2011年10月30日日曜日

“身体から考える生き方”

先日の
ある例会で
すばらしい
お話を聞かせて
いただきました。

ゲストとして
東京の
代々木上原で
開業されている
吉田クリニックの
吉田健太郎院長が
来場され
大変興味ある
お話を
されました。

吉田先生の許可も
ありましたので
皆様にも
共有して
いただきたいと
思います。

まず
吉田先生の
名刺が
とても
ユニークです。

名刺の表面には

「何もし内科
吉田クリニック
院長 吉田健太郎」

そしてその裏面には
吉田クリニックの
基本理念が
書かれています。
そこには
こう書いてありました。

「人間は治るようにできている
■ 理念■
薬に頼らない
医者に頼らない
病院に頼らない」と
いうものです。

名刺だけではなく
吉田先生自体が
大変ユニークな方で
一切飾り気のない方で
全身から
あたたかな雰囲気が
滲み出ていて
とっても親しみを感じる
先生です。
いっぺんにファンになって
しまいました。

こんな先生に
かかったら
治らない病気も
治ってしまうと
思います。

吉田先生は
はじめから医学を
志した訳ではなく
名古屋大学の文学部を
卒業したあとは
仲間たちは
大体が一流の会社や
官庁等に
就職していったが

吉田先生は
東京の実家に戻り
定職もつかず
週に2~3度
家庭教師をしながら
渋谷界隈を
ぶらぶらとして

昼間は駅前の喫茶店で
野球が好きだったもので
あらゆるスポーツ新聞を
読み尽し
その後、
パチンコ屋に行って
勝ったら
おいしいものを食べ
負けたら
本屋や図書館に行って
本を立ち読みする
というような
毎日を送って
いたのだそうです。

両親には
大変、迷惑をかけました
とおっしゃっていました。

吉田先生は
こう言います。
当時の私の思いは

「決まりきった人生は
選択したくない!」と
思っていた。
いわゆる、
「いきがってたんですね!」と
おっしゃっていました。

「何ものにも
属していない
ということは
束縛がないものだから
自由ですね!」と言って
笑っておられました。

そういう生活を
長く続けていた最中
本屋や図書館に
行くのが
唯一の日課になっていて
特に好んで読んだのが
宗教や霊的なものの本が
多かったそうです。

そのときに目に触れた
本の中に
シュバイツァーさんの
伝記が
あったそうです。

その本の中に
シュバイツァーさんが
30歳のときに
貧しい人たちを
助けたいと
医療の道を
志したというところを
吉田先生は読み、

「自分も
納得できるような
人生を送ろう!」と
決意をしたのだそうです。

当時、
薬漬け、
検査漬け、
手術偏重といった
現代医療の
あり方への疑問を
感じていた吉田先生は

シュバイツァーさんと
同じ医療の道に
進みたいと
思い至ったのだそうです。

そして、29歳から
資格を取るために
猛勉強をし
30歳のとき
千葉大学医学部に再入学し
36歳から
念願の医者に
なったのだそうです。

しばらくは
大病院に
勤務していましたが
理想の医療を
手がけるために
14年ほど前に
クリニックを
開業したのです。

吉田クリニックの
HPには
自身のクリニックの
紹介のところには
こう書かれています。
「西洋医学を基礎におきつつ、
東洋医学や運動療法、
スポーツ、温泉療法などを
積極的にとりいれ、
体にやさしい治療、
形式にとらわれない
医療に取り組んでいる。
また、薬をなるべく
使わない医療を目指し、
健康の要は「食」
である事に着目し、
農業、畜産、健康食品に
興味を持ち、
研究、調査を展開中。
現在、日本胎盤臨床研究会」
理事長を務める。

以上が
吉田先生の
現在に到るまでの
簡単な流れでした。
なかなか
面白そうな方でしょう?

さて
本題の医療についての
お話に
これから
入ります。

まず
“人体から社会を考える”
というテーマで
お話をしてくれました。

ヒトの体は
200種類
60兆個の細胞から
できているのだそうです。
すごい数の細胞が
私たちの身体の中には
あるんですね!
これだけでも
大変な驚きです。


(細胞の断面図です。)

この60兆個もの
全ての細胞は、
まったく同じ
DNAを保持して
いると言うのですから
さらに不思議ですよね!

それが整然と
統制が取れていて
戦うことなく
平和に機能して
いるのでだそうです。

一方、その細胞を
内部に持つ
人間の世界は

明日にでも
地球上の人口が
70億人を超える
そうですが

平和どころか
いつも争いと殺戮の
真っ只中にいます。

変な話ですが
人間は
私たちの中で
整然と働いている
この細胞に
負けている。
細胞に見習いなさいと
言いたいです。

この細胞ができる
きっかけとなる
受精に到るまでには
私たちは
大変な競争を
勝ち抜いてくる訳です。

一億分の一以上の
確率で
激戦を勝ち抜いて
たったひとつの
細胞となるのです。
たったひとつ
一等賞にならない限り
産まれることは
ないのです。

私たち一人ひとりが
その激戦の結果
代表として
産まれてきたのです。

吉田先生は
仰います。
「他の2等賞以下の
すべての
人生の代表としての
自覚を持つことです。
その分まで
人生を大切に
生きなければ
なりません。」と

そして、
ヒトは受精卵という
たった一つの細胞が
一つから
二つになり
二つから
四つとなり
四つから
八つとなり・・・・・
卵割していきます。

その卵割、
増殖、分化を
繰り返しながら
それぞれ脳になったり
心臓になったりして
あらゆろ内臓に
なったり
肛門になったり
皮膚、骨、筋、毛髪等々
とても
バランスよく
眼も二つ
指は5本づつと
私は肛門は嫌だ!とか
わがままも言わず

そして
37週で約2兆個の
細胞を持つ新生児が
誕生するのです。
すばらしく機能された
身体です。

それぞれの
細胞が同じ
DNAを持つの
だそうです。

いわゆる、
心臓になる
予定の細胞は
他のそれぞれの
細胞になるDNAに
ふたをする
のだそうです。

そして
一つの心臓になると
言うのですから
もうこれは
奇跡と言う他
ありません。
人間がこういう
メカニズムを
創れると思われますか?

生命科学の
第一人者の
村上和雄先生をして
“サムシンググレート”
と言わしめた存在
神の存在なくして
このような奇跡が
起こる訳が
有り得ません。

DNAは
デオキシリボ核酸といって
1953年に
ワトソンさんと
クリックさんによって
構造が解明されました。

核、直径
1000分の
数ミリという
一つの細胞の
一つの核に
そのヒトを構成する
すべての
遺伝情報が
入っていると
言うのですから
どうですか?
もうすごいでしょう!

胎児の分裂の速さは
がん細胞よりも
早いんだそうです。

そして
吉田先生の話は
誕生から
成長、死に
話が及んできます。

死ぬことが
いかに重要であるかを
お話してくれました。

ヒトの細胞は
60兆個と言いましたが
ヒト細胞の分化は
60兆個で
止まるように
出来ているのだそうです。

このことを
自死遺伝子と言って
分化した細胞では
この遺伝子に
鍵を掛けない
んだそうです。

例えば
5本の指は
初めはグローブの
ようであって
開いていない
のだそうです。

一本一本の
指の隙間の
遺伝子が死ぬ
ことによって
その部分の
成長ホルモンが
止まることによって
指が開くように
なるのだそうです。

このように
死ぬこと、
止めることは
とても重要である
ことがわかります。

まず
受精からして
そうです!
生き残る精子は
一つです。
他は死んでいくのです。

器官形成には
多くの細胞が
死んでいきます。

だいたい20歳くらいで
身長の伸びは
止まります。
止まらなければ
ジャイアント馬場さん
(ちょっと古いか)
みたいに
2メートル、3メートルに
なってしまいます。
成長ホルモンが
減少していくのです。

それぞれに
死ぬことが
なかったら
大変なことに
なってしまいます。

また人間の
肉体生命も
200年も300年も
生きても
それはそれで
大変でしょう?
想像してみてください。

ただ一点
がん細胞だけは
無限に細胞分裂を
繰り返すのだそうです。
自死遺伝子にふたを
してしまうのだそうです。
鍵がかかって
死ぬことができず
増え続けるのです。

他の細胞との
情報交換を
まったく拒否を
してしまう
無法者なのです。
厄介な細胞です。

がん細胞も
一つの細胞から
分裂、増殖します。
分別なく
他の組織まで
進入するのです。
転移していきます。
縄張りを
強引に奪っていく
悪漢やくざのような
ものです。

他の細胞は
胃なら胃
食道なら食道と
わきまえて
他の領域は
一切侵すことは
ありません。

そして
吉田先生は
人間の持つ
ホメオスタシスという
話をしてくれました。

ホメオスタシスとは
日本語では
恒常性といい
生命の生命たる
所以です。

少々、
自分自身の
身体の内部環境が
乱れたとしても
元に戻る力や
治す力が
備わっています。

細胞数も60兆個で
一定に
保たれていますし、
体温や
血圧
血液
組織液
水等々が
少々乱れても
常に
戻す力があるのです。

病気というのは
この恒常性が
乱れた状態を
言うのです。

基本的には
身体の内部環境を
維持することによって
病気は防ぐことが
できるのです。

それは
消化・吸収
呼吸
排泄を意識し
心がけることだと
吉田先生は言います。

いろいろな
ウィルスやばい菌等々
外敵から
恒常性を保つための
仕組みは

病気にならないための
防御

病気になった場合
白血球やリンパ球など
追い出そうとする力
免疫

もし壊された場合の
細胞増殖因子や
凝固因子など
再生する能力等の
力がそなわっています。

そのことは
私たちの身体が
教えてくれる
大変貴重な生き方に
繋げていくことが
できるということです。

そして
吉田先生は
“頼らない生き方”を
私たちに
提唱してくれました。

自らに頼る
そのために
頼れる力をつけること

日本人というのは
どちらかというと
頼ることが
好きな民族
なんだそうです。
そう言われてみれば
確かに
そうかもしれません。

学校や学校に頼る。
会社の看板や
肩書きや地位に頼る。
組織に頼る。
国に頼る。
他に頼ることは
自分が成長する
機会を逃すものだと
吉田先生は
仰います。

医療においても
特に日本人は
頼りがちであると
先生は言います。
それで
最初に話した
吉田クリニックの名詞に
書かれていた理念に
繋がっていきます。

薬に頼らない
医者に頼らない
病院に頼らない

例えば
薬に頼ることは
違う種類のばい菌が
入ってきた場合
無力である。
また
自分には
再生力があるにも
かかわらず
その再生力を発揮
できなくなると
言われて
自分の力で処理できる
力があるのです!と
力強く仰ったのです。

人体は良くなるように
出来ています。
自然治癒力が
備わっているのです。
薬や医者や病院に
頼ることは
その元々持っている力
自然治癒力を
弱めることになって
真の健康の機会を
逃すことになると
仰ってお話を
終えました。

付録として
村上和雄先生の言葉と
島田洋七さんの
おばあちゃんの
佐賀の
がばいばあちゃんの
言葉を添えて
くださいました。
すばらしい名言です。

村上先生の抜粋です。

☆ 笑いの効果
「笑いが血糖値を下げる」
笑いは、
心身の免疫作用を
強化する
お金のかからない薬
ともいえる。

☆ 祈り
「願いから祈りへ」
自分のための願い事から
地球のため、
宇宙のための
「祈り」に
変わった時、
その「祈りは」、
すごいエネルギーを持つ。

がばいばあちゃんの
抜粋です。

「みんな偉い人には
なれない。
頭を使う人もいれば、
労働者もいる。
総合力で
世の中は成り立ってるばい」

「ばあちゃん、正露丸は
胃腸薬やろう!」
「何飲んだって、同じ事くさ」
ばあちゃんは薬に頼らない
人だったのだ。

はしかで熱が出て、
僕はうんうん唸っていた。
体温計をみると、
38.2度
「よし、大丈夫、お前なら、
40度は出せる」

いかがでしたか?
私たちには
こんな偉大な力が
備わっているのです。
吉田先生が
仰るように
頼ることをやめて
自らのエネルギーを
最大限に
発揮させることこそが
自らの身体が
教えてくれた
貴重な生き方に
繋がっていくのでは
ないでしょうか?
そう思わせて
いただきました!

