今年も早いもので
あと1ヶ月あまりで
2012年が
目の前に訪れよう
としています。
今年は日本では
大変大きな
出来事として
3月11日の
東日本大震災が
ありました。
多くの方が
お亡くなりになり
残された方たちも
家族を失い
家を失い
仕事を失い
悲しみや苦しみを
乗り越えながら
頑張っているご様子が
あらゆる媒体で
伝えられています。
そんな時
日本中は元より
世界中から
救いの手が
差し伸べられました。
人と人との絆が
こんなにも
実感できたことは
不幸な出来事の中に
一服の清涼感を
もたらせました。
プロスポーツ界からは
プロゴルファーの
石川 遼選手が
2011年の
獲得賞金全額を
東日本大震災復興の
義捐金として
寄付すると発表して
話題を
集めました。
また、大リーガーの
松井秀喜さんも
今までも
スマトラ沖大震災とか
いろいろな天災が
あるたびに
大金を
寄付していますが、
今回もいち早く
義捐金寄付に
名乗りを上げています。
イチローさんも
たくさんの金額を
寄付されています。
また、
いろいろな分野で
活躍されている方たちが
今回の震災のための
イベントや寄付
並びに食料配布や
現地での炊きだしや
激励や介護等に
それぞれが
できることで
参加してくれています。
わが国の
天皇陛下と皇后陛下も
ご高齢にもかかわらず
直々に
被災地を激励に
行かれておられます。
多くの方が
感動のあまり
涙を流して
おられました。
人の気持ちが
人を救うことを
本当に感じることが
できた2011年で
ありました。
これからの
私たちが
進むべき方向が
暗示された一年でも
あったと思います。
3月11日以降
はっきりとしたのは
磁場が明確に
逆転したのを
感じます。
それは
自分のことを中心に
する時代は
終焉を迎え
他に対する
思いやりの気持ちが
優先する時代に
切り替わったと
明確に感じます。
与える愛の実践の
時代の到来であります。
それは霊性の時代です。
霊性がはっきりと
浮き上がって
まいります。
霊性の時代は
自分だけよければ式の
自我からの欲望は
実らない時代に
入ってきています。
今までのように
ただ、
思いが強ければ
物事が実現していく
時代は終わりました。
その思いによって
他を害する
可能性のある
あらゆる実現は
実ることは
ありません。
そう、断言します。
これからは
多くの人が幸せに
なる方向の念いをのみ
発することが
実っていく
ことになります。
自分から積極的に
他に対して思いやりを
配るのです。
他への思いやりを
出していくのです。
見返りなどは
求めずに
与えていくことです。
「与えよ、さらば
与えられん」なのです。
この聖書の中の
「与えよ!」は
見返りを求めない
愛のことです。
無条件の愛なのです。
「さらば 与えられん」は
自己の内面や
他者を通じて
神の祝福が
与えられるのです。
内面からの
輝きなのです。
それが霊性の時代の
証なのです。
そういう時代に
入りました。
霊性の時代の
象徴としてなのか
11月15日に
ブータン王国国王
ジグミ・ケサル・ナムギャル・
ワンチュク陛下及び
同王妃ジツェン・ペマ・
ワンチュク陛下が
国賓として訪日され,
東京,福島,京都を訪問され,
11月20日に
離日されました。
皆様も
いろいろな報道で
ご覧になったことと
思います。
とてもさわやかな風を
日本中に
届けてくださいました。
被災地の
福島県にも訪問され,
小学生と交流されたり、
また、被災地域へ赴き
犠牲者の追悼も
行なっていただきました。
被災地の方たちの
一人ひとりが
どんなに励まされた
ことでしょう。
そして
幸福指数なるものも
お示しくださいました。
このブータン王国に
ついては
私も大変注目を
していまして
“世界一幸せな国”
として
3~4年前から
度々、メルマガで
紹介させていただいて
おりました。
国民総幸福(GNH)とは
Gross National Happinessの
頭文字を冠しています。
① 環境保護~自然環境の豊かさ
② 伝統文化の推進と保全
③ 良き統治(政治)
④ 公正な経済発展
上記、四つの柱から
なっています。
日本においては
戦後の復興に
全力を注ぎ
アメリカを中心に
世界の工場として
大量生産を掲げ
右肩上がりで経済が
上昇していきました。
アメリカについで
GNP(国民総生産)
GDP(国内総生産)
世界第2位として
豊かさを世界に
アピールしていた。
1970年代当時、
世界がこのGNP、
GDPを
代表的な指標として
採用して
生産性をあげるために
躍起になっていました。
GNP、GDPのPは
Products、
物やサービスのことで、
それを取引して
お金の量を増やすことで
豊かさも増えていく
イコール社会や
国民の幸せも増える
という考え方を
政府や国民も
していました。
その時を同じくして
世界でも最もGNPの
低い国のひとつだった
インドと中国に挟まれた
ヒマラヤの小国、
ブータンの国王が
言い出したのが
「GNH(国民総幸福)」
という考え方だったのです。
当時急死した父親である
ジグミ・ドルジ・ワンチュク
第3代国王から継いで、
弱冠16歳で即位した
第4代国王
ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下は
GNPには
私たちの健康や
人々の思いやりや
生きがいというのが
勘定されていない。
本当の幸せとは
いったい豊かさだけで
量れるものだろうか?
経済の発展も
大事ではあるが
一部の人たちだけが
発展することを
もって経済発展という
ことはあり得ない。
戦争(人殺し)で使われる
武器や爆弾も
GNPに含まれて
計算されている。
として、
「GNPよりGNHが大切だ」
と言われたのです。
GNPのProductsのかわりに、
Happiness、幸せのHを入れると
国民に発表したのです。
そして
その国民総幸福を
国是として
国民と一緒になって
30年もの間
議論を重ねていったのです。
そして2005年には
総選挙が実施され、
2008年に
ブータン史上初の
憲法の第9条に
GNHという言葉が
盛り込まれました。
そこには、
国民総幸福を保障するのが
政府の責任であると
明記されているのです
2006年12月には
予定を繰り上げ
王位を長男である
現在の第5代国王に
譲位いたしました。
経済発展を
第一に掲げてきた世界は
物質至上主義に陥り
そのために
自然をも破壊し
自我を満足させる
為だけの目的で
持つものと
持たざるものを
分離し
すべてを分割、分析し
破滅に向かってきました。
国と国の間でも
不足しているものは
奪えばいいと
エゴのまま
果てしない欲望を
満たそうと
醜い争いに
現を抜かしてきました。
豊かさを
追い求めた結果
経済的には豊かに
なっても
その経済は
人の生命を守るために
あるのではなくて
今回の震災での津波や
原発のように
経済を生み出すことを
重視しすぎて
多くの犠牲を出したことは
私たちも経験しました。
記憶に新しいことです。
ブータンの
1人当たりの
国民総所得は
1,920米ドルだそうです。
(世界銀行,2010年)
しかし、ブータンの
国勢調査においては
国民の約97%が
「幸福」であると
回答しています。
その国勢調査には
「家族は互いに
助け合っていますか」
「睡眠時間はどれだけ
とっていますか」
「植林をしましたか」
「医療機関まで
どのくらいの距離が
ありますか」など
72の指標が
策定されているのです。
幸福の指標も
国民を交えて
随時話し合われ
政策を立案,調整する
GNH委員会が
重要な役割を担っています。
その背景には
チベット系仏教の
国家の精神的な遺産としての
価値観があり、
「足るを知る」が
国民一人ひとりに
息づいているのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
私たちは
もともと
自分だけの豊かさを
求めたことは
ない存在なのです。
「足るを知る」
民族なのです。
大和の国は
聖徳太子が
示したところの
人の和をもっとも
重要視した民族なのです。
他に対する
思いやりが深い
人種なのです。
それを思い出せば
いいのです。
神のDNAと
大和のDNAが
共に備わった存在です。
今日、この瞬間に
豊かさより
幸せを求めて
いきましょうよ!
人が喜ぶ顔こそ
何よりの
幸せでは
ないでしょうか。
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年11月28日月曜日
2011年11月23日水曜日
「奇跡の生還に導く声~“守護天使”の正体は?~」
先週の土曜日放映の
地球ドラマチック
「奇跡の生還に導く声~
“守護天使”の正体は?~」
をご覧になりましたか?
私の友人の
何人かには
メールで案内を
しましたので
見た方もおられると思います。
皆様は如何でしょうか?
もし、ご覧になって
いないようでしたら、
11月28日に(月)
再放送もありますので、
是非、ご覧になって
ください。
午前0:00~0:44分です。
深夜で遅いのですが、
大丈夫な方は
見てください。
NHK Eテレの放送です。
ご注意願いたいのは
11月28日(月)なんですが、
午前0:00のため
日付が変わっているので
日曜の深夜と覚えて
置いたほうが
いいかも知れません。
TV番組で
正面から捉えて
守護天使を堂々と
タイトルの一部につけて
放映するように
なってきたというのは
大変喜ばしいことだと
思っています。
こういう実例は
たくさんあるの
ですけれども
取り上げなかった
というのが本当の所です。
これからも、
こういう番組が
増えてくるのを
希望しています。
内容を少し
紹介します。
奇跡の生還を
果たした人たちの多くに、
共通した体験があります。
不思議な声に
導かれたというのです。
声の正体は
いったい何なのか?
脳科学者の
ユニークな研究を
交えて伝えていきます。
この番組は
ジョン・ガイガーさん
という同名の本に
基づいて番組は
構成されています。
2001年9月11日に
ロン・ディフランチェスコさん
という男性は
ニューヨークの
ワールドトレードセンター
サウスタワー84F
オフィスで働いていました。
ノースタワーから10分後
サウスタワーにも
飛行機が突っ込んだのです。
ディフランチェスコさんは
同僚と共に
暗い非常階段を
急いで降りていきます。
すると行く手に
炎が燃え上がるのが
見えたので
上に引き返しました。
そして、
狭い非常階段から
フロアに非難しようと
ドアをあけようと
しました。
ところが、
セキュリティのために
ドアがロックされていて、
他のフロアに
行けないことが
わかりました。
皆、絶望的になって
その場に座り込んで
しまいました。
粉塵と煙に覆われて
空気は乾燥して
いました。
皆、水浸しになっている
非常階段の
冷たい床の上で
眠りはじめました。
その時、
ディフランチェスコさんに
「起きろ!」と
男性の声で導く声が
聞こえたのです。
ディフランチェスコさんは
誰かが強い声で
助けようとしていると
感じました。
「私についてきなさい!
君を家まで
送り届けてあげよう!」と
ディフランチェスコさんは
その声に導かれるまま
1500段余りもある階段を
一気に下りていきました。
ディフランチェスコさんは
サウスタワーの
地下に誘導されました。
サウスタワーに
飛行機がぶつかって
56分後のことです。
ディフランチェスコさんは
外に出ることができました。
しかしその時に
上から火の玉が落ちてきて
ディフランチェスコさんは
気絶してしまうのです。
3日後に病院で
目を覚ましました。
ディフランチェスコさんは
奇跡の生還を
果たしたのです。
ディフランチェスコさんは
「その声は、私に
力を与え脱出を
助けてくれました!」と
力強く言い放つのです。
今、アメリカの
あるアンケート調査では
天使の存在を信じる人は
55%に及び
守護天使を信じる人も
46%いるとの
調査結果を
この番組で伝えて
いました。
以外に多いように
思いましたが
皆様はどう感じられ
ますでしょうか?
もし日本で
アンケート調査を
したとしたら
何%ずつになるので
しょうかね?
他にも
南極の氷の海に
10ヶ月もの間
閉じ込められ
奇跡の生還を遂げた
1914年の
アーネスト・シャクルトンさん
一行の例や
海中の洞窟で
潜水調査を行っていた
シュワーブ・ステファニーさんが
水深30メートルの深さで
真っ暗の海中で
命綱を見失い
パニックに陥ったとき
『亡くなった夫が
自分と共にこの洞窟に
いてくれている。
と感じました。
その時、夫の声が
「落ち着いて、
ステファニー!
慌てなくても大丈夫!」
暗かった洞窟が
明るくなりあたりを
見回せるように
なりました。』
そして、
泳いだ先にあったものは?
『白く光るものが
目に入りました。
信じられないことに
それは命綱だったのです。』
夫が導いてくれ、
九死に一生の
体験を遂げた例、そして
1997年に
宇宙飛行士である
ジェリー・ビネンジャーさんの
ロシアの宇宙ステーション
「ミール」での体験です。
船内の火事や
補給船との衝突等で
「ミール」は制御不能に
陥っていきます。
その万事休すの中で
7年前に亡くなった
父親が励まし
孤立感から解放され
奇跡の生還を遂げます。
ビネンジャーさんは
言います。
「父が物理的に存在し
話しかけて来たんだ!」と
断定するのです。
このように
生命の危機に
遭遇しながら
奇跡的な生還を果たし
九死に一生を
得た人たちの
体験談に耳を傾けると
その多くが
不思議な体験を
していたことが
明らかに
なってきたのです。
極限な状態のとき
守護天使の存在や
亡くなった肉親の
導きを得たお陰で
助かったという
体験者たちへの
インタビューの数々と
その体験を
神経科学の分野から
科学的なアプローチで
解明していくという
スイスの神経科学者の
オラフ・ブランケ博士や
自身も登山家で
医師でもある
ケン・カムラー先生
やはり神経科学者の
マイケル・パーシンガー博士
ピーター・ブルーガー博士達の
脳の分析やユニークな研究の
取り組みを同時に
伝えていきます。
是非、ご覧になってくださいね!
とても面白かったです。
地球ドラマチック
「奇跡の生還に導く声~
“守護天使”の正体は?~」
をご覧になりましたか?
私の友人の
何人かには
メールで案内を
しましたので
見た方もおられると思います。
皆様は如何でしょうか?
もし、ご覧になって
いないようでしたら、
11月28日に(月)
再放送もありますので、
是非、ご覧になって
ください。
午前0:00~0:44分です。
深夜で遅いのですが、
大丈夫な方は
見てください。
NHK Eテレの放送です。
ご注意願いたいのは
11月28日(月)なんですが、
午前0:00のため
日付が変わっているので
日曜の深夜と覚えて
置いたほうが
いいかも知れません。
TV番組で
正面から捉えて
守護天使を堂々と
タイトルの一部につけて
放映するように
なってきたというのは
大変喜ばしいことだと
思っています。
こういう実例は
たくさんあるの
ですけれども
取り上げなかった
というのが本当の所です。
これからも、
こういう番組が
増えてくるのを
希望しています。
内容を少し
紹介します。
奇跡の生還を
果たした人たちの多くに、
共通した体験があります。
不思議な声に
導かれたというのです。
声の正体は
いったい何なのか?
脳科学者の
ユニークな研究を
交えて伝えていきます。
この番組は
ジョン・ガイガーさん
という同名の本に
基づいて番組は
構成されています。
2001年9月11日に
ロン・ディフランチェスコさん
という男性は
ニューヨークの
ワールドトレードセンター
サウスタワー84F
オフィスで働いていました。
ノースタワーから10分後
サウスタワーにも
飛行機が突っ込んだのです。
ディフランチェスコさんは
同僚と共に
暗い非常階段を
急いで降りていきます。
すると行く手に
炎が燃え上がるのが
見えたので
上に引き返しました。
そして、
狭い非常階段から
フロアに非難しようと
ドアをあけようと
しました。
ところが、
セキュリティのために
ドアがロックされていて、
他のフロアに
行けないことが
わかりました。
皆、絶望的になって
その場に座り込んで
しまいました。
粉塵と煙に覆われて
空気は乾燥して
いました。
皆、水浸しになっている
非常階段の
冷たい床の上で
眠りはじめました。
その時、
ディフランチェスコさんに
「起きろ!」と
男性の声で導く声が
聞こえたのです。
ディフランチェスコさんは
誰かが強い声で
助けようとしていると
感じました。
「私についてきなさい!
君を家まで
送り届けてあげよう!」と
ディフランチェスコさんは
その声に導かれるまま
1500段余りもある階段を
一気に下りていきました。
ディフランチェスコさんは
サウスタワーの
地下に誘導されました。
サウスタワーに
飛行機がぶつかって
56分後のことです。
ディフランチェスコさんは
外に出ることができました。
しかしその時に
上から火の玉が落ちてきて
ディフランチェスコさんは
気絶してしまうのです。
3日後に病院で
目を覚ましました。
ディフランチェスコさんは
奇跡の生還を
果たしたのです。
ディフランチェスコさんは
「その声は、私に
力を与え脱出を
助けてくれました!」と
力強く言い放つのです。
今、アメリカの
あるアンケート調査では
天使の存在を信じる人は
55%に及び
守護天使を信じる人も
46%いるとの
調査結果を
この番組で伝えて
いました。
以外に多いように
思いましたが
皆様はどう感じられ
ますでしょうか?
もし日本で
アンケート調査を
したとしたら
何%ずつになるので
しょうかね?
他にも
南極の氷の海に
10ヶ月もの間
閉じ込められ
奇跡の生還を遂げた
1914年の
アーネスト・シャクルトンさん
一行の例や
海中の洞窟で
潜水調査を行っていた
シュワーブ・ステファニーさんが
水深30メートルの深さで
真っ暗の海中で
命綱を見失い
パニックに陥ったとき
『亡くなった夫が
自分と共にこの洞窟に
いてくれている。
と感じました。
その時、夫の声が
「落ち着いて、
ステファニー!
慌てなくても大丈夫!」
暗かった洞窟が
明るくなりあたりを
見回せるように
なりました。』
そして、
泳いだ先にあったものは?
『白く光るものが
目に入りました。
信じられないことに
それは命綱だったのです。』
夫が導いてくれ、
九死に一生の
体験を遂げた例、そして
1997年に
宇宙飛行士である
ジェリー・ビネンジャーさんの
ロシアの宇宙ステーション
「ミール」での体験です。
船内の火事や
補給船との衝突等で
「ミール」は制御不能に
陥っていきます。
その万事休すの中で
7年前に亡くなった
父親が励まし
孤立感から解放され
奇跡の生還を遂げます。
ビネンジャーさんは
言います。
「父が物理的に存在し
話しかけて来たんだ!」と
断定するのです。
このように
生命の危機に
遭遇しながら
奇跡的な生還を果たし
九死に一生を
得た人たちの
体験談に耳を傾けると
その多くが
不思議な体験を
していたことが
明らかに
なってきたのです。
極限な状態のとき
守護天使の存在や
亡くなった肉親の
導きを得たお陰で
助かったという
体験者たちへの
インタビューの数々と
その体験を
神経科学の分野から
科学的なアプローチで
解明していくという
スイスの神経科学者の
オラフ・ブランケ博士や
自身も登山家で
医師でもある
ケン・カムラー先生
やはり神経科学者の
マイケル・パーシンガー博士
ピーター・ブルーガー博士達の
脳の分析やユニークな研究の
取り組みを同時に
伝えていきます。
是非、ご覧になってくださいね!
