2011年7月31日日曜日

“動物たちからの学び②”


私がブログを
書いているとき、
わが家の猫が
机の上に1匹
ひざの上に1匹
いつもいてくれるのです。

私は
いつも幸せだなと
思います。
毎日、
朝のこの時間から
猫たちから
深い愛情を
与えてもらって
一日を始めることが
できます。

今日一日
例え何が起ころうとも
乗り切れるという
自信が漲る
瞬間でもあります。

神の計らいと
猫たちに
感謝の念が
湧いてきます。
ありがとう。

そんな時
以前、私が書いた
ブログ
“動物たちからの学び”
7月25日号参照
を読んでくれて
また、このブログでも
何回も紹介している
中国にいる友人からの
“友人からの学び”
6月10日号参照
友人からのメール②
“友人からのメール”
(7月22日号参照)
メールを思い出しました。
そのメールを
抜粋させていただきます。

『アーカメロディ兄
思い出せば1998だと思います。
○○の親会社が資金を焦げ付かせて、
自分の事務所も
日本のメンバーに給料が出せず、
毎日苦しい思いをしていました。

できるだけ家にいたくないので、
ハリーという「うちの犬」との晩の散歩、
公園でベンチにいると
ハリーの波動が自分の心の震えを受け止めます。
この時を境に、
人より高いところにある
動物の波動を知ることになりました。

家人とは別居することになりました。
月100万の生活費を維持していくために、
会社を立て直すため、
会社に寝起きして負債を返しましたが、
生活費その他を支払うと
手元に1万円しか残らず
ハリーと笑いながら暮らしました。

その時の暮らしがいまも楽しく胸に焼き付いています。
13歳になる秋のころもう歩こうとしないハリー、
新聞を敷いた会社の部屋の
自分が寝起きしていたところにハリーを寝かせ、
昼食に出る短い時間に息を引き取りました。

この時から、自分は動物を飼うことはできなくなりました。

このハリーを荼毘に付したとき窯から骨を取るとき、
作業の方が「ご主人これは犬ではありません。
頭蓋骨に仏の跡が点のようにあります。」と言いました。
自分もはじめて見ました。
このため、動物霊を祭るこの寺に納骨
1年後に半分は台湾の海に
半分を東京の多摩川にまきました。

ハリーは、今別れて生活をする、
○○、○○の母と子供を介して経済的にも温かく見守ります。
その時確かにハリーは自分を見つめ守りました。
家族の幸せな時間を見つめてくれたハリーに感謝しています。

2000年より道学の先生から
その生きることの秘密を伝授され今に至ります。
このもろもろの問題、
精神的苦しみは美しい思い出と色を変えて現在、
そして、未来に反映しています。

アーカメロディ兄の動物への思い出、
今の思いを大切に、時代に負けそうな仲間に伝えてください。
ありがたく今日も見せていただいています。  
アーカメロディ兄へ   ○○』


私がいつも紹介している
私の友人は
中国の深センに
大きな店舗設計事務所を
構えています。

経済的にも成功され
真理の道も体現されて
いる人です。

頭の回転もよく
明るくて
太陽のような人です。
彼の回りにいると
幸せな気持ちが
湧き上がってきます。

そんな彼にも
今までの人生の中で
あらゆる苦難・困難な
時期があったのです。
いや、寧ろ
それらの、
自分の問題集と
真摯と向き合い
立派に乗り切ったからこそ
醸成される
ほんものの人間が持つ
オーラなのだと思います。

一緒に乗越え
彼の悲しみ、
苦しみを全身に吸収し、
共に存在してくれた
仏の化身
愛犬「ハリー」
「ハリー」は今も
彼の中に
生き続けているのです。

ここで、
いつも紹介させて頂く
「こころのチキンスープ」の
中の“動物たちの贈り物”より、
大好きな子犬の話を
共有してください。


『エリック・シールはやせ細った子犬を見て、
だいたい生後5週間くらいではないかと検討をつけた。
その小さな雑種の雌犬は昨夜のうちに
シール家の門の前に捨てられていたのだ。

「聞かれる前に言っておくけど」と彼は妻のジェフリーに言った。
「答えは絶対ノーだ!うちでは飼わないぞ。
2匹目はいらない。
それに、もしもう1匹飼うとしても、純粋種じゃなくちゃだめだ!」

夫の言うことなど聞こえなかったかのように、
妻はやさしい声で聞いた。
「何ていう種類だと思う?」

エリックは頭を振った。
「そうだな・・・。この色や模様からすると、
ジャーマンシェパードの血が入っているんじゃないかな。
耳もちょっと折れているし」

「この子を追い払うなんてできないわ」
と、ジェフリーはすがるように言った。
「私、餌をやって体をきれいにしてあげる。
それからもらい手を探しましょう。」

子犬は2人の間に立って、
自分の運命が決まりつつあるのを感じ取っているようだった。
ためらいがちに尻尾を振って、2人の顔を交互に眺めた。

その艶のない毛並からはあばら骨が透けて見えていたが、
眼は生き生きと輝いていることにエリックは気づいた。
ついに、彼は肩をすくめて言った。
「君がどうしてもって言うなら、勝手にすればいい。
でも、はっきり言っておくが、
おれはハインツ57(いろいろな材料が調合されたステーキソース)
みたいな雑種はお断りだからね。」

