昨日のブログは
お釈迦さまの
基本的な教えの
概要を書かせて
いただきました。
「四苦八苦」という
この世の苦から
その原因を探り
苦を無くしていく方法
その方法が
「八つの徳目」の実践です。
いわゆる
「苦・集・滅・道」の
「四諦」(四聖諦)から
「八正道」に繋がる
教えに
触れました。
そして、
仏教の世界観とも
言うべき、
諸行無常
(しょぎょうむじょう)
諸法無我
(しょほうむが)
涅槃寂静
(ねはんじゃくじょう)の
「三法印」(さんぽういん、
さんほういん)にも
触れました。
「八正道」の徳目を
実践に生かし、
「生定」を通じ
仏と一体の境地、
涅槃の境地にいたり、
人間本来のもつ
清浄ないのちを
自覚することの道を
書かせていただきました。
今日は、
お釈迦さまの教えの中で
クライマックスとも
言うべき教え
「六波羅蜜」(ろくはらみつ)
に触れたいと思います。
その前に
前知識として
少し触れますが
昨日のブログにも
ありますが、
私が、
まず教団に入会
するために
「三宝帰依」
(さんぽうきえ)
を誓います。。
そして入会が認められ
そして、
入会後、
「四弘誓願」
(しぐぜいがん)
という誓いをたてます。
「衆生無辺誓願度」
(しゅじょうむへんせいがんど)
「煩悩無尽誓願断」
(ぼんのうむじんせいがんだん)
「法門無量誓願学」
(ほうもんむりょうせいがんがく)
「仏道無上誓願成」
(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
のことです。
それから、
主宰の直接の学びを
講演会やセミナー
CD等を通じて
学ぶことができます。
仏教においては
この段階にある修行者を
「声聞」(しょうもん)と
言います。
教えを聞いて、
真理を理解し、
理解した真理を実践して、
人格の向上を
図ろうとする
修行者のことを
指すものです。
教学中心の
修行者のことを
指す言葉です。
次の段階の
修行者のことを
「縁覚」(えんがく)と
言います。
教えを聞いて
真理を理解し、
理解した真理を
実践するところまでは
同じなのですが、
「縁覚」は
縁によって
覚るとなっています。
縁とは条件です。
現実を観察し、
そこに含まれる
真理を見いだし、
見いだした真理を
実践して、
自らの、
人格の向上を
図ろうとする
修行者のことを言います。
体験主義の
修行者のことです。
しかしながら、
「声聞」や
「縁覚」でも
どちらの修行者でも
真理を求めていること、
得られた真理を
実践していること、
真理を
実践することによって
人格を
高めていこうとする
修行姿勢は
なんら
変わることは
ありません。
その結果、
仏道修行を通じて
自我から離れる。
いわゆる我執が
取り除かれていきます。
そして、
自らも含めて
生きとし生けるものに
対する慈悲のこころが
現れてくるように
なっていきます。
自と他は別のものではなく
一体であると言う
「自他一体」の心境に
進んでいきます。
他の不幸は
自分の不幸である。
「苦」に
捉えられているものが
あれば
自らが得た
幸福の道を
他の、
生きとし生けるものに
役立てたいとする
「抜苦与楽」
(ばっくよらく)
の精神です。
このような心境に至り、
他に対して、
実践に移す
修行者のことを
「菩薩」(ぼさつ)
と呼ぶのです。
「声聞」「縁覚」は
自己の悟りに
重きをおいた
修行方法に対し
「菩薩」は
その悟りを
他に対して与えて
いきたいという思い
そして、その思いを
実践していく
修行者のことです。
菩薩の特質は
「上求菩提」
(じょうぐぼだい)
「下化衆生」
(げけしゅじょう)
であります。
もろもろの
生きとしいけるものを
救い
さらに涅槃の
境地に至る道を
極め尽くそうとする
特質です、
その境地に
至るための
修行方法として
「六波羅蜜」を
お釈迦様は
説いたのです。
「六波羅蜜」とは、
布施波羅蜜
(ふせはらみつ)、
持戒波羅蜜
(じかいはらみつ)、
忍辱波羅蜜
(にんにくはらみつ)、
精進波羅蜜
(しょうじんはらみつ)、
禅定波羅蜜
(ぜんじょうはらみつ)、
般若(智慧)波羅蜜
(はんにゃ{ちえ}はらみつ)の
六つの修行のことです。
この
「六波羅蜜」の教えは
すべて
自他を救うことが
前提になっている
教えなのです。
1つ目の修行は
「布施波羅蜜」です。
さまざまな施しを
させて頂く修行のことです。
まず
「財施」(ざいせ)です。
読んで字の如く
財を施す修行です。
人間の持つ貪欲と対峙した
修行です。
ともすれば
人間は他に対して
金銭や物品を
施した時に
「何々してやった!」という
醜い考えが
現れることがあります。
また、
自分の施した
金銭や物品が
他と比較して、
「少ないのだろうか?
多いのだろうか?
どう思われるだろうか?」
という
見栄の心や
欲深い心が
顕れたりします。
「財施」の本質は
施す者も、
施しを受ける者も、
施し物も、
清浄であり、
全てが
執われを捨てたもので
なければならない。
自分の
出来得ることを
喜んでさせて頂く
いわゆる
喜捨(きしゃ)の精神で
施しを
させていただく
心に
立ち至る修行です。
次は
「法施」(ほうせ)です。
法施とは、
学んだ教えを説き、
迷い悩む人を救い、
悟りの世界へと導く
施しのことです。
人に物事の道理を
説くということです。
次は
「無畏施」(むいせ)です。
無畏施とは、
人の悩みや恐れを
取り除き
安心を与える
布施をいいます。
お釈迦様は
その他に
「無財の七施」
(むざいのななせ)を
説きました。
財が無くてもできる施しです。
「眼施」(がんせ)
やさしい眼差しで相手に接する。
「和顔施」(わがんせ)
和やかな明るい顔で相手と接する。
「言辞施」(ごんじせ)
相手に優しい言葉をかける。
「身施」(しんせ)
相手の役に立つことを
身体を使って布施をする。(労働等)
「心施」(しんせ)
心の底から相手を思いやる
慈悲心を施す。
「牀座施」(しょうざせ)
相手に席を譲る行為。
「房舎施」(ぼうじゃせ)
困っている相手に
一夜の宿を提供する行為
以上が「布施波羅蜜」です。
この布施ということが
菩薩行の第一にあげられています。
二つ目の修行は
「持戒波羅蜜」です。
この項目は
以前のブログ
「身・口・意を正す」
(6月30日参照)で
「三業」(さんごう)の
ことに触れていますが、
身・口・意から
発するところの
悪業の心と対峙して、
戒めによって
心の迷いを去り、
身も心も清浄にしていく
修行のことです。
仏教には五戒(ごかい)
並びに
十戒(じっかい)
という戒があります、
(説明省略)
戒律を堅固に守る
修行のことをいいます
(明日に続く)
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