動しようが、
ただそこに
存在しています。

無所得、
無条件、
無差別にね。

私たち人間の
今の瞬間の
心を映し出す
存在ですね!

感じる心を
大切にして
くださいねm(._.)m
ありがとう!!」


そうしましたら
夕方過ぎに
この写真が
届きました。

「月が出ました!」

あっ!そうか!
今日は(昨日は)
中秋の満月だったんだ!と
思い出させて
くれました。




私は
十五夜のお月様が
大好きで
いつも
楽しみに
しているのに

今年は
先週から
女房が
入院したので
いろいろと
些事に負われ
心を
喪っていました。

思わず
病院の窓から
見ました。
少し小ぶりだけど
ちゃんと満月でした。
嬉しくなりました。

旧暦の
八月十五日という日は
秋の真ん中の月の
真ん中の日、
今年は九月十二日が
その日だったのですね。
旧暦の八月十五日は
秋全体の
真ん中の日と
考えられますから、
この日のことを
中秋と呼び
この日に昇る
満月の月を
中秋の満月と
いうのです。

病院の夕飯にも
十五夜の
お饅頭が
ついていました。

筑波山に
浮かぶ
遠くに
かすかに見える
この月は
私にとっては

今迄の
どんな中秋の満月より
綺麗な満月です。

一緒に
この写真の景色を
共有してください。

思いを込めて

ありがとうございます。

2011年9月12日月曜日

「“他”はもう一人の自分」

自他一体という
言葉があります。
このブログでも
紹介しました。

今から
お話しすることは
頭脳であれこれ
考えても
結論の
出ることでは
ありませんので
スーッと魂で
感じて頂ければと
思います。

本源的には
大宇宙には
すべてに遍満する
ところの神しか
存在しません。

私たち人間や
生きとし生けるもの
すべての
万有万物は
神が
自分の分身として
創りました。

すべてに
神が宿っています。
神が
複数いるのでは
ありません。
すべてに
ひとつの神が
宿っています。

私に
宿っている神と
あなたに
宿っている神は
別のものでは
ありません。

時間や
空間・距離を超えて
大宇宙に遍満する
ひとつの神に
すべては
存在すると
いうこともできます。

これは
いくら
説明しようとも
説明できる
ものでは
ありません。

神を言葉で
説明することは
不可能です。

それが
神です。
神は
大霊
無限
永遠
不朽

大宇宙
等々の
別名を持ちます。
すべて
不可視の存在です。

“汝の内に神在り
神の内に汝在り“
です。

私という存在は
神の子であり
神の化身として
存在しています。

他人とは何でしょう?
肉体で見ると
別々の様に
見えます。
それはどうしても
そう見えても
仕方ないのかも
知れません。

現象界を創った
目的の一つでも
あるので、
一概には
何とも言えませんし、
自他一体感を得る
ことは簡単では
ありません。

しかし、
本質的には
他人というのは
別のものでは
ありません。
もう一人の私
なのです。

他人とは
真の自分を
発見するために
使わされた
もう一人の自分
なのです。

私たちの
真実の姿は
形あるものでは
ありません。

しかし、
肉体の目で見たら
形があるように
見えます。

でも
自分自身の顔を
見たことのある人は
一人もいないことに
気がついたことが
ありませんか?

他人の顔は
見えますが
自分の顔は
見えません。

鏡や
写真や
動画などでは
見るでしょうが

生身で
自分の目で
見た人は
皆無なのです。
ひとりの
例外も無く
いないのです。

他人の顔は
よく見えます。
いいところも
悪いところも
すべてがよく
見えるでしょう?