門から家まで戻る間、
子犬はジェフリーの腕の中で気持ち良さそうにくつろいでいた。

「それに」
とエリックが付け加えた。
「2~3日はテックスと同じ囲いに入れるのはよそう。
テックスに病気でも移されたら困るから。
それでなくても、テックスはいろいろ大変なんだ。」

6歳のテックスはシール家で
子犬の時から飼われていたが、
オーストラリア産の牧畜犬としては、
珍しく気立てが良かった。
だから、犬小屋にはすでに黄色い猫が
住み着いていたにもかかわらず、
夫妻にハインツと名づけられた新しい子犬が来ると、
彼はこの子犬のためにまたしても喜んで場所をあけた。

ハインツが現れる少し前に、
シール夫妻はテックスの目が悪くなっていることに
気づいたばかりだった。
白内障だが手術をすればよくなるかもしれないと、
かかりつけの獣医は言った。
だが、専門医に連れて行くと、
大学の獣医科研究室で検査を受けるよう勧められた。
その結果、テックスはすでに視力を失っていることがわかった。
たとえもっと早く病院に連れて行ったとしても、
視力の低下を止めることも遅らせることも不可能だっただろうという。

そういえばこの2~3ヶ月、
テックスの様子は確かに変だった。
門が開いているのに気づかなかったり、
フェンスの金網に鼻面をぶつけたり・・・・・・。
家へ出入りするのに必ず砂利の小路を通っていたわけも納得できた。
砂利道からそれると、
ふらつきながらもう一度そこまで戻るのも、
目が見えなかったからなのだ。

夫妻がテックスの目のことで心を痛めているのをよそに、
ハインツは丸々と太り、元気にはね回るようになった。
その濃茶と黒の毛皮は健康そのものにつやつやしてきた。

しだいに、彼のもう一方の親が
大型犬であることもはっきりしてきた。
犬小屋に居候させてもらうのがきつくなってきたのだ。
ある週末、シール夫妻はその横に新しい犬小屋を作った。

やがて、ハインツがテックスを押したり
引っ張ったりしていたのには、
ちゃんとした理由があったことがわかってきた。

ただじゃれついているだけに見える動作には、
ひとつひとつ意味があった。
ハインツは、テックスの「盲導犬」になっていたのである。
毎晩、犬小屋に引き上げる時間になると、
ハインツはテックスの鼻先をそっと口にくわえて彼を犬小屋に導いた。
朝は、彼を起き上がらせ、小屋の外へ出した。
門のそばまで来ると、ハインツは肩を使ってテックスを先に通した。
囲いの中をフェンスに沿って走り回るときは、
ハインツがテックスと金網のあいだに入った。

ジェフリーは語る。
「お天気のいい日に、
テックスは車寄せのアスファルトの上で寝そべっているでしょう?
車が入ってくると、ハインツがあの子を鼻で突付いて起こして、
安全なところへ連れていくのよ」

「馬が走ってきたとき、
ハインツがテックスを脇に押しているのも何回も見たわ。
それに、最初はどうして2匹が並んで
牧場を思い切り走れるのかわからなかったけど、
この前、私が馬で出かけたとき、
あの2匹がついてきたんでわかったの。
ハインツが声を出していたのよ。-----
あの子はテックスがぴったりくっついてこられるように、
低い声でずっと誘導していたのね」

シール夫妻は畏敬の念を抱いた。
その若い犬は、誰からも教えられていないのに、
どんな場面においても自分なりに工夫して
相棒を守り導いていたのである。
ハインツはテックスに、
自分の目だけではなく、その心も分け与えていたのだ。』


如何でしたでしょうか?

私の友人のメールにも
こう書いてありました。

『ハリーの波動が自分の心の震えを受け止めます。
この時を境に、
人より高いところにある
動物の波動を知ることになりました。』

私の友人の愛犬
「ハリー」も
この「ハインツ」も
神の化身です。

私たちと同じ
神が宿っています。

「ハリー」も
「ハインツ」も
私たち人間のように
あれこれ頭脳で
捏ね繰り回しません。
素直に神性を顕現します。
本源の波動を
惜しみなく与えてくれます。
それは無条件の愛なのです。

「ハリー」も
「ハインツ」も
神の愛そのものです。

愛に条件はありません。
見返りを求めない
与えっ放しの愛なのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日も、可愛い動物たちから
愛の本質を学ぶことが
できました。

共有して
ありがとうございました。

2011年7月30日土曜日

宗教とは?