とても面白かったです。
2011年11月21日月曜日
“谷口雅春先生 ご講話テープからの学びⅢ“ 「預言の的中とその限界」
本日も引き続き
谷口雅春先生の
ご講話テープの
「預言の的中とその限界」
第三弾を紹介させて
いただきます。
これが、最終となります。
まず、本日は
まず最初に
仏教での預言として
法華経の
如来寿量品・自我偈を
抜粋しています。。
「衆生、劫尽きて、
この世が
大火に焼かるると
見るときにも、
我が浄土は
安穏にして
天人常に充満せり」
「人類の劫尽きての
劫(こう)とは
(天体が生まれ、
天体が消滅する
周期のことを言う。
一つの周期を一劫と
言う)
大惑星と衝突して
劫火に焼かれて
しまうけれども
我が浄土は
安穏にして
天人常に充満せり
(自分の住む
仏の国土は
安穏で天人が充満して、
いろいろあらゆる
すばらしいものが
行われている
美しい世界で
天から“まんだらけ”
という美しい花の雨が
咲き乱れている世界です。」
「でも衆生の
目から見れば、
憂怖こもごもの
苦悩がいっぱい
充満している。
迷いの心が
組み合わされて
いる世界である。
滅びる世界は
いつか来るのである。
世界終末の世界が
いつかは訪れる。
と言う意味を
含んでいます。」
「キリスト教においても
新約聖書
マルコ伝第24章
マルコ伝第13章に
世界の終末が書いています。
マルコ伝第13章には
その時の前兆を
知れと言う事で
このように書いています。」
「時の兆しを知れ。
我はキリストの
再臨である。
最後の審判に出てきた
のであるといって、
預言をして
惑わすものが出てくる。
(世界終末の前兆
として出てくる。)
汝ら人に惑わされぬ
ように心せよ。
戦と戦のうわさを
聞いて驚くな。
かかることは
あるけれども、
未だ終りにはあらず。
即ち民は民に、
国は国に逆らいてたたむ。
またところどころに
地震や飢饉がある。
これらは
生みの苦しみの始めなり。
汝ら自ら心せよ。
人々、
汝らを衆議所に渡さん。」
「親でも兄弟でも
子どもでも
密告制度にして、
人々は
身内を密告したり
訴えて革命に忠実な
ものだとして
助かろうとする
見苦しい状態の
時期が来る。
衆議所とは
(人民裁判のような
ことをする場所を指す。)
そういうことが
前兆として現れる
と言っている。
しかし、
その時期については
明らかにしていない。
天の使いも知らず、
イエスも知らず、
ただ神しかしらない。
とマルコ伝の13章には
書いてあるので、
1999年7月と
いうのは嘘である。
時期は神しか知らない
他に誰も
知らないのだから
ノストラダムスが
知る由がない。」
ただ、察知するには
時の兆しを知ることと
マルコ伝第13章には
書いてあります。
「イチジクの木よりの
その枝、
既に柔らかくなりて
葉、恵めば、
夏の近きを知る。
かくのごとく、
我らの
事の起こるを見れば、
人の子(キリスト)、
既に近ずきて、
門べに至るを知れ。
(再臨のキリストが
天から天下ってきて、
最後の審判を行う。
その時、
天変地異が起こって
多くの人類が
滅びてしまいます。)」
「しかし、
その時は神しか
知らないのである。
我はキリストの再来
であるという、
偽キリスト、
偽預言者が出てきて
奇跡を行う時、
世界終末の時の兆し、
キリストの再来は
決して肉体を持った
霊的手品師みたいな
奇跡を起こすのではない。
それは、
本当のイエスの再臨
ではないのである。」
「汝ら心せよ、
予め、これを皆、
汝らに告げおくなり。
日は暗く、
月は光を放たず、
星は空より落ち、
天にある万象、
震え動かん。
その時人々、
人の子(キリスト)の
大いなる力と
栄光をもて、
雲に乗り気たるを見る。
天に異称あり。
その日には
身ごもりたる女と、
乳を飲まする女とは
災いなるかな。」
「それでは
どういう姿で来るのか、
雲に乗って再臨する。
天に異称ありとは
天変地異が起こる
という意味。。
それで
赤ん坊などを
連れている女たちは
逃げ場を
注意しなければ
ならないということを
イエスが
言ったというので、
それをまともに
最後の審判が
すぐにでも始まると
信じたのは聖パブロです。
コリント全書の
第7章の冒頭に、
『「男は女に触れぬを
良しとする!」
それでも、
抑えることが
できないならば、
乱倫、乱交をする
性道徳が乱れるのは
いけないから、
その場合には
「男は各々その妻を持ち、
女はその夫を持つべし」
と言って、
夫婦は婚姻生活を
しなけらばならない
と伝えます。
処女(おとめ)
のことについては、
主に聞いたことは
ないけれども、
私は主に忠実に
仕えていたものとして、
私の意見をいいましょう。
と言い、
「例え妻を娶るとも
罪を犯すにはあらず。
処女(おとめ)
もし嫁ぐとも
罪を犯すにはあらず。
されどかかるものは、
その身苦しみに会わん。
我、汝らを苦しみに
会わすに忍びず、
兄弟よ我これ言わん。
時は縮まれり。」
時は縮まれりとは、
世界終末の時期は
逼迫しているのだから、
妊娠していたり、
子どもを育てたり
していくのは
大変だから、
結婚すると苦難に
合うことになる。と
書いてあります。』
「このように
前兆を見て、
惑わすものが
出てくるけれど、
そんなものは
信じてはいけない。
ノストラダムスが
予言をしたところの
アンリ2世のような
近いところの預言は
実現するのだけれど、
遠く先の預言は
朦朧としていて、
当るのが
難しいものである。
変わるかもしれません。
はっきりと言えない。
1999年の7の月に
世界最後の日が
来るという
ノストラダムスの
予言なんかも、
初めの予言が実現
したからと言って、
終りの予言も
実現するということは
決してないのである。」と
谷口先生は断定します。
次に確率の高い
預言者として
谷口先生が紹介したのは
ダニエルさんです、
『旧約聖書ダニエル書
第11章31節に
「彼より腕、起こりて、
清きところ
即ち難き城を穢し、
常供の物を取り除かせ、
荒す憎むべきものを立てん!」
それが悩みのときであって、
世界終末の
予告のようである。
そして第12章には、
「その時、
汝の民の人々のために、
立つところの大いなる君、
ミカエル立ち上がらん。」
ミカエルは
キリスト教では
最高の天の使いです、
ミカエルは
日本の神道で言えば、
住吉大神
(すみよしのおおかみ)
のような存在です。
「古事記」では
住江大神
(すみのえのおおかみ)
となっている、
いざなぎの大神、
いざなみの大神と
同じように
大神と書いているのは
他にはあまりないので、
ミカエルは
大天使と言ってもいい。
「これ悩みのときなり、
国ありてよりこのかた、
そのときに到るまで、
かかる悩み
ありしことなかるべし、
その汝の民は救われん。
すなわち
文にしるされたものは
皆、救われん。
(大天使ミカエルの
手に持っている
巻き物に書かれている
ものだけは救われる)
土の下に
眠りおるものの中の
多くのもの眼を覚まさん。
そのうち限りなき命を
得るものあり、
また恥辱を被りて
限りなく恥ずるものあり、
悟きもの
空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を
正しきに導けるものは
星の如くなりて
永遠に到らん。
ダニエルよ、
終りのときまで、
この言葉を伏し、
この文を封じおけ、
多くのもの行き渡らん。
そして知識増すべし。」と
ダニエル書の
最後の書に
将来の予言を書いてある。』
『このダニエル書を
日本に当て嵌めて
考えてみると
「荒す憎むべきもの」を
占領軍、原子爆弾と
捉える事もできる。
「清きところ」を神国日本
「常供の物を取り除かせ」
占領軍がやってきて、
神道指令を出して
常にお供え物を
取り除くように指令した。
伊勢神宮や靖国神社を
禁止したことに
当るかもしれない。
時の兆しを見て考えると、
「荒す憎むべきもの」が
何であるか?
清きところが日本なのか?
世界最後の日としての
起点として
考えることは出来る。
本当の終末の日が
起こるまで、
いつ終末の
大破壊が起こるか、
誰も天の使いも
イエスも解らない。
聖パウロが
その日が来ると、
孕める女と、
乳を飲ます女とは
苦しみを犯すから、
なるべく結婚するな!
といったように、
間違いを犯すことに
なるかもしれない。』
と語られるのです。
そして
このノストラダムスの
予言詩をダニエル書との
比較で対比します。
『「大きな七の数が
巡り終わるとき
虐殺が起こる。
それは、
かの大きな千年から
そんなに
遠く立った時ではない。
そのとき
墓に入っていたものは、
そこから
出てくるであろう。」
五島 勉氏は、
ロバーツという方
の解釈として
「西暦○○○○年
12月に、
1999年を上回る
大戦争が起こって、
細々ながら大破壊から
逃れて生き残った
破滅後の人類の子孫が、
今度こそ一人残らず
滅び去るのだ。
そして
墓に入っていたものが
出てくると言うことは、
幽霊しかなくなる
と言うことであり、
完全に絶滅である。」
と解釈しているのである。
こういう
暗い解釈ができない
こともないけれど、
ダニエル書には、
「土の下に
眠りおるものの中の
多くのもの眼をさまさん。
そのうち限りなき命を
得るものあり、
悟きもの
空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を
正しきに導けるものは
星の如くなりて
永遠に到らん。」
すばらしい人間が
再び土から再生して
生まれてくると
書いてある。
悪い解釈の方に
味方をすると、
悪い心の思いを、
この地球上に
いっぱい漂わす。
心の思いが
互いに連絡して
組み合わされて、
丁度、
水蒸気が雲になるが如く、
現象界が生まれる
フィルムができる。
そのフィルムが
地上に悪いものを現わす。
悪いほうの
予言の解釈を
しないようにして、
いいように解釈する。
私はそう思う。』と
続けます。
そして、
谷口先生がご自身が
居られた教団、
大本教について
語るのです。
『最後の審判の
大破壊の日を予言して、
間違ったのが
かつての大本教です。
その時代に(谷口先生は)
大本教の機関紙の
雑誌の心霊界や
綾部新聞を編集していた。
大本教は教祖、出口ナオが
神懸かりになって、
明治25年正月元旦、
お筆先で神様の言葉を
自動筆記で書いたこと
から始まる。
そのお筆先はとても
読みにくいのです。
平仮名と数字で書いてある、
例えば
「ごくろうであるぞよ。」は
5と9は
数字で書いてあって、
後は平仮名で書いてある。
最後の審判の予言も皆、
平仮名で書いてある。
大本神癒には
「じしんかみなり
ひのあめふらして
たいらげるぞや」と
書いてある。
当時の幹部は、
「地震、雷、火の雨ふらし、
(隕石が夥しく降ってきて)
地上の人間は
皆、平らげられてしまう」と
解釈した。
そして、
大本教を信じて、
魂を清めて、
身を清めたものだけが
救われるというので、
皆、魂を清め、
身を清めていた。
しかも年限が
「めいじ55ねん
5がつ5にちは
けっこうなひであるぞよ」
と書いてあるので、
いよいよ
最後の審判だと
信者は注目していた。
大本教の信者の金持ちは、
当面の生活費を残し、
その他は教団に献金した。
年号変わって、その日は
大正11年5月5日、
しかし、
何事も起こらなかった。
(谷口先生は)
二年ほど前に
大本を後にしていたのである。
「最後の審判と言って、
皆殺しをするような
神様はない。
神様と言うのは
残虐なものでは
ないのである」と思って
大本教を出ていたのである。
「神は愛の神で
なければならない!」
と思って、
東京に出てきた。
論文集「聖道へ」
(しょうどうへ)を発表した。
それから、
「神罰を当てるような
神がおるか!」と
言うことで
「神を裁く」という
小説を書いた。
ところがこの「神を裁く」
という小説は、
東京の書籍小売店に
配給されたのが、
大正12年9月1日でした。
その日に
関東大震災が起きて、
この小説は
神から逆に裁かれた形で
皆焼けてしまった。
しかし、地方の書店で
残っていた
数十部の返品があって、
それをもとに
日本教文社から
「神を裁く」として
出ているのです。
あの頃(当時)
神をいかに見ているか。
最後の審判を
どう見ているか?
その中の、
「秘められたる神示」
57Pを抜粋する。
最後の審判の神示、
「キリスト再び来たりて、
裁くとは今のことである。
キリストとは
肉体にあらず真理である。
キリストとは
肉体にあらず光である。
肉体の我の来たるを、
待ち望むな。
我は既に、
ここに来たれるにあらずや。
我は道である、
真理である、
光である。
我、来たって迷いを裁き、
我、来たって闇を裁き、
すべての迷いと暗きとを、
地獄の火に投げ入れて、
これを焼き滅ぼす。
これこそ
最後の審判であると知れ。
されど恐るるなかれ。
我が教えは
恐怖の教えにあらず。
迷いを焼かるるものは
却って生き、
闇を焼かれるものは
却って光を現わさん。
病は癒され、
悩みは消えん。
焼かるるもは
汝にあらずして
偽者の汝である
からである。
偽者の汝は
神より出ずるに非ず、
神より出でざる汝は
実在に非ず。
実在に非らざる汝は
その真相を
暴露して消滅せん。
我が来たれるは、
真と偽と
実在と虚妄をより分けて、
偽りと虚妄とを
永久に
地獄の火術ざいの穴の中に
葬りて封印せんと
するためである。」
これは、
キリストの霊が
谷口先生に
降りて来たりて
筆記した神示であります。
谷口先生は重ねて
「予言には
やがて
起こるべき事実を
そのまま語られたり
書かれたりする予言と、
象徴的な預言とがある。
遠く起こるべく預言は、
今知らせては、
ならないものの預言で
象徴的な
預言とする場合が多い。
旧約聖書の黙示録に
書かれている預言は
そういう象徴的預言である。」
と言われました。
最後に5000年前の
エジプトの宗教家である
アガシャの預言を
紹介いたします。
この預言は
チェナーさんと言う
チャネラーを通じて
語られたものを
谷口先生が解説を
して頂いています。
「1944年9月22日に、
日本を一夜にして
破壊するある力について
予言があったのである。。
そして、9月29日には、
アメリカは
或るいけないものを
持っている。
それは巨大な爆弾だ。
1945年の3月3日
までの間に、
アメリカが
ほとんど一夜のうちに
日本を壊滅せしめる
ことが出来るであろう。」
そしてドイツの
ことについてもこう
預言しているのです。
「我々は、
いかに速やかに
戦争が終りに近ずくと
驚くであろう。
そして7月22日に
ほとんど一夜のうちに
間もなく終わる。」
さらに続けて
「1945年の
2月23日には、
ゲーリングに対して、
ある重大な
ニュースが出るであろう。
ゲーリングは
空軍総司令官という
戦争計画を遂行する
位置にありながら、
戦争の全計画を
引っくり返すような
ヒットラーに関する
秘密を暴露するだろう。
そして、さらに
重大なニュースとして、
4月26日に
ゲーリングが
辞職したと発表、
ヒットラーと
仲間割れをして、
ゲーリングの
死刑計画が発表される。
5月1日に
ヒットラーの
奇妙な死の広報が行われ、
それに次いで
ゲッペルス自殺の話等々、
重大な人物の話が
次々と預言されて
いるのである。
しかし、
世界最後の日については
はっきりと
予言はしていないのである。
将来のことについては、
アガシャは
「新しき世界は、
この地上には
1965年以後に
建設されるであろう。
それは非常に
平和な時代であるが、
人々はその変革の
準備として
地上を浄化するために、
地獄の
苦痛の如きものを
経過するであろう。
黄金時代は
確かに来つつあるが、
それが訪れる前に
人々の生活には
大きなショックが
与えられるはずである。
多くの不思議な
出来事が現われ、
人々はそれによって、
自分自身の中に
神の力が
あることを悟り、
眼を覚ましてくるであろう。
1965年までの期間は
多くの人々が
新しき神意、
偉大なる
世界同胞的理解のために
働く時期である。
1965年と
2020年の間に
無限の
進歩の時期が訪れる、
新アトランティスが
建設されるだろう。」
いかがでしたか?
三回にわたり
谷口先生のご講話テープ
「預言の的中と
その限界」を
学んできました。
ノストラダムスさんの予言と
アガシャさんの預言や
谷口先生の
「最後の審判の神示」を
対比してみて
明確になるのは、
未来への
大いなる希望であります。
ノストラダムスさんの
予言を貫くものは
暗黒の予言であり、
アガシャさんは
「多くの不思議な
出来事が現われ、
人々はそれによって、
自分自身の中に
神の力が
あることを悟り、
眼を覚まして
くるであろう。」
と語り、
大西洋の真ん中にあった
アトランティスの
高度の文明が、
再び建設されるだろうと
預言しているのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
イエスさまが
谷口先生を通じて
語ったところの
最後の審判は
「我は道である、
真理である、
光である。
我、来たって迷いを裁き、
我、来たって闇を裁き、
すべての迷いと暗きとを、
地獄の火に投げ入れて、
これを焼き滅ぼす。
これこそ
最後の審判であると知れ」
とあります。
迷いや闇は
自らの審判において
今、この瞬間に
焼き滅ぼし滅することが
できるのです。
今日が新しい時代への
出発なのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
谷口雅春先生の
ご講話テープの
「預言の的中とその限界」
第三弾を紹介させて
いただきます。
これが、最終となります。
まず、本日は
まず最初に
仏教での預言として
法華経の
如来寿量品・自我偈を
抜粋しています。。
「衆生、劫尽きて、
この世が
大火に焼かるると
見るときにも、
我が浄土は
安穏にして
天人常に充満せり」
「人類の劫尽きての
劫(こう)とは
(天体が生まれ、
天体が消滅する
周期のことを言う。
一つの周期を一劫と
言う)
大惑星と衝突して
劫火に焼かれて
しまうけれども
我が浄土は
安穏にして
天人常に充満せり
(自分の住む
仏の国土は
安穏で天人が充満して、
いろいろあらゆる
すばらしいものが
行われている
美しい世界で
天から“まんだらけ”
という美しい花の雨が
咲き乱れている世界です。」
「でも衆生の
目から見れば、
憂怖こもごもの
苦悩がいっぱい
充満している。
迷いの心が
組み合わされて
いる世界である。
滅びる世界は
いつか来るのである。
世界終末の世界が
いつかは訪れる。
と言う意味を
含んでいます。」
「キリスト教においても
新約聖書
マルコ伝第24章
マルコ伝第13章に
世界の終末が書いています。
マルコ伝第13章には
その時の前兆を
知れと言う事で
このように書いています。」
「時の兆しを知れ。
我はキリストの
再臨である。
最後の審判に出てきた
のであるといって、
預言をして
惑わすものが出てくる。
(世界終末の前兆
として出てくる。)
汝ら人に惑わされぬ
ように心せよ。
戦と戦のうわさを
聞いて驚くな。
かかることは
あるけれども、
未だ終りにはあらず。
即ち民は民に、
国は国に逆らいてたたむ。
またところどころに
地震や飢饉がある。
これらは
生みの苦しみの始めなり。
汝ら自ら心せよ。
人々、
汝らを衆議所に渡さん。」
「親でも兄弟でも
子どもでも
密告制度にして、
人々は
身内を密告したり
訴えて革命に忠実な
ものだとして
助かろうとする
見苦しい状態の
時期が来る。
衆議所とは
(人民裁判のような
ことをする場所を指す。)
そういうことが
前兆として現れる
と言っている。
しかし、
その時期については
明らかにしていない。
天の使いも知らず、
イエスも知らず、
ただ神しかしらない。
とマルコ伝の13章には
書いてあるので、
1999年7月と
いうのは嘘である。
時期は神しか知らない
他に誰も
知らないのだから
ノストラダムスが
知る由がない。」
ただ、察知するには
時の兆しを知ることと
マルコ伝第13章には
書いてあります。
「イチジクの木よりの
その枝、
既に柔らかくなりて
葉、恵めば、
夏の近きを知る。
かくのごとく、
我らの
事の起こるを見れば、
人の子(キリスト)、
既に近ずきて、
門べに至るを知れ。
(再臨のキリストが
天から天下ってきて、
最後の審判を行う。
その時、
天変地異が起こって
多くの人類が
滅びてしまいます。)」
「しかし、
その時は神しか
知らないのである。
我はキリストの再来
であるという、
偽キリスト、
偽預言者が出てきて
奇跡を行う時、
世界終末の時の兆し、
キリストの再来は
決して肉体を持った
霊的手品師みたいな
奇跡を起こすのではない。
それは、
本当のイエスの再臨
ではないのである。」
「汝ら心せよ、
予め、これを皆、
汝らに告げおくなり。
日は暗く、
月は光を放たず、
星は空より落ち、
天にある万象、
震え動かん。
その時人々、
人の子(キリスト)の
大いなる力と
栄光をもて、
雲に乗り気たるを見る。
天に異称あり。
その日には
身ごもりたる女と、
乳を飲まする女とは
災いなるかな。」
「それでは
どういう姿で来るのか、
雲に乗って再臨する。
天に異称ありとは
天変地異が起こる
という意味。。
それで
赤ん坊などを
連れている女たちは
逃げ場を
注意しなければ
ならないということを
イエスが
言ったというので、
それをまともに
最後の審判が
すぐにでも始まると
信じたのは聖パブロです。
コリント全書の
第7章の冒頭に、
『「男は女に触れぬを
良しとする!」
それでも、
抑えることが
できないならば、
乱倫、乱交をする
性道徳が乱れるのは
いけないから、
その場合には
「男は各々その妻を持ち、
女はその夫を持つべし」
と言って、
夫婦は婚姻生活を
しなけらばならない
と伝えます。
処女(おとめ)
のことについては、
主に聞いたことは
ないけれども、
私は主に忠実に
仕えていたものとして、
私の意見をいいましょう。
と言い、
「例え妻を娶るとも
罪を犯すにはあらず。
処女(おとめ)
もし嫁ぐとも
罪を犯すにはあらず。
されどかかるものは、
その身苦しみに会わん。
我、汝らを苦しみに
会わすに忍びず、
兄弟よ我これ言わん。
時は縮まれり。」
時は縮まれりとは、
世界終末の時期は
逼迫しているのだから、
妊娠していたり、
子どもを育てたり
していくのは
大変だから、
結婚すると苦難に
合うことになる。と
書いてあります。』
「このように
前兆を見て、
惑わすものが
出てくるけれど、
そんなものは
信じてはいけない。
ノストラダムスが
予言をしたところの
アンリ2世のような
近いところの預言は
実現するのだけれど、
遠く先の預言は
朦朧としていて、
当るのが
難しいものである。
変わるかもしれません。
はっきりと言えない。
1999年の7の月に
世界最後の日が
来るという
ノストラダムスの
予言なんかも、
初めの予言が実現
したからと言って、
終りの予言も
実現するということは
決してないのである。」と
谷口先生は断定します。
次に確率の高い
預言者として
谷口先生が紹介したのは
ダニエルさんです、
『旧約聖書ダニエル書
第11章31節に
「彼より腕、起こりて、
清きところ
即ち難き城を穢し、
常供の物を取り除かせ、
荒す憎むべきものを立てん!」
それが悩みのときであって、
世界終末の
予告のようである。
そして第12章には、
「その時、
汝の民の人々のために、
立つところの大いなる君、
ミカエル立ち上がらん。」
ミカエルは
キリスト教では
最高の天の使いです、
ミカエルは
日本の神道で言えば、
住吉大神
(すみよしのおおかみ)
のような存在です。
「古事記」では
住江大神
(すみのえのおおかみ)
となっている、
いざなぎの大神、
いざなみの大神と
同じように
大神と書いているのは
他にはあまりないので、
ミカエルは
大天使と言ってもいい。
「これ悩みのときなり、
国ありてよりこのかた、
そのときに到るまで、
かかる悩み
ありしことなかるべし、
その汝の民は救われん。
すなわち
文にしるされたものは
皆、救われん。
(大天使ミカエルの
手に持っている
巻き物に書かれている
ものだけは救われる)
土の下に
眠りおるものの中の
多くのもの眼を覚まさん。
そのうち限りなき命を
得るものあり、
また恥辱を被りて
限りなく恥ずるものあり、
悟きもの
空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を
正しきに導けるものは
星の如くなりて
永遠に到らん。
ダニエルよ、
終りのときまで、
この言葉を伏し、
この文を封じおけ、
多くのもの行き渡らん。
そして知識増すべし。」と
ダニエル書の
最後の書に
将来の予言を書いてある。』
『このダニエル書を
日本に当て嵌めて
考えてみると
「荒す憎むべきもの」を
占領軍、原子爆弾と
捉える事もできる。
「清きところ」を神国日本
「常供の物を取り除かせ」
占領軍がやってきて、
神道指令を出して
常にお供え物を
取り除くように指令した。
伊勢神宮や靖国神社を
禁止したことに
当るかもしれない。
時の兆しを見て考えると、
「荒す憎むべきもの」が
何であるか?
清きところが日本なのか?
世界最後の日としての
起点として
考えることは出来る。
本当の終末の日が
起こるまで、
いつ終末の
大破壊が起こるか、
誰も天の使いも
イエスも解らない。
聖パウロが
その日が来ると、
孕める女と、
乳を飲ます女とは
苦しみを犯すから、
なるべく結婚するな!