特に自分の目を
自分の目が
見ることは
出来ないですよね。

「目は口ほどに
ものを言う」

「目は心の窓
目は心の鏡」と
昔から
言われています。

自分の目は
見ることは
できませんが、

他人の目は
目を見て
お話をしたり
表情を感じたり
できます。

こういう諺もあります。
「人のふり見て
我がふり直せ」

他人の行いの
善悪を見て、
自分の行いを
反省し、改めよ。

「他山の石、
もって玉を攻むべし」
つまり、
「他の山の石は、
それそのもので
飾ることは
できないが、
自分の玉を
磨くのに使える」
とほとんど
同じ意味です。

このように
知っているようで
一番知らない
自分に対して

自分の目の前に
現れてくれる
他人や出来事は
自らの
内宇宙を
映し出してくれる
存在として
現れてくれて
いるのです。

別のものでは
ありません。
すべては
神の
創りしもの
神の化身として

私たちの
今の心の状態を
反映して
現れているに
過ぎません。

今のあなたに
変容を促すために
現れている
他人という名前を
つけた
もうひとりの
あなたなのです。

あなたの
心の内面を
映す
映し絵として
現れている
存在なのです。

あなたが
もう一人のあなたを
見て感じるもの
それが
あなた自身なのです。

自分と他人を
分け隔てるものは
自我意識で
ものを見るからです。

自と他は
別のものでは
ありません。
自他一体なのです。

自他一体を
感じた時
自と他と
分け隔てるものが
一切無くなった時
真我意識に
至るのです。

この真理を
知ったとき
私たちは
他に
現れるところの

悪と
見えしものも
闇と
見えしものも
自分の反映だと
解ります。

その時
その相手や出来事を
変えるのではなく
私たち自身を
変えればいいことに
気づきます。

私たち自身が
変われば
私たちを
映す映し絵も
変わっていくのです。

風景が
180度転換
するのです。

“敵は自分の内に在り”
問題はすべて
我が内にあるのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

あなたの
目の前に
あなたの
あるべき姿を
見つけてくれる

たくさんの
“他”という
名前の
人や出来事が
存在して
くれています。

今日一日
“他”の人や
出来事に
感謝を
捧げましょう!

そして、
すべてを
大いなる愛で
包んで頂いている
神に感謝を
捧げましょう!