今日は
宗教についての
質問のメールが
ありましたので、
テーマとしてみます。

いろいろ
書いてあるのですが、
質問の核心は
「アーカメロディさんは
宗教について
どう思っていますか?」
というものですので、
それについて
今の私の考えを
書いてみたいと思います。

私は
24歳の時に
谷口雅春先生の
「生命の実相」を
私の先輩でもあり
師でもある方に
はじめて
教えていただきました。

以前にも書きましたが
真理とは程遠い
生き方を
していた私には
衝撃的な出会いでした。
「人間は神の子」
「人間本来病なし!」
「人間本来死なし!」等々、
目からウロコの状態でした。

それ以来
精神世界の書籍や
宗教関係の書籍に
これまで
40年近くに
亘って
勉強してきました。

その間、
人からの勧めで
宗教にも入会し
宗教活動も
経験しています。

その観点からしますと
宗教そのものに
反対する立場では
ありません。

古くから見ますと
イエスさまが
説いた教えも
お釈迦さまが
説いた教えも
おおもとは
根本神(仏)から
霊感を受けて説いたものです。

イエスさまや
お釈迦さまの
個性があって、
若干、表現方法は
違うところもありますが
本質においては
変わりません、

しかし
イエスさまや
お釈迦さまのレベルの
表現の違いは
何も問題はありませんが、

キリスト教においては
イエスさまの弟子たち
マタイさん
マルコさん
ルカさん
ヨハネさん
パウロさん
ヤコブさん
ペテロさん
そしてユダさんによる
書簡や福音書、手紙が
纏められて
生まれたのが
新約聖書です。

その弟子たちの
視点からの
イエスさまの
教えですので、
そこに
おおもとからの
ズレは生じます。

そして、
時代を経て、
国の勢力争いの中で
時の権力者が
統治しやすいように
都合の良い解釈を加え
システムを
加味していきます。

やがて、限定され
歪められていき、
イエスさまから
遠い教えに
なっていきます。

仏教においても
お釈迦さまは
教えを
書き残すことを
しませんでしたので、

お釈迦様の
入滅後
十大弟子である
マハーカーシャパさん
が中心となり、
アニルッダさん
スブーティーさん
プールナさん
カーティヤーヤナさん
ウパーリさん
ラーフラさん(お釈迦さまの一人息子)
アーナンダさん
の八人の弟子たちを中心に
他の弟子たちと一緒に
会議をして
教えを纏めていきました。

シャーリプトラさん
マウドガリヤーヤナさんは
お釈迦さまより
早く亡くなっていたようで
その会議には
参加していません。

教えについては
アーナンダさんが
中心となり

戒律については
ウパーリさんが
中心となり会議を
進めましたが

弟子たちの中で
戒律についての
考え方や

自己の悟りのみに
中心を置く信者と

この教えを大衆に
広げることに
中心を置く信者の
違いが明確となり

後に
それが上座部(保守派)と
大衆部(革新派)に
分裂をして
いくことになります。

大衆部から生じた
グループを
大乗仏教と言い
それに対して
上座部を小乗仏教と
いうようになりました。
その後
多くの経典が
作られています。

このように
イエスさまの教えも
お釈迦さまの教えも
時代を経て
いろいろな解釈が
されてきました。

キリスト教でも
カソリックや
プロテスタントと
分かれています。

実際に
宗教上の問題が
原因で生じた戦争も
今までたくさん起き、
政治的な
覇権争いに発展し
多くの尊い命を
犠牲にしています。

今でも、
何も変わっていません。
宗教という名の下に
殺し合いを
続けています。

結局
「神も仏もいるもんか!
いるんだったら、
なぜ、宗教同士の争いで
殺し合いをやっているんだ!」
となるのです、

私が
思いますのは、
教義が適用される
プロセスや背景に
問題があると、
思っています。

私たち
ひとりひとりに
神性が備わっています。
その内在する神を
信じることこそ
究極の宗教です。

私たちと
神とを分離させ
外に神を
求めさせる教義は
また、
万人が
内に持つ力よりも
対象となる
特定の人間や物を
偶像として
力を与える教義が
問題なのです。