といったように、
間違いを犯すことに
なるかもしれない。』
と語られるのです。
そして
このノストラダムスの
予言詩をダニエル書との
比較で対比します。
『「大きな七の数が
巡り終わるとき
虐殺が起こる。
それは、
かの大きな千年から
そんなに
遠く立った時ではない。
そのとき
墓に入っていたものは、
そこから
出てくるであろう。」
五島 勉氏は、
ロバーツという方
の解釈として
「西暦○○○○年
12月に、
1999年を上回る
大戦争が起こって、
細々ながら大破壊から
逃れて生き残った
破滅後の人類の子孫が、
今度こそ一人残らず
滅び去るのだ。
そして
墓に入っていたものが
出てくると言うことは、
幽霊しかなくなる
と言うことであり、
完全に絶滅である。」
と解釈しているのである。
こういう
暗い解釈ができない
こともないけれど、
ダニエル書には、
「土の下に
眠りおるものの中の
多くのもの眼をさまさん。
そのうち限りなき命を
得るものあり、
悟きもの
空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を
正しきに導けるものは
星の如くなりて
永遠に到らん。」
すばらしい人間が
再び土から再生して
生まれてくると
書いてある。
悪い解釈の方に
味方をすると、
悪い心の思いを、
この地球上に
いっぱい漂わす。
心の思いが
互いに連絡して
組み合わされて、
丁度、
水蒸気が雲になるが如く、
現象界が生まれる
フィルムができる。
そのフィルムが
地上に悪いものを現わす。
悪いほうの
予言の解釈を
しないようにして、
いいように解釈する。
私はそう思う。』と
続けます。
そして、
谷口先生がご自身が
居られた教団、
大本教について
語るのです。
『最後の審判の
大破壊の日を予言して、
間違ったのが
かつての大本教です。
その時代に(谷口先生は)
大本教の機関紙の
雑誌の心霊界や
綾部新聞を編集していた。
大本教は教祖、出口ナオが
神懸かりになって、
明治25年正月元旦、
お筆先で神様の言葉を
自動筆記で書いたこと
から始まる。
そのお筆先はとても
読みにくいのです。
平仮名と数字で書いてある、
例えば
「ごくろうであるぞよ。」は
5と9は
数字で書いてあって、
後は平仮名で書いてある。
最後の審判の予言も皆、
平仮名で書いてある。
大本神癒には
「じしんかみなり
ひのあめふらして
たいらげるぞや」と
書いてある。
当時の幹部は、
「地震、雷、火の雨ふらし、
(隕石が夥しく降ってきて)
地上の人間は
皆、平らげられてしまう」と
解釈した。
そして、
大本教を信じて、
魂を清めて、
身を清めたものだけが
救われるというので、
皆、魂を清め、
身を清めていた。
しかも年限が
「めいじ55ねん
5がつ5にちは
けっこうなひであるぞよ」
と書いてあるので、
いよいよ
最後の審判だと
信者は注目していた。
大本教の信者の金持ちは、
当面の生活費を残し、
その他は教団に献金した。
年号変わって、その日は
大正11年5月5日、
しかし、
何事も起こらなかった。
(谷口先生は)
二年ほど前に
大本を後にしていたのである。
「最後の審判と言って、
皆殺しをするような
神様はない。
神様と言うのは
残虐なものでは
ないのである」と思って
大本教を出ていたのである。
「神は愛の神で
なければならない!」
と思って、
東京に出てきた。
論文集「聖道へ」
(しょうどうへ)を発表した。
それから、
「神罰を当てるような
神がおるか!」と
言うことで
「神を裁く」という
小説を書いた。
ところがこの「神を裁く」
という小説は、
東京の書籍小売店に
配給されたのが、
大正12年9月1日でした。
その日に
関東大震災が起きて、
この小説は
神から逆に裁かれた形で
皆焼けてしまった。
しかし、地方の書店で
残っていた
数十部の返品があって、
それをもとに
日本教文社から
「神を裁く」として
出ているのです。
あの頃(当時)
神をいかに見ているか。
最後の審判を
どう見ているか?
その中の、
「秘められたる神示」
57Pを抜粋する。
最後の審判の神示、
「キリスト再び来たりて、
裁くとは今のことである。
キリストとは
肉体にあらず真理である。
キリストとは
肉体にあらず光である。
肉体の我の来たるを、
待ち望むな。
我は既に、
ここに来たれるにあらずや。
我は道である、
真理である、
光である。
我、来たって迷いを裁き、
我、来たって闇を裁き、
すべての迷いと暗きとを、
地獄の火に投げ入れて、
これを焼き滅ぼす。
これこそ
最後の審判であると知れ。
されど恐るるなかれ。
我が教えは
恐怖の教えにあらず。
迷いを焼かるるものは
却って生き、
闇を焼かれるものは
却って光を現わさん。
病は癒され、
悩みは消えん。
焼かるるもは
汝にあらずして
偽者の汝である
からである。
偽者の汝は
神より出ずるに非ず、
神より出でざる汝は
実在に非ず。
実在に非らざる汝は
その真相を
暴露して消滅せん。
我が来たれるは、
真と偽と
実在と虚妄をより分けて、
偽りと虚妄とを
永久に
地獄の火術ざいの穴の中に
葬りて封印せんと
するためである。」
これは、
キリストの霊が
谷口先生に
降りて来たりて
筆記した神示であります。
谷口先生は重ねて
「予言には
やがて
起こるべき事実を
そのまま語られたり
書かれたりする予言と、
象徴的な預言とがある。
遠く起こるべく預言は、
今知らせては、
ならないものの預言で
象徴的な
預言とする場合が多い。
旧約聖書の黙示録に
書かれている預言は
そういう象徴的預言である。」
と言われました。
最後に5000年前の
エジプトの宗教家である
アガシャの預言を
紹介いたします。
この預言は
チェナーさんと言う
チャネラーを通じて
語られたものを
谷口先生が解説を
して頂いています。
「1944年9月22日に、
日本を一夜にして
破壊するある力について
予言があったのである。。
そして、9月29日には、
アメリカは
或るいけないものを
持っている。
それは巨大な爆弾だ。
1945年の3月3日
までの間に、
アメリカが
ほとんど一夜のうちに
日本を壊滅せしめる
ことが出来るであろう。」
そしてドイツの
ことについてもこう
預言しているのです。
「我々は、
いかに速やかに
戦争が終りに近ずくと
驚くであろう。
そして7月22日に
ほとんど一夜のうちに
間もなく終わる。」
さらに続けて
「1945年の
2月23日には、
ゲーリングに対して、
ある重大な
ニュースが出るであろう。
ゲーリングは
空軍総司令官という
戦争計画を遂行する
位置にありながら、
戦争の全計画を
引っくり返すような
ヒットラーに関する
秘密を暴露するだろう。
そして、さらに
重大なニュースとして、
4月26日に
ゲーリングが
辞職したと発表、
ヒットラーと
仲間割れをして、
ゲーリングの
死刑計画が発表される。
5月1日に
ヒットラーの
奇妙な死の広報が行われ、
それに次いで
ゲッペルス自殺の話等々、
重大な人物の話が
次々と預言されて
いるのである。
しかし、
世界最後の日については
はっきりと
予言はしていないのである。
将来のことについては、
アガシャは
「新しき世界は、
この地上には
1965年以後に
建設されるであろう。
それは非常に
平和な時代であるが、
人々はその変革の
準備として
地上を浄化するために、
地獄の
苦痛の如きものを
経過するであろう。
黄金時代は
確かに来つつあるが、
それが訪れる前に
人々の生活には
大きなショックが
与えられるはずである。
多くの不思議な
出来事が現われ、
人々はそれによって、
自分自身の中に
神の力が
あることを悟り、
眼を覚ましてくるであろう。
1965年までの期間は
多くの人々が
新しき神意、
偉大なる
世界同胞的理解のために
働く時期である。
1965年と
2020年の間に
無限の
進歩の時期が訪れる、
新アトランティスが
建設されるだろう。」
いかがでしたか?
三回にわたり
谷口先生のご講話テープ
「預言の的中と
その限界」を
学んできました。
ノストラダムスさんの予言と
アガシャさんの預言や
谷口先生の
「最後の審判の神示」を
対比してみて
明確になるのは、
未来への
大いなる希望であります。
ノストラダムスさんの
予言を貫くものは
暗黒の予言であり、
アガシャさんは
「多くの不思議な
出来事が現われ、
人々はそれによって、
自分自身の中に
神の力が
あることを悟り、
眼を覚まして
くるであろう。」
と語り、
大西洋の真ん中にあった
アトランティスの
高度の文明が、
再び建設されるだろうと
預言しているのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
イエスさまが
谷口先生を通じて
語ったところの
最後の審判は
「我は道である、
真理である、
光である。
我、来たって迷いを裁き、
我、来たって闇を裁き、
すべての迷いと暗きとを、
地獄の火に投げ入れて、
これを焼き滅ぼす。
これこそ
最後の審判であると知れ」
とあります。
迷いや闇は
自らの審判において
今、この瞬間に
焼き滅ぼし滅することが
できるのです。
今日が新しい時代への
出発なのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
2011年11月18日金曜日
“谷口雅春先生 「預言の的中と、その限界」Ⅱ ご講話テープよりの学び“
今日も先日の
ブログから引き続き
谷口雅春先生の
「預言の的中と、その限界」
のテープから
学ばせていただきたい
と思います。
谷口先生は
出口王仁三郎先生の
大本教に入信されて
いる時に
後に心霊研究の父と
言われた
浅野和三郎先生と
出会います。
当時の大本教は
教勢を拡大させていて、
新聞社の買収をして
言論活動にも進出して
影響力を増して
いきました。
その当時の日本と言えば
戦争へ一気に進んで
列強国の仲間入りを
果たそうとの
機運が高まっている
時でした。
その中で
「美しい世界、
言葉で和ませる」などの
大本教の教義や
新聞での言論の影響や
活動内容が
国や当局から
マークされたのです。
信教の自由は
あったのですが
実質上は
一般市民を惑わす等の
言い掛かりをつけて
弾圧していったのです。
結局
1921年(大正10年)
不敬罪と新聞紙法違反の
疑いありということで、
出口王仁三郎先生と
教団幹部を検挙したのが
第一次大本事件です。
この事件は
第二次大本事件にまで
繋がっていくのですが
今日は省略します。
その大弾圧の後
浅野和三郎先生は
大本教を離れ
大正12年に
「心霊科学研究会」を創設
谷口雅春先生も
一緒に参画するのです。
その時に
浅野和三郎先生と共に
世界中の心霊関係の
書物や文献を
研究していくのです。
浅野和三郎先生は
英米語の翻訳等も
手がけていて
ワシントン・アーヴィングさんの
「スリーピー・ホローの伝説」
等が入っている文集
『スケッチブック』や、
チャールズ・ディケンズさんの
『クリスマスカロル』等
多数翻訳しています。
谷口雅春先生も
たくさんの翻訳本を
出しています。
前置きが
長くなりましたが、
兎も角、
世界中の心霊に関する
研究をしていったのです。
その中でも
谷口先生をして
秀逸な預言として
あげられたのが
フランスの
16歳のレイヌという
少女が語った預言を
紹介しております。
最初は、
レイヌをモデルにしていた
絵描きのコルニリエが
個人的に
催眠術をかけていた
だけだったのですが、
ある時に
霊媒的能力を
発揮しだしたのです。
レイヌは
急に怯えたように
戦争の悲惨な光景を
滅亡と破壊の様子を
今、その中にいて
目の当たりに
しているように
「多くの人々が殺戮される!」
「町は焼き滅ぼされる!」と
壮絶な状況を
恐怖の叫び声で
語りだしたのです。
それは、
レイヌにベッテリニという
高級霊が懸かってきて
語ったのです。
レイヌが語る
高級霊ベッテリニが
1913年2月14日の
降霊界で生々しく
第一次世界大戦の
様相を伝えているのです。
第一次世界大戦は
1914年7月28日に
始まりました。
1913,2,17の
心霊実験界では
将来に起こることの
予告をしました。
「流血と破壊とを喜ぶ
熱狂した精神波動は
ヨーロッパからアジアに
繋がっていき・・・」
第二次大戦の預言まで
伝えています。
その預言は正確で
すべて当っていました。
16歳のレイヌに
懸かった
高級霊ベッテリニは
人間の進化について
非常に興味深い話を
しているので
紹介します。
『人間の霊魂は
地上の進化の
一段階を完了するには
普通、
地球という生活学校で
4000年~
6000年かかる。
そしてその間に、
30回から40回程
地上に生まれ変わる。
その期間には
生まれ変わりに伴う
休養期間も含まれている。
他の星の世界から
地上へ生まれ変わった
霊魂群の間には
互いに相関関係が
有るのである。
白色人種として
進化すべく
他の星より
生まれ変わってきた
人間霊魂群は悉く皆、
地上の試練生活の
一サイクルを
終了するのには
25600年を経過
しなければならない。
現代地上に
生を受けている
霊魂たちは、
一度に
全部地上に生を受けに
来たのではない。
それは連続の
周期波によって
幾回にも分かれて
地上に移住して
きたのであって、
各自はかくして
自分の受け持つ
地上生活の
舞台を完了しつつ
あるのである。
フランス民族中には
この最初の頃の
地上に生まれ変わった
周期波に乗せられて
地上に移住した
人間霊魂群が
かなり多いのであって
、
これらの霊魂たちは
さらに重ねて
地上生活を手にする
必要はないので、
そこでこれらの
古い移住霊魂は、
今より
300年ほどの間に
完全に霊界人としての
生活を得る。』
いかがでしたか?
この上記の霊言が
1913年頃の
霊言として
300年と言うと
2213年頃となります。
その事を指して
谷口先生は
「ノストラダムスの予言の
1999年7の月
人類が滅亡する
という予言は
ないということになる。
早い人でも
300年たたないと、
地球生活を
卒業しないのだから
卒業できないまま
地球学校が
潰れることになるので、
1999年7月という
世界の最後の
ノストラダムスの
最後の預言は
間違いであると
いうことを言いたい。」
と今から
35,6年前に
ノストラダムスの予言の
滅亡の年の
1999年からも
遡る事
24,5年前に
言われているのです。
さらに興味深い
預言として
谷口先生は
「古事記」の中の文を
紹介していきます。
「古事記」は和銅4年に
稗田阿礼(ひえだのあれ)が
古代の日本民族から
伝え聞いたものを
筆記したものと
言われています。
稗田阿礼は記憶力抜群
だったと言われています。
ノストラダムスの
預言の中に
(450年前)
飛行機の預言が
書いてあって
実際に現代に飛行機が
飛ぶようになって
この予言の正確性を
伝える文が
書かれていましたが、
「古事記」では
ずっと古代の日本で
誰言うとはなく
語り部として
言い伝えられて
いることが
書かれているのです。
『次に生みませる
神の名は鳥之石楠船神
(とりのいわくすぶねのかみ)、
又のみ名は天鳥船
(あめのとりふね)と申す。
谷口先生解説:
石(いわ)とは
金のようなもの、
楠(くす)とは
不思議なると言う意味。
鳥のように
翼があって飛ぶ
(飛行機)の預言である。
次に大宜都比売神
(おほげつひめのかみ)
を生みき。
谷口先生解説:
大宜都(おほげつ)の
げつは(膳)のことで、
宮中でもみけつ(御膳)
と言って
大きい膳(食事)、
いわゆる大量生産の
時代がやってくる
という預言である。
次に火之夜芸速男神
(ひのやぎはやをのかみ)
を生みき。
亦の名は火之かが毘古神
(ひのかがびこのかみ)
と謂ひ、
亦の名は火之迦具土神
(ひのかぐつちのかみ)
と謂ふ。
此の子を生みしに因りて、
美蕃登(みほと)
炙(や)かえりて
病み臥(こや)せり。
谷口先生解説:
火を持って
速やかに焼き払う
神がでてくる。
大東亜戦争において、
日本の大都市という
大都市は火の海になって
焼き払われてしまう。
焼夷弾や
原子爆弾の
出現の預言である。
伊邪那美命
(いざなみのみこと)は
火之夜芸速男神を
生んだことを
後悔して、
美蕃登(みほと)とは
(陰部)のことで
生産器官のこと、
陰部を
炙(や)いてしまった。
そして病み
臥してしまうのです。
生産設備が全部
焼き滅ばされる
時代が来ることの
預言である。
その次に大戸惑子神
(おおとまどいこいのかみ)、
大戸惑女神
(おおとまどいめのかみ)
谷口先生解説:
人々が
何をしていいかわからず、
戸惑っている状態。
終戦直後の様な
状況を預言している。
多具理邇(たぐりに)
生(な)れる神の名は、
金山毘古神
(かなやまびこのかみ)、
次に金山毘売神
(かなやまびめのかみ)
谷口先生解説:
生産性が多い時代に
入ってくる。
(金山)黄金の山、
無限供給の時代、
生産過剰時代が
やってくることの
預言である。
次に屎(くそ)に
成れる神の名は、
波邇夜須毘古神
(はにやすびこのかみ)、
次に波邇夜須毘売神
(はにやすびめのかみ)。
谷口先生解説:
波邇(はに)は
埴輪(はにわ)のこと
夜須(やす)は
保(やす)の意味、
世は、経済大国になって、
GNP世界第二位になり、
平和ムードの
元禄時代の状況の
預言である。
次に尿(ゆまり)に
成れる神の名は、
弥都波能売神
(みつはのめのかみ)。
谷口先生解説:
弥都波(みつは)は
弥都は(水)のこと
波も(水)
国運が
みずみずしく
満ち張る次代の
預言である。
次に和久産巣日神
(わくむすびのかみ)。
此の神の子は、
富宇気毘売神
(とようけびめのかみ)
と謂ふ。
故、伊邪那美神は、
火の神を生みしに因りて、
遂に神(かむ)避り
坐(ま)しき。
谷口先生解説:
和久(わく)は
和(平和)が
(久)しく続き
産巣(むすび)は結び、
陰と陽が結ばれる。
一切のものを生み出す。
沸くように
生産が増えていく
時代の預言である。
そして、
富宇気(とようけ)
富を宇気(受け)て、
五穀豊穣の時代の
到来の預言である。
そして
ところで今は
どうかと言うと
遂に神(かむ)避り
坐(ま)しき。
天の岩戸がくれの
時代であると
預言している。』
そして、
続いて「古事記」の
奇稲田姫(櫛名田比売)
くし(い)なだひめの
物語を話されます。
『奇稲田姫
(櫛名田比売)は
足名椎(あしなづち)と、
妻、手名椎(てなづち)との
間に生まれました。
火の川上あたりに
住んでいる、
その老夫婦には
たくさん
子どもがいたけれど、
ヤマタノオロチが
でてきて、
毎年一人づつ
姫を食っていって、
一人だけ残ったのが
奇稲田姫、
稲田と言うのは
瑞穂の国の
(日本)の象徴である。
ヤマタノオロチが
日本国をまさに
飲もうとしている。
眼を赤ほうずきの如く、
(赤い目をらんらんと
輝かせている)
ヤマタとは
唯物論の象徴である。
唯物論は
すべてのものを
細かく割って、
一つのものを
割って割って
そして結局、
分子とし分子を
原子とし原子を
もっと細かくして、
原子爆弾にし、
一切のものを
死の灰にまで
飲み干してしまおう
という、
世界中を
取り囲んでいる
蛇のことである。
暴力革命や
血の粛清を行うと
言ったことが
日本の古代に
言い伝えられていて
「古事記」に
書かれているのである。
そして、もし
この「古事記」の
預言が正しければ
ヤマタノオロチを
退治するところの、
スサノオノミコトが
現れてこなくてはならない。
ヤマタノオロチを
平らげる運動が
現れてこなくては
ならないと、
注目している。』
と、谷口先生は
仰いました。
このテープは
35年位前に収録
されたものです。
今、現在
1999年7の月から
既に12年以上
経過しました。
結局は谷口先生の
言われるとおり
「ノストラダムスの
大予言」に書いてある
最後の予言は
外れました。
しかしながら
「古事記」に
書かれているように
今、現在
日本や世界を
飲み干そうとしている
ヤマタノオロチは
どんな国や組織なのか?
或いはそういう
固定したものではなく
蔓延した
唯物的意識
肉体や物質にのみ
囚えられた考え方や
個人を指すのか?
我のみ良しの
自我なる
偽者の迷妄のことを
言っているのか?
それは、ブログの
読者に答えは
預けたいと思います。
また、同じく
スサノオノミコトの
正体は
救世主は
誰であるのか?
或いは、
精神の時代における
愛の革命なのか?
真我(神我)なる
内在する我を
知ることなのか?
これも読者に
預けたいと思います。
この時期に
この谷口先生の
テープに出会えたと
いうことは
大いなる意味が
あると思っています。
まだ、仏教における
預言やイエスさまの
預言等述べられて
おりますが、
次の機会に書かせて
いただきます。
最後に谷口先生の
ご著書
『生命の実相』
第一巻実相編の中に
「心の世界における
運命の形成」と言う
章があります。
その中の文章を
割愛して紹介して
今日のブログを
終了したいと
思います。
「心が毎日、
何を思うか?
