2011年11月6日日曜日

「諸行無常を深める!」

一昨日は
紅葉を見たくなって
車で日光の方へ
足を伸ばしてみました。

東北自動車道で
宇都宮ICで居り
日光宇都宮道路で
今市ICで
降りるあたりから
紅葉のパノラマが
開けてきました。
黄色や赤色や
まだ緑色もたくさん
交ざっていて
色彩豊かな
自然が織り成す
最高のご馳走です。


あまり美しいので
さらに車を走らせ
紅葉に魅せられるまま
奥に奥に入って
いきました。

走っていますと
“平家の里”の
看板が目に
飛び込んできました。
もう湯西川に
入っていました。

平家と言えば
どうしても
思い浮かぶのが
中学生のときに
暗記させられた
「平家物語」の
冒頭部分です。
皆さんも
覚えさせられたのでは
ないでしょうか?

「祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。」

祇園精舎の鐘の音には、
この世のすべての現象は
常に変化していくものだ
という響きがある。
沙羅双樹(曼珠沙華)の
花の色は、
どんなに勢いが盛んな者も
必ず衰えるのであると
いう道理をあらわしている。
権力を持ったものも
長くはその権力を
維持することはできない。
それは春の夜の
夢のようである。
勢い盛んで強い者も、
結局は滅び去る。
それは風に吹き飛ばされる
塵と同じようである。

その後に
仏教を勉強したので
お釈迦さまが
説いた
基本的な教えの
三法印(四法印)の
最初に掲げられている
重要な教えが
この「平家物語」の
中にも書かれています
諸行無常という
言葉であります。

折角、
ここまできたので
“平家の里”を
見学させていただきました。

京に栄華を誇った
平家は
源平の戦いに敗れ
源氏の厳しい
追っ手から逃れて
平家が落人として
流れ流れて安住した地が
この下野の国、秘境
湯西川だったようです。

この“平家の里”では
その落人たちの
生き様や
生活様式を
後世に長く保存
継承する拠点として
復元したのだそうです。

その中の
床(ゆか)しどころ
という展示館に
平 清盛像と
その嫡子
平 敦盛像が
展示されています。


その敦盛の
一の谷の合戦の
エピソードが
書かれていました。

『一の谷の合戦で、
源氏方の熊谷直実が
敦盛を押えつつ
首を取ろうとすると、
16・7の美少年で
あるのに驚いて、
「首を取ることなど
できない。
助けてやりたい」と
泣く泣く敦盛の首を
取りました。
その後、直実は
弓矢取る身の
虚しさを自覚して
仏門に入り、
紅顔の貴公子を悼んだ』

このときの直実の
心境はいかばかりか
思い至ると
思わず涙を
流さずにはいられない。

この時、
直実も
人間の身心の無常観を
感じたのでは
ないでしょうか。

「王朝文芸の宗教的史観四」
“源氏物語と平家物語の比較”
梅光女学院大学の
村田 昇先生が
書かれています。
P24を抜粋します。

無常の美学
「宇宙生命の
創造的進化の秩序を
顕現するものは美である。
外なる自然飛花落葉も、
人間の身心も無常である。
故に美である。
宇宙生命の秩序を
教える仏教は美学である。
その経典は文芸である。
砥園精舎の鐘は、
諸行無常、
是生滅法、
生滅々已、
寂滅為楽と響き、
沙羅双樹の花の色は、
盛者必衰の理を
現すが故に美である。
これを最初に謡う平曲は、
無常観念詩である。
私は詩とは
直観した宇宙生命
秩序をことばを縁として、
十分に響流している
ものと思考している。
生も病も老も死も、
種も熟も脱も、
生も住も異も滅も、
すべて宇宙の秩序である。
無常である。
美である。
かく道得された処が、
浬禦寂滅である。」
抜粋了

村田先生の
この無常の美学の
部分を読むにつけ
この仏教の重要な
教えである。
諸行無常がいかに
大切な教えで
あることが
理解でき

さらにお釈迦さまが
2600年前に
悟りを開くに到った
過去世の因縁としての
物語である
ジャータカ物語
→本生譚
(ほんしょうたん)の中に
ある雪山童子
(せっせんどうじ)の
お話を思い出します。

