“動物たちからの学び②”
(7月31日号参照)で、
少し触れましたが、
私たちの
この現象界においては
人生の四つの苦
「生、老、病、死」は
どんな方でも
例外なく訪れます。
その避けて通れない宿命を、
お釈迦さまは
苦と定義しています。
更に、
この四苦に
四つの苦が加わると
説きました。
これが
「四苦八苦」の教えです。
「愛別離苦」(あいべつりく)
のことに
少し触れました。
どんなに
離れたくないと思っても
この世においては
愛するものとの
離別は必ずやってきます。
これは、
私たちにとって
とても苦しい体験です。
今までも
たくさんの愛するものと
離別してきました。
これからも
この世では
今、愛している
大切な人や動物や
他の大切なもの達とも
離れることになります。
これは
避けることができません。
お釈迦さまは
それ以外に
怨憎会苦(おんぞうえく)
をあげています。
どんなに嫌いな人でも
どんなに心の中で
怨みや憎しみを
持っている人たちや
嫌なものでも
会いたくないと思っても
会わなければならない
苦しみです。
これも
この世においては
避けることのできない
ことです。
これも
大変苦しいことです。
次にあげられるのは
「求不得苦」(ぐふとっく)です。
求めても、
求めても、
欲しくても、
欲しくても、
得ることができない
苦しみです。
これも
誰もが体験することです。
この世では
避けることができない
苦しみでしょう。
そして
最後は
「五蘊情(盛)苦」
(ごうんじょうく)
{「五陰情(盛)苦」
(ごいんじょうく)
ともいいます。}
があげられます。
五蘊とは
“五つの塊”
という意味です。
この五蘊については
わたしのブログ
「私とは何者か?」
(7月21日号参照)に
詳しく
書いてありますので、
読まれていない方は
是非、お読みください。
そこに(ブログ)書きましたが、
私たち人間は。
「色(しき)」
「受(じゅ)」
「想(そう)」
「行(ぎょう)」
「識(しき)」
の五つの塊に執着し、
それを「私」として
捉えています。
その「私」から
出てくるところの
さまざまな煩悩
いろいろあるのですが、
食欲であるとか
性欲であるとか
それらの欲が過ぎて
自分を制することが出来ず
心が燃え盛るような
苦しみを体験します。
やはりこれも
この世では
避けられない
苦しみとして
現れてきます。
この
「生・老・病・死」の
四苦
「愛別離苦」
「怨憎得苦」
「求不得苦」
「五蘊情(盛)苦」を
加えて「四苦八苦」を
お釈迦さまは
説いたのです。
そして
それらの「苦」という
真理(苦諦・くたい)の
原因を「集」めて
(集諦・じったい)
苦を「滅」するという
(滅諦・めったい)
「道」として
(道諦・どうたい)
「八正道」を説きました。
これを
四諦(四つの真理)と言います。
「八正道」は。
正見(しょうけん)
正思(しょうし)
正思惟(しょうしゆう)とも言います。
正語(しょうご)
正業(しょうごう)
正命(しょうみょう)
正精進(しょうしょうじん)
正念(しょうねん)
正定(しょうじょう)の
八つの実践を言い、
この道の実践によって
悟りへの縁(よすが)に
繋がっていくと教えました。
このブログでは
お釈迦さまの
教えを
何回か紹介していますが、
今更ながら思いますのは、
お釈迦さまは
この世における
人間をこと細かに
分析されていて、
私たちが
理解しやすいよう
理論的で平易な
教えを
説いていることに
驚かされます。
私も
或る仏法を中心とした
教団に入会して
勉強したことが
ありますが、
2600年経た現代でも
古くならない
まさに
奥が深い教学という
感じがいたします。
その教団では
入会するために
まず、
「三宝帰依」
(さんぽうきえ)と
言うのを誓います。
教えを説く
「仏」に
帰依することを誓います。
その教えである
「法」に
帰依することを誓います。
そして
「僧(サンガ)」に
帰依することを誓います。
「僧」は出家者、または
「在家者」のことを言い、
仏法を
学ぶもののことです。
そして、
入会後、
「四弘誓願」(しぐぜいがん)
という誓いをたてます。
「衆生無辺誓願度」
(しゅじょうむへんせいがんど)
仏の説く法を