「生かしていただいて
  ありがとうございます。」

共有、ありがとうございます。

2011年9月11日日曜日

「体験をすること」

このブログのテーマは
今という
この瞬間に
生きるという
観点から
お話を進めています。

今、この瞬間にしか
確かな実在は
ありません。

今を
確かに
生き切ることこそ
実に
必要なことです。

では
「今を生きる!」と
言っても
「どう、生きれば
いいの?」という
声が
聞こえてきそうです。

昨日のブログにも
書きましたが
私たちは
この現象の世界に
自らの
問題集を
携えて
降りてきます。

その問題集は
過去に生きた中で
修正できなかった
数々の
自らの傾向性を
乗り越える意味で
綿密に
設計された
自らが
自らに
与えた問題集です。

この世に
生まれて
きたときには
すっかり
忘れて
この人生の課題に
取り組んでいきます。

すべては
神に繋がる道
魂の進化のために
現れているに
過ぎません。

人はよく
「なぜ?
わたしにばかり
次から次へ
問題が
起こるのだろう?」と
言います。

正確には
「なぜ?私は
こんなにも多くの
難題を
自分に
与えたのだろう?」
というのが正しいのです。

それは、
あなたが
それらに
耐えていける
大きな
魂であることと、

この現象界における
肉体や物質に
偏りすぎていて
自我から
問題を
解決しようと
今は
考えている
からなのです。

頑固な傾向性は
さらに
問題を
大きくしていきます。

自我では
問題は解決しません。
自我は
対立した考えを
生みます。

自我は
一生懸命
頭脳を
捏ね繰り回して
分析を企てます。

分析は
分離を生みます。
自分の価値観
自分の正しさの
基準という
曖昧模糊としたもので

自分のその時の
モノサシで
計ろうとします。

この
空間的場所における
思考世界に
嵌って
しまっています。

証明できないこと
立証できないことを
排除する意識が
問題をさらに
複雑にしていきます。

自らが
問題を
分析しようと
余計なことを
考えるから
さらに
混乱するのです。

困難にしているのは
自我から考えた
自分なのだと
気づかないうちは
堂々めぐりに
なることでしょう。

正しくは
自らが
この現象界に
生まれる前に

自らに課した
体験を通してしか
得られない
数々の
問題を
自らに
課している
ということです。

自分が
何かをするという
意識から離れて
自らが課した
目の前に
現れるところの
体験を目的と
するのです。

この現象界は
体験をする
場所として
設定されています。

あらゆる体験は
あなたにとって
無駄なものは
ひとつも存在
しないのです。

そして
偶然に
起こることも
一切ないのです。
すべて必然です。

あらゆる
出来事は
自らが
この現象界で
体験したかった
ものばかりです。

天上界で
問題を作り
この現象界で
自分が体験できる
問題集を
作成しているとき
天上界での
あなたは
ワクワクして
いた筈なのです。

「私は
今回の生においては
必ず
これらの問題集を
クリアして
なるべく
早い時期に
体験の目的を
知るだろう!
それは
心の内奥に
潜んでいる
神性に気づき
自らの
場所を
光り輝く
愛の世界に
することだったのだ!
私の周囲を
照らしていくのだ!
この現象界は
愛の表現界として
あったのだ!」と

こういう
気持ちでした。

どうですか?
思い出しました
でしょうか?

こう考えると
今、起こっている
問題と思っている
テーマを
体験していると
いうことは
自分の
思い通りに
起こっている
出来事でしょう!

すべてが
思い通りの
世界なのです。

私たちは
これらの体験を
通じて
元々備わっている
真我意識に
到達して
いくのです。

そこには
苦しみや
悩みは
存在しません

愛を表現するための
すべての要素が
備わっています

自由自在です。
思いやりや
慈しみや
美しさや
優しさや
安心や
平和や
愛のエキスが
いっぱい詰まった
神様の部屋です。

ここには
目を
吊り上げていたり
渋面の様相も
嘆き
喘いでいるものも
一人も
おりません。

皆が、
本質を
実感しています。

無限の世界
永遠の世界
実相の世界です。
喜びに
満ち満ちています。

私たちは
本当は
こちらが
永遠の
住まいなのです。

この現象界は
仮の住まいに
過ぎません。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間に
あなたの体験している
テーマは何ですか?

折角ですから
喜んで
楽しみながら
体験してみてください。

あなたが
生まれる前に
このテーマを
こなしていく自分に
ワクワクしたように!

ありがとうございます。

2011年9月10日土曜日

「無限に生きる」


“私たちは
無限である。“

このブログで
何回も何回も
書いてきた
テーマです。

この世で
私たちの
目の前に
生起することは
無限の自分が
選択をしない限り
起こることは
ありません。

どんな
些細なことでも
どんな
大きなことに
見えるものでも

無限の自分が
選択した結果
起こっています。

偶然はひとつも
ありません。
すべて必然です。

でも天変地異とか
自分で選択は
出来ないでしょう。
という声が
聞こえてきそうですが、

実は
無限の自分は
深い部分で
承諾していることです。

それは
無限を
感じなければ
解りえないことです。

無限で永遠の
存在である
私たちが
日常
起こってくる
出来事に
一喜一憂しているに
過ぎないのです。

無限で永遠の
存在である
私たちが
有限を
制限を
見てるに
過ぎません。

それは
形あるものを
真実として
捉えていて
本質を
見ようと
しないからに
過ぎないのです。

私たちが
生まれる前に
今回の生の
課題を
決めて

そして
有限の肉体に
閉じこもり
無限を覆い
この世に
現れてくる訳です。

無限は
覆われているだけで
ないのでは
ありません。
唯、奥深くに
眠っているのです。

問題を解くのに
答えが
解っていたら
実力がつかないので

自らの
課題の中で
いろいろな
問題を
与えながら

ひとつひとつ
解いていきながら
実力を
あげていきます。

すべては
心の奥深くに
厳然として
存在する
無限に
到達するために
絶妙に書かれた
進化の設計図なのです。

だから
何の心配もする
必要はないのです。

簡単な
問題を
解いていたら
退屈で
あくびがでるでしょう!