『お釈迦さまの前世の
修行者が
ヒマラヤの雪山で
一生懸命に
修行をしていました。
そのあまりにもの
ひたむきさに
感心した仏法の
守護神である
帝釈天は
羅刹(らせつ)という
鬼神の姿に身を変えて
修行者の前に現れて
こう唱えるのです。
「諸行無常、是生滅法」
「諸行無常なり、
是れ生滅の法なり」

この真理の二句を聞いた
修行者は
この教えに大いに
感動し喜びました。
しかし、修行者が
まわりを見回して見ると
そこに立っているのは
恐ろしい形相の鬼だあった。

修行者はその鬼のような
姿の羅刹に向かって
「今の言葉はあなたが
唱えたのでしょうか?」
と聞きました。
そうすると
「そうだ!」と答えたので、
さらに
「今の教えはまったくの
真理です。では
どのように生きたら
良いのでしょうか?
知っていられるなら
その続きを是非とも
お教え願いたい!」
そう修行者が聞きますと、
その鬼は答えました。
「勿論、知っている
しかし、何も食べて
いないので、腹が減って
続きを唱えられん!」

修行者は
「私が探して来ますので、
何が食べたいのですか?」
と聞きました。
鬼は
「人間の肉を食べたい!」
と言いました。
そこで修行者は、
真理を求めるために
命を捨てる覚悟をして
言いました。
「解りました。
私の身体でよければ、
あなたに差し上げるので
続きの真理を
聞かせてください!」
と言います。
鬼は真理の二句を
唱えました。
「生滅滅已、寂滅為楽」
「生滅を滅し終わって、
寂滅をもって楽となす」
修行者は
これを聞いて驚喜し、
「後世の人の為に
この真理は
残さなければならない!」と、
この四句を
岩に刻み谷底に
自らの身を
投げ打ったのです。
その瞬間、
鬼神、羅刹の姿から
元の帝釈天に戻って、
やさしく修行者の
からだを受けとめ
礼拝したのです。』

お釈迦さまの
前世の雪山童子が
命を賭してまで
知りたいと思った
その教えこそ
この諸行無常の教え
という意味で
諸行無常偈といい、
雪山童子の教え
という意味で
雪山偈とも
言われています。

“諸行無常”
(しょぎょうむじょう)
すべての存在は
移り変わるものである。
“是生滅法”
(ぜしょうめっぽう)
是がこの生滅する
この世の法えである
“生滅滅已”
(しょうめつめつい)
生滅へのとらわれから
己を滅し尽くして
“寂滅為楽”
(じゃくめついらく)
寂滅の境地に到り
楽と為すのである。
という法えなのです。

これを和訳したものが
「いろは歌」と
いわれています。
空海さんの作と
言われています。

いろはにほへと
ちりぬるを
わかよたれそ
つねならむ
うゐのおくやま
けふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

色は匂へど
散りぬるを
(諸行無常)
我が世誰ぞ 
常ならむ
(是生滅法)
有為の奥山
今日越えて
(生滅滅已)
浅き夢見じ
酔ひもせず
(寂滅為楽)
となります。

「色は匂えど散りぬるを」
花は匂い立つほどに
咲き乱れていても
やがては散ってしまう
ものである。そのように
すべての存在は
一定のものなど何もない
変化してしまうものである。
という「諸行無常」を
示しています。

「我が世誰ぞ常ならむ」
この世に存在するもので
生滅しないものは何もない
これが真理なのです。

「有為の奥山今日越えて」
有為とは作られたもの
という意味で、
原因と条件があって
万物は存在するのです。
縁が変われば、
それに応じて
常に姿も変わります。
「無常」です。

有為の奥山を
越えて観るならば、
苦しみ悩みは
「夢のようなもの」
なのであるとして、

「浅き夢見じ酔いもせず」と
繋がるのです。
寂滅をもって楽と為す。

「この世の中は
無常である。だから、
何とかしようと
あがいてはいけません。
まず、自我を捨てる
ことです。
執着に囚われずに
「寂滅」の状態
煩悩の火が消え
やすらぎの状態に
なった時に
無や空の境地に
到るのです。」

紅葉を見ようと
思い立った所から
湯西川にまで到り
そして、
“平家の里”の
「平家物語」の冒頭に
繋がり
“諸行無常”の
「雪山偈」となり
「いろは歌」にまで
広がってしまいました。

ただ、思いつくまま
気の向くまま
書いてみました。
これも
“諸行無常”なのでしょう!

おつきあい
ありがとうございます。

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