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちは
この奇跡の連続で
今を生きているのです。

自分は
神の遺伝子を持った
全(まった)き
かけがえのない
特別な存在です。

今の瞬間から
自らを頼み
他に依存しないよう
努めましょう!

そうすると
私たちの内部の
細胞の一つひとつが
私たちと共に
働き出すのです。

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年10月28日金曜日

“この世の意味”

一昨日は
谷口雅春先生の
「生命の実相」講義の
テープの中から
創世記の第2章
アダムとイヴの物語を
紹介しましたが

アダムとイヴが
蛇に唆されて
善悪の知恵の実を
食して以来
絶対善は包み隠され
二元性の中で
あらゆる迷妄の中に
私たちは
ある訳ですが

別の観点で言えば
それはそれで
私たちに取って
必要なものである
と言う言い方も
あると思います。

二元性があるから
闇によって
光の輝度はより
輝きを増すように
もう一方の
負の働きによって
プラスの働きの
すばらしさが
際立つという
局面もある訳です。

包み隠すという
この語源が
“包み”から“罪”と
なったのですが、
アダムとイヴ以来
私たちに
つきまとうところの
闇や影そして
否定性や悪や
罪などの部分は
私たちの
輪廻の中での
この現実界での
階梯を上るうえでの
カリキュラムの
一部でもある訳です。

そう考えると
私たちが
小学校から
中学校へ
さらに高校や大学に
進むように
人生の成長にとっての
条件ともいい得る
部分だと思います。

あらゆる闇の部分
混沌や疑惑
絶望や怒り
苦痛や困難は

私たちの心が
もう一方の
平和や安心や
統合や癒し
優しさ、愛の
光の部分を
歪めているやり方の
反映として
現れているに過ぎず
この肉体を持つ間の
経験則でしか
ない訳で

結局は
宇宙の根源である
愛と光を
より見出すために

愛と光を
賛美するために
現れる
プロセスとしてあるに
過ぎないものです。

私たちは
永遠の魂の進化の
道筋にあるものです。

今、その途上に
どのようなことが
起こっていようが
それは
いずれ到達する
エデンの花園への
重要な道筋なのです。

神はアダムとイヴを
エデンの花園から
追放しました。

この真実の意味は
蛇と言う
闇の象徴を現わし
魂と肉体の
分離という幻想の
闇の中に
アダムとイヴを
置いてきました。

そのアダムとイヴは
私たちです。
その幻想の闇の中に
深く入り込み
もがき苦しみ悩み
人は経験を得るのです。

そして、
その迷路から
抜け出し
幻想から真実の
永遠の全体性へと
戻っていくのです。

その間も
私たちを
創造した神は
私たちと
一刻も離れずに
始終、愛のまなざしで
見守っているのです。

そして
私たち自身が
この現実界において
あらゆる経験を
創造して
いっているのです。

私たちは
本質の部分は
創造者であり
それと同時に
肉体や個性は
被造物である訳です。

どんなことであろうが
自分の行う創造に
対する責任を
受け入れるという
姿勢を持つことは
必要です。

その姿勢を
持った上で
私たちは
この肉体を
持っている以上
その肉体を持つ意味も
ある訳ですから
肉体から起こる
迷妄は
誰でも
起こる部分です。

その人間的な部分を
離れた上での
天上人のみの
悟りも又、
ないのです。

エデンの花園は
永遠の生命の世界です。
その真実なる
永遠を知るために

私たちは
この限られた世界に
有限の肉体に
閉じこもって
不自由な
悩み多き人生を
歩んでいます。

永遠なる真の意味を
無限なる真の意味を
自由なる真の意味を
求めて

『今日は残りの人生の最初の日』

この瞬間、瞬間に
私たちは
進化の道筋の
旅の中で
正しい道に
いるのです。

今、自分に
起こっていることを
受け入れましょう
それは
あなたが未来の
状態になるために
必要なステップ
なのですから

その上で
あなたの心と
直観に従って下さい。

心は頭脳よりも
あなたの魂のことを
一番知っているのです。

生かして頂いて
ありがとうございます。

2011年10月26日水曜日

「神との一体感~復活」

今日も時間が
ありましたので
谷口雅春先生の
テープを
聞きました。

その中に
創世記の第2章に
書いてあるところの
おなじみの
アダムとイヴの
お話を話して
いられました。

皆様も
聞いたことがある
お話なので
知っている方も
いられると
思いますが
紹介しますね!

『神がアダムとイヴ
という人間の祖先を
創られて、
エデンの園
(永遠生命の世界)という、
幸福ばかりが
充満している世界に
住まわせられた
のでありますが、

ところが
蛇が出てきて、
エデンの楽園の
中央部に
聳えているところの
知恵の木の実
(善悪を知る木)を指して、

「あの実は大変おいしい、
神様があれを
食べるなと仰っても、
あれを食べると
人間が賢くなって
神様が治めにくく
なるから、
神様が食べるなと
言われたのであって、
死にはしないから
食べなさい!」
と誘惑します。

最初は奥さんである
イヴを誘惑する。
蛇の知恵によって
誘惑されたのです。

蛇は全身を
土の塵の上に
這うところの
動物であって、
土の塵は
物質の象徴である。

物質で人間が
出来ているのである
肉体人間が
本当の人間である
という蛇の知恵、
その知恵の木の実を
アダムと
イヴが食べました。

その時に
「汝らは塵ならば
塵に帰るべきなり!」と
神が宣言をし、
追放されました。
という物語です。

この蛇が授けた
五感の知恵を捨てて、
生命の木の実を
食べ直さなければ
ならない。

生命の実の姿(相)
英語で言えば
アット・ワン・メン、
“あがない”とい
意味ですが
‘一体である“と
いう意味でもあります。

罪をあがない、
神と一体であると
自覚さえすれば
塵が消えるのである。
その自覚が
包み隠されているのが
罪なのである。』
と話されておりました。

神が人間を創った
このアダムとイヴの
時代は
人間は
元々不死の世界
エデンの楽園に
住んでいたのです。

ところが
アダムとイヴが
蛇にそそのかされて
善悪の知恵の
木の実を
食べて以来

人間の
不死性
永遠の生命と
絶対的善世界という
本質的なものが
覆い隠され

肉体である
物質的なものばかりが
重点を置く時代と
善と悪という
二元性の時代が
今日まで続いて
いるのです。

本来は
絶対善こそ
実相であり
肉体は仮相であり
物質は無常であるのです。
生命が離れた瞬間
物質である肉体は
脱ぎ捨てられた
オーバーの如くの
存在でしかありません。

そして
この現実界は
二元性に縛られて
悪も実在するような
錯覚を植えつけられて
いるのです。

悪は善を一時的に
閉ざしているに
過ぎず
単なる影であり
ゆがみにしか
過ぎないもの
実体のないものです。

谷口先生は
さらに
クリスチャン
サイエンスという団体の
開祖であるところの
メリー・レイカー
エディ夫人の本
「サイエンス・アンド・ヘルス」
を引用されました。

「あがないは
人間が神と一体になる
具体的実行であり、
それによって
人間は神の子として
真理・生命・愛を
反映するのである。
ナザレのイエスは
父の子、
神と人間との
一体なる真理を説き
これを実証したのである。

イエスは勇敢に
五感の示す
感覚的実証を
否定し去り、
唯物的戒めに反対し、
彼の神癒の力によって、
すべての反対者に
対して
実際的反駁を
行ったのである。」

このことを
紹介され
イエスの十字架は
肉体の抹殺(クロス)で
あるとともに
復活(プラス)である。
クロスを
真っ直ぐにすると
+になる。と
説明を加えられたのです。

そして、
善のみしか
創らない神に対して、
善もあり
悪もあると認めたため
悪があるように
見えるのである
悪や病気は
自己処罰である。
神様のこしらえた
世界に
悪や病気が
ある筈がない。
人間自身が
神と和解して
いないから
あるように
見えるのである

神と和解し
神なる
生命の実相を
拝むのであると
結ぶのであります。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちは
今日、
この瞬間から
復活を果たせるのです。

あがない
神と一体になる
この自覚こそ
復活の証なのです。

生かして頂いて
ありがとうございます。

2011年10月23日日曜日

“自らの実相を観ること”

私たちは
『今日は残りの人生の最初の日』
なのですから、
今日は誕生日であり、
さらに
今日以降、
いつかは必ず
死にます。
これは、予言です!(笑)
この予言は、
絶対に外れません!

しかし、
死ぬといっても
永遠の生命が
今のお借りしている
肉体から抜けるに
過ぎないのですが。

しかし、
肉体を
持っているときに
肉体のみを我として
生きた人たちの場合

生命の意識が
おぼろげながらも
あるものですから
自分が死んだのか
どうか
訳のわからない
状態が続き
戸惑ってしまうようです。
そのために
四十九日間の
現実界に
留まる時間として
猶予期間を
与えられます。

この期間に
自分がもう
肉体存在ではないこと

しかし
確かな実感として
生きているという
意識上の感覚が

段々と明瞭に
なってきます。

肉体の時は
洋服の上から
痒いところを
掻くような
ものでしたが、

肉体が
無くなりますと
その洋服が
無いのですから

意識の感覚が
何倍何十倍にも
なってきますので

自分が生前に
為した行為を
細部に到るまで
まるで映画でも
見るが如く
ありありと
思い出すことに
なります。

例え、自分が
忘れている
ようなことでも
見せられるように
なりますので
誤魔化しは
きかないのです。

ですから
生前に
自分の内在する
良心など
まるで、
存在しないように
振舞った場合は

その行動の結果
人に与えた
心の痛みや
苦しみを
自分自身が
増幅して

その痛みや、
その苦痛を
感じなければ
ならないことに
なっています。

誰かが罰を
与えるのではなく
自分自身が
肉体を喪って初めて
自我(偽我)の意識が
徐々に薄れてきて

本来、誰にでも
備わっていた
ところの
真我(神我)の意識が
現れてくるのです。

その自分の良心が
自分の行いを
裁くことに
なるのです。

自らが
一生懸命になって
蓋をしていた
この良心は
誰も
誤魔化すことは
できないのです。

良心に
反する行為は
良心によって
清算されるのです。

勿論
人に喜びを与えたり
良心に沿った
生き方をした
場合においては
祝福されます。

その
良心に反する行為
並びに
良心に沿った行為を
秤にかけ

どちらに重きを
置いた人生を
歩んだのかを
決定し

四十九日の後
その後の
自らの赴く
波長領域へと
自らが選択を
することになります。

これは
肉体の死後。
例外なく
行われることです。

死に逝く
ほとんどの人々は

この肉体のある時に
「もっと人の為に
なることを
やっておきたかった!」と
心から思い
反省して
涙を流すのです。

誰でも
この肉体を
脱ぐときが必ず来ます!