私たちは
ひとりひとりが
自らの内奥にある神性を

自らが課した
あらゆる体験を通して
顕現していく
目的で
この現象界に
生まれてきます。

どんな苦難や困難
病や死にも
重要な意味が
隠されています。

その価値を経ずして
何かがあると
外に依存して、
その苦を
取り払おうとする行為は
自らが持つ神を
否定する行為です。

すべてとは
言いませんが
多くの
宗教の中に
神や仏と
私たちを分離し

神を恐れの対象にしたり
それを信じないものを
排斥したりします。

人間には
それぞれの
真理の発見の
仕方があります。

それぞれに
自分の問題集を
解いています。

真理に至る道も
それぞれです。
問題ではありません。

愛から発する、
あたたかみや
慈しみを感じ
共感できるものこそ
真理なのです。

最終的な判断は
私たちの
内なる声から
聞こえるところの
直感に従がうことです

いつも、
その声を
見逃さないことです。

自らの
頭脳が働かない
知性を黙らせる
環境を
それぞれのやり方で
創ってください。

瞑想をしたり、
好きな音楽を
聴きながら
静かに散歩しながら
鳥や虫の
鳴き声を聞きながら
アロマエキスを
楽しみながら
お風呂にゆったりと
浸かりながらでも

なんであろうと
自らの喜びの中心に
焦点を合わせて
その声に
耳を傾けてください。。

形や定義は
ものごとを明快にする
ためのものであり、
それに
囚われるための
ものではありません。

内なる静けさの中に
内なる真理の中に
自分のやり方で
入ってください。

内部のこの直感を
生み出す神性は
元々
生まれながらに
持っているものです。
私たちの存在の
エッセンスなのです。
魂の叡智への宝なのです。

この内部の宝を
語らない
宗教からは
離れることです。

究極は
神と一体になる
プロセスなのです。

その道を
歩むことこそ
宗教と言えるのでは
ないでしょうか。

宗教を
金儲けの手段にしたり
教団の勢力拡大ばかりに
現を抜かす宗教は
宗教の名を借りた
企業体でしかありません。

私はそう思っています。

ありがとうございました、

2011年7月29日金曜日

“出来事の持つ意味”

私たちの
目の前に起こる
あらゆる出来事に
「良い出来事」や
「悪い出来事」は
存在しません。

そういうと、
「そんなことはない!
現実にあるじゃないか!」と
反論をくらいそうです。

ただ、
私たちが
「良い」
或いは「悪い」と
判断する出来事が
起こっただけなのです。

私たちの感情と
あらゆる出来事は、
リンクしている
わけではありません。

その生起する
感情が
私たちの持つ
「良い」「悪い」
「好き」「嫌い」を
現わしています。
それを、
出来事によって
知らされているのです。

私たちが
過去から影響を
受けてきた
習慣的な感情を
起こる出来事によって
見せられているに
過ぎないのです。

その
湧き上がってくる
感情を
見つめてみてください。

それは、
否定的な感情ですか?
それとも
肯定的な感情ですか?

「良い出来事」と
感じますか?
「悪い出来事」と
感じますか?

祝福の心が
湧きあがってきますか?
嫉妬の気持ちでしょうか?

どんな感情が
出てきたとしても
それは
自分の内側の価値観で
判断を下した結果
起きてくるものです。

ですから、
その感情により
嫌な気持ちになったり
憂鬱になったり
した時に、

その感情を
どうにかしたいと思って
その
マイナスの感情に
外側から
頭脳でいくら
捏ね繰り回しても

さらに、
力を与え、
マイナスの
スパイラルの中に
嵌っていってしまいます。

起こってくる感情は
本質では
ありません。

判断によっては
良くも
悪くもなるものが
本質である訳が
ありません。

本質を知るための
手がかりとして
現れているに
過ぎないのです。
気づきを得るための
縁(よすが)として
現れています。

ですから、
いくら
出来事の
対象であるところの
人や環境に
焦点を
当て続けたとしても
マイナスの感情は
拡大するだけに
なってしまいます。

自らの内奥にある
本質をこそ
探らねばなりません。

自らの
真実の源泉を
見なければなりません。

その完全性からの
情報を
上書き修正し、
感情の質を
変換させるのです。

その真実の源泉は
すべてが
神聖なる秩序の中に
存在しております。
その場所に
争いや
憎しみや
怒り
妬みは
存在しません。

平和と
赦しと
調和と
慈愛に満ちた場所です。

すべてものが
完全なのです。

私たちは
その出来事によって

恐れや
否定性の感情の
手がかりや
あらゆる低い振動に
属する思いを

高い愛という
源泉の本質に
変えていくための
チャンスを
与えられています。

混沌から
新たな創造が
浮上するのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今という瞬間こそ
私たちの
より高い自己に
目覚めることができるのです。

明日はないのです。
今日の出来事は
あなたにとって
完璧な出来事なのです。

ありがとうございます。

2011年7月28日木曜日

“人間の構成要素の基礎知識”


今日もシュタイナーさんを
共有してください。

シュタイナーさんは
ゲーテさんの研究家として
有名になりました。
その後、
ブラヴァツキー夫人の
「神智学」に加わります。
しかし、
シュタイナーさんは
少年の時から
自然科学や哲学を
勉強していて、
神秘主義的な部分を
もっと科学的に
解明したいと
考えるようになりました。
そこで、
精神世界を
科学することを
目的として、
精神科学「人智学」を
学問として
確立していきました。