わたしたちが
小学校1年生の
読み書きや
算数の
九九のテストを
されても
つまらないでしょう!

新鮮かもしれませんが(笑)

巧妙に仕掛けられた
引っ掛け問題が
隠されています。

自分が作った
問題集ですから
自分の魂の傾向性を
よく知っていますから
間違えやすい問題も
誰よりも
解っています。

そういう問題を
出します。

その問題を
クリアして
こころの奥深くに
潜在している
無限を
発見するまで
これでもか
これでもかと
問題は
現れてきます。

問題が
問題で
なくなった時

私たちは
本質なる
実相の世界
無限へと
至っていく道を
発見するのです。

元々
備わっている
無限に
気づくことに
なります。

無限というのは
不可能は無いと
いうことです。

不可能はあると
お思いですか?

そう思っていれば
不可能は
まだまだ
あります。

人間は
自分自身の
思った通りの
自分に
なるのですから
不可能を
創っていきます。

そういった意味では
思い通りの
自分に
なっているのです。

みんな
超能力者です。
思った通りに
させる能力を
持っているのですから

どうですか
そういう観点に
たって物事を
見てください。

そうすれば
日常の中で
電車で足を
踏まれたくらいで
怒っては
いけないと
いうことにも
繋がります。

それは
自分で与えた
問題に
尻尾を巻いて
ギブアップして
いるようなものです。

自分の
怒りっぽい性格を
知っている
無限の自分が
自らに
与えた
問題なのですから

頑固すぎるくらい
怒りっぽいようだと
足を踏んだ上に
踏んだ相手は
「すいません!」も
言いません。

そこで
さらに
怒り狂って
墓穴を掘ります。

私が
そうでした
堪え性の無い
すぐ怒る人間でした。

若い頃は
目が合ったといって
喧嘩をふっかけ
殴る蹴るの
暴行を加えていました。

自分が創作して
いるにも
かかわらず
魂レベルで
相手役を
引き受けてくれた
恩ある
人を殴り蹴りをする
訳ですから、
何をか況やです。

私に
あらゆる罵声や
暴行を加えられた
数多い
心の友に
心から
お詫びを
申し上げたいと
思います。

「私の作品に
出演して
いただいた上に
ギャラも
払わないばかりか
罵詈雑言、
目に余る暴行を
与えて
申し訳ありませんでした!」

「しかし、
あなたの物語の中に
私の存在が
出演者として
あなたの傾向性を
修正し
無限に向かわせる
お手伝いが
できたとすれば、
そのことは不問に
付してください。
ありがとうございます。」

こう考えていくと、
私たちの
まわりに起こる
すべての出来事は
私たちに
責任があるという
立場に
変化していきます。

私たちの
まわりに生起する
すべての体験が
怒りや
妬みや
恨みつらみといった
苦しみを伴う
感情ではなく

自分自身に
巣食っている
マイナスの
こころの傾向性に
あることに
気づいていきます。

肉体に宿った
無限の自分が
有限性に浸り切り
その限定された
ものの考え方
ものの見方に
気づくのです。

自分が
創造の源であり、
他の出来事や
人間が
問題ではないことに
気づきます。

『今日は残りの人生の最初の日』

今までは
今までです。
既にないものです。

今日、この瞬間から
私たちは
すべてに
責任をとる
立場になれます。

そう思うとき
私たちは
今後、一切
被害を被ることは
ひとつも
ないのです。

「私が知らないこと。
私が承諾
していない出来事や
人に対しては
責任は持てない」と、
いうかも知れませんが、

あなたの目の前に
起こることは
どんな
些細なことから
大きな
出来事まで
あなたが
承諾して
いないことは
決して起こる事は
無いのです。

ありがとうございます。

2011年9月9日金曜日

“あなたは大きくなったら  何になりたいですか?“

今日は
何回かこのブログで
紹介させて
いただいている
「こころのチキンスープ」の
中から
こんな話を
共有してください。

このブログを
読んでいる方が
何歳かは
わかりません。

でも、
「あなたは
大きくなったら
何になりたいですか?」と
問いかけます。

それでは、
抜粋させて
いただきます。

『人間は、ひょんなときに思いがけない発見をすることがあります。
私は数週間前に、そんなひとときをもちました。
私が寝室のベッドの上で、赤ちゃんのおむつを替えていると、
五歳のアリッサがやってきて、ベッドに飛び乗りこう尋ねました。