ということによって
、
心の世界に
イメージを重ねて、
その心に描いた
イメージが
つなぎ合わされて、
一つの作品になって、
その人の運命を
形成していきつつある。
それが
大勢が心に
描いたものが、
互いに又、連絡して
繋ぎ合わさって、
世界の運命を
決していく。
我々が何を思うかは、
我々の生活に影響し
あっているのです。
だから心の世界を
いかにすべきかが
大事なのである。
まず、
神様の心の世界に
描かれたものは、
根本的に現れてくる。
宇宙の初めから、
大きな問題は
根本的に決まっている。
それは船が
横浜港に乗って、
ヨーロッパに
何月何日何時に
出発するというのは
決まっている。
しかし、
乗組員は
誰だとかいう、
小さい問題は
後に決まる。
ごく近くの問題は
後で決まる。
それは変化する
可能性がある。
ところで、
世界の終末の
大破壊は
結局は
いずれかは訪れる。
しかし、
1999年の7の月には
やって来ることはないと
私は結論する。」
生かしていただいて
ありがとうございます。
ブログから引き続き
谷口雅春先生の
「預言の的中と、その限界」
のテープから
学ばせていただきたい
と思います。
谷口先生は
出口王仁三郎先生の
大本教に入信されて
いる時に
後に心霊研究の父と
言われた
浅野和三郎先生と
出会います。
当時の大本教は
教勢を拡大させていて、
新聞社の買収をして
言論活動にも進出して
影響力を増して
いきました。
その当時の日本と言えば
戦争へ一気に進んで
列強国の仲間入りを
果たそうとの
機運が高まっている
時でした。
その中で
「美しい世界、
言葉で和ませる」などの
大本教の教義や
新聞での言論の影響や
活動内容が
国や当局から
マークされたのです。
信教の自由は
あったのですが
実質上は
一般市民を惑わす等の
言い掛かりをつけて
弾圧していったのです。
結局
1921年(大正10年)
不敬罪と新聞紙法違反の
疑いありということで、
出口王仁三郎先生と
教団幹部を検挙したのが
第一次大本事件です。
この事件は
第二次大本事件にまで
繋がっていくのですが
今日は省略します。
その大弾圧の後
浅野和三郎先生は
大本教を離れ
大正12年に
「心霊科学研究会」を創設
谷口雅春先生も
一緒に参画するのです。
その時に
浅野和三郎先生と共に
世界中の心霊関係の
書物や文献を
研究していくのです。
浅野和三郎先生は
英米語の翻訳等も
手がけていて
ワシントン・アーヴィングさんの
「スリーピー・ホローの伝説」
等が入っている文集
『スケッチブック』や、
チャールズ・ディケンズさんの
『クリスマスカロル』等
多数翻訳しています。
谷口雅春先生も
たくさんの翻訳本を
出しています。
前置きが
長くなりましたが、
兎も角、
世界中の心霊に関する
研究をしていったのです。
その中でも
谷口先生をして
秀逸な預言として
あげられたのが
フランスの
16歳のレイヌという
少女が語った預言を
紹介しております。
最初は、
レイヌをモデルにしていた
絵描きのコルニリエが
個人的に
催眠術をかけていた
だけだったのですが、
ある時に
霊媒的能力を
発揮しだしたのです。
レイヌは
急に怯えたように
戦争の悲惨な光景を
滅亡と破壊の様子を
今、その中にいて
目の当たりに
しているように
「多くの人々が殺戮される!」
「町は焼き滅ぼされる!」と
壮絶な状況を
恐怖の叫び声で
語りだしたのです。
それは、
レイヌにベッテリニという
高級霊が懸かってきて
語ったのです。
レイヌが語る
高級霊ベッテリニが
1913年2月14日の
降霊界で生々しく
第一次世界大戦の
様相を伝えているのです。
第一次世界大戦は
1914年7月28日に
始まりました。
1913,2,17の
心霊実験界では
将来に起こることの
予告をしました。
「流血と破壊とを喜ぶ
熱狂した精神波動は
ヨーロッパからアジアに
繋がっていき・・・」
第二次大戦の預言まで
伝えています。
その預言は正確で
すべて当っていました。
16歳のレイヌに
懸かった
高級霊ベッテリニは
人間の進化について
非常に興味深い話を
しているので
紹介します。
『人間の霊魂は
地上の進化の
一段階を完了するには
普通、
地球という生活学校で
4000年~
6000年かかる。
そしてその間に、
30回から40回程
地上に生まれ変わる。
その期間には
生まれ変わりに伴う
休養期間も含まれている。
他の星の世界から
地上へ生まれ変わった
霊魂群の間には
互いに相関関係が
有るのである。
白色人種として
進化すべく
他の星より
生まれ変わってきた
人間霊魂群は悉く皆、
地上の試練生活の
一サイクルを
終了するのには
25600年を経過
しなければならない。
現代地上に
生を受けている
霊魂たちは、
一度に
全部地上に生を受けに
来たのではない。
それは連続の
周期波によって
幾回にも分かれて
地上に移住して
きたのであって、
各自はかくして
自分の受け持つ
地上生活の
舞台を完了しつつ
あるのである。
フランス民族中には
この最初の頃の
地上に生まれ変わった
周期波に乗せられて
地上に移住した
人間霊魂群が
かなり多いのであって
、
これらの霊魂たちは
さらに重ねて
地上生活を手にする
必要はないので、
そこでこれらの
古い移住霊魂は、
今より
300年ほどの間に
完全に霊界人としての
生活を得る。』
いかがでしたか?
この上記の霊言が
1913年頃の
霊言として
300年と言うと
2213年頃となります。
その事を指して
谷口先生は
「ノストラダムスの予言の
1999年7の月
人類が滅亡する
という予言は
ないということになる。
早い人でも
300年たたないと、
地球生活を
卒業しないのだから
卒業できないまま
地球学校が
潰れることになるので、
1999年7月という
世界の最後の
ノストラダムスの
最後の預言は
間違いであると
いうことを言いたい。」
と今から
35,6年前に
ノストラダムスの予言の
滅亡の年の
1999年からも
遡る事
24,5年前に
言われているのです。
さらに興味深い
預言として
谷口先生は
「古事記」の中の文を
紹介していきます。
「古事記」は和銅4年に
稗田阿礼(ひえだのあれ)が
古代の日本民族から
伝え聞いたものを
筆記したものと
言われています。
稗田阿礼は記憶力抜群
だったと言われています。
ノストラダムスの
預言の中に
(450年前)
飛行機の預言が
書いてあって
実際に現代に飛行機が
飛ぶようになって
この予言の正確性を
伝える文が
書かれていましたが、
「古事記」では
ずっと古代の日本で
誰言うとはなく
語り部として
言い伝えられて
いることが
書かれているのです。
『次に生みませる
神の名は鳥之石楠船神
(とりのいわくすぶねのかみ)、
又のみ名は天鳥船
(あめのとりふね)と申す。
谷口先生解説:
石(いわ)とは
金のようなもの、
楠(くす)とは
不思議なると言う意味。
鳥のように
翼があって飛ぶ
(飛行機)の預言である。
次に大宜都比売神
(おほげつひめのかみ)
を生みき。
谷口先生解説:
大宜都(おほげつ)の
げつは(膳)のことで、
宮中でもみけつ(御膳)
と言って
大きい膳(食事)、
いわゆる大量生産の
時代がやってくる
という預言である。
次に火之夜芸速男神
(ひのやぎはやをのかみ)
を生みき。
亦の名は火之かが毘古神
(ひのかがびこのかみ)
と謂ひ、
亦の名は火之迦具土神
(ひのかぐつちのかみ)
と謂ふ。
此の子を生みしに因りて、
美蕃登(みほと)
炙(や)かえりて
病み臥(こや)せり。
谷口先生解説:
火を持って
速やかに焼き払う
神がでてくる。
大東亜戦争において、
日本の大都市という
大都市は火の海になって
焼き払われてしまう。
焼夷弾や
原子爆弾の
出現の預言である。
伊邪那美命
(いざなみのみこと)は
火之夜芸速男神を
生んだことを
後悔して、
美蕃登(みほと)とは
(陰部)のことで
生産器官のこと、
陰部を
炙(や)いてしまった。
そして病み
臥してしまうのです。
生産設備が全部
焼き滅ばされる
時代が来ることの
預言である。
その次に大戸惑子神
(おおとまどいこいのかみ)、
大戸惑女神
(おおとまどいめのかみ)
谷口先生解説:
人々が
何をしていいかわからず、
戸惑っている状態。
終戦直後の様な
状況を預言している。
多具理邇(たぐりに)
生(な)れる神の名は、
金山毘古神
(かなやまびこのかみ)、
次に金山毘売神
(かなやまびめのかみ)
谷口先生解説:
生産性が多い時代に
入ってくる。
(金山)黄金の山、
無限供給の時代、
生産過剰時代が
やってくることの
預言である。
次に屎(くそ)に
成れる神の名は、
波邇夜須毘古神
(はにやすびこのかみ)、
次に波邇夜須毘売神
(はにやすびめのかみ)。
谷口先生解説:
波邇(はに)は
埴輪(はにわ)のこと
夜須(やす)は
保(やす)の意味、
世は、経済大国になって、
GNP世界第二位になり、
平和ムードの
元禄時代の状況の
預言である。
次に尿(ゆまり)に
成れる神の名は、
弥都波能売神
(みつはのめのかみ)。
谷口先生解説:
弥都波(みつは)は
弥都は(水)のこと
波も(水)
国運が
みずみずしく
満ち張る次代の
預言である。
次に和久産巣日神
(わくむすびのかみ)。
此の神の子は、
富宇気毘売神
(とようけびめのかみ)
と謂ふ。
故、伊邪那美神は、
火の神を生みしに因りて、
遂に神(かむ)避り
坐(ま)しき。
谷口先生解説:
和久(わく)は
和(平和)が
(久)しく続き
産巣(むすび)は結び、
陰と陽が結ばれる。
一切のものを生み出す。
沸くように
生産が増えていく
時代の預言である。
そして、
富宇気(とようけ)
富を宇気(受け)て、
五穀豊穣の時代の
到来の預言である。
そして
ところで今は
どうかと言うと
遂に神(かむ)避り
坐(ま)しき。
天の岩戸がくれの
時代であると
預言している。』
そして、
続いて「古事記」の
奇稲田姫(櫛名田比売)
くし(い)なだひめの
物語を話されます。
『奇稲田姫
(櫛名田比売)は
足名椎(あしなづち)と、
妻、手名椎(てなづち)との
間に生まれました。
火の川上あたりに
住んでいる、
その老夫婦には
たくさん
子どもがいたけれど、
ヤマタノオロチが
でてきて、
毎年一人づつ
姫を食っていって、
一人だけ残ったのが
奇稲田姫、
稲田と言うのは
瑞穂の国の
(日本)の象徴である。
ヤマタノオロチが
日本国をまさに
飲もうとしている。
眼を赤ほうずきの如く、
(赤い目をらんらんと
輝かせている)
ヤマタとは
唯物論の象徴である。
唯物論は
すべてのものを
細かく割って、
一つのものを
割って割って
そして結局、
分子とし分子を
原子とし原子を
もっと細かくして、
原子爆弾にし、
一切のものを
死の灰にまで
飲み干してしまおう
という、
世界中を
取り囲んでいる
蛇のことである。
暴力革命や
血の粛清を行うと
言ったことが
日本の古代に
言い伝えられていて
「古事記」に
書かれているのである。
そして、もし
この「古事記」の
預言が正しければ
ヤマタノオロチを
退治するところの、
スサノオノミコトが
現れてこなくてはならない。
ヤマタノオロチを
平らげる運動が
現れてこなくては
ならないと、
注目している。』
と、谷口先生は
仰いました。
このテープは
35年位前に収録
されたものです。
今、現在
1999年7の月から
既に12年以上
経過しました。
結局は谷口先生の
言われるとおり
「ノストラダムスの
大予言」に書いてある
最後の予言は
外れました。
しかしながら
「古事記」に
書かれているように
今、現在
日本や世界を
飲み干そうとしている
ヤマタノオロチは
どんな国や組織なのか?
或いはそういう
固定したものではなく
蔓延した
唯物的意識
肉体や物質にのみ
囚えられた考え方や
個人を指すのか?
我のみ良しの
自我なる
偽者の迷妄のことを
言っているのか?
それは、ブログの
読者に答えは
預けたいと思います。
また、同じく
スサノオノミコトの
正体は
救世主は
誰であるのか?
或いは、
精神の時代における
愛の革命なのか?
真我(神我)なる
内在する我を
知ることなのか?
これも読者に
預けたいと思います。
この時期に
この谷口先生の
テープに出会えたと
いうことは
大いなる意味が
あると思っています。
まだ、仏教における
預言やイエスさまの
預言等述べられて
おりますが、
次の機会に書かせて
いただきます。
最後に谷口先生の
ご著書
『生命の実相』
第一巻実相編の中に
「心の世界における
運命の形成」と言う
章があります。
その中の文章を
割愛して紹介して
今日のブログを
終了したいと
思います。
「心が毎日、
何を思うか?
ということによって
、
心の世界に
イメージを重ねて、
その心に描いた
イメージが
つなぎ合わされて、
一つの作品になって、
その人の運命を
形成していきつつある。
それが
大勢が心に
描いたものが、
互いに又、連絡して
繋ぎ合わさって、
世界の運命を
決していく。
我々が何を思うかは、
我々の生活に影響し
あっているのです。
だから心の世界を
いかにすべきかが
大事なのである。
まず、
神様の心の世界に
描かれたものは、
根本的に現れてくる。
宇宙の初めから、
大きな問題は
根本的に決まっている。
それは船が
横浜港に乗って、
ヨーロッパに
何月何日何時に
出発するというのは
決まっている。
しかし、
乗組員は
誰だとかいう、
小さい問題は
後に決まる。
ごく近くの問題は
後で決まる。
それは変化する
可能性がある。
ところで、
世界の終末の
大破壊は
結局は
いずれかは訪れる。
しかし、
1999年の7の月には
やって来ることはないと
私は結論する。」
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年11月16日水曜日
“谷口雅春先生 「預言の的中と、その限界」 ご講話テープよりの学び“
今日は
谷口雅春先生の
ご講話テープの中から
「預言の的中と
その限界」という
テープを聴いていまして
大変興味深い内容
でしたので
ブログの読者にも
紹介したいと
思います。
谷口先生が
このテープを収録
されたのは
当時「ノストラダムスの
大予言」という
五島 勉さんが
書いた本が
大ベストセラーに
なっている最中で
ノストラダムスが
予言したといわれている
1999年の7の月に
人類は滅亡するとした
暗黒の予言が
書かれていまして、
当時の日本
(1973年以降、
本の出版年)は
ちょっとした
ノストラダムスブームが
起きていました。
多分、その数年後かに
収録されたテープと
思われます。
少なくとも35年位前の
谷口先生のテープです。
谷口先生は
日本に於ける
光明思想の大家で
あります。
まず、自身が書かれた
「信仰の科学」という
本の中に予言に
ついての警告が
書かれています。
その文を紹介されて
います。
「暗黒を告げる、
憂鬱なる予言の徒に
注意するが良い、
彼らの予言に
耳を貸せば
黒き暗雲が
あなたの頭上に
下りてくるのである。」
そして谷口先生は
淡々と話されます。
「思うことが現れる
心の世界に
住んでいるのだから、
みだりに悪い予言を
信じては成らない。
また予言が
本当であるなら
必ず出てくるのだから
防ぎようがないのだから、
そんなことで
心配している
必要はない。
兎も角、
予言なんていうのは、
我々が
関心を持つものではない。」と
話された上に
予言についての
論説を進めていきます。
「この現象世界は
現象以状の世界
所謂、
霊的世界に描かれた
心の図(アイデア)が
この現象界に影を
通して現れて
来るのが現象世界である」
として、人間には
その霊的世界に
感応して知覚すところの
第六感というものがあり、
この感覚が
先天的に現れて
霊感や霊聴等の
感覚を強く持っている
人間はいると
続けます。
そして、
五島 勉さんが書いた
「ノストラダムスの
大予言」の中の文を抜粋され
『南フランスのサロンという
古い町にペストが流行した。
この病気は肌の色が
真っ黒になる病気で
多くの方が亡くなった。
この頃は、
この病気による原因は
分かっておらず
この地方の人たちは
これは、悪魔の呪いに
違いないと思い込んで
いて、町中が恐怖に
慄のき、町を離れた
のだそうです。
その混乱の最中に
ノストラダムスが
このサロンと言う町に
やってきて、
この病気を無くす方法を
伝授したのだそうです。
ノストラダムスは
自分の中の特殊な力
予知能力を発揮し
町中のねずみを
捕まえて焼き殺すように
指示し、ペストで
亡くなって埋葬していた
遺体も焼くように
命じました。
この地方では
遺体を焼くと言う
風習が無かったので
恐る恐る焼いたのですが、
そのことによって
すっかりとペストは
全滅してしまいました。
当時、
そのノストラダムスの
評判を聞き及んだ
フランス国王アンリ2世は
直属の顧問として
ノストラダムスを
呼び寄せた。
1551年
ノストラダムス48歳、
アンリⅡ世が46歳の時です。
ある時、王様は
ノストラダムスに
自分の健康について
占って欲しいと言った。
そこで
ノストラダムスは
「王様はご病気で
命を縮められる怖れは
万に一つもございません。
でも?」と言って
口をつぐんた。
アンリ2世は何回も
その続きを言うように
諭したが
ノストラダムスは
固辞した。
しかし、アンリ2世の
命令と言うことで
とうとう言うことに
なります。
「10年以内に、
脳に鋭い武器が
突き刺さり
その傷が
命を奪うのではないかと
危惧しています。」と
国王に告げました。
そこでアンリ2世は
考えます。
槍が突き刺さると
いうのだから
戦争のようなことに
よる出来事以外に
考えれない。
当時、隣国のサボア家と
仇敵で関係が悪く
戦争をする可能性があった。
この予言を回避するためには
サボア家と
仲良くしなければ
ならないと考え、
自分の腹違いの末の妹を
サボア家の王様へと
嫁がせ、親族関係を
結んだ。
所謂、
政略結婚させたのである。
その結果、
両家は
非常に良い関係になり
お互いの親愛の情を
もっと深めるために
その披露宴の
祝いのパーティーを
催したのであります。
それはノストラダムスが
言った丁度10年目の
最後の日に
当るときであった。
王様は安心をして
楽しく宴も進み
酒も入り
気持ちが良くなって
つい調子に乗って
余興をしようと
提言します。
両家で誰が槍の使い手か
試合をしようと
申し入れました。
勿論、余興ですから
危なくないように
槍の先には
サックをはめて
鎧、兜も防具は
きちんとして
試合はしたのですが。
国王は相手のサボア家の
親衛隊長の青年でしたが
王様の槍が
青年の兜を突いた矢先
青年も突き返したが、
運悪く、何の拍子か
槍の穂先のサックが外れて
王様の目玉に
突き刺さり脳髄にまで
達し、アンリ2世は
非業の死を
遂げたのである。』
ここに
ノストラダムスの予言が
成就したのである。
この件について
谷口先生は
「人間は兎も角、
信じたら信じた通りに
お膳立てをするように
なるのです。
自分が予言に適うように
自分が持っていく。
ようは、アンリ2世が
ノストラダムスの予言を
信じたからなのである」
と言われました。
そして
谷口先生の
「信仰の科学」から
この部分を考え方として
抜粋されたのです。
「我々の運動は
暴力の哲学と
誤れる理想に
立ち向かって
戦うのであるが、
それらを誤って
信仰する人間を、
人間そのものを
打つのではないのである。
その信念の暗黒を信じ
暴力を信ずる
その信念に対して、
我々は戦って
その悪い信念を
打ち消すのが
我々の運動である。」
と、明言するので
あります。
もう一つの実例として
「人間性の解放」という本で
主にフロイトを
中心とした内容を
紹介しています
精神分析で
エディポス・コンプレックス
と言うのがある。
このコンプレックスと
いうのは日本語で
錯綜(さくそう)と
(現在では劣等感と
一般的には言われる)
訳されている。
心の迷いが
絡み合っている状態。
ギリシャの
ソフォクレスという
悲劇詩人が書いた神話である。
『テーベという
ギリシャの王様が、
子どもがなく、
神様に子どもを
授けてもらうように祈った。
そしたら妃が妊娠した。
アポロの神様が、
「もし王様が子どもに
王子を得られたら、
その王子はあなたを殺し
あなたの妃を
自分の妻にするでしょう。」
と予言した。
その後、間もなく、
王妃のユカシタは
可愛い王子を産んだ。
けれども予言通りで
あるならば、
王宮で育てるわけには
行かないと王様は、
臣下に命じ
郊外にある隣の国の
国境付近に子どもを捨てた。
この隣の国は
コリンズと言った。
この王様は
子どもがなかった。
王様も子どもを
欲しがっていた。
ある時、
コリンズ王の臣下の一人が
その捨てられた子どもを
拾ってきて
コリンズ王に見せた
コリンズ王は
神の思し召しと
この拾った子を
エディポスという
名前をつけて
コリンズの
跡継ぎの王子として
可愛がって育てたのです。
しかし、ある時、
良く当たるとして
有名な預言者が
エディポスに
運命を占ってやろうと
言ったので、
占ってもらうと、
その預言者は
「お前は父を殺し、
その母を姦するであろう!」
と予言をしたのです。
エディポスは
コリンズ王を
本当の父として愛し、
そしてその妃を
本当の母と思って
愛していた。
これは何としても
避けねばならない
と思って、
エディポスは家を出て、
放浪の旅に
出ることになる。
途中で狭い山道に
差し掛かった、
その狭い山道を
向こうから
立派な馬車に乗って
上品な老人がやってくる。
道が狭いので、
馬車が引き返すか、
自分が引き返すか
しなければならない。
エディポスは王子に
育ったために
ある権威をもったつもりで、
その老人に
道を譲るように言う。
その老人は
「お前こそ道を譲れ!、
この道は私の国の道である!」
と引き下がらなかった。
エディポスは
その老人を殺してしまいます。
ところがその老人は
テーベの国王である、
実の父であった。
「お前は父を殺し、母を姦する」
と言われた予言の半分が
成就したのである。
エディポスは知らずに
テーベの都へ入っていきます。
その時に
非情な恐ろしい
上半身は女の姿で
下半身はライオンのような
格好をした
巨大な怪物(スフィンクス)
が横行して、
道行く人に
謎を掛けて
「この問題を解け!
解けなかったら殺す!」
と言って、
多くの人は解けずに
殺されていた。
エディポスにも
そのスフィンクスは問題を出す。
その問題とは、
「お前は幼いときには
四足で歩いて、
成長したら
二本の足で歩いて、
年がやってきたら
三本の足で歩くもの,
何か言え!」
今まで
誰も説かなかったけれども、
エディポスは
「それは人間である、
幼いときには
手足四本で這い歩いて、
大人になったら
二本の足で歩き、
年をとったら杖を突いて
三本で歩くのだ!」
その謎を解いたため、
その怪物である
スフィンクスは
自ら海に身を投じ
死んでしまったのである。
テーベの国民の危難は
これで解消してしまった。
ところが
テーベの王様は殺されて
ユカシタという妃である
エディポスの実の母親が
女王になっていた。
ユカシタはエディポスに向かい
「テーベの国を
救ってくれるのは、
あなたをおいて
他はありません。
エディポス様!