そうしたら

私たちが
この世限りの
物質に収まっている
存在なんかで
無いことは

誰でも
直ぐ分かり
思い知らされるのです。

私たちは
永遠なる生命を
持つ無限なる
存在です。

永遠不滅なのです。
全知全能の存在
なのです。

そんな
偉大なものを
与えられているのに
なぜ、

一時的な享楽に
現を抜かして
いるのですか?

他を責め
罵っているのですか?

分離をして
戦っているのですか?

自らの生命の
実相を
自覚する
ことです。

自らの生命の実相を
自覚するとは
自らの内に
大いなる宝が
備わって
いることを
知ると
いうことです。

その
大いなる宝は
使っても使っても
減ることの無い
無限なる宝です。

無限なる宝は
愛であり
光であり
善であり
慈しみや
優しさです。

愛は与えても
与えても
尽きることの無い
与えれば
与えるほど
増え続け
世界を
穏やかにする力です。

光は与えても
与えても
尽きることの無い
与えれば
与えるほど世界を
輝かせる力です。

善も
慈しみも
優しさも
与えれば
与えるほど世界は
安心と平和に
包まれていきます。

私たちは
神の愛の
法則によって
すべてを
受け取り済みなのです。

受け取っておいて
何で!
奥の奥に
仕舞い込んで
ひとつも
使おうと
しないのですか?

仕舞っておいて
わざわざ
自分の心を
偽我の殻に
閉じ込めて
自分の心を
苦しめ
悲しませています。

偽者の我に
騙されては
いけません!

怒りや
憎しみや
妬みや
嫉み
貪りは
一次の歪みによる
感情に
過ぎないのです。

そんなものを
受け取っては
なりません。

あなたの心を
無限なる愛で
無限なる光で
満たしていくのです。

そうすれば
あなたの内にある
神性が発露して
喜びと
思いやりの
現状が現れて
くるのです。

見える現状が
がらりと
変わっていくのです。

すべては
自分の心がけ
次第なのです。

心は思いひとつです。
同時に違うことを
受け入れることは
できないのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日はあなたの
誕生日!
そして、
今日以降、
あなたは
いつ死んでも
おかしくないのです。

だとすると
今この時間を
心より
抱きしめてください。

この瞬間は
永遠なのです。

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年10月21日金曜日

「汝、幼子の如くあれ!」


私は
赤ちゃんが
大好きです。

赤ちゃんを
嫌いという人には
お目にかかった
ことはありません。

赤ちゃんなら
人間も動物も
大好きです。

大人が嫌いと
言う訳では
ありませんよ!

見てるだけで
思わず
誰もが
笑顔になる存在
それが
赤ちゃんだと
思うんです。

純真無垢な
表情や仕草
ひとつひとつが
天使そのものの
愛らしさと
そして
高貴ささえも
漂わせています。

赤ちゃんを
見ていると
神の子であることに
疑いをはさむ
余地はありません。

イエスさまは
言いました。
「汝!幼子の如くあれ!」と。

赤ちゃんのように
純真無垢で
ニュートラルな
すばらしい状態に
帰りなさい!と
仰っておられる
のでしょう。

私たちも
誰もが例外なく
最初は
赤ちゃんだったんです。
(私は、だいぶ昔ですが・・・)

でも
その赤ちゃんのときを
自分で見ることは
できません。

正確には
現在の
自分自身でさえ
この眼で
見ることは
できないのです。

自分の眼で
見れるのは
鏡という媒体を通して
見る自分のような
ものです。

肉体的なものは
すべて
限界があり
有限なものです。

私たちは
赤ちゃんを見て

純粋を
永遠を
無限を
優しさを
ほほえみを
光明を
高貴を
美しさを
愛を
そして
癒しを
感じます。

それは
肉眼で見て
心の眼で
感じるのです。

これらすべての
特性は
神の特性です。

最初に神をつけて
神の純粋
神の永遠
神の無限
神の愛と・・・
置き換えられる
言葉ばかりです。

私たちの奥底にある
神の特性、
いわゆる神性が
感応して
赤ちゃんに神を
見るのです。

私たちは
生まれたときから
元々

神性
仏性
霊性
イデア
理念と
呼ばれてきた
高貴なものが
備わっていたのです。

しかし
私たちは
この肉体に
徐々に
慣れるに従って
その高貴なるものを
忘れていきます。

成長して
認識が入り、
分別がつくように
なってきます。

良いとか
悪いとか
判断基準を
持つようになり、
自分の価値観を
創っていきます。

そして
絶えず過去に
引っ張られ、

過去の認識
というものに
つかまって
そこから
抜け出せなく
なっていきます。

私たちは
過去の認識
昨日までの認識が
今日の行動を
決定しています。

他の人から
罵詈雑言を
浴びれば
自分も
言い返します。

私の場合は
他の人の何倍かは、
声を荒げて
その上を
いかなければ
とても気が
済みませんでした。

或いは
怖くて
尻尾を巻いて
逃げ出すかも
知れません。

相手が会社の
上司かなんかだったら
明日は
会社に行くのさえ
嫌になり
休んでしまうかも
知れません。

このように
私たちは
過去の記憶への
対処から
行動を決定して
いるのです。

そして
そうこう
していると

知らず
知らずのうちに
自分と他人と
区別をし

あの人は悪い!
あの人はいい!と
自分の価値感で
判断を
していくように
なっていきます。

日常につかまって
しまうのです。

その頚木から
逃れなければ
なりません。

赤ちゃんは
そのままで
光輝いています。
神々しさも感じます。

「汝、幼子の如くあれ!」

この言葉は
真理そのものです。
赤ちゃんは
何ひとつ疑うことを
知りません。

自分の中の神を
金輪際
疑っていません。

そのままを
ありのままを
表現します。

そうしたら
神の愛の表現に
なるのです。

私たちも
何も変わりません。
今からでも
遅くないのです。

聖書の中の
マタイ伝
第13章12節に
こう書かれています。

「それ誰にても 
持てる人は
与えられて 
いよいよ豊かならん。
 
されど持たぬ人は 
その持てるものをも
取らるべし」

この意味は
「既に自分の内に
神の生命が
宿っていて、
無限の力が
備わっている
と自覚した人は、

ますます
神性が現れて
純粋を
永遠を
無限を
優しさを
ほほえみを
光明を
高貴を
美しさを
愛を
そして
癒しを
この現象界に置いて
発揮できるのである。

しかし
その自覚の
ないものは

自分が持っている
わずかな
長所でさえも
覆い隠されて
しまうのである。」

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間
神の無限が
備わっていることを
信ぜよ!

一瞬たりとも
疑うな!
幼子のように

今、ここ
この瞬間の
自覚こそが
私たちの神が
歓喜の雄叫びを
あげるのだ!

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年10月20日木曜日

“内在する創造主と繋がる!”

私たちは
偶然に
この世に
生まれてきた方は
ひとりもいません。

すべて
神の意志により
神の愛の法則によって
生まれてきました。

すべてを
創られた
創造主である神は
万象万物を創造し、
すべての被造物の中に
存在しています。

宇宙には
創造主である神の
唯一の
宇宙生命しか
ありません。

それがエネルギーと
呼ばれている
ものでもあり
すべての
万象万物に
このエネルギーが
宿っているのです。

お釈迦さまは
色即是空(しきそくぜくう)
空即是色(くうそくぜしき)
色心(神)不二
(しきしんふじ)と
仰いました。

空なる生命と
色なる肉体(物質)とは
一秒たりとも
離れては
存在できない。

空(生命)即(すなわち)、
是(これ)色(肉体)であり、

色(物質)即(すなわち)
是(これ)空(神)であり、

色(物質)と心(神)は
不二である。
不二は
二つないのですから、
別々にあるのでは
ないのです。
一つしかない。
ということです。

私たちの生命は
宇宙に唯一の
宇宙生命の
分霊なのです。

生きとし
いけるものの生命は
万象万物には
すべて神の
完全遺伝子を
宿してないものは、
ないのですが
私たちは
そのことを
忘れているのです。

まだ多くの人間は
肉体こそが自分だと
肉体が生きていると
思い込んでおり、

肉体の中の
頭脳がすべてを
司っていると
考えているのです。

教育は全て
外から与えるものとし、
昔から
読み書き算盤を
勉強して
知識を得ることに
時間を費やしています。

これも必要では
あります。
ただ、
外部情報の習得を
専門として
表面意識しか
使わない教育を
しています。

人間が本来
持っているところの
偉大なる意識
潜在意識を
一切無視した、
教育です。
 
潜在意識の内側に
超意識、
神意識があり、

これが創造主の
宇宙意識
そのものであり、
私たち
すべての内部に
神の完全遺伝子という
記憶が
備わっています。

このことを
イエスさまは
この潜在意識に
在るところの

「神に
繋がらなければ
不毛である」と
仰られたのです。

知識とは
外からくるもの、
物質次元から
くるものですから、
永遠の知識
なるものはなく、
一定のものは
ありません。。

智慧とは
内からくるもの、
インスピレーションや
ひらめき
啓示です。
神の意識から
くるもので
普遍であり
永遠のものです。。

お釈迦さまは
「外を観るなかれ、
自らの内を観よ!」
と弟子たちに
よく仰っていました。

私たち
一人ひとりの意識は
創造主である神と
繋がっているのです。

その大いなる智慧は
内に潜在しています。
宇宙創成からの
神の智慧が
備わっています。

その智慧は
学ばなくても
魂が記憶している
真実の情報です。

表面意識は外から、
五感を通じて
学びますが、

潜在意識は
五感を離れて
頭脳を黙らせる
ことでしか
働かないのです。

お釈迦さまが
「内観せよ!」
ということも、
「瞑想する!」
ことも同じことです。

イエスさまも
「聖者は
沈黙を守る、
汝の密室にて祈れ!」
と言われました。

すべては
潜在意識なる
神なる意識に
繋がる
唯一の方法だからです。

沈黙とは五感である、
表面意識を
沈黙させる
という意味です。

密室とは
見えない世界に
意識を向けよ!
ということです。

私たちは
この物質世界にあって、
目に見えない愛や光
永遠や無限を
どれだけ発見し
どれだけ感じ取って
いけるのでしょうか。
その鍵は
真我(神我)意識に
繋がることが
不可欠なのです。
その方法が
瞑想なのです。

霊性を磨き
霊性を高めない限り
真実の見方は
出来ないのです。

家族や友人
あらゆる人たちや
様々な出来事に
対しての
ものの見方
考え方にしても
表面だけを見て
判断をするように
なっていきます。

その見方は
本質から離れた
歪んだ見方です。
影だけを見て
判断している
偽者の見方しか
できない人間に
なってきます。

愛や光は
目には見えません。
しかし、
誰も愛と光が
ないという人は
いません。
確かにあるものです。

あなたの見るものは
真実を映し出して
いますか?