シュタイナーさんは、
人間を
物質体
エーテル体(生命体)
アストラル体(想念体)
自我(個我)の
四つに分類しています。

日本の心霊科学などでも、
人間を
肉体
幽体
霊体
真体(本体)と
四つに分類します。

私たちの
身体というのは
物質体に
エーテル体
いわゆる生命が
入ることにより
構成されています。

アストラル体は
感受・情動・思念の
フィールドで
自我は
わたしという意識です。

シュタイナーさんは
人間を
身体
心魂
精神の
三つに
分類することもあります。

身体は
四つの分類で
先ほど書いたように
物質体と
エーテル体のことであり、

心魂は
感情的・主観的

精神は
思索的・客観的なものです。
いわゆる
アストラル体のことであり、

自我については
心魂の中で活動しながら、
広大な精神の領域(神性)に
触れている。
と言っています。

私が
このブログで
書いているところの

「私たちの内には
無限で永遠の存在
究極の愛と光の存在が
宿っています。」
に通じています。

シュタイナーさんは
さらに
物質界
心魂界(欲界)
精神界(神界)の
三つの世界を
分析しています。

仏教では
欲界
色界(しきかい)
無色界(むしきかい)
と分類し、

欲界は
物質界と
心魂界を含んでいます。

色界は
精神界の下位領域

無色界は
精神界の上位領域を
指しています。

肉体の死を迎え
生命体が
物質界から離れます。

その後
数日間で
自らの人生のすべてを
まるで、
走馬灯のように
映画を見るが如く
見ると言います。

数日間というのは
物質界における
時間的観念で
自分が
起きていられる日数で
3~4日間だそうです。

そして
心魂界に入って

さらに
道徳的・道義的観点から
自らの一生を
内面的に
辿っていきます。
自らの過ちを点検し
反省しながら、
徐々に
浄化していきます。

この期間を
シュタイナーさんは
人間が一生の内で
眠っている時間と
同じとして、
人間の寿命の
三分の一くらいと
言っています。

心魂界で
自らが為した行為を
された相手の立場で
追体験をします。

その償いによる修整を
するために「運命」を
背負い地上に再び
生まれてくる
準備をします。

そこで、
精神界に入って
高次の方たちから
薫陶を受けたり
活動を通して
学んでいきます。

やがて、
準備が整い
新しい地上生活を
体験するために
再び降りてくるのです。

人間は原則として
2160年間に
二回の輪廻をすると
言っています。

2160年間というのは、
春分点が
黄道十二宮の一つを
通過するのに
かかる期間だそうです。

しかし、
これは原則であり
必ずしも
そうとは限りません。


人生の
自分だけの
問題集や設計図は
この精神界で
綿密に練られ
書かれるのでしょう。

次の生の課題を決めて
その課題を
克服するために
最もふさわしい
国や環境
両親さえも選択し
創られていきます。

その観点に立った時
今、起っている
苦難・困難と
感じているものは、

自らが
自らに課した
修整のための
機会であるのです。

二度と同じことは
繰り返したくないでしょう。

シュタイナーさんの言う
心魂界で
見る映画は
自分が主人公の
感動のシーンが
いっぱい詰まった
名画にしたくは
ありませんか?

『今日は残りの人生の最初の日』

今からでも
遅くはありません。
今日の今の瞬間から
生きている
確かな実感の今、
この時を感動の時に
すればいいのです。

過去の
終わったことは
取り消すことは
出来ません。
そんなことに
捕らえられては
いけません。

今日を
歓喜の一日として
上書きを
していくのです。

あの世で
浄化するよりも
この現象界で
浄化することに
意味があるのです。

また、
再び同じ問題を
解かなくてもいいように・・・。

ありがとうございます。

2011年7月27日水曜日

「宇宙にひとりしかいない自分」

昨日のブログに
敵は自分の内にあります。
と書きました。
他の人や出来事が
私たちを害することは
絶対にありません。
私たちの
習慣的な考え方に
振り回されているに
過ぎません。