どうぞ私と結婚して
この国の
王様になってください!」
と言うのであります。
結局、断れないで、
とうとう
エディポス王として
テーベの国の
国王となるのです。
「お前は父を殺して、
その妃を妻とする」の
もう一つの予言が
成就したのである。
その予言を信じたがために、
予言の言葉に
振り回されて
予言が的中したのである。』
「このフロイトが
言うには
男の子には
誰にも
潜在的に
父親や学校の先生
といった存在に対しての
エディポス・コンプレックス
なるものがあると
いうのである。」とし、
その背景にある
教育に関わる
教える立場のものが
そういう観点から
子どもを洗脳するのは
問題であるとして
警告を促して
いるのです。
尚、谷口先生は
「ノストラダムスの大予言」
(五島 勉著)
の222ページに
書かれている文
「1999年の破滅は
100%確実に
襲ってくるわけである。
その前の様々な
前兆的災厄も勿論
間違いなく襲ってくる。
今、私が(五島 勉さん)
これを書いてるのは
‘73年の秋だから
‘99年まで
後26年足らずしかない。
そしてあなたが
これをお読みになるときは
もっと接近している
ことになるのだ」
この部分を抜粋し
『このように
恐怖を
与えているのである。
この世界は
心の世界で
起きているのである。
お釈迦さまも言いました。
三界は唯心の諸現である。
三界とは(欲界、色界、無色界
で現象世界である)
我々の心の現わす
ところなのです。
特に恐怖の念は
強く働くのである。
「信仰の科学」(自身の本)
で書いてある通り
「想像力は(創造力)である。
イマジネーションは
クリエーションである。
心に思うことが動力となり
それが具体化するのである。
スピリチュアル
エンティティ(霊的分子)
(霊的微小体)が
自分を中心に
放送電波のように
形の世界に
必要なように
呼び寄せてくるのである。
だから悪い予言に
耳を貸して
心を動かしてはならない。』
1999年7月人類破滅と
多くの人が信じたら
そのようになってしまうと
警告してるのです。
この後も
「ノストラダムスの大予言」の
暗黒的予言に対して
谷口先生が自身で
世界の霊的な書物を
研究された
「生命の実相」霊界編に
書かれた内容や
「古事記」や「聖書」に
於ける
光明的予言の数々を
引き続き講義して
いただいています。
また、引き続き
書かせて頂きたいと
思っています。
共有ありがとうございます。
2011年11月13日日曜日
“自我”から“真我”へ
私のブログの
タイトルは
「今日は残りの
人生の最初の日」
というタイトルを
つけました。
それは、
私たちには
今日という括り
正確に言えば
今、ここ
この瞬間しか
確かな時は
ないからです。
今日は最初の日であり、
最後の日かも
知れません。
私は、今この瞬間に
このブログを
書いています。
この瞬間に
自分の意識を
全集中させて
このブログが
一人でも
多くの人の
目に止まり
何かを感じて
もらえば
うれしいなあという
気持ちで
パソコンに
向かっています。
今、この瞬間で
なけらば
伝えられないのです。
昨日は終わり
明日は永遠に
来ないからです。
私たちには
今日、今ここの
この瞬間しか
時間は与えられて
いないのです。
多くの人が
これから先も
今までのように
永遠に生き続けられる
ような感覚で
一日一日を
送っています。
私がいつも
このブログで
書いていますように
私たちの
実相である魂は
永遠の生命を
持つものであります。
しかし、
肉体を持ちながら
いつまで
今のこの人生を
体験できるのかは
知っているものは
いないのです。
このブログを
書いている最中に
終わるかも
知れませんし
明日なのか
何年先なのか
誰も知らないのです。
期限付きの人生を
体験しているのです。
今、若い人たちは
確率的には
まだ、何十年も
あるかも知れませんが
今回の大震災でも
感じたと思いますが
多くの方が
一瞬に自分の人生を
強制的に遮断
されました。
天災は時と場所を
選ぶ訳では
ありません。
私の体験でも
私の一番最初の孫は
一年にも満たずに
突然死で
この世を後にしました。
孫はこの世に
何を体験しに
来たのでしょう?
孫の母親(私の娘)や
父親や私や女房を
含めて
その関係性において
それぞれに
その後の人生に
影響を及ぼしたことは
まぎれもない事実です。
そう考えますと
今日は残りの人生の
最初の日です。
今日だけは
今の瞬間だけは
確かに
この肉体を持って
貴重な体験を
味わっています。
もっと
このタイトルに
秘められた
今日という
重要性
今この瞬間という
時を大切に
生きなければならないと
感じます。
そのためには
このブログでも
よく取り上げています
“自我”と“真我”
について
考察を深め
一日でも早く
自我なる自分から
真我なる自分への
覚醒が望まれるのです。
“自我”とは
“偽我”ともいい
偽者の自分です。
限定つきの
期限の中で
肉体を持ち
あらゆる体験を
していく中で
肉体から
生み出されるところの
五感のみの体験に
囚われていく
我のことです。
この“自我”は
五感と言う
自分の感覚器官を
喜ばせるものと
そうでないものの
分離を促します。
あらゆる判断が
その我にある
ものですから
人も出来事も
我を中心に物事を
考えることになります。
そうなると
どう反応するかというと
“自我”である
我を基準として
考えますので、
自分以外の
他の出来事や他人の
問題点ばかりが
気になるように
なっていきます。
つまり“自我”は
粗探しの
名人の我です。
“自我”は
我のみ良しの心です。
その“自我”の我が、
不快に思うのは
他人のこんなことが
問題だからなのだ!
女房が亭主が
上司が部下が
政治家が国家が
システムが等々
自分以外のところに
犯人を捜し、
問題の原因を
探します。
“自我”は
自分の問題点は
気にならないのです。
今までの
社会は
家庭においても
職場においても
国家間においても
“自我”が幅を
利かせていた
時代であったと
言えるのでは
ないでしょうか?
競争社会において
声を大きくして
主張することが
いいとされてきました。
権力を持つものは
その自らの力を
行使し支配を
し続けてきました。
お金もそうです。
持っているものと
持っていないもの
武力もそうです。
核を持つ国は
持たない国を
脅かしその力で
もって
リーダーシップを
持ち続けてきました。
歪んだ力の行使です。
その結果は
どうでしたか?
この地球上に
考えられないような
アンバランスを
創造したのです。
地球上の
数パーセントの人が
地球上の富の
90パーセント以上を
占有しています。
一方では
もう一ヶ月以上も
不衛生な水と
わずかなパンの
一切れで
命を繋いでいます。
結局は
多くの富を
占有したとて
それを
失いたくないために
もっともっとと
求めていきます。
一日も安心した
平和な心には
なれないのです。
“自我”の心が
大きければ
大きいほど
すべてが苦しく
感じるように
なるのです。
誰も真の満足は
得られないのです。
これからは
今までのように
“自我”のまま
生きることは
できない時代に
入ってきます。
世界の70億人の
人たちや
すべての動植物や
万有万物が
共生する時代が
必然的に
やってきます。
このままでは
地球規模で
崩壊して
しまうのです。
“自我”のまま
我良しとし
これ以上
進めていくことは
できないのです。
今日からは
自分を
省みる視点
すなわち
今、起こっている
出来事のすべては
自らの内に
問題の原因が
あるのだという
視点です。
まず、内省しなければ
なりません。
“自我”による
思いが
すべての問題を
引き起こしている
張本人なのです。
その“自我”なる
思いを見つめ
その原因たる我を
真なる我に
聖なる我に
置き換えて
いかなければ
ならないのです。
この世の変化は
私たちの
心が改善され
変化しなければ
起こらないのです。
自らの内に
思いやりと慈しみの
愛の種を蒔かずに
すばらしい世の中が
訪れることは
ありません。
『今日は残りの人生の最初の日』
私たちは
今、この瞬間の
今、いるところで
“真我”を自覚
するのです。
まだ、
私の周囲にも
自分の今までの
人生を否定する
人たちが多く
見受けられます。
しかし、それは
過去の自分が
発してきた
思いと行動の
結果なのです。
他の誰かが
その否定する人生を
創ったわけでは
ありません。
過去は既に亡霊です。
そんなことを
いつまでも
引きずらないで
ください!
今日の自分が
明日を創るのです。
今、この瞬間に
思いを変えることが
できれば、
明日は
やってくるのです。
私たちは
この世に
生かされている
存在なのです。
実は
生かされて
いるだけで
ありがたいのです。
この世の
稀有な貴重な瞬間を
確かに体験させて
頂いているのです。
その体験の目的は
誰にでも備わって
いるところの
“真我”を発見する
ためだけに
あるのです。
私たちには
特別に
創造力
(想像力)という
神の性質の
偉大なる力を
与えられて
生かされました。
これが
人間をして
万物の霊長と
呼ぶ
ひとつの所以で
ありました。
しかし、
人間はこれを
履き違え
肉体に捕らえられ
“自我”なる
偽者の我の中で
独りよがりの又、
分離と闘争や
侵略や
奪取といった
不幸の想像力
(創造力)を
行使し、
核兵器や爆弾等も
創造してきました。
それは
諸刃の刃であり
開発した
身をも滅ぼす
自らにも害が及ぶ
創造であったのです。
真実は
“真我”の心で
創造力(想像力)を
大いに発揮して
愛の想像(創造)を
するために
神は人間に
創造(想像)の
自由を与えたのです。
この創造力
(想像力)は
無限大の力です。
永遠に
創造し続けます。
みんなが共生し
平和と安心を
創造する力です。
これからは
“真我”という
真なる我
神なる我が
この世に
地上ユートピアを
実現する原動力に
なるのです。
私たちが
その礎となるのです。
頑張ってまいりましょう。
生かしていただいて
ありがとうございます。
タイトルは
「今日は残りの
人生の最初の日」
というタイトルを
つけました。
それは、
私たちには
今日という括り
正確に言えば
今、ここ
この瞬間しか
確かな時は
ないからです。
今日は最初の日であり、
最後の日かも
知れません。
私は、今この瞬間に
このブログを
書いています。
この瞬間に
自分の意識を
全集中させて
このブログが
一人でも
多くの人の
目に止まり
何かを感じて
もらえば
うれしいなあという
気持ちで
パソコンに
向かっています。
今、この瞬間で
なけらば
伝えられないのです。
昨日は終わり
明日は永遠に
来ないからです。
私たちには
今日、今ここの
この瞬間しか
時間は与えられて
いないのです。
多くの人が
これから先も
今までのように
永遠に生き続けられる
ような感覚で
一日一日を
送っています。
私がいつも
このブログで
書いていますように
私たちの
実相である魂は
永遠の生命を
持つものであります。
しかし、
肉体を持ちながら
いつまで
今のこの人生を
体験できるのかは
知っているものは
いないのです。
このブログを
書いている最中に
終わるかも
知れませんし
明日なのか
何年先なのか
誰も知らないのです。
期限付きの人生を
体験しているのです。
今、若い人たちは
確率的には
まだ、何十年も
あるかも知れませんが
今回の大震災でも
感じたと思いますが
多くの方が
一瞬に自分の人生を
強制的に遮断
されました。
天災は時と場所を
選ぶ訳では
ありません。
私の体験でも
私の一番最初の孫は
一年にも満たずに
突然死で
この世を後にしました。
孫はこの世に
何を体験しに
来たのでしょう?
孫の母親(私の娘)や
父親や私や女房を
含めて
その関係性において
それぞれに
その後の人生に
影響を及ぼしたことは
まぎれもない事実です。
そう考えますと
今日は残りの人生の
最初の日です。
今日だけは
今の瞬間だけは
確かに
この肉体を持って
貴重な体験を
味わっています。
もっと
このタイトルに
秘められた
今日という
重要性
今この瞬間という
時を大切に
生きなければならないと
感じます。
そのためには
このブログでも
よく取り上げています
“自我”と“真我”
について
考察を深め
一日でも早く
自我なる自分から
真我なる自分への
覚醒が望まれるのです。
“自我”とは
“偽我”ともいい
偽者の自分です。
限定つきの
期限の中で
肉体を持ち
あらゆる体験を
していく中で
肉体から
生み出されるところの
五感のみの体験に
囚われていく
我のことです。
この“自我”は
五感と言う
自分の感覚器官を
喜ばせるものと
そうでないものの
分離を促します。
あらゆる判断が
その我にある
ものですから
人も出来事も
我を中心に物事を
考えることになります。
そうなると
どう反応するかというと
“自我”である
我を基準として
考えますので、
自分以外の
他の出来事や他人の
問題点ばかりが
気になるように
なっていきます。
つまり“自我”は
粗探しの
名人の我です。
“自我”は
我のみ良しの心です。
その“自我”の我が、
不快に思うのは
他人のこんなことが
問題だからなのだ!
女房が亭主が
上司が部下が
政治家が国家が
システムが等々
自分以外のところに
犯人を捜し、
問題の原因を
探します。
“自我”は
自分の問題点は
気にならないのです。
今までの
社会は
家庭においても
職場においても
国家間においても
“自我”が幅を
利かせていた
時代であったと
言えるのでは
ないでしょうか?
競争社会において
声を大きくして
主張することが
いいとされてきました。
権力を持つものは
その自らの力を
行使し支配を
し続けてきました。
お金もそうです。
持っているものと
持っていないもの
武力もそうです。
核を持つ国は
持たない国を
脅かしその力で
もって
リーダーシップを
持ち続けてきました。
歪んだ力の行使です。
その結果は
どうでしたか?
この地球上に
考えられないような
アンバランスを
創造したのです。
地球上の
数パーセントの人が
地球上の富の
90パーセント以上を
占有しています。
一方では
もう一ヶ月以上も
不衛生な水と
わずかなパンの
一切れで
命を繋いでいます。
結局は
多くの富を
占有したとて
それを
失いたくないために
もっともっとと
求めていきます。
一日も安心した
平和な心には
なれないのです。
“自我”の心が
大きければ
大きいほど
すべてが苦しく
感じるように
なるのです。
誰も真の満足は
得られないのです。
これからは
今までのように
“自我”のまま
生きることは
できない時代に
入ってきます。
世界の70億人の
人たちや
すべての動植物や
万有万物が
共生する時代が
必然的に
やってきます。
このままでは
地球規模で
崩壊して
しまうのです。
“自我”のまま
我良しとし
これ以上
進めていくことは
できないのです。
今日からは
自分を
省みる視点
すなわち
今、起こっている
出来事のすべては
自らの内に
問題の原因が
あるのだという
視点です。
まず、内省しなければ
なりません。
“自我”による
思いが
すべての問題を
引き起こしている
張本人なのです。
その“自我”なる
思いを見つめ
その原因たる我を
真なる我に
聖なる我に
置き換えて
いかなければ
ならないのです。
この世の変化は
私たちの
心が改善され
変化しなければ
起こらないのです。
自らの内に
思いやりと慈しみの
愛の種を蒔かずに
すばらしい世の中が
訪れることは
ありません。
『今日は残りの人生の最初の日』
私たちは
今、この瞬間の
今、いるところで
“真我”を自覚
するのです。
まだ、
私の周囲にも
自分の今までの
人生を否定する
人たちが多く
見受けられます。
しかし、それは
過去の自分が
発してきた
思いと行動の
結果なのです。
他の誰かが
その否定する人生を
創ったわけでは
ありません。
過去は既に亡霊です。
そんなことを
いつまでも
引きずらないで
ください!
今日の自分が
明日を創るのです。
今、この瞬間に
思いを変えることが
できれば、
明日は
やってくるのです。
私たちは
この世に
生かされている
存在なのです。
実は
生かされて
いるだけで
ありがたいのです。
この世の
稀有な貴重な瞬間を
確かに体験させて
頂いているのです。
その体験の目的は
誰にでも備わって
いるところの
“真我”を発見する
ためだけに
あるのです。
私たちには
特別に
創造力
(想像力)という
神の性質の
偉大なる力を
与えられて
生かされました。
これが
人間をして
万物の霊長と
呼ぶ
ひとつの所以で
ありました。
しかし、
人間はこれを
履き違え
肉体に捕らえられ
“自我”なる
偽者の我の中で
独りよがりの又、
分離と闘争や
侵略や
奪取といった
不幸の想像力
(創造力)を
行使し、
核兵器や爆弾等も
創造してきました。
それは
諸刃の刃であり
開発した
身をも滅ぼす
自らにも害が及ぶ
創造であったのです。
真実は
“真我”の心で
創造力(想像力)を
大いに発揮して
愛の想像(創造)を
するために
神は人間に
創造(想像)の
自由を与えたのです。
この創造力
(想像力)は
無限大の力です。
永遠に
創造し続けます。
みんなが共生し
平和と安心を
創造する力です。
これからは
“真我”という
真なる我
神なる我が
この世に
地上ユートピアを
実現する原動力に
なるのです。
私たちが
その礎となるのです。
頑張ってまいりましょう。
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年11月11日金曜日
「もう一人の自分」
昨日のブログの
続きのような内容に
なりますが、
この世の混乱や
苦難・困難の意味は
あらゆる体験を通じて
私たちの魂を
鍛錬して成長
させるための
神からの貴重な
プレゼントなのです。
私たちの
本来の魂は
根源なる神に
繋がるところの
真我(神我、仏我、良心)
であるのです。
永遠不滅で
不変な心なのです。
その不変なるものを
中心に宿し
肉体を持ち
10%の顕在意識を
表面に現わしながら
この世を経験して
いるのです。
その現れている
ところの表面なる
意識が
肉体こそ自分と
思い込み
真我意識をさらに
奥へ奥へと
追いやっていきます。
それが自我意識です。
私たちの
ネガティブな面の
意識です。
偽我意識とも言います。
偽者の自分です。
我のみ良しと
思う意識です。
我のみ良し
なのですから
我より優れるものに
嫉妬し
怒り、謗り
怨んだりします。
我より劣るものを
軽蔑し
罵り、のけ者にします。
私たちの
嫌な面の個性です。
私たちは
あらゆる輪廻の中で
この自我意識に
嵌って
いろいろな罪や闇を
創ってきました。
それを業(カルマ)と
いいます。
その業(カルマ)が
あるからこそ
何回もこの世に
降りてくるのです。
それを業(カルマ)の
刈り取りと言います。
自分が他に与えた
気持ちは
自分自身が
味わって見なければ
わからないでしょう!
それが
苦しみや悲しみ
混乱の意味なのです。
この世に
肉体を持つ前に
指導する立場の
霊と共に
今回の人生計画を
考えるときに
今回こそ
「自我をなくす!」と
決めてくるのです。
そして、
この世に
生まれてくるのです。
なぜならば
自我を持ったまま、
霊の世界に
帰った場合、
その自我の個性に
沿った世界に
行くことになります。
これを宗教や宗派に
よっては地獄と
呼ぶところもあります。
しかし、
事実は
神や指導霊や
閻魔さんが
強制的に行かす
訳ではありません。
霊の世界に帰って
自らの今生の目的と
実際の人生が
まるで映画でも
見るように
映し出されるのです。
一人の例外もなく
明らかになるのです。
自ずから
波長同通の法則が
働くのです。
強い自我意識で
他を一切無視し
傍若無人の行為を
してきた人たちの
行く先は
地獄そのものの世界と
思うかも知れませんが
自分と同類の
自我意識を
持った者同士が
自然発生的に
集合するのです。
霊の世界は
ある意味
例外なく公平無比の
世界なのです。
毎日、毎日
嫌な自分の個性を
相手に見るのです。
似たもの同士が
集まるのですから
いかに強い自我を
持っていても
いずれは
自ずと反省する
ようになります。
このような
システムで
次回、
生まれ変わった場合は
「絶対に
自我をなくす!」と
強く心に
決めるのです。
霊の世界では
波長の違う魂は
一緒にいることは
できない世界です。
この世だけが
すべての次元の
魂が混在する
ことのできる
極めて貴重な
玉石混交の
世界なのです。
それも時間が
限定されています。
肉体の死を持って
時間切れになるのです。
ある意味では
どんな苦難や困難で
あっても
ずっと続くことは
ありません。
有限なのです。
今しか、しかも
この世界でしか
体験できないのです。
それも
自分自身で
望んだ体験です。
その苦難や困難な
体験は
自らの偽者の我を
あぶりだし
本来の我である
真我(神我)に戻る
ためにあるのです。
苦しい中で
あぶりだされた
その自我こそ
今回の生で克服
しなければならない
テーマであるのです。
この世でいう
善や悪というものは
絶対のものでは
ありません。
それは、自我で見た
善や悪だからです。
見方においては
善にも悪にも
なるのです。
どんな悪人に見える
人であっても
自我という意識を
捨てたときには
そこに現れるのは
絶対的な善が
あるのみなのです。
完全なる神性が
あるのです。
永遠に不変なる
存在なのです。
だから
今、悩み、苦しみ、
悲しみの渦中に
いる人には
頑張って
欲しいのです。
どんなに
大きな困難だと
思えるような
出来事が
襲ってきても
耐えられない
ものなど何も
ありません。
この世の
どんな混乱も
あなたの心を
傷つけることなど
できないのです。
あなたの本来の心は
永遠不滅の
真我なのです。
無限なる心を
傷つけることは
不可能なのです。
傷ついているのは
自我意識だからに
過ぎないのです。
ですから
今、目の前に
起こっていることを
静観して眺めて
見てください。
その状態が
何をあなたに
語ろうとしているのか?
そこから
あなたは
何を汲み取らなければ
ならないのか?を
もう一人の
本来の
自分の視点で
冷静に
見つめることです。
『今日は残りの人生の最初の日』
このもう一人の
本来の自分こそ
真我なのです。
真我は愛そのものです。
愛の視点で
今の状態を
見つめるのです。
その視点
真我なる、愛なる視点を
通すことによって
天界の扉は
開いてくれるのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
2011年11月10日木曜日
「自分を知る道」
この世に
トラブルや
あらゆる混乱の種は
尽きることのない
ように
次から次へと
現れてくるように
見えます。
いろんな人間関係の
中で起こっている
家庭間の問題
嫁、姑の世代間
ギャップによる
トラブルや
夫婦間の価値観の
相違による軋轢や
親子の絆の希薄
による虐待問題や
学校でのいじめ問題
職場での
上司との折り合いや
政治的な思想間闘争や
様々なシステムへの
不満から来る
デモやストライキ
等々
日常的なトラブルから
国家間の戦争に
到るまで
様々な混乱や
混沌は
後を絶ちません。
そして
世界は
大震災や津波
原発事故
水害や旱魃と
自然災害も
今までより以上に
規模も数も
増加しているように
見えます。
なぜ?
神も仏もあると
いうのでしたら
このような
闇の世界を
そのままにして
おくのでしょう?
神も仏も
あるものか?と
思う方も
いるかも知れません!
