2011年8月8日月曜日

“「縁起」と「智慧」”


人間完成への道」でも
書きましたが
「六波羅蜜」は
「自他一体」の境地からの
菩薩行であると
書かせていただきました。
この根本にあるのは
「慈悲の心」です。

「慈悲」とは
今、自らの目の前に
苦しんでいる人が
いるならば
「同時(事を同じくし)」
「同行(行いを同じくし)」
すなわち、
苦しみ・悲しみを
共に同じくし、
共に泣き
共に在ることです。

お母さんが
わが子が病気の時に
身を捨てて
いたわるように

インドの
マザー・テレサさんの
活動のように
「慈悲心」が
原動力なのです。

平和な世界を
作ることは
自らの心が
平和でなければなりません。
一人ひとりの心が
平和でなければ、
永遠に
平和な世界は訪れません。

平和というものは
「慈悲」の実践なのです。
「慈悲」を
身・口・意の
三つの門によって
実践していくこと、
これが平和を築く
礎になるものです。

「慈悲」に対して
怒りによって
動機づけられた行い、
それが
世界の平和を
阻害しています。

生きとし生けるものの
すべてに
「愛」のこころ
「慈悲」のこころが
備わっています。
どんな生き物であっても
自分が
苦しみたくないと
同じように
他の人や動物が
苦しんでいるのを見て
悲しい気持ちになり
何とか
苦しみを
とってあげたいと
思う気持ちが
働いています。

ならば、
どうして
平和な世界は
訪れないのでしょうか?

「怒り」や「憎しみ」の
思いによって
「慈悲」が活動しないことも
あるように見えます。

「愛」や「慈悲」と
「怒り」「憎しみ」は、
同じ対象を見て
全く異なった
捉え方をする
感情であります。

しかし、
この二つの感情は
並行的には
両立することは
ありません。
例えば
暑いと思う時には
寒いと思わないように
「愛」や「慈悲」と
「怒り」「憎しみ」は
一つの対象に対して
同時には
起こりえない感情です。

今、「怒り」を出さず
「慈悲」の心を
育むことで、
世界の平和の縁と
なるのです。

「怒り」や「憎しみ」は
悪いものの見方や
考え方によって
生じる感情です。
自我による見方です。

「愛」や「慈悲」は
正しいものの見方や
考えかによって
生じる感情です。
対象となる他者の
置かれている状況を
理解した上での見方です。

お釈迦さまの
説かれた教えの
思想的な神髄は、
「縁起」の教えにあります。

「すべての物事は
原因と条件が整った上で
生起している。
無から物事が生じて
くるものは何もない。
ずべてのものが
相互に依存しながら
生じている。」
というのが「縁起」の
教えです。

例えば
「四諦」のところでも
説明しましたが、
「苦諦」「集諦」
というのは、
「集諦」というものが
因となって
「苦諦」というものが
果であり、
「道諦」「滅諦」にしても、
「滅諦」というものが
因であって
「道諦」というものが
果であるという
「因果」の法則を説きました。

そして、
「四諦」をさらに詳しく
分析したものが
「十二因縁」
(じゅうにいんねん)という
お釈迦さまの
思想の土台となる
教えがあります。

「十二因縁」とは、
人間の持つ苦しみが
どう発生していくのかを
考察し、
その素となる原因を
十二項目に分類した
お釈迦さまの教えです。

この教えは
「縁起」の観点から
人間の肉体の成り立ちを
十二種に分類しました。
これを
「外縁起」
(がいえんぎ)といい、
心の変化も
十二種に分類しました。
これを
「内縁起」
(ないえんぎ)といいます。

「十二因縁」の働きは
無明(むみょう)
行(ぎょう)
識(しき)
名色(みょうしき)
六処(ろくしょ)六入(ろくにゅう)
触(そく)
.受(じゅ)
愛(あい)
取(しゅ)
有(う)
生(しょう)
老死(ろうし)です。