表面的な
ものの見方に
真実なるものは
見えないのです。

あなたの見方、
受け止め方を
変えれば
まったく違う
世界の中で
生きていけます。

それは
この現実世界をも
変えていく力に
なっていくのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この日から

神の意識の
完全遺伝子を
潜在意識に
受け継いだ
神の跡取り息子
神の跡取り娘としての
自覚を持って
行動しましょう!

神の愛の
表現者として
肉体と生命を
与えて
いただいたのですから

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年10月18日火曜日

「命宣(いのり)とは?」

昨日は
私が
恒例としている
地元にある
氷川神社に
感謝奉納に行って
まいりました。

皆さんが
思い思いの願いを
絵馬に託し
書き記して吊るして
いる場所に

女房が
思いを込めて
折った千羽鶴を
皆さんの
願いが
叶えられますようにと
奉納して
まいりました。

3月11日以降は
千羽鶴を
宮城の被災者の
子どもたちに
鎮魂の目的で
送付してきましたので

今年に入ってからは
三度目の
千羽鶴奉納です。

私自身は
神前で
心厳かに
生かされていることの
感謝をさせて
いただいています。
身が引き締まる
瞬間です。

毎月1日、15日に
近い、土曜か日曜に
行っています。

昨日は、
土日に所用が
重なったため
昨日の早朝に
伺わせて
いただきました。


そうしましたら
神社の
入り口に

「東日本大震災
復興祈願」の

のぼり旗が
鳥居の左右に立てて
ありました。






私は朝起きて
一番先に
仏壇に向かって

先祖の
縁によって
連綿と続く
繋がりにおいて
肉体を
与えられ

今、生かされて
いることの奇跡に
感謝をさせて
いただいたのち

内在する神仏に
大生命を
与えられ
生かされて
いることに
感謝をさせて
いただいております。。

それから
東日本大震災が
起きた3.11の
翌日から

「東日本大震災において
被災された方々
並びに
復興に
全力を尽くして
おられる方々を
お救いください!」と
祈っております。

昨日は
この朝の祈りの
言葉を
心を込めて

「東日本大震災
復興祈願」
として

氷川神社の
神前で
祈らせて
いただきました。

本当に
早く復興され
力強く
立ち直って
いただきたいと
思います。

以前のブログにも
書きました
祈りとは
命宣(いのり)とも
書くが如く
生命を
宣言することです。 

単純に 
祈りで終わらずに
行動に繋げる
積極的なものです。

五感から離れて 
こころを整え、
実相を全身全霊に感じ、
行動することに
繋げる力強い
行為です。。

私は仏前や
神前において
自分の
お願い事は
一切しないことに
しています。

苦しいときの
神頼みでは
駄目なのです。

また、欲得からの
お願い事は
言語道断です。

ただ
宇宙にある叡智
この宇宙を巧みに
設計するところの
無限の神に
生かされていることの
感謝を奉げると共に

私たちの
魂の奥底に
創造主である
神の叡智が
宿っています。

そこには
私たちが
“かく在りたい!”
という本源の
使命なるものが
あるのです。

使命といったら
重ければ
「何かを為す!」という
強い希望や
強いねがいが
潜在しています。

これは
誰一人も
例外なく
すべての人たちに
ある理念です。

この現実界において
成就すべきものが
厳然として
あります。

神の意識の世界に
私たちの内部に
あるところの
神の意識と
同一の源泉が

私たちが
この世で
果たさなければ
ならない
こととして

夢となり
願いとなって
現れてくるのです。

その願いは
生命からのものです。

命の宣言です。

祈りは
命宣(いのり)となり
自然(じねん)に
合掌し
神との統合を
果たしていく
秩序ある
儀式と言えます。

従って
単なる
お願い事の類の
祈りに関しては
否定的に
ならざるを
得ません。

神は
私たちの内部に
存在しているのです。

私たちの
真からの願いは
語らずとも
知っているのです。
私たちに
早く気づいて欲しいと
願っているのです。

私たちの
自我からの
個人的な願い事や

「私の仕事を成功させてくだい!」
「私の病気を治してください!」
「私をお金持ちにしてください!」
「私を幸せにしてください!」
等々の祈りについては

神を外部に置く
行為として
感心するものでは
ありません。

私たちの本質は
自らにその力を
有する存在なのです。
依存する心が
元々の
無限力を
弱めていくのです。

また、
このような
祈りは
「仕事がうまくいっていない!」
「病気である!」
「貧乏である!」
「不幸である!」
ことを宣言しているのです。

上記のことは
神の世界には
一切ないのです。

神の世界には
生老病死も
ありません。
不幸もないのです。
物資の欠乏や
希望の成就は
神の世界にないのです。
だから
波長が合わないのです。

神は
全知全能にして
無限の大霊です。

そこに
波長を合わせるのです。
命宣なのです。
それは神様からの
贈り物なのです。

既に成就している
という
確信を持って
手を差し出して
受け取ることです。

その開かれた中に
勇気を持って
突き進むことです。

「汝ら祈りて
何事にても求むるとき、
既にそれを
受けたりと信ぜよ!
すなわち、
汝はそれを得ん!」

信念を強く
持つことです。

自分の心の中に
乏しさを
描きながら
祈ったところで
乏しさの波動を
さらに引き寄せる
だけです。

「我これを
為さんと欲す!
神が為さしめ
給うのである!」

神は
全知全能です。

その
全知全能の力が
私たちに宿って、
それを
成就させるのである。

既にそれは
成就して
いるのである。

そう信じ、
行動するのです。
努力するのです。
努力をすることが、
魂が進化に
繋がっていくのです。

自分の内部の
奥の奥なる
鉱泉を掘り出す努力!

この努力を
引き出すために
鉱脈は
敢えて
深いところに
埋まっているのです。

「神は自ら
救くるものを救く」
とは
自らが努力を
するから
神も救けることが
できるのです。

努力して心を
鍛錬するのです。

強く思い描く
努力をしなければ
なりません。

求めるものは
必ずあるのです。

それを
既に受けたりと
するのです。
欲する事物を
心に強く描くのです。

「信念、
岩をも貫く!」のです。

一滴の雨水は
長い時間をかけて
岩に穴を開けるのです。

諦めないことです。
それが
魂の奥底からの
源泉であるならば
決して
途中で掘るのを
やめては
いけません。

あと少し掘れば
そこに
ダイヤモンドの
鉱石に
到達するのです。

種を蒔いたら
種の中には
もう既に
花の形が
出来ています。

蕾が出てきて、
それぞれの
個性に合わせた
色彩を持つ
形になって、
花が咲いて、
そして
果実が
実るというイデア!

既に種の中に
理念が
備わっているのです。

「汝、それを
受けたりと信ぜよ!」

既に傍に来ている
という強い信念を
持つのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

「与えよ!
さらば与えられん!」

あなたは
今まで
人々に
どれだけの
福を与えてきましたか?

福の種を
蒔いてきましたか?

その種の中に
無限なる
永遠なる鍵が
備わっていました。

でも
今日はスタートの日
今からでも
遅くはありません!

今日、出会う人々に
福の種を
善なる種を
蒔いていこうでは
ありませんか。

そのことこそが
一日一日の
命宣(いのり)の
生活なのです。

ありがとうございます。

2011年10月17日月曜日

「真なる美とは・・」


私の家の
わずかばかりの
庭の片隅に
一昨年亡くなった
母親が数年前
植えてくれた
菊の花が
あざやかな黄色い花を
咲かせてくれています。



感覚的には
他の花と比べて
特別にという訳では
ないけれども
私にとっては
とても美しいのです。

それは
既にあの世に
旅立った母親が
遺してくれたという
感慨と

その菊の花が持つ
生命の表現とが
相俟った
調和美のような
美しさかもしれません。

その菊の花を
見ながら
こう思いました。

美しいということは
肉眼という
感覚を通して
感じるけれども、

美そのものは
感覚的でも
物質的でもない
ところに
存在しています。

その菊の花が持つ
生命がいかに
表現されているか
という永遠性の
中に
美が存在するのだと
思うのです。

ただ、
感覚に快いもの
だけのものは
飽きてしまいます。

有限であるものに
真なる美は感じる
ことはないのです。

そのものが持つ
生命の
永遠なる輝きを
見るのだと
思うのです。。

そこに無限なる愛を
感じざるを得ません。

それは、永遠に
滅びることのない
美しさであるのです。

愛こそが美なのであり、
美はすべての混沌を
秩序よく
統合させ得る
エネルギーを
秘めています。。

その秩序的発展こそ
美なる本質では
ないでしょうか。

モーツァルトの
メロディも
雑然とした旋律を
大愛なる力によって
秩序よく組み合わせて
聞くものに
永遠の感動を
極上の美しさを
醸しだすのです。

雑然とした
一本一本の
孤立した草花も
大愛の偉大なる
秩序によって
整然とした
バランスの美を
見るものにも
生命を与える
生け花の極意に
なるのです。

私たちの
この肉体も
そうだと思います。
秩序の
組み合わせによって

陰と陽の
バランスが生じ、

物質の原子ができ、
その原子が分子に
分子が細胞に
細胞が心臓や
あらゆる内臓になり、
すべての宮が
形成されます。

そして、
その宮に神なる
生命が宿り、
生き生きとした
実感を
味わうのです。

すべては
秩序が整然と
組み合わされ
上のものは上へ
下のものは下へ
右のものは右へ
左のものは左へと
治まるとことに
治まって
落ち着いていくのです。

そこに
私たちは
永遠なる
無限なる
生命からの現われの
美を見るのである。

私たちは、
永遠という
時間概念の上での、

見方、
考え方、
生き方を
することによって

無限なる生命からの
現われを
感じることが
できます。

今生だけの
限定された時間に
捉えられた
生き方は、

分離を生み、
雑然のまま
混沌から
抜け出すことは
出来ません。

その生き方や
心情の持ち方は
大きな違いを
もたらすのです。

対象は何であれ
物事を
一点だけで見ますと、
全体を見失います。

目先の点だけを
見て進みますと、
迷うこと、
不安に成ること、
に繋がります。

悩んでいる人たちの
多くは
限定的な視点で
ものを見ています。

今の自分の
生活の中で、

永遠なる視点
無限なる視点
完全なる視点
不滅なる視点
本質なる視点
実相なる視点で
見ることです。

見ようと
努力をするだけでも、
視野は広がります。

視野が広がれば、
進む道に
少しずつでも
光が差し始めます。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間に
永遠なるものを
見つめるのです。

永遠なるものに
気づかない限り

本質なる
真理も
愛も
美も
人生も
光彩を放つことは
ありません。

有限の視点で
見るものは
焦点が
ぼやけています。
歪んでいます。
幻であり
影でしかないのです。

影を見て
執着をして
悩み、苦しんでいるに
過ぎないのです。

今、この瞬間に
無限を
見つめてください。

無限には
思いやりの心
生命の表現としての
真なる美しさ
秩序整然なるものの
すべてが
備わっています。

この道を
見つめることが
この世における
真・善・美の
完成に
到る道に
繋がることに
なるのです。

今日も共有ありがとうございます。

2011年10月15日土曜日

“人生は心一つ”

すべての
幸・不幸は
私たち
一人ひとりの
ものの見方、
考え方次第であります。

人は
同じ出来事に
出会っても
それぞれに
違う捉え方をします。

ある人にとっては
不平や不満の
種になり、
物事を
暗黒の面ばかりに
焦点をあて
常にストレスを
感じながら
苦悩の道を
歩むことになります。

ある人にとっては
喜びの源泉として
発芽し
善いことのみに
焦点をあて
光り輝く
光明世界が
訪れるのです。

どちらが
いいと思いますが?