もうひとつ
一歩進めていくならば、

実は
この宇宙には
自分ひとりしか
存在していないのです。

「そんな馬鹿な!」と
思いましたか?
「だって、
地球には60数億人、
宇宙にも
数え切れないほどの
人がいるんでしょう?」

実は他人と思える存在は
自分の鏡なのです。
それを分離して
他人と呼んでいるに
過ぎません。
真実の自分自身を
発見するための
鏡であるのです。

他人ではないのですから
自他一体という
教えがあるのです。
2600年前の
お釈迦さまも
2000年前の
イエスさまも
この教えを説いています。

他人と思っている人と
話をしているのは
実は自分と
話をしています。

自分との対話を
通じて
この世を生き
“一なる本源”に
まとまる道を
歩いています。

ですから、
あなたの見ている世界は
それは、すべて
あなた自身なのです。

美しい自然に感動するのも
深遠な真理を著す本も
映像も詩も
それは、
あなたが感じるものです。
そのために
用意されています。

また、人を否定したり、
裁いたり、
とても我慢が
できないような出来事も
あなた自身が創っています。

あなたの目の前に
現れることのすべては
あなた自身の意図で
現れています。
それ以上でも
以下でもありません。

あなたの前に
現れている
もうひとりのあなたは、
あなたの今のレベルに
応じて現れてくるのです。

あなたの問題集が
今、あなたの前に
もうひとりのあなたを
与えてくれています。

あなたは、
もうひとりのあなたと共に
その問題を
解いていくのです。

この現象界では
答えを出すまでに
時間の経過を
要していきます。
そのように
設計されているのです。

その中で
悪戦苦闘しながらも
答えを
導き出していきます。

頭脳や知識で
捏ね繰り回しても
答えは
永遠にでることは
ありません。

そして、人は
問題はすべて
自分の内にあることを
学ぶのです。

さらに、
その内奥に
あるところの
燦然と
光り輝く存在を発見し、
無限、永遠へと
繋がっていく答えを
導いていくのです。

すべては
自己責任です。
自己責任というと
何か重く
受け止める方がいますが、

自分ひとりしか
存在しないのですから、
自分で
すべての責任を負うのは
当たり前なのです。

今の現状を
変えたいと
真に思うならば
自分をこそ
変えなければなりません。

敵は汝の内にありです。
相手や他人を
変えようと思っても
無理なのです、

相手や他人と
思っているのは
自分の鏡なのですから
自分を変えていけば
鏡である自分に
映る姿も
変わらざるを
得ないのです。

自分ひとりしか
存在しない世界を
混沌とした
不毛の世界にしたいですか?

自分を変え、世界を変える!

『今日は残りの人生の最初の日』


そこには、
生まれ変わった
自分が存在します。
そして、
鏡である自分も輝いています。
もう分離感もなく、
ひとつにまとまっています。
みんな笑顔です。
手を取り合っています。

今日もワクワク感が
広がっていきます。

ありがとうございます。

2011年7月26日火曜日

「習慣的な考え方を点検する」

私は、
よくいびきを
掻くようです。
若い頃は
お酒もたくさん
飲んでいましたから
相当、大きないびきを
掻いていたと思います。

よく女房に言われました。
「うるさいな!いびきが
すごくて眠れないよ!!」
「そう言われても、
どうしようもない!
自分で分からないんだから!」と
言い返していました。

実は
女房も
いびきを掻くのです。
(私ほどではないでしょうが・・)
でも、私は
特に、
気にはなりませんでした。

又、
6~7年前に女房が
食道がんを宣告されてから、
あちこち痛みがあり
夜、眠れない日が
続いていました。

そんな時は、
女房の身体を
さすってあげます。
そうすると、
たまに聞こえるいびきは
無上の音楽に聞こえました。
私は、
女房のいびきを聞くのが
とてもうれしい
出来事となりました。
それ以来
私たちの間で
いびきに関しての
言い合いは
一度もありません。
私がいびきを
掻かなくなった
訳ではないと思います。

若い頃
よく仲間と
一泊ゴルフ旅行をしました。
そんな時、
大きな部屋で
一緒に寝ることになります。

寝ると共に
いびきの大合唱が
始まります。

「うるさいな!寝れやしない!」と
心で思い
我慢をして、
眠れない夜を過ごします。
明け方になって
やっと熟睡します。
ものの1時間もたたない内に
起床!となります。
眠気で
頭がボ-ッとなりながら、
食欲もなく朝食を取り
プレーをする。
気分は最低!
スコアは目茶目茶!

「あいつのあのいびきのせいだ!」
こんな、経験ありませんか?

日常的によくある
出来事だと思います。

私の場合は
一度だけこの最悪の状態になりました。
「あいつの首を絞めたろか!」と
思いました(笑)。

一度だけと言うのは
どういうことかと言いますと、
この体験をした日の
翌日に
電車に乗っていて
眠気を催し
目的地の3駅を飛ばしても
気づかず爆睡してしまったのです。
その日のその時間は
絶対に外せない
大事な用事がありました。
急いで駅を降り、
その駅からタクシーに乗り
目的地に行き
事なきを得ました。

私は思いました。
大事な用事があり、
頭でそのミーティングの
組み立てをし、
意識全開で
電車に乗りました。
それなのになぜ?
あんなうるさい電車の中で
爆睡したのだろう?
「次は新宿!新宿!
○番線到着!」等々
運転士さんの
スピーカーの大きな声や
着いた時の呼び鈴の音や
出発するときの音や
いろいろな騒音が混じっている中で

「よく寝れたもんだ!
いびきなんか比べ物にならないぞ!」
そう思ったのです。
言われてみれば
よく、電車で
うたた寝をしている人は
結構いるでしょう!

そこで分析を始めました。
よく考えても結論がでません。
「いびきは嫌だから嫌なんだ!」
という思いだけ!

なぜ、そう思ったのでしょう?
「いびきは、うるさい!」
「いびきは、安眠を妨げる!」
「いびきは、良くないもの!」
という、刷り込みが
どこかで起ったのだと思いました。

親からなのか?
兄弟からなのか?
いびきを抑える
器具かなんかの
TVのCMや
マスコミの記事からか?
そう思っているうちに、
「くだらん!いびき位に
影響されるのはやめよう!」
と閃きました。

それ以来、
どんな、
いびきの襲来にあっても
気にならなくなり、
眠れるようになりました。

それはそうです!
人やマスコミに
影響されることで、
自分の考えまでも
決める必要はないのです。

人は習慣的に
人と同じというモノサシで、
自分の基準を
計り続けています。

いびきだけでなく
私たちには、
そういう傾向が
あるのではないでしょうか。

いびきなんか
大した問題ではありません。
よーく、聞いていると
いろいろないびきがあり、
結構、楽しめるものです。
いびきのCDを
出したいぐらいです。

いくら騒音といっても
電車の中や
パチンコ屋さん
ディスコや
カラオケなんかとは
比較になりません。

可愛いものです。
受け入れてしまえば
いいのです。
眠れないよりも
眠れた方がいいですよね!

