2011年8月15日月曜日
“精神の時代を生きる”
今日
8月15日は
終戦記念日です。
多くの方が
66年より前の
この戦争で
尊い命を喪いました。
冥福をお祈りいたします。
この日を迎える度に
「二度と同じ過ちは
しない!」と心に誓います。
私は
戦後生まれなので
この戦争の経験は
ありません。
ただ、戦後の
物のない時代の
体験はあります。
いつもお腹は
すいてました。
でも、
みんなが
そうでしたから
どうということはなく、
水道の蛇口から
水を飲めば
それでもう
外に飛び出し
遊んでいました。
戦後
戦争責任云々と
語られてきました。
繰り返さない愚を知る
検証としては
一定の
価値はありますが、
その時代時代の
日本人の
集団的意識が
そうしたのであり、
個人に責任を
転嫁するのは
どうかと思います。
戦争にしても
どんな争い毎にしても、
精神的構造としては
“怖れ”から
発生するものです。
肉体を維持する上での
基本的な“怖れ”
「食べられなく
なるのではないか?」
「殺されるのではないか?」
「食料が
不足するのではないか?」
等々
“怖れ”が
他を侵略してまで、
奪おうとする
あさましい行為となって
発生するのが
戦争であり
あらゆる争いです。
今でも、
エネルギーが
欲しいために
エゴとエゴが
ぶつかり合っています。
今、世界は岐路に
立たされています。
そのような争い毎で
収奪する当事国が
デフォルトといって
国家的な破産の
危機に陥っています。
今までの時代は
音を立てて崩壊し、
新しい時代
アクエリアスの時代
精神の時代に
突入しています。
私たちも
変わっていかなければ
なりません。
唯物的世界は
終わりを告げなければ
なりません。
物が欲しいために
お金を稼ぎ
人よりも
大きな家に住み
人よりも
高級な自動車に乗り
人よりも
美味しいものを食べ
人よりも贅沢をし
人よりも
人よりもと
もっともっとと
貪り続けた結果
人が誰もいなくなったら
どうなるのでしょう?
それでも
幸せなんでしょうか?
何か、
そんなふうに
毎日を送っている
ようにしか
思えなくなります。
私たちは
この肉体を
至上とした
生き方を
改めなくては
なりません。
有限な肉体を
喜ばせるために
有限な物質を
求めている。
すぐに
滅びるもののために
貴重な一生をかけて、
もう充分に
体験したから
いいでしょう?
そこに
留まってはいけません。
そこに
真実はないのです。
そこに
本質はありません。
私たちは
無限に生きなければ
なりません。
決して失うことのない
無限の世界に
永遠の世界に
本質の世界に
生きなければなりません。
それは
イエスさまが
“汝の救いは汝自身なり"
と言ったように
自分自身の
私たちの心の内側に
それは
厳然としてあるのです。
真理の実践とは
無限に生きることです。
私たちの
内奥にあるところの
神なる性から語り、
行為することなのです。
無限より語る言葉は
天声となり
人を輝かせます。
2000年前に
イエスさまが語った言葉も
2600年前に
お釈迦さまが語った言葉も
無限より語りました。
私たちが語る言葉も
イエスさまや
お釈迦さまと同様に
無限より語ることが
できるのです。
無限なる神には
一切の差別はありません。
神は、
人の上に人を創らず
人の下に人を創らずです。
無差別なのです。
私たちの
内なる
自覚次第なのです。
私たちの神に対する
理解力のみです。
どれだけ神を理解し、
知ったかだけの違いです。
私たちが知るべきことは
無限なる
一なる本源
宇宙唯一の神を
知ることです。
神の他には
何もありません。
真実の精神の時代に
入りました。
肉体重視
物質重視は
迷いの自分です。
「今日は残りの人生の最初の日」
悟りも迷いも
今の一瞬の中に
あります。
思いひとつで
悟りでもあり、
迷いでもあります。
私たちは
迷っている人から
真実は得ることは
できません。
真実は真実からしか
得られないのです。
真実は無限なる存在が
私たち一人ひとりに
宿っていると
いうことなのです。
そういう意味では
外にあるものや人が
私たちを救ってくれる
救い主が現れると
信じることは
迷信以外の何者でも
ありません。
私たちの救い主は
私たち自身です。
私たちが
天国に住むには
私たち自身が
天国を
持ってこなくては
ならないのです。
他の人やものが
持たらす訳では
ありません。
“精神の時代”
“真実の時代”
自分自身が
真の自覚を持って
今日一日を
過ごさせて
いただきたいと
思っています。
ありがとうございます。
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