「十二因縁」は
{これあるが故にこれあり、
これ生ずるが故にこれ生ず}
すなわち
{「無明」あるが故に「行」あり
「行」生ずるが故に「識」生ず}
これを「順観」
(じゅんかん)といいます。
上から順番に見ます。

{これなきが故にこれなく、
これ滅するが故にこれ滅す}
すなわち
{「老死」なきが故に「生」なく、
「生」滅するが故に「有」滅す}
これを「逆観」
(ぎゃっかん)といい、
逆に下から順番に見ます。

法華経の
『化城諭品第七』に、
この「十二因縁」に
触れている箇所があります。

「及広説。十二因縁法。
無明縁行。行縁識。
識縁名色。名色縁六入。
六入縁触。触縁受。
受縁愛。愛縁取。取縁有。
有縁生。生縁老死憂悲苦悩。」

「及び広く十二因縁の法を説きたもう。
無明(むみょう)は行(ぎょう)に縁たり、
行(ぎょう)は識(しき)に縁たり、
識(しき)は名色(みょうしき)に縁たり、
名色(みょうしき)は六入(ろくにゅう)に縁たり、
六入(ろくにゅう)は触(そく)に縁たり、
触(そく)は受(じゅ)に縁たり、
受(じゅ)は愛(あい)に縁たり、
愛(あい)は取(しゅ)に縁たり、
取(しゅ)は有(う)に縁たり、
有(う)は生(しょう)に縁たり、
生(しょう)は老死(ろうし)・憂悲(うひ)・
苦悩(くのう)に縁たり。」
となります。

この経文の
「縁たり」とは、
「無明は行に縁たり」
「行は無明という
縁を介して生じた」
という意味です。

「無明滅則行減。行減則織減。
識減則名色減。名色減則六入滅。
六入減則触減。触減則受減。
受減則愛減。愛減則取減。取減則有減。
有滅則生滅。生滅則老死憂悲苦悩減。」

「無明(むみょう)滅すれば
則ち行(ぎょう)も減す、
行(ぎょう)滅すれば
則ち識(しき)も減す、
識(しき)滅すれば
則ち名色(みょうしき)も減す、
名色(みょうしき)滅すれば
則ち六入(ろくにゅう)も滅す、
六入(ろくにゅう)滅すれば
則ち触(そく)も減す、
触(そく)滅すれば
則ち受(じゅ)も減す、
受(じゅ)滅すれば
則ち愛(あい)も減す、
愛(あい)減すれば
則ち取(しゅ)も減す、
取(しゅ)滅すれば
則ち有(う)も滅す、
有(う)減すれば
則ち生(しょう)も減す、
生(しょう)滅すれば
則ち老死(ろうし)・憂悲(うひ)・
苦悩(くのう)も減する。」
と説き、
苦悩の根本にある
無明を滅することこそが、
一切の心の束縛から
解き放たれる
根本であると
説いていられます。

「外縁起(がいえんぎ)」
というのは、
人間を物質的観点から
分類しています。
肉体はどのように
つくられていくかを
十二種で見ていきます。

まず初めは
「無明(むみょう)」です。
無明は暗いこと
無知のことを
言います。

私達の魂は、
両親の夫婦生活という
.「行(ぎょう)」という
行為によって
母親の胎内に宿り、

そして
「識(しき)」が生まれます。
識は生物の特性を
備えたものです。

不完全な識の段階から
形が整ってくると
「名色(みょうしき)」
になります。
名とは形のないもの、
精神や心の状態です。
色は形あるもの、
肉体を指します。
魂の入った
人間の心身ということです。

名色が発達すると
「六入(ろくにゅう)、
六処(ろくしょ)」と言う、
眼、耳、鼻、舌、身、意の
六根が調ってきます。
この段階の状態で、
この世に生まれてきます。