そういわれたら
論を待たず
善いことのみに
焦点を当てた方が
いいに
決まっていると
答えるでしょう!

いいに
決まっているのに!
でも?
この件だけは
善いなどとは
絶対に
捉えられませんよ!

という
声が聞こえて
きそうです。

しかし、
“人生は心一つの
置きどころ“と
言うじゃありませんか!

どんなことにも
喜びの源泉は
見つけることは
できるのです!

それは
どんなことにも
真理が
潜んでいるからです。

五感の
視覚で見ないで
こころの眼で
見て御覧なさい!

この世の中に
何一つの
無駄はないのです!

無駄がない
というのは
実は

現れていることは
すべて
あなたの心を
写している
鏡として
現れているのですから

無駄など
ある訳が
ありません。

無駄どころか
その出来事という
現象面を見て
今のあなたの
心の状態が
どう在るのかを
知ることが
できるのです。

暗黒面に
焦点を
合わせてる時は

あなたの
心が歪んでいる
からなのですから、

当然ながら
現れる出来事も
歪んで
現れるのです!

逆に
光明面に
焦点を
合わせていれば

現れる出来事は
喜びと幸せに
満ちたことしか
現れません。

だから
あなたの
ものの見方、考え方
次第なのです。

ものの見方、考え方
によって
喜びなのか
不平、不満なのか
幸福なのか
不幸なのか
善くも
悪くも
楽しくも
つまらなくも
なるのです。

だから
光明面を
見ればいいのです!

簡単でしょう!
笑わないと
楽しく
ならないのです!

楽しいから
笑うのでは
ないのです。

どんな事態に
出会ったとしても
笑い飛ばしましょうよ!

“笑う門には福来る”と
言うでは
ありませんか!

福が来るから
笑うのでは
ありません。

いつも明るく
にこにこしている
門(家)には、
自然と幸福が
訪れるという
ことわざです。

空海さんの
「宗秘論」の中に
こんな言葉があります。
“幸不幸を論ずるのは、
皆迷いの世界での
ことである。“

この意味は
“さまざまな
出来事は
自分の心が
つくり出した
現象であることに
気づいていない。

幸不幸は
すべて
自分自身の
心の内に
あるのである。

それを
外に探すこと自体が
心の迷いである。“
と言っているのです。

出来事に
幸不幸は
ないのですから
出来事に
左右されることは
ありません。

自分の見方こそ
点検してください。
幸福の方に
舵を向ければ
いいのです。
笑ってしまえば
いいのです。

自分の考え方こそ
点検してください
一心に
光明を
見つめるのです。

自分のこころの
在り方を
常に見つめるのです。

そして、
自分の心が
すべての原因である
と気づいたとき、

空海さんが
言うところの
迷いは晴れ、

幸せとは何か
ということにも
目覚めるのです。

空海さんの
著した「秘蔵記」には
こうも書かれています。

“心というものは
無形無相であり、
本質的には清浄で
一点の穢れもない
完全円満なもの、

それは、
あたかも
満月のような
ものである“

もともと
満月のような
完全なものが
私たちの実相なのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

もともと
完全なるものが
不完全を体験しに
来ているのです。

今日、今の瞬間
笑い飛ばして
みてください。

不完全なるものは
幻想であることが
身をもって
理解できますよ!

ありがとうございます。

2011年10月14日金曜日

「生命の無限のゲーム」

今日は
森田 玄さんの
ブログに
紹介されていました
ポール・ホーケンさんの
「生命の無限のゲーム」を
転載いたします。
共有してください。

森田 玄さんは
千葉の鴨川の山中で
農園をされていて
その農園生活を
ブログにして
紹介して
くれています。

そして
奥様の
きくちゆみさんと共に
9.11のアメリカ
同時多発テロの
真相追及や
原発・放射能問題や
平和運動及び健康の面でも
ローフードによる
デトックス等を
提唱しています。

また、
知る人ぞ知る
『マシュー君の
メッセージ』の
翻訳を
いち早く
自身のブログ
玄のリモ農園
ダイアリー
」で
紹介している方です。

私も玄さんや
奥様のゆみさんとも
面識があり
愛読している
ブログです。

その
マシュー君の
メッセージは
ナチュラル
スピリット社から
「新しい時代への輝き・
マシューブック 3」
スザンヌ・ワード著
森田 玄訳で
刊行されています。

森田さんの
翻訳は
前回の
マシューブック2
「新しい時代への啓示」
に続く2冊目の
翻訳です。

今回の
「新しい時代への輝き」は
愛のヒーリング・パワー、
光と愛のはたらき、
祈りのはたらき、
地球のアセンション、
ワクチン接種、
レプタリアンの影響、
2012年、
ニビル(惑星X?)、
フォトンベルト、
インディゴと
クリスタルチルドレンほか
あらゆるメッセージが
混迷の時代を
生き抜く私たちを励まし、
元気づける。
これからの人類の
向かうべき道筋と
私たち自身の
生き方の指針を示す
「輝きの書」です。
どうか、購入して
お読みください。

それでは
森田さんのブログから
ポール・ホーケンさんの
「生命の無限のゲーム」
を転載させていたさきます。

ポール・ホーケン

『あなたたち
一人ひとりは
驚くべき存在です。
いまあなたには
1000兆の
細胞があります。
1000の100兆倍です。

それらの細胞のうち
約900兆は
人間のものではありません。
それらはウイルスや
バクテリア
そして微生物です。

皮肉なことですが、
人間をつくっているものは
人間ではないのです。
それらが
そこにいてくれるお陰で、
あなたは
フルーツのように
数日で腐らずに
済んでいるのです。

ですから
それらのただ乗りの
ものたちに
感謝しなければ
なりません。

でもここで
あなたにあることを
経験して
もらいたいのです。

と言うのは、
あなたの
からだの中では
毎秒セプティリアン
(10の24乗)のことが
起きているからです。
これは
1に24個の0がつく数です。

このセプティリアンという
数字を想像する
もうひとつの方法は、

いま知られている
宇宙にある
すべての星と
惑星を足した数の
10倍と
言えばいいでしょう。

ではあなたに質問です。
あなたは
それを感じられますか?
本当にですよ。
1セプティリアンの
体内での相互作用を。

それが生命と
呼ばれるものです。
あなたは
感じられるのです。

ただ私たちは話に忙しく、
その感覚を
無視しているのです。

もう一つ質問です。
誰がそれを
やっているのですか?

もしあなたが
それらの
1000兆の細胞を
コントロールしようとしたら、
どうなるでしょう?

あなたは死ぬでしょう。
あなたがいま
感じているのが
生命です。

それは
無限のゲームです。

ゲームには
2種類あって、
有限なものと
無限なものがあります。

生命は
無限のゲームを
発明しました。

人類は
有限のゲームを
発明しました。

有限のゲームには
厳しいルールがあり、
勝者と敗者があります。

それらはCEO、
銀行、
ウォールストリート、
MBA(経営学修士)、
政治、
アメリカ大統領とか
呼ばれます。
そして
常に敗者がいます。

持続可能性と
修復は
無限のゲームを
やることです。
無限のゲームでは、
ゲームの進行を
妨げるような
ものがあれば、
いつでも
そのルールを
変えられます。

あなたが
止めようとしても、
ゲームを
止めようと思う人は
だれもいません。

無限のゲームは
先払いです。
つまり将来の金庫に
貯めておくのです。

それは、
家族、
子どもたちと
筏(ラフト)に乗って
コロンビア川下りを
すること、
ハックルベリー・
フィン遊びと
呼ばれます。
サンバとか
ヒップホップのような
語り歌、
物語り、
ツリーシッティング
(樹上占拠)とか
呼ばれます。

これらは、
気持の優しい人たちが
私たちの未来と
私たちの子どもたち
そして私たちの
惑星地球を
支えるためにしている
限りない方法なのです。』
転載以上

いかがでしたか?

皆様は
この
ポール・ホーケンさんの
「生命の無限のゲーム」を
どういうふうに
感じましたか?

このブログを
読まれている方は
理解していると
思います。

『今日は残りの人生の最初の日』

生命の無限のゲームは
今、この瞬間から
始まっているのです。

今が、無限であり、
永遠なのですから。

ありがとうございます。

2011年10月11日火曜日

『今日は残りの人生の最初の日』です。


『今日は残りの
人生の最初の日』
このブログの
タイトルです。

人生の最初の日
なのですから。
あなたの
誕生日でもあります。

あなたは
産声をあげて
泣いています。



周囲の人たちは
お産婆さんも
(私の時代はそうでした)
産婦人科の先生も
看護師さんも
お父さんが来ていれば
お父さんも
或いはお兄ちゃんも
お姉ちゃんも
おじいちゃんや
おばあちゃんも
あなたの誕生を
これ以上ないくらいの
笑顔を湛えて
歓迎しています。

みんな
一瞬でも
目をそらすまいと
あなたに
あたたかい眼差しを
贈ります。

看護師さんは
あなたをタオルに包み
お母さんに
「男の子ですよ!」
或いは
「女の子ですよ!」と
言いながら
あなたを
大事にそーっと
手渡しをしています。

お母さんは
目に涙を溜めながらも
あなたをはれ物に
触るように
両手を携え
あなたを抱いています。

あなたの誕生に
生命の
かけがえのなさに
この神秘に
感動しています。
歓喜の瞬間です。

今日は
誕生日ですから
初めて
産まれたのですから
昨日までのあなたは
ないのですよ!

ないのに
あると思って
過去のことに
思い煩わないで
ください。

今日は誕生日
みんなが
「おめでとう!」と
声をかけてくれて
お父さんも
お母さんも
人生で最大の喜びに
浸りきっています。

そうやって
あなたは
産まれました。

あなたには
明るい展望しか
開けてないのです。

それなのに
なんですか
その渋面は
笑ってください!

あなたが
これから
迎えるであろう
あらゆる
記念日の中で
今日こそは
絶対に
忘れることのない
あなたの
誕生日なのですから

あなたの
その愛くるしい
微笑を、
みんなに
たっぷりと
見せてあげて
ください!