「ママ、大きくなったら、何になりたい?」

私は、娘が新しい遊びでも考え出したのかもしれないと思い、
調子を合わせて答えました。

「うーん、そうね。大きくなったら、お母さんになりたいかな…」

「ダメよ、もうお母さんになってるじゃない。ねえ、何になりたい?」

つぎに、私はこう答えました。

「わかったわ。それじゃ、大きくなったら、牧師さんになりたい」

「だってママ、もうなってるでしょう!」

「あら、ごめんなさい。じゃあ、どう答えたらいいのかしら」と
私は言いました。

「ママ、大きくなったら、何になりたいか、
思ったままを言えばいいの。
何でも好きなものになれるのよ!」

私は、とっさにどう言ったらいいかわかりませんでした。
アリッサは、私から答えを引き出すのをあきらめ、
部屋を出て行ってしまいました。

しかし、このわずか数分のできごとに、
私は心を揺さぶられていました。
幼い娘の目には、
私はいまでも私のなりたいものになれる人と映っていたのです!
年齢も、牧師という職業も、夫と五人の子どもも、
学士号や修士号も、何ひとつ関係ありません。

彼女にとって、私はいまだ夢を描き、
高い理想をかかげることのできる人間でした。
私の将来はまだ終わっていないのです。

私は宇宙飛行士にも、ピアニストにも、オペラ歌手にもなれるのです。

彼女には、私がいまだ可能性に向かって成長しつつあり、
私の行く手には輝く未来が待ち受けていると
見えているにちがいありません。

娘は、誠実かつ純真そのものに、
まったく同じ質問を、おじいちゃんやおばあちゃんにも、
いえ、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんにだってするでしょう。

こう気づいたとき、娘と共有したこのひとときが
美しくきらめいて見えたのでした。
ある本に、こんな一節がありました。

「歳をとったとき、私は、
いまの私とはまったくちがった人になっていることだろう。
いま、もう一人の私が生まれようとしているから…」

さあ、あなたも考えてみてください。
大きくなったら、何になりたいですか?

テリー・ジョンソン牧師

「私たちが一番高くまで飛ばせる凧、それは想像力です。」
ローレン・バコール

いかがでしたか?
私たちが
いかに
制限された不自由な心に
支配されているか
気づかされる
短いけど
すばらしいお話です。

私たちは
神様の子ども
無限で
永遠な
存在です。

いつも
こころが
この領域に
ある時

どこまでも高く
飛翔できる
翼を
持っていることに
歓喜の声を
あげるでしょう。

『今日は残りの人生の最初の日』

あなたは、
大きくなったら
何になりたいですか?

共有ありがとうございます。

2011年9月8日木曜日

「瞑想のすすめ」

私たちの住む
この地上世界は
毎日、
この肉体の目で
見ている世界です。

朝起きて
最初に
目にするものは
何でしょうか。
時計でしょうか?
旦那さんや
奥さんでしょうか?
他のものですか?