しかしながら
ここで
本当の事実を
告げなければ
なりません。
事実は
今、起こっている
混乱と
思われるものは
すべてが、
神の計画の中の
青写真にあること
であるのです。
これはすべて
神のお考えなのです。
あらゆる混乱や闇と
思えるものは
私たちの魂の
成長のために
用意させられた
仕掛けであるのです。
私たちに
様々な経験を
させるために
現れているのです。
私たちの
目の前に起こる
人や出来事は
私たちの魂の
進化に必要
不可欠なのです。
この混沌は
私たちの
試練として
立ちはだかっている
というのが
事実なのです。
苦難や困難の
感覚を味わって
苦難・困難の
意味を探り
そして克服して
力量をあげて
いくのです。
ブレが大きければ
大きいほど
それを克服した時に
より魂の成長も
大きいのです。
このことは
私たちに対する
神の深遠なる
愛であるのです。
私たちの
創り主である神は
私たちに
10%の自己意識を
顕在させて
残りの90%を
潜在意識下
(神意識)に潜め
その場所を
住居としました。
共に体験をするため
見届けるためです。
私たちは
原始にも生まれ
裸で暮らし
土地を開墾したり
或いは
狩猟をしたり
火を使う技術を
覚えたり
何千万年という間に
いろいろな人種を
体験し、
国籍や性別
或いは職業や
貧富の経験や
あらゆる戦い、
宗教の違い等々
ありとあらゆる
体験を続けている
存在です。
ある時は貧乏を
体験して
貧乏の感覚を味わい
貧乏の原因や
貧乏からの脱却という
体験を積みます。
或いは
克服できないまま
極貧の一生を
経験したりします。
ある時は逆の体験
大金持ちでの
感覚を通じて
どのように考え
人と関わったのか
どんなお金の使い方を
したのか
その結果どんなことを
学ぶのかを
体験していきます。
大病の経験も
そうです。
何が原因して
病気になったのか?
その意味するところを
徹底的に学ぶのです。
当事者としての場合と
或いは、
その当事者の
介護や看護を
するものとしての
体験も積むのです。
ある時は
王様で
ある時は奴隷で
また、それぞれが
立場を変わって
体験をしたり
それぞれの
立場での感覚を
味わいます。
戦争で
殺す側に立ったり
殺される側にも
立ったり
するのです。
敵同士で
ありながら
助け合う
体験もあるし
味方であるのに
共に憎しみ合う
体験もします。
人の犠牲になる
経験
人を貶める経験
あらゆる
天災や事故に遭い
不慮の死を遂げたり
大切な人を
喪って
悲嘆に暮れる日々を
送ったりもします。
事故の加害者になって
苦しむ経験も
あったかも知れません。
一生、伴侶と縁が無く
独身で過ごす体験や
プレーボーイ
プレーガールで
奔放なまま生きて
相手を苦しめる体験
また、逆の経験も
味わうのです。
どれだけ相手が
苦しかったかを
知るのです。
それも
私たちに取って
どんな体験が
魂が成長・進化を
し続けていくのか
すべては
精妙な計画なのです。
この地上にある
すべてのものは
神の御心なくして
現れるものなど
ひとつもないのが
真実なのです。
すべては
魂を成長させ
進化させるための
体験なのです。
これは
神の偉大な
愛の法則なのです。
肉体的には
悲惨な形での
死を経験したことも
数多く体験して
きました。
しかし、
私たちの魂には
神と同様に
永遠の生命が
与えられています。
不死不滅なのです。
永遠で無限な
存在として
創造されて
いるのです。
そして
神は
この肉体に
宿っている間も
私たちと
一秒たりとも
離れたことは
ありません。
ある時は
共に涙し
ある時は
私たちを励まし
ある時は共に喜んで
くれているのです。
あなたはそれを
感じている筈です。
あなたの魂を
鍛えんがために
あなたが
気がつくまで
いつまででも
待ってくれる存在
感じたことは
ないでしょうか?
あなたが
大変な苦難、困難に
出合って悩みの
渦中にある時
共に在ってくれて
励まし共に
涙する存在
感じたことが
あるでしょう!
その試練の中でも、
なるべく大きな事故は
起こさないように、
常に見守り
重要な局面に
おいては
直観という
インスピレーションを
与え続けているのです。
しかし、
私たちは
この世に
はまり込んでしまい
90%の神意識を
忘れてしまいます。
10%の自我意識が
あまりにも強く
なり過ぎて
聞く耳を
持たないように
なってくるのです。
してはいけないことを
やろうとした時に
胸に圧迫感を
覚えて嫌な気持ちに
なったことが
あるでしょう!
それが
あなたの中で
常に見守っている
神のサインなのですよ!
その行動を
止めようとして
いるのです。
その度に
あなたが感じるように
サインを出し続けて
いるのです。
あなたは
気のせいだとして
自我のまま
それを無視しているに
過ぎないのです。
或いは
感じていても
打ち消して
しまうのです。
自我という
偽者の自分の
言い訳が
もたげてしまう
からです。
嘘をついても
神は
すべてを
知っているのです。
あなたの行動の
善悪も
あなたの真実も
神はお見通しなのです。
どんな小さなことでも
知っています。
あなたが
人に善を施したならば
胸元から
押えきれない喜びが
湧いてくるでしょう。
これが
神の祝福なのです。
「よく、やった!」と
褒めてくれて
いるのです。
悪いことを
してしまった時、
嘆きの心で
「あーしまった!」と
サインを
送っているのです。
あなたに
気づかせるために
胸が圧迫する
感覚です。
それで
心が苦しくなるのです。
あなたの
真なる心
真我(神我)が
あなたに
気づかせるのです。
このように
私たちの
日常の生活の中でも
一時も休むことなく
神が働いて
くれているのです。
大いなる
神の愛が
溢れてやむことは
ないのです。
これが、
真我という私、
愛の御心(みこころ)、
神の御心(みこころ)
なのです。
本来の私、
真我からの私は
愛しかないのです。
すべては
愛のみが
存在するのです。
「私を見たものは、
神を見たものである。
なにものも
神を見たことは
ないけれども、
私を知ったものは、
神を知ったものである。」
この聖書の言葉の
私と言うのは
真我(神我)の
ことです。
真我の私を
見るもの
即ち、見つけたものは、
神を発見できた
ものなのです。
真我(神我)
到達でしか
真理は
わからないのです!
真理は私たちの
内部に在るものです。
真理は外を
いくら探しても
見つからないのです。
あなたの内側にのみ
発見できるのです。
真の我を
知ったものは、
はじめて真理を
語ることが
できるのです。
それは
愛を発見したからです。
この愛は、
お父さんやお母さん
兄弟や子どもたちの
家庭愛から始まり
隣人への愛、
そして国民への愛、
全世界の人類への愛、
果ては、
別の惑星にまで
愛が波及して
いくのです。
私が真の私を
知ったから、
この真の我は
神のご意志であり、
神の御(み)言葉で
あるからです。
何が本物か?
何が偽者か?は
私を見たもの、
私を知ったものしか
わからないのです。
いわゆる
真我からでなければ、
わかり得ないのです。
この世の無知や
苦難、困難を
克服したとき、
魂が進化し、
真我となるのです。
自分自身を知ったとき
光があたるのです。
神を知るのです。
愛を知るのです。
いかに
私たちの経験の
価値が大きいことが
理解できたのでは
ないでしょうか!
真我になったときが、
世の光になるのです。
あの世に地獄が
あるのでは
なかったのです、
この世に地獄は
存在します。
正確には
自分こそ我なり
肉体こそ我なりと思い
神から離れた時
真っ暗闇になるのです。
何故かというと
神は光だからです
光が射さないのです。
闇なのです。
その闇に留まることが
地獄なのです。
地獄も体験しなければ
私たちの
本当の故郷を
見出すことは
できないのです。
味わってみなければ
解らないのです。
地獄とは
自分が光を遮っている
部分にしか
過ぎないことを
経験するのです。
そして地獄を
克服するのです。
この地上界における
実体を知り、
真の我を知り、
初めて
神は愛深き方だと
わかるのです。
今から現れてくる
如何なる困難も
あなたの前から
姿を消します。
それは真我を
知ったからです。
この困難や苦難と
思えしものは
あなたに
克服されるために
現れているのです。
光は闇を消すのです。
闇と光の戦いなのです。
あなたの心の中で
戦っているのです。
いかなる悪も
愛という武器には
適わないのです。
最後は
愛が勝つのです。
愛は
神の力なのです。
愛は
神のエネルギーです。
愛は
神の現われなのです。
積極的に
闇に立ち向かって
いくのです。
偽者の自分
偽我から
真我(神我)へと
念いが変わることこそ
真の勇者として
生まれ変わるのです。
いかなる環境が
目の前に起きようとも、
闇の中にいながら
闇を怖れない自分、
闇を喜んで
受けて立つ自分を
体験します。
今、どんな苦境に
あろうとも、
いつかは感謝できる
自分が来るのです。
人生の困難が
魂の糧であったと
思える時が。
あなたを
傷つけた人は
あなたの前に現れた
敵と見えし人は、
あなたの
魂の成長のために
使わされた
犠牲者なのです。
神の深遠な
愛の計画の中で
魂の深奥のレベルで
その役割を
担ってくれて
いるのです。
イエスさまが仰った
「汝の敵を愛せよ!」とは
そのことを
見通されて
いたからこそ
伝えることができた
真理なのです。
私たちは
そのお陰で
闇を克服する
知恵と力を
つけていくことが
できるのです。
これを魂の成長と
いうのです。
今、この地上界は
混沌と闇の
真っ只中に
あるように
見えます。
しかし
そのすぐ先には
新しい時代が
訪れようとしています。
愛の時代です。
アクエリアスの時代の
周期に入っていると
聞いたことが
ありませんか?
あらゆる
識者や本や文献に
おいて
地球の次元上昇や
精神の時代の到来
また26000年に
一回の周期で
大きく価値観が
動く時代に突入して
いるとも伝え聞きます。
私が感じるのも
同じように感じます。
今までの時代は
混乱が分離を生み
魂の体験の時代でした。
これからは
統合の時代です。
今までの経験から
得た愛を発揮する
時代に入って
いくでしょう。
人間の魂の完成の
周期に入っていく
ように感じられます。
新しい夜明けが
始まろうとしています。
夜明け前は
暗いものです。
しかし、
いかにこの世が
混乱しようが
迷ってはいけません。
その出来事に
囚われてもなりません。
今、現れている
この世の困難は
新しい夜明けの
善なる前兆であるのです。
今の混乱は
光に向かう
転換期のために
あるのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この瞬間に
あなたに
闇や困難が
現れているのなら
幸いであります。
あなたを
強くするために
あなたの無知を
智慧へと誘わんとする
神の愛を知るからです。
受けて立とうでは
ないですか!
力強く
闇や困難に
感謝をしましょう!
闇がなければ
夜明けの光の
眩さを感じることも
できないのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
トラブルや
あらゆる混乱の種は
尽きることのない
ように
次から次へと
現れてくるように
見えます。
いろんな人間関係の
中で起こっている
家庭間の問題
嫁、姑の世代間
ギャップによる
トラブルや
夫婦間の価値観の
相違による軋轢や
親子の絆の希薄
による虐待問題や
学校でのいじめ問題
職場での
上司との折り合いや
政治的な思想間闘争や
様々なシステムへの
不満から来る
デモやストライキ
等々
日常的なトラブルから
国家間の戦争に
到るまで
様々な混乱や
混沌は
後を絶ちません。
そして
世界は
大震災や津波
原発事故
水害や旱魃と
自然災害も
今までより以上に
規模も数も
増加しているように
見えます。
なぜ?
神も仏もあると
いうのでしたら
このような
闇の世界を
そのままにして
おくのでしょう?
神も仏も
あるものか?と
思う方も
いるかも知れません!
しかしながら
ここで
本当の事実を
告げなければ
なりません。
事実は
今、起こっている
混乱と
思われるものは
すべてが、
神の計画の中の
青写真にあること
であるのです。
これはすべて
神のお考えなのです。
あらゆる混乱や闇と
思えるものは
私たちの魂の
成長のために
用意させられた
仕掛けであるのです。
私たちに
様々な経験を
させるために
現れているのです。
私たちの
目の前に起こる
人や出来事は
私たちの魂の
進化に必要
不可欠なのです。
この混沌は
私たちの
試練として
立ちはだかっている
というのが
事実なのです。
苦難や困難の
感覚を味わって
苦難・困難の
意味を探り
そして克服して
力量をあげて
いくのです。
ブレが大きければ
大きいほど
それを克服した時に
より魂の成長も
大きいのです。
このことは
私たちに対する
神の深遠なる
愛であるのです。
私たちの
創り主である神は
私たちに
10%の自己意識を
顕在させて
残りの90%を
潜在意識下
(神意識)に潜め
その場所を
住居としました。
共に体験をするため
見届けるためです。
私たちは
原始にも生まれ
裸で暮らし
土地を開墾したり
或いは
狩猟をしたり
火を使う技術を
覚えたり
何千万年という間に
いろいろな人種を
体験し、
国籍や性別
或いは職業や
貧富の経験や
あらゆる戦い、
宗教の違い等々
ありとあらゆる
体験を続けている
存在です。
ある時は貧乏を
体験して
貧乏の感覚を味わい
貧乏の原因や
貧乏からの脱却という
体験を積みます。
或いは
克服できないまま
極貧の一生を
経験したりします。
ある時は逆の体験
大金持ちでの
感覚を通じて
どのように考え
人と関わったのか
どんなお金の使い方を
したのか
その結果どんなことを
学ぶのかを
体験していきます。
大病の経験も
そうです。
何が原因して
病気になったのか?
その意味するところを
徹底的に学ぶのです。
当事者としての場合と
或いは、
その当事者の
介護や看護を
するものとしての
体験も積むのです。
ある時は
王様で
ある時は奴隷で
また、それぞれが
立場を変わって
体験をしたり
それぞれの
立場での感覚を
味わいます。
戦争で
殺す側に立ったり
殺される側にも
立ったり
するのです。
敵同士で
ありながら
助け合う
体験もあるし
味方であるのに
共に憎しみ合う
体験もします。
人の犠牲になる
経験
人を貶める経験
あらゆる
天災や事故に遭い
不慮の死を遂げたり
大切な人を
喪って
悲嘆に暮れる日々を
送ったりもします。
事故の加害者になって
苦しむ経験も
あったかも知れません。
一生、伴侶と縁が無く
独身で過ごす体験や
プレーボーイ
プレーガールで
奔放なまま生きて
相手を苦しめる体験
また、逆の経験も
味わうのです。
どれだけ相手が
苦しかったかを
知るのです。
それも
私たちに取って
どんな体験が
魂が成長・進化を
し続けていくのか
すべては
精妙な計画なのです。
この地上にある
すべてのものは
神の御心なくして
現れるものなど
ひとつもないのが
真実なのです。
すべては
魂を成長させ
進化させるための
体験なのです。
これは
神の偉大な
愛の法則なのです。
肉体的には
悲惨な形での
死を経験したことも
数多く体験して
きました。
しかし、
私たちの魂には
神と同様に
永遠の生命が
与えられています。
不死不滅なのです。
永遠で無限な
存在として
創造されて
いるのです。
そして
神は
この肉体に
宿っている間も
私たちと
一秒たりとも
離れたことは
ありません。
ある時は
共に涙し
ある時は
私たちを励まし
ある時は共に喜んで
くれているのです。
あなたはそれを
感じている筈です。
あなたの魂を
鍛えんがために
あなたが
気がつくまで
いつまででも
待ってくれる存在
感じたことは
ないでしょうか?
あなたが
大変な苦難、困難に
出合って悩みの
渦中にある時
共に在ってくれて
励まし共に
涙する存在
感じたことが
あるでしょう!
その試練の中でも、
なるべく大きな事故は
起こさないように、
常に見守り
重要な局面に
おいては
直観という
インスピレーションを
与え続けているのです。
しかし、
私たちは
この世に
はまり込んでしまい
90%の神意識を
忘れてしまいます。
10%の自我意識が
あまりにも強く
なり過ぎて
聞く耳を
持たないように
なってくるのです。
してはいけないことを
やろうとした時に
胸に圧迫感を
覚えて嫌な気持ちに
なったことが
あるでしょう!
それが
あなたの中で
常に見守っている
神のサインなのですよ!
その行動を
止めようとして
いるのです。
その度に
あなたが感じるように
サインを出し続けて
いるのです。
あなたは
気のせいだとして
自我のまま
それを無視しているに
過ぎないのです。
或いは
感じていても
打ち消して
しまうのです。
自我という
偽者の自分の
言い訳が
もたげてしまう
からです。
嘘をついても
神は
すべてを
知っているのです。
あなたの行動の
善悪も
あなたの真実も
神はお見通しなのです。
どんな小さなことでも
知っています。
あなたが
人に善を施したならば
胸元から
押えきれない喜びが
湧いてくるでしょう。
これが
神の祝福なのです。
「よく、やった!」と
褒めてくれて
いるのです。
悪いことを
してしまった時、
嘆きの心で
「あーしまった!」と
サインを
送っているのです。
あなたに
気づかせるために
胸が圧迫する
感覚です。
それで
心が苦しくなるのです。
あなたの
真なる心
真我(神我)が
あなたに
気づかせるのです。
このように
私たちの
日常の生活の中でも
一時も休むことなく
神が働いて
くれているのです。
大いなる
神の愛が
溢れてやむことは
ないのです。
これが、
真我という私、
愛の御心(みこころ)、
神の御心(みこころ)
なのです。
本来の私、
真我からの私は
愛しかないのです。
すべては
愛のみが
存在するのです。
「私を見たものは、
神を見たものである。
なにものも
神を見たことは
ないけれども、
私を知ったものは、
神を知ったものである。」
この聖書の言葉の
私と言うのは
真我(神我)の
ことです。
真我の私を
見るもの
即ち、見つけたものは、
神を発見できた
ものなのです。
真我(神我)
到達でしか
真理は
わからないのです!
真理は私たちの
内部に在るものです。
真理は外を
いくら探しても
見つからないのです。
あなたの内側にのみ
発見できるのです。
真の我を
知ったものは、
はじめて真理を
語ることが
できるのです。
それは
愛を発見したからです。
この愛は、
お父さんやお母さん
兄弟や子どもたちの
家庭愛から始まり
隣人への愛、
そして国民への愛、
全世界の人類への愛、
果ては、
別の惑星にまで
愛が波及して
いくのです。
私が真の私を
知ったから、
この真の我は
神のご意志であり、
神の御(み)言葉で
あるからです。
何が本物か?
何が偽者か?は
私を見たもの、
私を知ったものしか
わからないのです。
いわゆる
真我からでなければ、
わかり得ないのです。
この世の無知や
苦難、困難を
克服したとき、
魂が進化し、
真我となるのです。
自分自身を知ったとき
光があたるのです。
神を知るのです。
愛を知るのです。
いかに
私たちの経験の
価値が大きいことが
理解できたのでは
ないでしょうか!
真我になったときが、
世の光になるのです。
あの世に地獄が
あるのでは
なかったのです、
この世に地獄は
存在します。
正確には
自分こそ我なり
肉体こそ我なりと思い
神から離れた時
真っ暗闇になるのです。
何故かというと
神は光だからです
光が射さないのです。
闇なのです。
その闇に留まることが
地獄なのです。
地獄も体験しなければ
私たちの
本当の故郷を
見出すことは
できないのです。
味わってみなければ
解らないのです。
地獄とは
自分が光を遮っている
部分にしか
過ぎないことを
経験するのです。
そして地獄を
克服するのです。
この地上界における
実体を知り、
真の我を知り、
初めて
神は愛深き方だと
わかるのです。
今から現れてくる
如何なる困難も
あなたの前から
姿を消します。
それは真我を
知ったからです。
この困難や苦難と
思えしものは
あなたに
克服されるために
現れているのです。
光は闇を消すのです。
闇と光の戦いなのです。
あなたの心の中で
戦っているのです。
いかなる悪も
愛という武器には
適わないのです。
最後は
愛が勝つのです。
愛は
神の力なのです。
愛は
神のエネルギーです。
愛は
神の現われなのです。
積極的に
闇に立ち向かって
いくのです。
偽者の自分
偽我から
真我(神我)へと
念いが変わることこそ
真の勇者として
生まれ変わるのです。
いかなる環境が
目の前に起きようとも、
闇の中にいながら
闇を怖れない自分、
闇を喜んで
受けて立つ自分を
体験します。
今、どんな苦境に
あろうとも、
いつかは感謝できる
自分が来るのです。
人生の困難が
魂の糧であったと
思える時が。
あなたを
傷つけた人は
あなたの前に現れた
敵と見えし人は、
あなたの
魂の成長のために
使わされた
犠牲者なのです。
神の深遠な
愛の計画の中で
魂の深奥のレベルで
その役割を
担ってくれて
いるのです。
イエスさまが仰った
「汝の敵を愛せよ!」とは
そのことを
見通されて
いたからこそ
伝えることができた
真理なのです。
私たちは
そのお陰で
闇を克服する
知恵と力を
つけていくことが
できるのです。
これを魂の成長と
いうのです。
今、この地上界は
混沌と闇の
真っ只中に
あるように
見えます。
しかし
そのすぐ先には
新しい時代が
訪れようとしています。
愛の時代です。
アクエリアスの時代の
周期に入っていると
聞いたことが
ありませんか?
あらゆる
識者や本や文献に
おいて
地球の次元上昇や
精神の時代の到来
また26000年に
一回の周期で
大きく価値観が
動く時代に突入して
いるとも伝え聞きます。
私が感じるのも
同じように感じます。
今までの時代は
混乱が分離を生み
魂の体験の時代でした。
これからは
統合の時代です。
今までの経験から
得た愛を発揮する
時代に入って
いくでしょう。
人間の魂の完成の
周期に入っていく
ように感じられます。
新しい夜明けが
始まろうとしています。
夜明け前は
暗いものです。
しかし、
いかにこの世が
混乱しようが
迷ってはいけません。
その出来事に
囚われてもなりません。
今、現れている
この世の困難は
新しい夜明けの
善なる前兆であるのです。
今の混乱は
光に向かう
転換期のために
あるのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この瞬間に
あなたに
闇や困難が
現れているのなら
幸いであります。
あなたを
強くするために
あなたの無知を
智慧へと誘わんとする
神の愛を知るからです。
受けて立とうでは
ないですか!