今日は
最初の日ですから
一年の最初の日は
1月1日元旦です。

元旦は
物事の始めであり、
一年の計は
元旦にありといって
新しい
決意でもって
何かを
実行しようと
決める日です。

あなたは
元旦の今日
この一年を
どんなことが
起ころうとも
明るい心で
乗り切っていく!と
決意しました。

決意したものは
365日
やり通そうと
考えると
荷が重くなって
決意倒れに
なるかもしれません。

だから
少なくても
今日という
確かな括りのなかで
今日一日
明るい心を持って
人に接して
みましょうよ!

今日一日であれば
できそうに
思えませんか?

でも
明るい心を持つには
今日、何があっても
悲しんでは
いけませんよ。

どんなことを
言われても
怒っては
いけませんよ。

何事が起こっても
失望をしては
いけませんよ。

だって
起こってしまった
出来事は
もう既に
起こってしまって
今は無いのですから

済んで
しまったことに
いちいち
悲しんだり
怒ったり
失望したりしても
いいことは
ひとつもないです。

あなたにとって
悪いことは
今だかつて
ひとつも
起こったことは
ありません。

すべては
一新していく
姿なのですもの!

結局のところ
済んで
しまったことは
過去の出来事に
過ぎません。

今日という瞬間、
この「今」に生きる
ことしか
あなたには
ないのです。

過去は
死にました。
未来は
来るかどうかも
わからないのです。

「今」こそ
確かに
生きています。
常に
生きています。

「今」の中に
あらゆる
生きとし生けるもの
万有万物が
煌めき
輝いています。

「今」は
常に
喜びに満ち

「今」は
いつまでも
美しいまま
なのです。

「今」は
永遠で
無限であり
逞しく
強靭な
無敵を
現わします。

「今」
この瞬間に
すべての
真なるもの
善なるもの
美なるものが
収斂されているのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間
明るい心で
すべてに
接するのです。

そうすると
私たちの人生には
喜びしかないと
いうことが
確かな感覚を持って
感じられるのです。

ありがとうございます。

2011年10月8日土曜日

『生命の実相』を振り返る!

今日は何十年かぶりかで
谷口雅春先生の
『生命の実相』講義の
カセットテープを
聞かせていただきました。

『生命の実相』の
14巻、教育扁について
講義した内容でしたが
久しぶりに
谷口先生のお声に接し
懐かしさと
又、新鮮な気持ちで
聞くことが
できました。

その中で
子どもの
教育法について

とても大切な内容が
語られていますので
紹介したいと
思います。

私たちは
ともすれば
人前において
子どもを前にして
自分の子どものことを
語るとき

謙遜からか
不用意に
子どもの
欠点を語ることが
多いと思います。

それについて
谷口先生は
強く警鐘を
鳴らしておられます。

『人前だからと言って
自分の子どもを
へりくだって、
この子は
とても、
いたずら好きで
だめなんですとか、

この子は
随分、
馬鹿でして
などと言うな!

かくの如き謙遜は
子どもの創造力を
自分の欠点のほうへ
働かしめ、
子どもの自信力を
めちゃめちゃにして、
子どもの成長に
邪魔を置く事に
なるのである。』

親は謙譲の精神で
人前で
子どもを褒めるのも
如何かと思う
気持ちは
特に、日本人の
気質的には
あるように
思いますが

子どもからすれば
親の立場での
言葉の力が
まるで
暗示に
かかったように
潜在意識下に
浸透して
しまうものです。

親は世間話程度に
買い物の途中とか
家での近所の方との
会話の中で
いろいろ話を
しているだけで、
特に悪気は
ないのですが、

私の場合を
思い出しても
その時の
一言一句は
いいことも
悪いことも含めて
よく
覚えています。

さらに
谷口先生は
語られます。

『諸君よ
何も
神が創ったところの
人間を指して、
それが例え
自分自身だからとて、
また、自分自身の
肉親の子だからとて、
へりくだって、
ダメだからとか
馬鹿だとか、
かりそめにも
悪く言わねば
成らない理由は
ないではないか!

それは創り主なる
神への冒涜である。
それは我々を創って、
生命を与え給える
ある者を穢すものだ。
穢すだけではない。
自分自身の運命を
自分自身の
子の運命を
知らず知らずのうちに
ダメにしつつあるのだ。』

そして、
谷口先生は
神の子を預かる
親としての
子に対する責任として
強く教育について
叱咤をしています。
続けます。

『子どもをして、
彼自身を
神の子なりと
信ぜしめよ!

父はその子を
その全能の力にて
常に完全に導き給い、
無限成長に導き給い、

どんな不遇の場合にも
必ず守り育ててい給う
ことを信ぜしめよ。

どんな場合にも
失望しない心。

取り越し苦労を
しない心。

摂理に信じ任せきって、
安所たる安心を
している心。

倒れても倒れても
又、起き上がる
ことの出来る心。

これらは幼児に
心に刻まれた
完全円満なる神を
父とする創造から
力強く生まれ出て
くるものである。

こういう自覚を
子どもに
持たせるように
しなければならない。』

私たちの中に
備わっている
無限なる力は

私たちの子どもは
勿論のこと
すべてに
備わっているもので

その力を
掘り出すためには
人間神の子の実相
完全円満
全知全能なる
無限力を
自身の内部に
持つことを
信じて疑わない
心を育てることです。

その自覚は
まだ幼い時から
持たせるのが
良い事として
谷口先生は
次のようにも
語られています。

『人間を信ぜよ
神の創造を信ぜよ
生まれたままの
人間を信ぜよ 
それは幼子だ。
幼子に
宿っている天才は
まだ供託しない
ダイヤモンドだ
傷のつかない高貴だ』

そして、
『人間の成長は
常にこの神の子の
自覚から
始まらなければならない。

大地に
根を下ろさなければ
偉大なる
成長は望まれない。

大生命に
根を下ろさなければ
偉大な
成長は望まれない。

その大生命に
根を下ろしている
即ち神の生命に
根を下ろしているのが
人間神の子である
という自覚を
子どもに
持たせるというのが
必要である。』

そして
結びとして

『円満な神の姿を
小児の心に描かせよ!

完全な仏の姿を
小児の心に描かせよ!

如何なる場合にも
自己が全能なる神、
又は仏の愛の手に、
抱かれていて
何の危険も無い
ものだという自信を
子どもの時代から
人間の心に植え付けよ。

幼児からの
この自信は
将来のその人の
運命を決するのだ!』

こう力強く
締め括るので
あります。

『今日は残りの人生の最初の日』

私が
この肉体こそすべてと
物質にまみれていた時

最初に出会った
真理が
この谷口雅春先生の
『生命の実相』でした。

24歳でした。
その時の衝撃は
月並みな表現ですが
目からウロコでした。

それからの
私は真理に夢中になり
あらゆる
精神世界の書籍や
哲学書、
宗教本を
読み漁りました。

しかしながら
ご都合主義の
真理もどきで
あったと思います。

実生活と
真理が
ちぐはぐに
なっていて
真理の実践からは
程遠い状態だったと
思います。

60歳を過ぎて
やっと
生かされているという
実感らしいものが
分かり始めたと
いうのが正直な
ところです。

しかし常に
修行の身です。

昔、谷口先生から
教わった
この言葉を
常に意識して
毎日を送りたいと
思っています。

“我が魂の底の底なる神よ!
無限の力湧き出でよ!”

“我が魂の底の底なる神よ!
無限の力湧き出でよ!”

生かしていただいてありがとうございます。

2011年10月7日金曜日

“エネルギーとは?”

今日は
エネルギーについて
考えてみたいと
思います。

エネルギーとは
一体何でしょう?

エネルギーとは
生命のことです。
生命は、
即エネルギーで、
生命エネルギーと
言います。

霊的エネルギーと、
同一のエネルギーで
或いは
宇宙エネルギーとも
言います。

私たちが霊と
読んでいるものも
エネルギーです。
真性エネルギーと
言うのは
聖霊のことを
指しています。

このエネルギーは
全宇宙に
遍満しています。

このエネルギーは
智慧を纏った
エネルギーであり、
唯一不二の
エネルギーです。

"気“という言葉も
あります。

この"気“も
エネルギーと
置き換えることが
できます。

病気とは
エネルギーが
病んだ状態のことを
言います。

正気とは
エネルギーを
正しく使っている
状態のことを
言います。

気高い人とは
エネルギーの高い人、
いわゆる
調和が取れている
人のことです。

気落ちとは
エネルギーが
落ち込んでいる
人のことを言います。

このように
エネルギーと
“気”は同じ意味です。

大気は
大きいエネルギーであり
大生命であり
大霊のことです。

病気や邪気や
気落ちという
エネルギーが
あるのでは
ありません。

元々、
エネルギーは
唯一無二ですから
生命エネルギー
そのものしか
ありません。

万有万物
すべてに
同じエネルギーが
備わっています。

病気や邪気や
狂気と
正気や本気
気高いことの違いは

エネルギーの
使い方次第である
ということです。

エネルギーを
正しく使っているか
エネルギーを
間違って使っているか
だけなのです。

エネルギーは
私たちの
身・口・意という
媒体を使います。

いわゆる
言葉、思い。行いに
於いて
正気で
正しいエネルギーの
使い方をしているか
邪気で
間違えたエネルギーの
使い方をしているか

このエネルギーの
使い方が大きな
分かれ道になります。

何が原因して
病気や苦しみが
あるのでしょう?

言葉や
思いや
行いにおいて
悪い方向に
エネルギーを
使うと
エネルギーを
消耗し
調和を崩し、
病気や
苦しみを
創るのです。

これは
本来備わっている
生命エネルギーを
正しい方向に
使っていない
からなのです。

元々の
備わっている
生命エネルギーは
愛と調和です。

愛と調和に
生きるということが
生命エネルギーを
正しく使うと
いうことです。

生命エネルギーとは
神です。
神の御心に適った
言葉、思い、行いを
したかが
すべての
苦悩から
自由になる道なのです。

真の自由を
得ることとは
真理は愛であり
調和であることを
知ることにあります。

神は愛であり、
調和なのです。
それが、

“真理は汝を
自由ならしめん“

とイエスさまが
語った言葉なのです。

また、さらに
イエスさまは

“神は自らを
助くものを助く”

“汝の救い主は
汝自身なり“

とも語っています。

生命エネルギー
霊的エネルギーを
正しく使うこと
これが唯一の
信仰なのです。

愛と調和に
生きているものは
本当の信仰を
持っているものです。

すべての
創り主は
自分自身です。

エネルギーを消耗
させるのも
自分自身です。

取り越し苦労や
持ち越し苦労
心配性は
寝ても覚めても
むやみに
エネルギーを
消耗させます。

消極的な言葉や
消極的な思いや
消極的な行いは
エネルギーを
放出します。

人を憎んだり
怒りや悪口などの
破壊的想念は
エネルギーを消耗し
極端な場合
自らの血液の中に
毒素を放出するのです。

積極的な言葉
積極的な思い
積極的な行いは
生命エネルギーと
同調し
エネルギーが
補給されるのです。

このことを
正気といい
正想念であり
神と波長が合う
エネルギーを
正しく使うことが
できるのです。

結局のところ
蒔いた種は
自らが必ず刈り取る。
という法則通り

言葉、思い、
そして、行いにおいて
どうエネルギーを
使ったかが
試されるのです。

愛と調和に
生きるということは
自分の都合の
いいものだけを
愛するというのでは
ありません。

自分に都合の
いいものを
愛するのであれば
誰でも
愛することは
できます。
ヤクザとて
愛するのです。

都合の悪いものは
憎むというのでは、
まだ、
善悪の知恵の実を
食べているのです。

神は絶対の善です。
神は完全無欠です。
法則そのものなのです。

決して
憎んでは
ならないのです。

憎むと誰が
損をするのでしょう?
自分自身です。

盛られた毒を
食しては
ならないのです。
サタンの誘惑に
負けては
ならないのです。

私たちを
迫害するものや
罵るものさえ
愛することです。

これが
正しい
生命エネルギーの
使い方です。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日という一日、
このエネルギーを
正しく使って
いきましょう。