多くの人達に伝え
幸福へと導きましょう。
「煩悩無尽誓願断」
(ぼんのうむじんせいがんだん)
尽きない煩悩を
断っていきましょう。
「法門無量誓願学」
(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏の説く
たくさんの法を
学び尽くしましょう。
「仏道無上誓願成」
(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
この上ない、
深い仏の説かれた道を、
極め尽くしましょう。
と言う
誓願をたてるのです。
その誓いを立ててから
教学に入っていきます。
そろそろ
まとめに入りますが
この現象界においては、
「四苦八苦」は
避けることができない
宿命として
現れます。
その「苦」となるものの
原因を「集」め、
「滅」するための
「道」があります。
これが、「苦」を解く
実践の道「八正道」です。
この八つの徳目の
正しい道を
心がけることです。
それが、幸福への道です。
となるのです。
そして、
さらに
仏法は次の領域に
繋がっていきます。
「八正道」における
八つ目の徳目
「正定」(しょうじょう)です。
七つの徳目の実践を
通じて、
正しく定に入る
即ち、瞑想です。
仏のこころを
自らのこころとして、
統一する実践です。
ただ、ひたすら
自らの内奥に宿る
仏性に焦点を
合わせて行くことにより
至る本質への道です。
仏教には
「三法印」(さんぽういん、
さんほういん)
と言う教えがあります。
仏教の世界観と
言ってもいい
中心の教えです。
諸行無常
(しょぎょうむじょう)
諸法無我
(しょほうむが)
涅槃寂静
(ねはんじゃくじょう)です。
諸行無常とは
皆さんは
平家物語の冒頭の
この言葉に
馴染みがあるのでは
ないでしょうか。
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ
これは、
あの強者であった平家が
没落していく様を
表した詩です。
この世のものは
どんなものでも
一定のものはない
永久不変というものは
存在しない。
すべての存在は
仮の相(すがた)である。
という意味です。
「諸法無我」とは、
すべてのつくられたもの
(諸法)には
実体はありません。
我と言う存在も
ないのです。
自我の否定を
意味しています。
「涅槃寂静」とは、
心安らかな状態をいいます。
この状態に至る道として
「八正道」の
「正定」に繋がって
いくのです。
この世の
すべてのものは、
たえず移り変わり
一定のものはなく、
実体のないものなのです。
しかしながら、
私たちは
この世に執着し、
それが永遠に
続くと錯覚していきます。
そこに、
煩悩が生じてきます。
それが
苦しみの
原因になっていきます。
この世は、
諸行無常
諸法無我なのです。
瞑想において
仏と一体の境地、
涅槃の境地にいたり、
人間本来のもつ
清浄ないのちを
自覚することこそ、
仏教の
最大のステージなのです。
実相の世界には
「四苦八苦」は存在しません。
お釈迦さまは、
そのことを悟られたのです。
この世という
仮相の世界における
人間の観念、
概念上に
「四苦八苦」はあるのであって、
本源においては
存在しないということを
悟られたのです。
お釈迦さまは
この悟りによって
「宇宙即我」
「我即宇宙」の境地に
至り、
不滅の仏陀と
なられたのです。
私たちの
周囲に生起する
さまざまな出来事も
どんな現象も
永遠に続くものなど
存在しないのです。
苦しくて辛くて
どうしようもない心境に
なることもあるでしょう。
しかし、それは
仮相の世界での
出来事なのです。
外なるものに
いくら中心を置いても
不毛なのです。
私たち
一人ひとりに
備わっているところの
実相の世界をこそ
顕現するのです。
確実にあるのです。
そこを見れはいいのです。
『今日は残りの人生の最初の日』
今、この瞬間の
この時点から
「ここ」から「あそこ」へ
行くのではないのです。
「ここ」から「ここ」へ
行く道が必要なのです
ありがとうございます。
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