力強く
闇や困難に
感謝をしましょう!
闇がなければ
夜明けの光の
眩さを感じることも
できないのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
2011年11月8日火曜日
「大力量人」
“無門関”という
無門慧開さんによって
編集された48則の
公案集があります。
この“無門関”は
下記の言葉に
現わされる如くの
意味でつけられた
のだそうです。
「頌 (じゅ) に曰く
大道無門、千差路有り。
此の關を透得せば、
乾坤(けんこん)に獨歩せん。」
「頌 (仏教の思想を
述べた詩句の意味)
曰くとは、
ほとけの世界は、
入り口がない
大きな道のような
ものであり、
そこはまるで
千もの路が交差
しているような所です。
この門のない関を
透り抜けて、
行き着く
ことができれば、
乾坤(天と地)或いは
(陰と陽)の間を
ひとりで歩いている
ような自由を
自らの手に入れる
ことになるのです」
上記の
“無門関”の講義を
谷口雅春先生が
したことが
あります。
私の真理ノートから
抜粋します。
第20則の
「大力量人」
(だいりきりょうじん)です。
「松源和尚曰く
大力量の人、
何によってか、
足をもたげ
起こさざる。
大力量の人、
何によってか、
また口を開くこと
舌頭上にあらざる。」
意味は
松源和尚いわく
大力量の人は、
どうしたわけか
脚を上げて、
起ちあがる
ことができない
またいわく
口を開いたけれど
舌頭上に
なにも言葉がない。
大力量人とは
単なる力量がある
という程度のもの
ではなく、
あらゆる能力を
持っているもの
いわゆる、
無限の能力者である。
すべての人間には
この無限の
神の生命が
宿っているのである。
神の無限の力を
持ちながら
何故それを
発揮できないのか?
私たちは
もっと自由に
世の中を走り回り
人々を救える
ようにできている。
また、
もっと自由に
神の言葉を語り
人々に光明を
与えることもできる
ようにできている。
その神の無限の力
生命の実相である
大力量人で
あることを
自覚しなさい。
別の言い方で
言いますと
限界は自分の
心の中にある。
決して
限界をつくる
べからずと
言うことでも
あります。
この世においては
自分は大力量人と
自覚しない限り
足をもたげ
起こさざる。
であり、
また口を開くこと
舌頭上にあらざる。
訳であります。
自覚こそ
とても大事なのです。
それを
語る上で
やはり
谷口先生が自身の
「光明道中記」という
本の解説をしたメモが
真理ノートに
書き留めて
ありましたので
紹介します。
これは
お釈迦さまの
ご誕生の日の
4月8日のメモです。
まだ、修行中の
お釈迦さまに
天の使いが
語りかける内容です。
4月8日
釈迦新生の日、
(ご誕生の日)
天の使い:
「お前は何を
求めているのだ?」
お釈迦さま:
「私は永遠を
求めているので
ございます。
私はその方法を
捜し求めている
のでございます。」
天の使い:
「どこにも
永遠を求める
ことはいらない。
お前が
永遠そのものだ。」
お釈迦さま:
「この私が
永遠そのものですか?」
天の使い:
「そうだ、
そのお前が
永遠者なのである。
そして、
そのお前と言うのは
肉体を指している
のではない。
その肉体を
現わしている
そのお前の
生命そのもの
それが永遠である。
永遠が今、
お前の中に
生活している。
永遠が今、
お前とともに
歩いているのだよ。」
という
お釈迦さまと
天の使いの
対話です。
天の使いは
私たちにも
同じことを
伝えているのです。
私たちは
自分自身が
永遠で
無限の存在であり、
今、ここに
永遠とともに
歩いているのです。
人間の本体は
この肉体では
ないのです。
肉体の奥に
霊妙極まりなき
存在ありとして、
それこそが
神の作り給いし
人間の本体で
あるのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今日、この瞬間に
永遠なる自覚を
無限なる自覚を
持つのです。
地上に
神のイメージが
具体化して
出現しているのが
人間の本質で
あるのです。
神は全知全能で
大力量なのです。
私たち自身にも
大力量が
備わっている
ということです。
この真なる力を
発揮するときは
今、この瞬間に
与えられたところの
神の恩寵であり
神の最大の
私たちへの
プレゼントなのです!
生かしていただいて
ありがとうございます。
無門慧開さんによって
編集された48則の
公案集があります。
この“無門関”は
下記の言葉に
現わされる如くの
意味でつけられた
のだそうです。
「頌 (じゅ) に曰く
大道無門、千差路有り。
此の關を透得せば、
乾坤(けんこん)に獨歩せん。」
「頌 (仏教の思想を
述べた詩句の意味)
曰くとは、
ほとけの世界は、
入り口がない
大きな道のような
ものであり、
そこはまるで
千もの路が交差
しているような所です。
この門のない関を
透り抜けて、
行き着く
ことができれば、
乾坤(天と地)或いは
(陰と陽)の間を
ひとりで歩いている
ような自由を
自らの手に入れる
ことになるのです」
上記の
“無門関”の講義を
谷口雅春先生が
したことが
あります。
私の真理ノートから
抜粋します。
第20則の
「大力量人」
(だいりきりょうじん)です。
「松源和尚曰く
大力量の人、
何によってか、
足をもたげ
起こさざる。
大力量の人、
何によってか、
また口を開くこと
舌頭上にあらざる。」
意味は
松源和尚いわく
大力量の人は、
どうしたわけか
脚を上げて、
起ちあがる
ことができない
またいわく
口を開いたけれど
舌頭上に
なにも言葉がない。
大力量人とは
単なる力量がある
という程度のもの
ではなく、
あらゆる能力を
持っているもの
いわゆる、
無限の能力者である。
すべての人間には
この無限の
神の生命が
宿っているのである。
神の無限の力を
持ちながら
何故それを
発揮できないのか?
私たちは
もっと自由に
世の中を走り回り
人々を救える
ようにできている。
また、
もっと自由に
神の言葉を語り
人々に光明を
与えることもできる
ようにできている。
その神の無限の力
生命の実相である
大力量人で
あることを
自覚しなさい。
別の言い方で
言いますと
限界は自分の
心の中にある。
決して
限界をつくる
べからずと
言うことでも
あります。
この世においては
自分は大力量人と
自覚しない限り
足をもたげ
起こさざる。
であり、
また口を開くこと
舌頭上にあらざる。
訳であります。
自覚こそ
とても大事なのです。
それを
語る上で
やはり
谷口先生が自身の
「光明道中記」という
本の解説をしたメモが
真理ノートに
書き留めて
ありましたので
紹介します。
これは
お釈迦さまの
ご誕生の日の
4月8日のメモです。
まだ、修行中の
お釈迦さまに
天の使いが
語りかける内容です。
4月8日
釈迦新生の日、
(ご誕生の日)
天の使い:
「お前は何を
求めているのだ?」
お釈迦さま:
「私は永遠を
求めているので
ございます。
私はその方法を
捜し求めている
のでございます。」
天の使い:
「どこにも
永遠を求める
ことはいらない。
お前が
永遠そのものだ。」
お釈迦さま:
「この私が
永遠そのものですか?」
天の使い:
「そうだ、
そのお前が
永遠者なのである。
そして、
そのお前と言うのは
肉体を指している
のではない。
その肉体を
現わしている
そのお前の
生命そのもの
それが永遠である。
永遠が今、
お前の中に
生活している。
永遠が今、
お前とともに
歩いているのだよ。」
という
お釈迦さまと
天の使いの
対話です。
天の使いは
私たちにも
同じことを
伝えているのです。
私たちは
自分自身が
永遠で
無限の存在であり、
今、ここに
永遠とともに
歩いているのです。
人間の本体は
この肉体では
ないのです。
肉体の奥に
霊妙極まりなき
存在ありとして、
それこそが
神の作り給いし
人間の本体で
あるのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今日、この瞬間に
永遠なる自覚を
無限なる自覚を
持つのです。
地上に
神のイメージが
具体化して
出現しているのが
人間の本質で
あるのです。
神は全知全能で
大力量なのです。
私たち自身にも
大力量が
備わっている
ということです。
この真なる力を
発揮するときは
今、この瞬間に
与えられたところの
神の恩寵であり
神の最大の
私たちへの
プレゼントなのです!
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年11月6日日曜日
「諸行無常を深める!」
一昨日は
紅葉を見たくなって
車で日光の方へ
足を伸ばしてみました。
東北自動車道で
宇都宮ICで居り
日光宇都宮道路で
今市ICで
降りるあたりから
紅葉のパノラマが
開けてきました。
黄色や赤色や
まだ緑色もたくさん
交ざっていて
色彩豊かな
自然が織り成す
最高のご馳走です。
あまり美しいので
さらに車を走らせ
紅葉に魅せられるまま
奥に奥に入って
いきました。
走っていますと
“平家の里”の
看板が目に
飛び込んできました。
もう湯西川に
入っていました。
平家と言えば
どうしても
思い浮かぶのが
中学生のときに
暗記させられた
「平家物語」の
冒頭部分です。
皆さんも
覚えさせられたのでは
ないでしょうか?
「祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。」
祇園精舎の鐘の音には、
この世のすべての現象は
常に変化していくものだ
という響きがある。
沙羅双樹(曼珠沙華)の
花の色は、
どんなに勢いが盛んな者も
必ず衰えるのであると
いう道理をあらわしている。
権力を持ったものも
長くはその権力を
維持することはできない。
それは春の夜の
夢のようである。
勢い盛んで強い者も、
結局は滅び去る。
それは風に吹き飛ばされる
塵と同じようである。
その後に
仏教を勉強したので
お釈迦さまが
説いた
基本的な教えの
三法印(四法印)の
最初に掲げられている
重要な教えが
この「平家物語」の
中にも書かれています
諸行無常という
言葉であります。
折角、
ここまできたので
“平家の里”を
見学させていただきました。
京に栄華を誇った
平家は
源平の戦いに敗れ
源氏の厳しい
追っ手から逃れて
平家が落人として
流れ流れて安住した地が
この下野の国、秘境
湯西川だったようです。
この“平家の里”では
その落人たちの
生き様や
生活様式を
後世に長く保存
継承する拠点として
復元したのだそうです。
その中の
床(ゆか)しどころ
という展示館に
平 清盛像と
その嫡子
平 敦盛像が
展示されています。
その敦盛の
一の谷の合戦の
エピソードが
書かれていました。
『一の谷の合戦で、
源氏方の熊谷直実が
敦盛を押えつつ
首を取ろうとすると、
16・7の美少年で
あるのに驚いて、
「首を取ることなど
できない。
助けてやりたい」と
泣く泣く敦盛の首を
取りました。
その後、直実は
弓矢取る身の
虚しさを自覚して
仏門に入り、
紅顔の貴公子を悼んだ』
このときの直実の
心境はいかばかりか
思い至ると
思わず涙を
流さずにはいられない。
この時、
直実も
人間の身心の無常観を
感じたのでは
ないでしょうか。
「王朝文芸の宗教的史観四」
“源氏物語と平家物語の比較”
梅光女学院大学の
村田 昇先生が
書かれています。
P24を抜粋します。
無常の美学
「宇宙生命の
創造的進化の秩序を
顕現するものは美である。
外なる自然飛花落葉も、
人間の身心も無常である。
故に美である。
宇宙生命の秩序を
教える仏教は美学である。
その経典は文芸である。
砥園精舎の鐘は、
諸行無常、
是生滅法、
生滅々已、
寂滅為楽と響き、
沙羅双樹の花の色は、
盛者必衰の理を
現すが故に美である。
これを最初に謡う平曲は、
無常観念詩である。
私は詩とは
直観した宇宙生命
秩序をことばを縁として、
十分に響流している
ものと思考している。
生も病も老も死も、
種も熟も脱も、
生も住も異も滅も、
すべて宇宙の秩序である。
無常である。
美である。
かく道得された処が、
浬禦寂滅である。」
抜粋了
村田先生の
この無常の美学の
部分を読むにつけ
この仏教の重要な
教えである。
諸行無常がいかに
大切な教えで
あることが
理解でき
さらにお釈迦さまが
2600年前に
悟りを開くに到った
過去世の因縁としての
物語である
ジャータカ物語
→本生譚
(ほんしょうたん)の中に
ある雪山童子
(せっせんどうじ)の
お話を思い出します。
『お釈迦さまの前世の
修行者が
ヒマラヤの雪山で
一生懸命に
修行をしていました。
そのあまりにもの
ひたむきさに
感心した仏法の
守護神である
帝釈天は
羅刹(らせつ)という
鬼神の姿に身を変えて
修行者の前に現れて
こう唱えるのです。
「諸行無常、是生滅法」
「諸行無常なり、
是れ生滅の法なり」
この真理の二句を聞いた
修行者は
この教えに大いに
感動し喜びました。
しかし、修行者が
まわりを見回して見ると
そこに立っているのは
恐ろしい形相の鬼だあった。
修行者はその鬼のような
姿の羅刹に向かって
「今の言葉はあなたが
唱えたのでしょうか?」
と聞きました。
そうすると
「そうだ!」と答えたので、
さらに
「今の教えはまったくの
真理です。では
どのように生きたら
良いのでしょうか?
知っていられるなら
その続きを是非とも
お教え願いたい!」
そう修行者が聞きますと、
その鬼は答えました。
「勿論、知っている
しかし、何も食べて
いないので、腹が減って
続きを唱えられん!」
修行者は
「私が探して来ますので、
何が食べたいのですか?」
と聞きました。
鬼は
「人間の肉を食べたい!」
と言いました。
そこで修行者は、
真理を求めるために
命を捨てる覚悟をして
言いました。
「解りました。
私の身体でよければ、
あなたに差し上げるので
続きの真理を
聞かせてください!」
と言います。
鬼は真理の二句を
唱えました。
「生滅滅已、寂滅為楽」
「生滅を滅し終わって、
寂滅をもって楽となす」
修行者は
これを聞いて驚喜し、
「後世の人の為に
この真理は
残さなければならない!」と、
この四句を
岩に刻み谷底に
自らの身を
投げ打ったのです。
その瞬間、
鬼神、羅刹の姿から
元の帝釈天に戻って、
やさしく修行者の
からだを受けとめ
礼拝したのです。』
お釈迦さまの
前世の雪山童子が
命を賭してまで
知りたいと思った
その教えこそ
この諸行無常の教え
という意味で
諸行無常偈といい、
雪山童子の教え
という意味で
雪山偈とも
言われています。
“諸行無常”
(しょぎょうむじょう)
すべての存在は
移り変わるものである。
“是生滅法”
(ぜしょうめっぽう)
是がこの生滅する
この世の法えである
“生滅滅已”
(しょうめつめつい)
生滅へのとらわれから
己を滅し尽くして
“寂滅為楽”
(じゃくめついらく)
寂滅の境地に到り
楽と為すのである。
という法えなのです。
これを和訳したものが
「いろは歌」と
いわれています。
空海さんの作と
言われています。
いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそ
つねならむ
うゐのおくやま
けふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
色は匂へど
散りぬるを
(諸行無常)
我が世誰ぞ
常ならむ
(是生滅法)
有為の奥山
今日越えて
(生滅滅已)
浅き夢見じ
酔ひもせず
(寂滅為楽)
となります。
「色は匂えど散りぬるを」
花は匂い立つほどに
咲き乱れていても
やがては散ってしまう
ものである。そのように
すべての存在は
一定のものなど何もない
変化してしまうものである。
という「諸行無常」を
示しています。
「我が世誰ぞ常ならむ」
この世に存在するもので
生滅しないものは何もない
これが真理なのです。
「有為の奥山今日越えて」
有為とは作られたもの
という意味で、
原因と条件があって
万物は存在するのです。
縁が変われば、
それに応じて
常に姿も変わります。
「無常」です。
有為の奥山を
越えて観るならば、
苦しみ悩みは
「夢のようなもの」
なのであるとして、
「浅き夢見じ酔いもせず」と
繋がるのです。
寂滅をもって楽と為す。
「この世の中は
無常である。だから、
何とかしようと
あがいてはいけません。
まず、自我を捨てる
ことです。
執着に囚われずに
「寂滅」の状態
煩悩の火が消え
やすらぎの状態に
なった時に
無や空の境地に
到るのです。」
紅葉を見ようと
思い立った所から
湯西川にまで到り
そして、
“平家の里”の
「平家物語」の冒頭に
繋がり
“諸行無常”の
「雪山偈」となり
「いろは歌」にまで
広がってしまいました。
ただ、思いつくまま
気の向くまま
書いてみました。
これも
“諸行無常”なのでしょう!
おつきあい
ありがとうございます。
紅葉を見たくなって
車で日光の方へ
足を伸ばしてみました。
東北自動車道で
宇都宮ICで居り
日光宇都宮道路で
今市ICで
降りるあたりから
紅葉のパノラマが
開けてきました。
黄色や赤色や
まだ緑色もたくさん
交ざっていて
色彩豊かな
自然が織り成す
最高のご馳走です。
あまり美しいので
さらに車を走らせ
紅葉に魅せられるまま
奥に奥に入って
いきました。
走っていますと
“平家の里”の
看板が目に
飛び込んできました。
もう湯西川に
入っていました。
平家と言えば
どうしても
思い浮かぶのが
中学生のときに
暗記させられた
「平家物語」の
冒頭部分です。
皆さんも
覚えさせられたのでは
ないでしょうか?
「祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。」
祇園精舎の鐘の音には、
この世のすべての現象は
常に変化していくものだ
という響きがある。
沙羅双樹(曼珠沙華)の
花の色は、
どんなに勢いが盛んな者も
必ず衰えるのであると
いう道理をあらわしている。
権力を持ったものも
長くはその権力を
維持することはできない。
それは春の夜の
夢のようである。
勢い盛んで強い者も、
結局は滅び去る。
それは風に吹き飛ばされる
塵と同じようである。
その後に
仏教を勉強したので
お釈迦さまが
説いた
基本的な教えの
三法印(四法印)の
最初に掲げられている
重要な教えが
この「平家物語」の
中にも書かれています
諸行無常という
言葉であります。
折角、
ここまできたので
“平家の里”を
見学させていただきました。
京に栄華を誇った
平家は
源平の戦いに敗れ
源氏の厳しい
追っ手から逃れて
平家が落人として
流れ流れて安住した地が
この下野の国、秘境
湯西川だったようです。
この“平家の里”では
その落人たちの
生き様や
生活様式を
後世に長く保存
継承する拠点として
復元したのだそうです。
その中の
床(ゆか)しどころ
という展示館に
平 清盛像と
その嫡子
平 敦盛像が
展示されています。
その敦盛の
一の谷の合戦の
エピソードが
書かれていました。
『一の谷の合戦で、
源氏方の熊谷直実が
敦盛を押えつつ
首を取ろうとすると、
16・7の美少年で
あるのに驚いて、
「首を取ることなど
できない。
助けてやりたい」と
泣く泣く敦盛の首を
取りました。
その後、直実は
弓矢取る身の
虚しさを自覚して
仏門に入り、
紅顔の貴公子を悼んだ』
このときの直実の
心境はいかばかりか
思い至ると
思わず涙を
流さずにはいられない。
この時、
直実も
人間の身心の無常観を
感じたのでは
ないでしょうか。
「王朝文芸の宗教的史観四」
“源氏物語と平家物語の比較”
梅光女学院大学の
村田 昇先生が
書かれています。
P24を抜粋します。
無常の美学
「宇宙生命の
創造的進化の秩序を
顕現するものは美である。
外なる自然飛花落葉も、
人間の身心も無常である。
故に美である。
宇宙生命の秩序を
教える仏教は美学である。
その経典は文芸である。
砥園精舎の鐘は、
諸行無常、
是生滅法、
生滅々已、
寂滅為楽と響き、
沙羅双樹の花の色は、
盛者必衰の理を
現すが故に美である。
これを最初に謡う平曲は、
無常観念詩である。
私は詩とは
直観した宇宙生命
秩序をことばを縁として、
十分に響流している
ものと思考している。
生も病も老も死も、
種も熟も脱も、
生も住も異も滅も、
すべて宇宙の秩序である。
無常である。
美である。
かく道得された処が、
浬禦寂滅である。」
抜粋了
村田先生の
この無常の美学の
部分を読むにつけ
この仏教の重要な
教えである。
諸行無常がいかに
大切な教えで
あることが
理解でき
さらにお釈迦さまが
2600年前に
悟りを開くに到った
過去世の因縁としての
物語である
ジャータカ物語
→本生譚
(ほんしょうたん)の中に
ある雪山童子
(せっせんどうじ)の
お話を思い出します。
『お釈迦さまの前世の
修行者が
ヒマラヤの雪山で
一生懸命に
修行をしていました。
そのあまりにもの
ひたむきさに
感心した仏法の
守護神である
帝釈天は
羅刹(らせつ)という
鬼神の姿に身を変えて
修行者の前に現れて
こう唱えるのです。
「諸行無常、是生滅法」
「諸行無常なり、
是れ生滅の法なり」
この真理の二句を聞いた
修行者は
この教えに大いに
感動し喜びました。
しかし、修行者が
まわりを見回して見ると
そこに立っているのは
恐ろしい形相の鬼だあった。
修行者はその鬼のような
姿の羅刹に向かって
「今の言葉はあなたが
唱えたのでしょうか?」
と聞きました。
そうすると
「そうだ!」と答えたので、
さらに
「今の教えはまったくの
真理です。では
どのように生きたら
良いのでしょうか?