何でもいいのですが
人によって
違うでしょうが
この目で
見たものから
意識が動き出します

時計を見て
「あ!何時だ!
急ごう!」とか

奥さんを見て
「おはよう!
ご飯できてる!」とか

そして
いろいろな
現象での
出来事の
一日が
スタートします。

多くの人が
このリズムで
毎日を
送っていきます。

一方
目に見えない世界が
あります。
周波数が異なる
意識の世界です。
便宜的に
天上世界と
呼びます。

私たち
肉の目で見る癖が
ついていますので
目に見えない世界は
無いと
断定する人たちは
多いです。

私の周囲でも
そんな方が
たくさんいます。

私自身も
そうでしたから
中々
見えない世界を
信じるということは
並大抵では
ありません。

その後の
いろいろな体験や
いろいろな縁や
勉強を通じて
ある時
確信するのです。

しかし
厳然として
あるのです。
ここは
あるという前提で
話を進めます。

あるということを
信じている方でも
この
地上世界と
天上世界は
別々にあると
思っている方が
多く
いらっしゃいます。

また、
ある宗派などでは
そう説いている
ところもあります。

地上世界と
天上世界は
別々にある
存在ではなく
同時に
存在しているのです。

天と地は一体です。

地上世界という
物質界は
変化の中に在り
一定のものは
無い世界です。

目に見える世界
有限の世界です。

天上世界は
不変の世界
目に見えない
意識の世界

ビジョンでしか
見ることが
できない世界
内なる宇宙の世界
無限の世界です。

天上世界は
原因であり、
エネルギーと
質量との
完全調和した
愛の世界です。

地上世界は
結果であり、
その天上世界の
愛の念いが
形として
物質として
現わした
結果の世界です。

天上世界と
地上世界は
このように
原因と
結果であり
離れては存在
できない
表裏一体の
世界です。

ただ私たち
結果の世界に
住まう人間が、

この地上世界に
生れる時に

すべての
潜在意識の記憶を
忘れてしまうために

有限の世界に
閉じ込められて
いるのです。
単なる錯覚に
過ぎません。

これは
肉体の目で
見ているだけ
だからなのです。

本質の目で
見なければ
なりません。
それは
私たちの原因を
知るということです。

原因を
知らない限り
肉体による
物質による
有限から
離れられなく
なります。

有限を
いくら求めても
不毛です。

それは
求めても
求めても
形を変えて
いくでしょう。

不変なもの
無限なものを
求めることです。


その方法は
一日のスタートに
20分でも
30分でも
いいです。

目から見ないで
目を瞑り
心の目を
開いていきます。
チャクラ
意識し
無限の光を
取り入れるのです。


意識して
あるべき姿を
見つめるのです。

夜の寝る前の時間
少しの時間で
いいから
目を瞑り
今日一日を
振り返り
肉の目で見た
数々の現象が
あったなら
チャクラを意識し
無限の愛の光を
取り入れて
開放してください。

そのわずかな時間が
あなたを
本質へと
誘う鍵と
なるでしょう。

地上世界も
天上世界も
有限も
無限も
原因も
結果も
同時に存在して
いるのですから

どちらの
思いを発するのかに
かかっているのです。

私たちは
同時に
存在しているものを
同時に
思うことは
できないのです。

天上世界の愛の
思いを発するのか?

地上世界の
自我の思いを
発するのか?

物質界の
有限の思いを
発するのか?

天上世界の
無限の思いを
発するのか?

創造主である
原因の世界から
思いを発するのか?

被造物である
創られた側
結果の世界から
思いを発するのか?

そのどちらかを
今、思うのでしょうか?

『今日は残りの人生の最初の日』

今日という
この瞬間
あなたは
どちらの思いを
選択し
発していきますか?

そのために
朝と夜の
寝る前の時間を
取って下さい

少なくても
この時間は
あなたにとって
永遠の時間に
なることでしょう。

真実は
あなたは
これから無限に
なるのではないのです。

最初から
無限なのです。
原因を
忘れているに
過ぎません。

今、この瞬間も
無限なのです。
未来永劫に
無限の存在なのです。

ただあなたが
目で見える
外だけを見て
内を見ないからに
過ぎません。

そして、
制限をつけた
存在
有限な存在に
周波数を
合わせています。

あなたの悟りは
あなたの
理解力によります。

あなたの救いは
あなたにしか
出来ないのです。

私たちは
もともと
無限の存在ですから、
そのことを
思い出すだけで
良いのです。

今日から
少しの時間で
いいから
瞑想を
してください。

それが
無限の自分
真実の自分を
思い出す
方法なのです。

「己を知ることは
神を知ることになる」と
言われているのは
このことなのです。

ありがとうございます。