受け入れたものは、
もはや私たちの外にはなく、
私たちと一体です。
一体となったものから
ストレスを
感じることはありません。

受け入れたものは、
味方になるのです。
私たちと
分離することはありません。
同化した時に
音は私たちの一部となり
心地よい安らかな
眠りに誘うのです。

私たちは
意識をしないまま
受け継いできた
習慣的な考え方を
自分の考え方として
捉えがちです。

自分にストレスを
与える出来事への
対処の仕方に
習慣的な考え方が
働く傾向にあります。

その傾向で考えている
ストレスや
被害や分離感は

その原因となる
出来事を
受け入れたとき
瞬時に同化し
解決していくのです。

宇宙には
良いも
悪いもありません。
宇宙は
ただ在るだけです。
私たちは自由なのです。

それを犯しているのは
私たちの考え方なのです。
私たちの外にあるものは、
私たちに害を
与えることは
絶対にできません。
敵は
自分の内にあるのです。

ありがとうございます。

2011年7月25日月曜日

“動物たちからの学び”

先週、
半年振りに
横浜にある実家に
言ってきました。

私が着いて、
玄関先で
待っていてくれたのは
「シンゴちゃん」という
猫でした。
もう15・6歳くらいに
なると思います。

顔の左半分が
黒く腐っていました。
例の、
パラボナアンテナのような
プラスチックの
筒の
下を絞ったようなものを
首に巻いていました。

足取りは
よたよたで、
泣き声は
力が無く、
猫の鳴き声というより
あひるの鳴き声を
小さくしたような声です。

兄嫁に聞きましたら、
皮膚がんに
なったのだそうです、

お医者さんには
安楽死を
進められたのだそうですが、
食欲もあるし、
このままの成り行きで
最期を
迎えさせてあげたいと思い
定期的に
お医者さんに
診せに
行っているのだそうです。

思い返せば
「シンゴちゃん」は
毛が全身、
真っ白で、
綺麗な猫でした。
颯爽と歩き
人なつっこく
泣き声も
まるでソプラノ歌手のよう、
丸いクリッとした
大きな目は
フランス人形のような
とても印象的な
かわいい猫でした。

椅子に座っている
私を見つけると
膝の上に
チョコンと乗ってくれて、

半年に
一度しか行かないのに
ちゃんと覚えていて
くれるのです。
「シンゴちゃん」には
たくさん“愛”と“癒し”を
与えてもらいました。

もう、自分が病気と
知っているのでしょう。
少し離れて
一定の距離を置き
あの、泣き声で
泣いているだけで、
近づこうとしません。


私も、
今、猫を二匹
飼っていますし、
過去にも
小さい頃から
数えると
何百匹という
生命と暮らしてきました。
犬や猫
うさぎやはつかネズミ
小鳥や金魚等々

動物たちの成長は
早いものです。
多くの生命と
お別れをしてきました。
何百もの
愛するものと
別れる
切なさを感じてきました。

私のお隣の家には
「バロン」という
ゴールデン・レトリバー
という種類の犬がいました。

「バロン」は
近所の人気者
学校帰りの子供たちや
スーパーの買い物帰りの
お母さんたちが
隣の家の門扉の内側に
「バロン」を見つけると
みんなが近寄ってきて
「バロン」「バロン」と
声をかけ、「バロン」を
撫でたりしながら、
遊んでいきます。
「バロン」は温和で
人懐っこい性格なので、
みんな大好きでした。

その「バロン」が
10年前にあの世に
旅立ちました。

隣のご主人と奥さんは
本当に
可愛がっていましたので、
大変な落ち込みようでした。

家族で葬儀も済ませて、
遺体を焼き場で焼き
「バロン」の骨を
骨壷に納め納骨をせず、
家に持ち帰り
10年間も
離れることが
できませんでした。

「バロン」が亡くなってからは
とても、動物を飼う気持ちに
なることは出来ず。
「バロン」を喪った悲しみを
長い時間引きずってきました。

先日、
ご主人と話をした時
『やっと
7月に
「バロン」を納骨しました。』
と仰っていました。

この様に
私たちと動物たちは
深いつながりの中で
共に育み育まれ
愛し癒され
家族として暮らしています。

お釈迦さまの
「四苦八苦」の教えの中に
生・老・病・死の四苦以外に
「愛別離苦」というのがあります。
“愛するものと
離れなけらばならない苦しみ“

愛するものと
ずーっといたいと思っても
この世は諸行無常です。
愛するものといつかは
必ず離れなければなりません。

動物たちは
私たちが
子供の頃から
身をもって
生まれてくる意味
老いていく意味
病を持つ意味
死んでいく意味を
さらに、
「愛別離苦」の体験を
私たちに
与えてくれました。
いずれは
思い出す
永遠性の真実を
知らしめるために。