自らの言葉や思い、
そして、行いを正す。
身、口。意を正す。
真理に生きる。
行う。
歩む。
為す。
実行するという
実践行為が、
いかに
大切なものかを
心がけて
いこうでは
ありませんか。

ありがとうございます。

2011年10月6日木曜日

「真の人間の本質」


このブログで
何回も紹介させて
いただいています。
山元加津子さんの本が
サンマーク出版から
11月上旬に刊行予定です。

タイトルは
「手をつなげば 
あたたかい」です。
是非、
読んで
頂きたい本です。



どんな本か
興味のある方は
今回は
サンマーク出版から
サキ読みのページが
あって

一章まるごと
読めますので
是非、このサキ読みを
読んで頂いてから
本を購入してください。

プロローグも含め
42Pも読めるのです。
私も読みましたが
一章を読んで
涙が止まりませんでした。
出版の日まで
ワクワクします。

このサキ読みのページに
この本
「手をつなげば あたたかい」
の宣伝コピーが
載っています。
紹介します。

“誰もが
みんな持っている
優しい力が、
人々の心を開いて
つないでいく。

「かっこちゃん」の
愛称で
親しまれている
特別支援学校の先生が
愛を込めて紡ぐ、
大切なこと。

「忘れないでね。
うれしいことは、
すぐそばにある。“

多くの人に
読んで欲しい本です。
サキ読みのページです。


それと
山元加津子さんの
メルマガ
宮ぷー こころの架橋
プロジェクト」に
こんな紹介もして
ありましたので
掲載します。

“私、この本に今、
すごく多くの
思いを込めています。
意思伝達のこと、
植物状態から
帰還すること、
雪絵ちゃんの思いなども、
この本には
少しずつですが書きました。

それに合わせて、
フェイスブックで
「山元加津子の本」の
ページを作りました。
アドレスです。

あまり
フェイスブックのことを
よくわかって
いないのですが、
「いいね」を押してい
ただくと、
新しい本の情報なども、
メールで
お伝えできる
ようなのです。
それから、
みなさんで本の
お話もできるとのことで、
ぜひ、「いいね」を
押していただけたら
うれしいです。

最新刊の
『手をつなげば、
あたたかい。』の
情報や、
読者プレゼントなどを
こちらでご案内していく
予定です。“と
書いてありました。

是非、宜しく
お願いいたします。

この本を
このブログで
紹介するのも

私の昨日のブログ
すべては繋がっている!
でお話したように。
自と他は別のものではなく
一つであるとの
実感がいたします。

私たちは
一なる本源である
神の
共通的生命として
現れています。

この生命は
無限であり永遠です。
肉体という
物質を脱ぎ捨てても
確かな実感を持って
存在し続けるものです。

神は
大霊であり
大愛です。
万有万物
どんなものにも
唯一無二の神が
備わっています。

すべては
ひとつの生命を
個別に見ているのが
他という認識です。

事実は
同じ生命なのです。
肉体人間を見るは
偽我です。
偽我は個我で仮想です。

霊的人間を見るは
真我です。
真我は普遍我で実相です。

自も他も
同一の神様の生命
個にして普遍
普遍にして
個なるものです。

その唯一無二の
生命を育て合って
いるのです。

それが
真の我(神の我)の
自覚です。

自と他を区別する
こころこそ
苦難・困難を
創ります。

分離を創ります。

私たちはひとつなのです。
あなたの喜びは
私の喜びであり
あなたの悲しみは
私の悲しみでも
あります。

私たちの
本質的なこころは
本当のこころは
真なる我は
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるものしか
存在しないのです。

偽者の
偽我(自我)のこころに
惑わされては
いけません。
唯の、勘違いを
しているのです。

偽なるものは
こころの視野から
去ったのである。

醜なるもの、
暗黒なるもの、
憎悪、
怨恨等は
私たちの心から
去ったのである。

心配や
恐怖や
取りこし苦労は、
我が心に
坐を占めることが
できないのある。

唯、神のみ
我が心の中に
坐を占めたもうて、
そこより
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるものを
放射したまうのある。

神が坐した
その中心は
何者も
害することは
できないのです。

神は
完全無欠であり

一部の罪の意識は
包みがほぐれ
もはや
光のみが実在する
だけなのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今という瞬間
永遠の今を悟ることが
できるのです。

真の人間の本質のみに
意識を振り向けることです。

善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるもの
無限なるもの
永遠なるもの
不滅なるもの
普遍なるもの
実相なるもの
それが
真の我なる実体なのです。

ありがとうございます。

2011年10月5日水曜日

「すべては繋がっている!」

昨日のブログを見て
女房の妹や
離れている
家族のものや
友人たちから
退院祝福のメールを
いただきました。

この場をお借りして
お礼を申し上げたいと
思います。

いつも
気に留めていただいて
ありがとうございます。

こうやって
皆さんと
繋がっているのだという
実感が湧くときです。
心より
感謝しています。

その中で
茨城から
中秋の名月の時に
写真を送ってくれた
友人からのメールと

いつも
このブログで
紹介させて
頂いている
中国の友人
メールを
紹介させてください。

茨城の友人からは
2通いただきました。

『今、帰って来て
ブログみました。

良かった。
本当に良かった…。
こうゆう時って
何か言うんだろうけど、
言葉がみつからない。
ただただ良かった
本当におめでとう。

アーカメロディさんの
普段からのおこないを
神はみてたんだなぁ。

アーカメロディさんたち
二人への
神様からの
プレゼントですね。
心からおめでとうございます。
がんばったね奥さん。』
○○より

『退院おめでとう。
何もお役にたてませんが、

幸いな事に目の前が
昔から山全体が
「ご神体」として
崇められている筑波山です。

日本人の祖神として
「古事記、日本書記」に
そのご神徳が書かれている
国内屈指の古社もあります。

その山容が二峰並ぶため
自然に男女二柱の祖神が
祀られたそうです。
「いざなぎの神いざなみの神」と
日本神話でも
伝えられています。

家内安全夫婦和合
奥さんと二人いつまでも
楽しく過ごせますよう
その山に毎日手を合わせます。
今の私に出来る
唯一の事だから…』
○○

心よりの祝福
どんな
すばらしい言葉よりも
ちゃんと
伝わっていますよ!
本当に
ありがとうございます。


そういえば
○○さんから

筑波山の神社の
写真も送って
いただきましたね!

皆さんにも
お裾分けしますね!

荘厳な神社です。





そして
中国の友人からです。

『アーカメロディ兄さんへ
奥様退院
おめでとうございます。

兄の喜びの顔が
浮かび上がり、
暖かな気持ちになります。

すべては
奇跡のようなもの、
この一日の、
今のこの時間が
嬉しくてたまらない。
この時間を与えてくれた、
病にも
感謝したい気持ちでしょう。

つまり余計なものは
何一つないと思います。
僕たちは
楽園の中にいます。

真実の時間を持てる人は
常に安らかな笑顔で
みなさんを
見守ることができます。』

本当にそうですね!
余計なものは
何一つありません。
今、この瞬間が
真実の時間であり
確かな時間である

真実の時間は
このままで
極楽浄土ですよね!

この二人の友人からの
メールを読んでいて
あらためて
感じることは

自と他は
別のものでは無く
すべては
繋がっていると
いうことです。

皆、
自分のことのように
喜び
祈ってくださいます。
その
祈りとは
命宣(いのり)です。
自分の生命の息吹を
宣言することです。

生命は
神そのものです。
神そのものの我を
現わして
祈ってくれます。

無限と
自分の生命と
波長を合わせて
祈って下さる
行為が
宇宙に
遍満しているところの
無限を
引き寄せることが
出来ます。

その無限に
不可能など
ありません。
それは
愛からしか
生まれることは
ないからです。

愛の無いところに
無限は
生まれることは
ありません。

すべては
愛から出発するのです。
私たちも
神の愛により
生かされているものです。

愛なくば
すべては
不毛です。

私たちが
この現象界に
生まれた目的は

今、目の前にいる人を
愛することです。
愛を通してのみ
本源と一つに
なれるのです。

その愛は
人を選択しません
条件は何もないのです。
無所得です。
条件付の愛などと
言うものは
盲愛なのです。

自分が
望んだものしか
現れることは
ないのですから

それが
どういうふうに
現れようと
自分のものです。
自と他は
別のものでは
ありません。

思いやりと
慈しみでもって
その人の
本質であるところの
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるもののみに
こころを
振り向けてください。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間を
体験し、
無条件の愛を持って
感じ取ること
それが出来たとき
神の愛の
深遠さ、
気高さ、
偉大さを
知ることになるのだと
思うのです。

今日も共有
ありがとうございます。

2011年10月4日火曜日

“確かな瞬間”

今日は
とても嬉しい日です。

お陰さまで
女房が退院しました。

今後は
自宅で
リハビリをしながら、
次の手術まで
体力をあげて
いくように
お医者さんからの
課題つきです。

共に
頑張って行こうと
思います。

女房は
とても元気で
本来の自分を
取り戻しつつ
あるように
見えます。

今は
時間をかけながらも
食事の支度を
しています。

我が家にとっても
久しぶりの
光景です。

何よりも
幸せな瞬間です。

そんな時
ふと
昔読んだ本を
思い出しました。

早速
その本を探し
手元に持って来ました。

その本は
「人生について数字が
教えてくれること」
というタイトルで
著者は、
ジョージ・シャフナーさんと
いう方です。
角川書店から
発行されています。

その中の第一章に
あなたがあなたになった確率
というテーマがあり
書いています。

抜粋したいと
思います。

『地球には現在60億ほどの
人間が住んでいる。
となると、その中の一人なんて
取るに足りない存在だと
思えるかもしれないが、
そうではないという証拠がある。
グウェンドリン・シャープを
例にとって考えてみよう。

グウェンは
アメリカ北部太平洋岸に住む、
人類学専攻の女子大学生だ。
グウェンという人間を
作り上げているのは、
遺伝子をのせている
46本の染色体である。

染色体のうち23本は
母親のセシリアから、
あとの23本は、
セシリアと離婚して以来、
グウェンとは
別れて暮らしている
父親から受け継いだ。

父親も母親もそれぞれ
46本の染色体を持っている。
46本の染色体は
23組のペアになっていて、
子どもに伝わるときには、
各ペアの二本のうちどちらかが
選ばれる、こうして
母親からの23本と、
父親からの23本が、
グウェンの46本の
染色体になったわけである。