名色と六処が
互いに補完しあって
感覚器官が発達した状態を、
「触(そく)」といいます。

触の感覚器官が
もっと発達してくると、
感受性が
強くなってきますと、
好き嫌いの
感情がでてきます。
この状態を「受(じゅ)」
と言います。

さらに進むに連れて
「愛(あい)」が生じます。
この段階の愛とは、
異性に対する感情が
芽生えてきます。

異性への愛情が
芽生えてきますと、
自分のものにしたい
という独占欲が生じます。
それを
「取(しゅ)」と言います。

また、それとは
反対に自分が嫌なものから、
離れようとする
区別の感情が生じます。
これを
「有(う)」と言います。

この有の段階に
入ってきますと
さまざまな苦楽が
現れてきます。
このような意識で
人生を
展開していくことを
「生(しょう)」と言います。

お釈迦さまは
無明から来る
「因縁」の数々が、
苦楽の意識を継続する
原因であると言います。

そして、
それは一生続いて、
最後には
老いて死を迎える
「老死(ろうし)」に
至るのです。

一方、
内縁起(ないえんぎ)は、
心の働きを中心に、
十二種について
検証したものです。

まず、始めは
「無明(むみょう)」です。
真理を知らない、
また学ばない人です。
また、
知っていても
無視する
生き方をする人です。

無明のために、
真理に適さない
行動をしてきたこと。
これが「行(ぎょう)」です。

物事を知り
識別作用をする
働きをすることを
「識(しき)」と言います。
私たちの識の中には、
前世での行為(業)が
この世での識に繋がる
と言われていて、
無明が故に
悪い行いをした
前世の無明の識を
この世の現世まで
引っ張ってくるのです。
さらに
現世の行為が業として
付加されるのです。

私たちは、
眼・耳・鼻・舌・身の
五つの器官と
心の部分の意という
知覚の働きが
お互いに関連しながら、
生活をしていきます。

識と、「名色(みょうしき)」、
「六処(ろくしょ)」、
「触(そく)」が、
依存し合いながら、
さまざまな人間の行動を
させているのです。

そして、
心が発達するにつれて、
「受(じゅ)」が生じます。
自らの育った環境や
価値観の違いから、
起こった物事に対する
感じ方が違ってきます。
主観と感受性の相違が生じます。

このように、
名色や六処(六入)、
触が関わり合って、
好きや嫌いなどの
感情が生じてくると、
「愛(あい)」が
起こってきます。
この愛は、
執着心や囚われの心を
指しています。

このように、
好き、嫌いが偏る
執着の心から
独占欲が生じます。
これが「取(しゅ)」です。

取によって、
独占の心が蔓延してくると
好きなもの
嫌いなもの
の区別の心が生じます。
これが「有(う)」です。
自己中心的になり
自分が
好きなものには親しんで、
気に入らないものや
嫌いなものは
排除する人間の姿です。

この差別の心から
争いや対立の火種を
起こしていきます。
そこに新たな苦悩を
生じさせます。
それを
「生(しょう)」と言います。

そして苦楽の中を生き
人は「老死(ろうし)」を
迎えます。

「十二因縁」は
お釈迦さまの思想の
中心の「縁起」による
分析に於いて
私たちに
智慧をもたらせてくれます。

無明から
来るところの
悪い因縁によって
「怒り」や「憎しみ」で
他者を害するような
原因を創れば
自分に苦しみが生じる
「悪因悪果」です。

逆に
他者に対して
「愛の心」や「慈悲の心」で
愛するならば
それが原因となって
自分に幸せがもたらされる。
「善因善果」です。

私たちの心の中に
慈悲心による
平和の心を
抱くことが
世界も
平和になっていくのです。

お釈迦さまの
説く仏法真理は
分析と観察に基づいた
ある意味
科学的なアプローチに
似た手法で
語ります。

お釈迦様は
お弟子さんたちに
こうも語りました。
「私の教義を
私への尊敬のために
受け入れてはならない。
先ずそれを
自分で試してみなさい。
金は火によって
試されるのだから」。

私たちは
お釈迦様が
説かれた
この仏法真理を
単なる妄信ではなく
自分自身で
慈悲心を意識して
他者との
関わりの中で
実践して
いきたいものです。

今日も、共有を
ありがとうございます。

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