知っていられるなら
その続きを是非とも
お教え願いたい!」
そう修行者が聞きますと、
その鬼は答えました。
「勿論、知っている
しかし、何も食べて
いないので、腹が減って
続きを唱えられん!」
修行者は
「私が探して来ますので、
何が食べたいのですか?」
と聞きました。
鬼は
「人間の肉を食べたい!」
と言いました。
そこで修行者は、
真理を求めるために
命を捨てる覚悟をして
言いました。
「解りました。
私の身体でよければ、
あなたに差し上げるので
続きの真理を
聞かせてください!」
と言います。
鬼は真理の二句を
唱えました。
「生滅滅已、寂滅為楽」
「生滅を滅し終わって、
寂滅をもって楽となす」
修行者は
これを聞いて驚喜し、
「後世の人の為に
この真理は
残さなければならない!」と、
この四句を
岩に刻み谷底に
自らの身を
投げ打ったのです。
その瞬間、
鬼神、羅刹の姿から
元の帝釈天に戻って、
やさしく修行者の
からだを受けとめ
礼拝したのです。』
お釈迦さまの
前世の雪山童子が
命を賭してまで
知りたいと思った
その教えこそ
この諸行無常の教え
という意味で
諸行無常偈といい、
雪山童子の教え
という意味で
雪山偈とも
言われています。
“諸行無常”
(しょぎょうむじょう)
すべての存在は
移り変わるものである。
“是生滅法”
(ぜしょうめっぽう)
是がこの生滅する
この世の法えである
“生滅滅已”
(しょうめつめつい)
生滅へのとらわれから
己を滅し尽くして
“寂滅為楽”
(じゃくめついらく)
寂滅の境地に到り
楽と為すのである。
という法えなのです。
これを和訳したものが
「いろは歌」と
いわれています。
空海さんの作と
言われています。
いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそ
つねならむ
うゐのおくやま
けふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
色は匂へど
散りぬるを
(諸行無常)
我が世誰ぞ
常ならむ
(是生滅法)
有為の奥山
今日越えて
(生滅滅已)
浅き夢見じ
酔ひもせず
(寂滅為楽)
となります。
「色は匂えど散りぬるを」
花は匂い立つほどに
咲き乱れていても
やがては散ってしまう
ものである。そのように
すべての存在は
一定のものなど何もない
変化してしまうものである。
という「諸行無常」を
示しています。
「我が世誰ぞ常ならむ」
この世に存在するもので
生滅しないものは何もない
これが真理なのです。
「有為の奥山今日越えて」
有為とは作られたもの
という意味で、
原因と条件があって
万物は存在するのです。
縁が変われば、
それに応じて
常に姿も変わります。
「無常」です。
有為の奥山を
越えて観るならば、
苦しみ悩みは
「夢のようなもの」
なのであるとして、
「浅き夢見じ酔いもせず」と
繋がるのです。
寂滅をもって楽と為す。
「この世の中は
無常である。だから、
何とかしようと
あがいてはいけません。
まず、自我を捨てる
ことです。
執着に囚われずに
「寂滅」の状態
煩悩の火が消え
やすらぎの状態に
なった時に
無や空の境地に
到るのです。」
紅葉を見ようと
思い立った所から
湯西川にまで到り
そして、
“平家の里”の
「平家物語」の冒頭に
繋がり
“諸行無常”の
「雪山偈」となり
「いろは歌」にまで
広がってしまいました。
ただ、思いつくまま
気の向くまま
書いてみました。
これも
“諸行無常”なのでしょう!
おつきあい
ありがとうございます。
2011年11月2日水曜日
一 二 三(ひと ふた み)
「天の数歌」
(あめのかずうた)を
ご存知でしょうか?
神様をお祭りする際の
祝詞です。
下記のものです。
ひと ふた み
一 二 三
よ いつ むゆ
四 五 六
なな や ここの
七 八 九
たり もも ち よろづ
十 百 千 万
一(ひと)は
霊(ひ)也、火也、日也。
二(ふた)は
力(ちから)也、
吹く呼吸(いき)也。
三(み)は
体(たい)也。元素也。
四(よ)は
世界の世(よ)也。
五(いつ)は
出(いず)る也。
六(むゆ)は
燃(むゆ)る也。
七(なな)は
地(ち)成る也。
八(や)は
弥々益々(いよいよますます)の意也。
九(ここの)は
凝り固るの意也。
十(たり)は
完成の意也。
百(もも)は
諸々の意也。
千(ち)は
光也、血汐の血也。
万(よろづ)は
夜(よ)出(いづ)るの意也。
之を大括して
略解すれば、
霊力体
(れいりきたい)に
よって世が発生し、
水火の呼吸(いき)
燃え上り、
初めて地成り、
弥々益々水火の気
凝り固りて
完全無欠の
宇宙天界は完成され、
諸々の地の光は
暗夜(あんや)に
出現して
総てのものの
目に入ると
いふ言霊にして、
造化三神の
神徳を称へ奉り、
其の徳にあやかりて
紫微(しび)天界を
修理固成
(しゅうりこせい)し、
諸神安住の清所
(すがと)に
照らさむとの意を
謳(うた)ひ
給ひしものと知るべし。
『出口王仁三郎著
「霊界物語」第73巻
天祥地瑞 子の巻
第一篇紫微天界、
第10章・
嫁ぎの御歌より抜粋』
出口王仁三郎
口述による
81巻からなる
「霊界物語」の中で
天地創造のプロセスを
表わした数歌なのです。
ヒト、フタ、ミー・・・
と数を数えていきます。
一(ひと)は
霊(ひ)也、火也、日也。
とあります。
一(ひと)は
ひ(火)が
と(点)もる
創造の火を点す
という意味であります。
そして
一は人(ひと)でも
あるのです。
もう一つの
創造の霊が止まる
ひ(霊)が
と(止.)どまる
器が
人である訳です。
霊魂が
止まって
宿っている存在が
ひと(人)なのです。
ひとは等(ひと)しい
一なる本源の大霊が
等しく宿っている
存在が人(ひと)
なのです。
二(ふた)は
力(ちから)也、
吹く呼吸(いき)也。
とあります。
二(ふた)は
一(ひと)の人(ひと)に
二は仁となり、
人(じん)に通じる。
仁は(ひとし)、
等(ひと)しいでもあり
人(ひと)に通じる。
自分に対して
別人でありながら
二人を等しい(仁)とする。
自と他は
別のものではないに
通じます。
三(み)は
体(たい)也。元素也。
三(み)は身(み)であり
体(たい)ですから
身体となり、肉体と成ります。
霊力体
(れいりきたい)に
よって世が発生してと
成るわけです。
霊は神であり
神が私たちの
肉体に
一人の例外もなく
等しく
宿り給うのである。
それが
一 二 三
ひと ふた み
です。
昨日のブログでも
言いましたように
自分と他者は
別のものでは
ないのです。
仁(じん)であり
仁(ひとし)いのです。
ですから
良くも悪くも
他者に対しての行為は
自分に必ず帰るのです。
鏡の反射なのです。
私たちは
神社に参拝して
何に対して
参拝していると
お思いでしょうか?
自らに内在する神に
参拝をし
自らの神性を
拝んでいるのです。
自らの神性に対して
お願い事など
する必要など
まったくないのです。
むしろ、
内在する神に
感謝を捧げる
ことなのです。
自らの神性を
鏡に反射させ
感謝の心で
拝みあうことです。
『今日は残りの人生の最初の日』
一 二 三
ひと ふた み
今、この瞬間に
天地創造は
始まるのです。
自らが
この短い人生の
創造者であるのです。
すでに
備わっている
良心に沿った
生き方を
心がけましょう!
生かしていただいて
ありがとうございます。
(あめのかずうた)を
ご存知でしょうか?
神様をお祭りする際の
祝詞です。
下記のものです。
ひと ふた み
一 二 三
よ いつ むゆ
四 五 六
なな や ここの
七 八 九
たり もも ち よろづ
十 百 千 万
一(ひと)は
霊(ひ)也、火也、日也。
二(ふた)は
力(ちから)也、
吹く呼吸(いき)也。
三(み)は
体(たい)也。元素也。
四(よ)は
世界の世(よ)也。
五(いつ)は
出(いず)る也。
六(むゆ)は
燃(むゆ)る也。
七(なな)は
地(ち)成る也。
八(や)は
弥々益々(いよいよますます)の意也。
九(ここの)は
凝り固るの意也。
十(たり)は
完成の意也。
百(もも)は
諸々の意也。
千(ち)は
光也、血汐の血也。
万(よろづ)は
夜(よ)出(いづ)るの意也。
之を大括して
略解すれば、
霊力体
(れいりきたい)に
よって世が発生し、
水火の呼吸(いき)
燃え上り、
初めて地成り、
弥々益々水火の気
凝り固りて
完全無欠の
宇宙天界は完成され、
諸々の地の光は
暗夜(あんや)に
出現して
総てのものの
目に入ると
いふ言霊にして、
造化三神の
神徳を称へ奉り、
其の徳にあやかりて
紫微(しび)天界を
修理固成
(しゅうりこせい)し、
諸神安住の清所
(すがと)に
照らさむとの意を
謳(うた)ひ
給ひしものと知るべし。
『出口王仁三郎著
「霊界物語」第73巻
天祥地瑞 子の巻
第一篇紫微天界、
第10章・
嫁ぎの御歌より抜粋』
出口王仁三郎
口述による
81巻からなる
「霊界物語」の中で
天地創造のプロセスを
表わした数歌なのです。
ヒト、フタ、ミー・・・
と数を数えていきます。
一(ひと)は
霊(ひ)也、火也、日也。
とあります。
一(ひと)は
ひ(火)が
と(点)もる
創造の火を点す
という意味であります。
そして
一は人(ひと)でも
あるのです。
もう一つの
創造の霊が止まる
ひ(霊)が
と(止.)どまる
器が
人である訳です。
霊魂が
止まって
宿っている存在が
ひと(人)なのです。
ひとは等(ひと)しい
一なる本源の大霊が
等しく宿っている
存在が人(ひと)
なのです。
二(ふた)は
力(ちから)也、
吹く呼吸(いき)也。
とあります。
二(ふた)は
一(ひと)の人(ひと)に
二は仁となり、
人(じん)に通じる。
仁は(ひとし)、
等(ひと)しいでもあり
人(ひと)に通じる。
自分に対して
別人でありながら
二人を等しい(仁)とする。
自と他は
別のものではないに
通じます。
三(み)は
体(たい)也。元素也。
三(み)は身(み)であり
体(たい)ですから
身体となり、肉体と成ります。
霊力体
(れいりきたい)に
よって世が発生してと
成るわけです。
霊は神であり
神が私たちの
肉体に
一人の例外もなく
等しく
宿り給うのである。
それが
一 二 三
ひと ふた み
です。
昨日のブログでも
言いましたように
自分と他者は
別のものでは
ないのです。
仁(じん)であり
仁(ひとし)いのです。
ですから
良くも悪くも
他者に対しての行為は
自分に必ず帰るのです。
鏡の反射なのです。
私たちは
神社に参拝して
何に対して
参拝していると
お思いでしょうか?
自らに内在する神に
参拝をし
自らの神性を
拝んでいるのです。
自らの神性に対して
お願い事など
する必要など
まったくないのです。
むしろ、
内在する神に
感謝を捧げる
ことなのです。
自らの神性を
鏡に反射させ
感謝の心で
拝みあうことです。
『今日は残りの人生の最初の日』
一 二 三
ひと ふた み
今、この瞬間に
天地創造は
始まるのです。
自らが
この短い人生の
創造者であるのです。
すでに
備わっている
良心に沿った
生き方を
心がけましょう!
生かしていただいて
ありがとうございます。
2011年11月1日火曜日
「願いから祈りへ」
一昨日のブログでは
吉田クリニックの
吉田健太郎先生の
お話を紹介させて
いただきました。
吉田先生が
付録で
生命科学の第一人者
である
村上和雄先生の
お言葉を抜粋されて
いられました。
もう一度紹介させて
いただきます。
☆祈り「願いから祈りへ」
“自分のための
願い事から、
地球のため、
宇宙のための
「祈り」に
変わった時、
その「祈りは」。
すごいエネルギーを
持つ。“
という言葉です。
昨日のブログの
吉田先生の
お話も
簡単に振り返って
みたいと思います。
私たちの身体は
200種類
60兆個の細胞から
出来ていること。
その細胞が
整然と統制され
平和裏に機能
していること
そして
その細胞は
受精卵と言う
たった一つの細胞が
卵割、増殖、分化を
繰り返し
37週目には
約2兆個の細胞を持つ
赤ちゃんになって
誕生すると言うこと
その受精卵に
なるには
一千億分の一の
激戦を勝ち抜いて
1等賞になったもの
だけに与えられる
栄光だと言うこと
そして
その細胞の中の
さらに
直径1000分の
数ミリの核の中に
私たちを構成する
すべての
遺伝情報が
入っていること
そして
誕生、成長、死を
迎えること
死ぬことの重要性
五本の指の間には
すきまがあるが
初めはグローブのように
なっている。
その隙間の遺伝子が
死ぬことにより
指は開くこと
成長ホルモンも
増殖ばかりは
しないこと
身長は伸び続けることは
ないように
私たちの身体には
ホメオスタシスが
あること
防御したり
免疫や再生の力が
備わっていること
自分の身体の中に
外部からの一切のものに
頼らなくとも
自然治癒力と言って
自分で治す力が
備わっていること
こんな
素晴らしい
身体の仕組みを
誰が創ったので
あろうか?
村上先生が
サムシング・グレートと
言われる存在
いわゆる
神がすべてを
創造したのであること
等
神が創造し
私たち一人ひとりに
内在している
良心として
存在しています。
良心としての
存在である
神性は
私たちの意識の
方向により
より活性化する
仕組みになっています。
冒頭の
村上先生の
「願いから祈りへ」に
ありますように
自分の
願望達成だけを
考えて
生きていきますと
一時的な
願望を達成した
場合でも
一抹の不安感が
持ち上げてきます。
良心としての神性は
正確なものさしです。
表面的意識である
自我による意識の
基準は
すべての人間が持つ
神性に合致しません。
エネルギーが落ち
生命力が
失われてくるのです。
それが
身体の仕組みの
バランスにも
影響を与えて
いくことになります。
私たちが
幸運を掴むのも
生命力を上げるのも
自分次第なのです。
自分の内にある
良心(神性)に
沿った生き方を
する事によって、
真の幸福が
訪れるのです。
この世では、
自我の欲求を
満たす事が、
幸福だと
勘違いをさせる
魔力に満ちています。
それにより
物質的には
豊かになり又、
その満足を得るために
さらに
自我の欲求を
あおるように
循環させています。
しかし、
それでは真からの
満足は絶対に
得られないのです。
自我なる欲求は
偽我による欲求です。
偽者の自分からの
欲求なのです。
この欲求が
真の満足を
得ることが
できないことは
欲求を満たした
つもりでも
又、次から次へと
欲求が泉のように
湧き出ることで
証明されます。
限界がないのです。
貪りの欲求なのです。
真なる我は
内在する神性です。
それが正しい
ものさしなのです。
良心とも
呼ばれるものです。
良心に背いた行動を
すると
虚しい気持ちで
現わされます。
寂しい気持ちで
現われてくるのです。
そうならないように
生きることが
心に安心感と
平安が訪れます。
地球のため
宇宙のために祈る
視点を持つことです。
他のために生きる
他の幸せを祈る
視点を持てば
エネルギーが
満ち満ちてきて
細胞の一つひとつが
活性化され
生命力も
増していくのです。
世のため、
人のため
地球のため
宇宙のために
自分が行った行為と
思いが、
自分自身を
形成させるのです。
他に対しての発信が、
実は自分のために
なるのです。
これは宇宙の法則です。
愛の法則なのです。
私たちは
神の絶対法則の
中に生かされて
いるのです。
それは愛という
絶対法則です。
神が
私たちを
無条件に愛し
何回も
闇につかまり
幻想に現を抜かして
いたとしても
一切の
非難もせず
待ち続けてくれる
神の偉大なる愛
どんな苦しみや
悲しみに
有るときでも
片時も離れず
寄り添ってくれる
神の大いなる慈悲
これが
大宇宙の法則なのです。
私たちは
どうでしょう!
他人のちょっとした
言葉や行為にも
惑わされて
自らの気分を害し
相手に対しても
非難や中傷を
したのではないですか?
しかし、
真実は
他にした行為や
言動のすべては、、
すべて自分に対して
行なっていたのです。
例え、この世で
反射されない場合でも
肉体の死後には
ひとりの例外もなく
明確に
なるのです。
この世で
目の前に
現れている出来事や
他人と
思われている人は
自分を映す
鏡なのです。
私たちは
他人を鏡にして
本当の自分を見、
そして、
本当の自分を
知るのです。
この反射は
良心からの
正しい
モノサシなのです。
一ミリも狂わない
正確無比の
反射鏡です。
『今日は残りの人生の最初の日』
今日からは
自分は置いといて
他人に視点を
持つように
意識をして
みましょうよ!
私たちが
生かされている
地球に宇宙に
視点を持つように
意識をして
みましょうよ!
他人の幸せを
祈りましょう!
生かされている
この母なる大地や
父なる宇宙の
平和を心より
祈りましょう!
他が幸福で
平和で安全で
満ち満ちた
世界をイメージ
しましょう!
その視点を持つことが
私たちに
幸福で
平和で安全な
世界が
満ち満ちて
現れてくるのです。
自分が先では
ないのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
吉田クリニックの
吉田健太郎先生の
お話を紹介させて
いただきました。
吉田先生が
付録で
生命科学の第一人者
である
村上和雄先生の
お言葉を抜粋されて
いられました。
もう一度紹介させて
いただきます。
☆祈り「願いから祈りへ」
“自分のための
願い事から、
地球のため、
宇宙のための
「祈り」に
変わった時、
その「祈りは」。
すごいエネルギーを
持つ。“
という言葉です。
昨日のブログの
吉田先生の
お話も
簡単に振り返って
みたいと思います。
私たちの身体は
200種類
60兆個の細胞から
出来ていること。
その細胞が
整然と統制され
平和裏に機能
していること
そして
その細胞は
受精卵と言う
たった一つの細胞が
卵割、増殖、分化を
繰り返し
37週目には
約2兆個の細胞を持つ
赤ちゃんになって
誕生すると言うこと
その受精卵に
なるには
一千億分の一の
激戦を勝ち抜いて
1等賞になったもの
だけに与えられる
栄光だと言うこと
そして
その細胞の中の
さらに
直径1000分の
数ミリの核の中に
私たちを構成する
すべての
遺伝情報が
入っていること
そして
誕生、成長、死を
迎えること
死ぬことの重要性
五本の指の間には
すきまがあるが
初めはグローブのように
なっている。
その隙間の遺伝子が
死ぬことにより
指は開くこと
成長ホルモンも
増殖ばかりは
しないこと
身長は伸び続けることは
ないように
私たちの身体には
ホメオスタシスが
あること
防御したり
免疫や再生の力が
備わっていること
自分の身体の中に
外部からの一切のものに
頼らなくとも
自然治癒力と言って
自分で治す力が
備わっていること
こんな
素晴らしい
身体の仕組みを
誰が創ったので
あろうか?
村上先生が
サムシング・グレートと
言われる存在
いわゆる
神がすべてを
創造したのであること
等
神が創造し
私たち一人ひとりに
内在している
良心として
存在しています。
良心としての
存在である
神性は
私たちの意識の
方向により
より活性化する
仕組みになっています。
冒頭の
村上先生の
「願いから祈りへ」に
ありますように
自分の
願望達成だけを
考えて
生きていきますと
一時的な
願望を達成した
場合でも
一抹の不安感が
持ち上げてきます。
良心としての神性は
正確なものさしです。
表面的意識である
自我による意識の
基準は
すべての人間が持つ
神性に合致しません。
エネルギーが落ち
生命力が
失われてくるのです。
それが
身体の仕組みの
バランスにも
影響を与えて
いくことになります。
私たちが
幸運を掴むのも
生命力を上げるのも
自分次第なのです。
自分の内にある
良心(神性)に
沿った生き方を
する事によって、
真の幸福が
訪れるのです。
この世では、
自我の欲求を
満たす事が、
幸福だと
勘違いをさせる
魔力に満ちています。
それにより
物質的には
豊かになり又、
その満足を得るために
さらに
自我の欲求を
あおるように
循環させています。
しかし、
それでは真からの
満足は絶対に
得られないのです。
自我なる欲求は
偽我による欲求です。
偽者の自分からの
欲求なのです。
この欲求が
真の満足を
得ることが
できないことは
欲求を満たした
つもりでも
又、次から次へと
欲求が泉のように
湧き出ることで
証明されます。
限界がないのです。
貪りの欲求なのです。
真なる我は
内在する神性です。
それが正しい
ものさしなのです。
良心とも
呼ばれるものです。
良心に背いた行動を
すると
虚しい気持ちで
現わされます。
寂しい気持ちで
現われてくるのです。
そうならないように
生きることが
心に安心感と
平安が訪れます。
地球のため
宇宙のために祈る
視点を持つことです。
他のために生きる
他の幸せを祈る
視点を持てば
エネルギーが
満ち満ちてきて
細胞の一つひとつが
活性化され
生命力も
増していくのです。
世のため、
人のため
地球のため
宇宙のために
自分が行った行為と
思いが、
自分自身を
形成させるのです。
他に対しての発信が、
実は自分のために
なるのです。
これは宇宙の法則です。
愛の法則なのです。
私たちは
神の絶対法則の
中に生かされて
いるのです。
それは愛という
絶対法則です。
神が
私たちを
無条件に愛し
何回も
闇につかまり
幻想に現を抜かして
いたとしても
一切の
非難もせず
待ち続けてくれる
神の偉大なる愛
どんな苦しみや
悲しみに
有るときでも
片時も離れず
寄り添ってくれる
神の大いなる慈悲
これが
大宇宙の法則なのです。
私たちは
どうでしょう!
他人のちょっとした
言葉や行為にも
惑わされて
自らの気分を害し
相手に対しても
非難や中傷を
したのではないですか?
しかし、
真実は
他にした行為や
言動のすべては、、
すべて自分に対して
行なっていたのです。
例え、この世で
反射されない場合でも
肉体の死後には
ひとりの例外もなく
明確に
なるのです。
この世で
目の前に
現れている出来事や
他人と
思われている人は
自分を映す
鏡なのです。
私たちは
他人を鏡にして
本当の自分を見、
そして、
本当の自分を
知るのです。
この反射は
良心からの
正しい
モノサシなのです。
一ミリも狂わない
正確無比の
反射鏡です。
『今日は残りの人生の最初の日』
今日からは
自分は置いといて
他人に視点を
持つように
意識をして
みましょうよ!
私たちが
生かされている
地球に宇宙に
視点を持つように
意識をして
みましょうよ!
他人の幸せを
祈りましょう!
生かされている
この母なる大地や
父なる宇宙の
平和を心より
祈りましょう!
他が幸福で
平和で安全で
満ち満ちた
世界をイメージ
しましょう!
その視点を持つことが
私たちに
幸福で
平和で安全な
世界が
満ち満ちて
現れてくるのです。
自分が先では
ないのです。
生かして頂いて
ありがとうございます。
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