母親から受け継ぐ23本が
特定の組み合わせになる確率は。
二分の一、かける、二分の一、
かける、二分の一・・・と、
二分の一を
23個掛け合わせれば出る。
答えは
838万8608分の一。
これは宝くじが当る
確立よりも低い
(ワシントン州発売の
宝くじで、
約700万分の一の確立)。

計算を簡単にするために、
ざっと1000万分の一として、
父親から受け継ぐ染色体も、
特定の組み合わせになる確率は
1000万分の一だから、
グウェンがグウェンになった確率は
100兆分の一となる。』

この後、
この本のこの章では

このグウェンの父親と母親が
知り合った大学は
男子生徒が1000人
女子生徒が1000人
互いにこの1000人の中から
結婚する確率や
グウェンの父親や母親が
彼自身及び彼女自身に
なった確率並びに
さらに両親が不妊症で
なかった確率や、
子どもを作る前に
死んだり離婚しなかった確率
母親、父親の両親が
この世に存在した確率
さらに、それぞれのその先祖が
存在した確率・・・・。等々
確率を探っていきます。

天文学的確率に
なるので省きますが
グウェンがグウェンに
なった確率は途方も無く
小さな確率でしかない。
奇跡としか言いようの無い
確率になります。

これは、私たちも同様で
ひとりひとりの生命は
計り知れないスケールでの
宇宙の営みと言えると
思うのです。

その中で
夫婦となったり
友人となったり
家族となったり

例え
喧嘩相手であっても
関連し合うことは
もう奇跡中の奇跡と
言えるでしょう。

今日、
女房が家に帰ってきて
ご飯の支度をしている
瞬間に
この本を思い出しました。

今、
この瞬間に
私の目の前に
起こっている
一般的には
日常的なことでは
あるが
この光景は
まさに奇跡としか
いいようのない思いが
浮かんで来たのです。

特別なことのように
奇跡を見ている
ように感じました。

しかし、
それは
本当にそうなのかも
知れません。
いや、
そうなのです。

私たちは
この日常の瞬間、瞬間に
いつも
天文学的な確率の
場面を見ているのです。

この瞬間は
何と
かけがえのない瞬間で
あるのだろう!
二度と同じことは
訪れることは
ないのに
唯、やり過ごして
しまうことの多いことよ!

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間の
この場所が
自分にとって
最善の場所であり

それ以外に
ないのではないか!

今、このときよりも
最良の瞬間など
どこにも
ないのではないか!

今、この瞬間しか
存在しないのに
なぜ?
充分に今を
感じようと
しないのだろう!

この瞬間を
味わうために
この世に
生まれてきたのに

はじめから
奇跡の連続で
この世に
生まれ出たのに

他に何があると
いうのでしょう。

悟りとは
己を知り
今、この瞬間に
生きることでは
ないか?

自分を知り
自分に気づき
自分を取り戻すこと

本来の自分に
帰ること

その
あるべき姿で
今、この瞬間に
生命を輝かすこと

今、
目の前に
現れている人や
出来事に
生命を顕現すること

このことが
解脱に
至る
一番の近道なのでは
ないでしょうか?

今日の
今という瞬間
そんな実感が
湧いた
瞬間でした。

この瞬間を
見つめ続けて
いきたいと
思うのです。

ありがとうございます。

2011年10月3日月曜日

“和顔愛語”

今日は
ある雑誌に
載っていました。
“ブス25箇条”
というのを紹介します。

これは
宝塚歌劇団の
いたるところに
張られている
のだそうです。

1、笑顔がない。
2、お礼を言わない。
3、おいしいと言わない。
4、精気がない。
5、自信がない。
6、愚痴をこぼす。
7、希望や信念がない。
8、いつも周囲が悪いと思っている。
9、自分がブスであることを知らない。
10、声が小さくいじけている。
11、なんでもないことに傷つく。
12、他人に嫉妬する。
13、目が輝いていない。
14.いつも口がへの字の形をしている。
15、責任転嫁がうまい。
16、他人をうらやむ。
17、悲観的に物事を考える。
18、問題意識を持っていない。
19、他人につくさない。
20、他人を信じない。
21、人生においても仕事においても意欲がない。
22、謙虚さがなく傲慢である。
23、人のアドバイスや忠告を受け入れない。
24、自分がもっとも正しいと信じ込んでいる。
25、存在自体が周囲を暗くする。

いかがでしょうか?
当てはまるところは
ありましたか?

これと逆のことを
やれば
美人になれる!

分かる気がします。
いわゆる美人とは
姿、形に非ず
ものの見方・考え方に
あるということが
わかります。

ものの見方・考え方が
美しい見方
美しい考え方を
することが
美人なのです。
それが美しい
行動に繋がって
いきます。

タカラジェンヌ出身の
女優さんは
黒木 瞳さんや
天海佑希さん
真矢みきさん等々
長い間
人気を保って
活躍されています。

この“ブス25か条”を
参考に
いつも意識を
向けて
守っているからかも
しれませんね。

この“ブス25か条”の
一番に
「笑顔がない」が
あげられています。

仏教では「和顔愛語」と
いうのがあります。
重要な徳目として
これは
二番目にあげられている
「お礼を言わない」
「おいしいと言わない」
を含めての意味です。

笑顔と優しい言葉を
投げかけることは
人間関係を
スムーズにいかせる
ためには
欠かすことの出来ない
ことです。

この「和顔愛語」は
どなたにもできる
一番効能がある
尊い布施の
実践行であると
お釈迦さまも
仰っています。

これも
因果の理法なのです。
にこやかな笑顔と、
明るい挨拶は、
世の中を照らします。

人を幸せにしていきます。
笑う門には
福がやってきます!
笑いを蒔けば
笑いがやってくるのです、
善因善果です。

楽しいから
笑うのでは
ないのです。
笑うから
楽しいのです。

反対に
悲しいから
泣くのではなく
泣くから
悲しいのです。
とも言えます。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日という瞬間、
あなたは
明るい笑顔と
優しい言葉を
意識して
投げかけてみましょう。

それだけで
世界は変わるのです。

最後に
アメリカ先住民の
諺にある言葉を
共有してください。


『あなたが
生まれたとき

あなたは
泣いて

周りの人は
笑って
いたでしょう。

だから
あなたが
死ぬときは

まわりが
泣いて

あなたが
笑っているような
人生を
歩みなさい。』

ありがとうございます。

2011年10月2日日曜日

「我慢」と「適当」

先日、
36年前のメモを
見ていましたら
「我慢」という
意味が書かれていました。

一般的には
「我慢」という意味は
よい意味で
使われることが
多いと思います。

「何事も辛抱して
何かを成し遂げる」
意味合いで
使ったりします。

唯、この
「我慢」という言葉
基本的には仏教から
来ている
“七慢”の中の
一つなのです。

“七慢”とは
① 慢(まん)~
劣った他人に対して、
自分が勝っているといい、
等しい他人に対して、
自分は等しいという。

② 過慢(かまん)~
等しい他人に対して、
自分が勝っているといい、
勝っている他人に対して、
自分は等しいという。

③ 慢過慢(まんかまん)~
他人が勝っているのに
対して、
さらに勝るという。

④ 我慢(がまん)~
我あり、我が所有ありと
執着して、奢り高ぶる。

⑤ 増上慢(ぞうじょうまん)~
いまだ
悟っていないのに
我は
証得しているという。

⑥ 卑慢(ひまん)~
他人がはるかに
勝っているのに対し、
自分はわずかしか
劣っていないという。

⑦ 邪慢(じゃまん)~
悪行をなしても
悪をたのんで
驕り高ぶる。

我慢とは、
自己の中心に
我(が)があると考え、
その我を
拠り所として
心が驕慢であること。
とあり、

さらに、
己をたのんで
心の驕る煩悩と
書かれています。

我慢の心と
言うと
現代では
いい意味ですが

本当の意味は
いつも
このブログで
言っているところの
自我の心のことを
「我慢」と
言うのです。

自我であり
偽我のことです。

一方
「適当」という
言葉の意味も
書かれています。
「適当」とは、

「この仕事は
適当にやればいい!」とか
「あの人は
適当な人だ!」
というような
「いい加減!」の
意味で、
使われる方が
多いように思いますが。

「適当」とは
「適切かつ妥当」の
省略語ですので、
通常の解釈では
物事に対して
適切なのかを
判断しているといった
意味です。

そして
本来の「適当」とは
時、
場所、
人の三相応を得て
判断をするという
意味なのです。

このように
逆の解釈をする
言葉は
意外と多く
見受けられます。

「貴様」なんかも
本来は
いい言葉ですが
実際の使われ方は
人を蔑視した
言い方として
定着しています。

こういう言葉を
見つけてみるのも
たまには
面白いですね!

また、
探して見たいと
思います。

しかし、
折角、
36年前の
私のメモに
「我慢」の意味が
書かれていたのですから、
それを、たまたま
読んだのも
偶然では
ないでしょう!

「我慢」という
タイトルを
頂いたと思い
本来の
このブログのテーマ
として少し
書きたいと思います。
言葉の持つ
本来の意味
本質的な意味に
触れながら
書いていきます。

「我慢」が
“七慢”の
四つ目の慢であり、

「自己の中心に
我(が)があると考え、
その我を
拠り所として
心が驕慢であること。
とあり、

さらに、
己をたのんで
心の驕る煩悩」の
意味であると
書きました。

結局は
自らの感覚器官の
五感にのみ
囚われた状態

肉体こそ
物質こそ
すべてと思う
心の状態こそ
「我慢」であります。

この状態に
囚われている以上
“生老病死”や
“四苦八苦”から
自由になることは
できません。

私たちの内部に
本来、備わっている
ところの
真なる我に気づく
ことです。

真なる我とは
どういう意味を
いうのでしょうか。

真は“まこと”で
“まこと”の“ま”は
○(まる)のことで
“こと”は“言”のことで、
言葉のことです。

“まる”は
少しも欠けて
いないことを意味し
完全な相(すがた)
いわゆる実相のことです。

神が創り給いた
相(すがた)です。

“こと”は言葉のこと
‘初めに言葉ありき“
と聖書でも
書いてあります。

この言葉の意味は
神以外に
何も存在していない時から
ある言葉の事で
神の波動の事です。

真なる我とは
神なる我のことです。
この自覚を持つことが
値(音)打ちの自覚とも
いいます。

私たちの内部にある
ところの生命の響き(音)
バイブレーション
心の響きを
感ずることが
その人の値(音)打ちです。
それを真(神)価と
言います。

私たちには
神と同じ値(音)打ち
真価が内在しています。

このことが
人間の本質なのです。

本当の
真価を発揮する!とは
その人の神なる
値打ちを発揮する。

自己を
霊的人間として
自覚することを
言います。

「我慢」という
エゴからの自覚なのが

「真価」からの
自覚なのか

自覚の誤差を捨てて

本来なる
自己
真我意識を
自覚することが
大切です。

『今日は残りの人生の最初の日』

私は今日
「我慢」から離れ
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるもののみに
こころを
振り向けていきます。

本当の
値打ちのあることに
真価を
発揮します。

そして、
私から
善なるもの、
美なるもの、
光なるもの、
愛なるものを
放射していきます。

私は
神の子です。
そして
あなたも

共有ありがとうございます。