2011年8月5日金曜日

「人間完成への道」②

昨日は
「六波羅蜜」の
「持戒波羅蜜」まで、
書きました。

三番目は
「忍辱波羅蜜」
(にんにくはらみつ)です。
「羼提波羅蜜」
(せんだいはらみつ)
ともいいます。

この修行は
瞋恚(しんに)の心と
(瞋恚は怒りの事です)
対峙して

あらゆる
迫害に遭おうと
苦難・困難が
起きようとも、

どんな侮辱を
受けたり、
損害を
与えられようとも
耐え忍び
受け入れる
修行です。

お釈迦さまは
あらゆる徳を
備えた方でしたが、

特に
徹底した
“寛容の人”でした。
忍辱というのは
寛容と
言うことでもあります。

私たちは
ややもすると
つまらないことに
不満を持ち

ぶつぶつ
不平を言うことが
ないでしょうか?

「今日は暑いだ!寒いだ!」
「雨だ!日照りだ!」
「痩せたい!太りたい!」
「暇で仕方がない!」
逆に
「忙しくて堪らん!」とか、
よく、
グチをいっているのを
聞くことがあります。
わたしも以前は
よく言ってました。

この世は
無常なのです。
一定のものは
何もありません。

あらゆるものは
移ろい行き
儚く消滅して
いくというのが
真実です。

そこに
囚われては
いけません。

その変化を楽しむ心
これも
“忍辱の心”です。

移ろいゆくから
貴重なのです。

四季折々の季節が
織り成す
様々なる変化は
無上なる
仏(神)からの
恩寵です。
自然と感謝の気持ちが
湧いてきます。

修行者には
お釈迦さまが説いた
教えが
ベースにあります。

「苦」の実体を知り
それを滅する道も
知っています。

お釈迦さまの
教えを聞き(声聞)
それを自分を高めて
いくために
いろいろな体験の中で
観察(縁覚)も
してきています。

例え、今、
自分に対して
罵るものが
あろうとも
裏切るような行為を
受けたとしても

その人は
真理を知らない、、
無明の人なのです。
可哀相な人なのです。

修行者は
忍辱の修行の
実践において
その心境に
進んでいきます。

無明の人に対して

真理を
知らないことにより、
現れているに
過ぎない

諸々の
瞋恚の心から
湧き上がる
「苦」から
救ってあげようとする
慈悲心からの
気持ちが起きる
ようになります。

これが、
「忍辱波羅蜜」の修行です。

四番目は
「精進波羅蜜」
(しょうじんはらみつ)です。

私たちの持つ
怠け心と対峙して、
ひたすら
一意専心で
精進し続ける修行です。

この「精進波羅蜜」は
読んで字の如しで
ただ、
精進・精進・精進で
説明は終わりですが、

この「精進」の難しさは
多くの方が
経験されている
ことと思います。

どんな習い事でも
仕事の目標でも
そうですが、
精進をして
とんとん拍子に
事が進み

ある時期から
停滞に入ってきます。

あとから
見れば
一過性でしか
ないのですが、

その時には
停滞が永遠に
続くのではないかと
思って、
挫折してしまう
ことが多々あります。

修行者における
「精進波羅蜜」は

この
「六波羅蜜」の修行を

人を救わんがために
ひたすら精進
し続ける訳ですから
そう簡単な修行では
ありません。

五番目の修行は
「禅定波羅蜜」
(ぜんじょうはらみつ)です。

この修行は
「禅定」をして
精神統一する修行です。

仏の心を我が心として
人々を救う道すがら
起こる可能性のある
心の乱れや
動揺の心に対峙して

仏に一心集中し、
平安で静かな心を持つ
修行です。

[八正道]における
「正定」でも
説明しましたが、

修行者は
自らの仏性に
焦点をあて
自らのこころに
光を輝かせる
ことが出来て

人々にも
光を与えることが
できます。
自らの内面に
立ち入らない限り
物事の本質は
見えてきません。

この
「禅定波羅蜜」を得て
次のクライマックスへと
移行していくのです、

その
クライマックスとも
言うべき
最後の修行は
「般若波羅蜜」
(はんにゃはらみつ)です。

「般若」とは
「智慧」のことを言います。
「智慧波羅蜜」と
言うこともあります。

智慧の完成です。
智慧とは
修行者にとっては
お釈迦さまが説いた
教えを学び

人生に起こる「苦」の
発生原因を知り
「八正道」や
「六波羅蜜」を通じて、
真理を得る
ことをいいます。

そして
「上求菩提」
(じょうぐぼだい)から
「下化衆生」
(げけしゅじょう)に
人々を救う道に
入るのです。

さらに
「下化衆生」から
また、
「上求菩提」へと
スパイラルアップし
修行は永遠に
継続するのです。

そして
般若と言う
智慧の完成に
近づいていくのです。

智慧を得ると
言うことは
その智慧を
自分のものとして
占有することは
出来ないのです。

それは智慧とは
言いません。
単なる知識を得たに
過ぎません。

生きとし生けるものの
役に立つために
真理はあります。

どんな人々も
真理を知ることが
できれば
無明から脱し
智慧を得ることが
できるのです。

私たちの
一人ひとりに
ことごとく
仏性が
備わっているのです。

そのことを
伝え
真理の道を
指し示すのが
「六波羅蜜」の
修行であり、
智慧を
得たものの責任
「菩薩」の責任なのです。

今回の
「六波羅蜜」の
教えは、
人間を完成させる道を
説いた教えです。
修行者のみならず
人間の理想とも
言うべき姿です。
人間の
「あるべき姿」です。

布施・持戒、
忍辱・精進、
禅定・般若の心で
「自他一体」であることを
学び続けることは
私たちにも
とても大切なことだと
再度、
思わせていただきました。

共有ありがとうございます。

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