ここで、
何回か紹介させて
いただきました。
『こころのチキンスープ』の中から
「子犬と男の子」の
物語を思い出しましたので
共有してください。

『あるペットショップの店頭に、
「子犬セール中」の札がかけられました。
子犬と聞くと、子供はたいそう心をそそられるものです。
しばらくすると案の定、男の子が店に入ってきました。
「おじさん、子犬っていくらするの?」
「そうだな、30ドルから50ドルってところだね。」
男の子は、ポケットから小銭を取り出して言いました。
「ぼく、2ドルと30セントしかないんだ。でも見せてくれる?」
店のオーナーは思わずほほえむと、
奥に向かってピーッと口笛を吹きました。
すると、毛がフカフカで丸々と太った子犬が五匹、
店員のあとをころがるように出てきたのです。
ところが一匹だけ、足を引きずりながら、
一生懸命ついてくる子犬がいるではありませんか。
「おじさん、あの子犬はどうしたの?」と男の子は聞きました。
「獣医さんに見てもらったら、生まれつき足が悪くて、
多分一生治らないって言われたんだよ」と店のオーナーは答えました。
ところがそれを聞いた男の子の顔が輝き始めたのです。
「ぼく、この子犬がいい。子の子犬をちょうだい!」
「坊や、よしたほうがいいよ。
そりゃあ、もしどうしてもこの子犬がほしいって言うなら、
ただであげるよ。どうせ売れるわけないから」と
店のオーナーが言うと、男の子は怒ったようににらみつけました。
「ただでなんかいらないよ。おじさん、
この犬のどこがほかの犬と違うって言うの?
ほかの犬と同じ値段で買うよ。
今2ドル37セントはらって残りは毎月50セントずつはらうから」
その言葉をさえぎるように店のオーナーは言いました。
「だって、子の子犬は普通の犬みたいに
走ったりジャンプしたりできないから、坊やと一緒に遊べないんだよ」
これを聞くと、男の子は黙ってズボンのすそをまくり上げました。
ねじれたように曲がった左足には、
大きな金属製のギブスがはめられていました。
男の子は、オーナーを見上げて優しい声で言いました。
「きっとこの子犬は、自分の気持ちがわかってくれる友達がほしいと思うんだ」』

如何でしたか?

共有してありがとうございます。
(By.Photo,A.Ikeda)

2011年7月24日日曜日

“こころに愛と滋養を”

今日は、
日曜日です。

今日は
太陽が微笑みながら
明るい陽射しを
届けてくれそうです。
気持ちの良い朝を
迎えています。

この太陽の光を
受け取るとき
内部の力が
自然と
漲ってくるのを感じます。

こういう時は
ちょっと
散歩をしながら
自然を感じられる場所に
出かけてみるのもいいですよね。

そこで
思い思いの
好きなことを
やってみては如何でしょう。

緑の木々が
お日さまを浴びて
やさしい木漏れ日を
届けてくれています。

花々が
それぞれの装いで
私たちの目を
そして心を癒すために
待っていてくれます。

水面は
光のプリズムをつくり
涼しげに
そっと
私たちの内面へ
語りかけてくれます。

鳥たちが
それぞれの音色の
メロディを囀り
それらを育む
大地は
私たちの
足元から
エネルギーを
運んでくれます。

この
自然の織りなす
ハーモニーの中の
中心に
自分を置くとき、
自分の存在の本質を
感じることができます。

そこには
内面から湧き上がる
歓びがあり、
眩いばかりの
美しさがあり、
安らかな
至福感に包まれます。

それは、
すべての本質の
それぞれの要素が
私の内面に在る
核心を承認して
祝福しているように
感じられます。

その確かな存在感の中に
身を置きながら、

思い思いの
好きなことを
感じるままに
浮かんでくる言葉を
書き留めてください。

自然の呼吸を
キャンバスに
描いてください。

ベンチに座り
目を瞑り
自然とひとつに
融合してください。

そして、
内面からのささやきに
耳を傾けてください。
それらが、
インスピレーションを促す
よすが(縁)となり、
魂の滋養となっていくのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日は、
私たち自身を大切に
敬い、
そして、
愛してあげましょう。
私たち自身に、
愛と滋養を与えましょう。

今日、
存分に
こころを開放して
愛を感じてみませんか?


自分を愛して
初めて
この愛を
他の人々と共有する
ことができるのですから・・・

ありがとうございます。
(By.Photo,H.Sugaya)

2011年7月23日土曜日

「より深く降り、より高く上る!」

今日は、
36年前の、
昔の私の
“真理ノート”をめくっていたら、
「36年前の“真理ノート”」
(7月10日号ブログ参照)

ルドルフ・シュタイナーさんの
『神智学概論』という
本のまとめが載っていました。
懐かしいです。
シュタイナーさんの著書は
今の私が読んでも
大変難しいです。
当時の私が
理解していたとは
とても思えません。

(今も解らないのに、
理解しているわけ
ありませんよねェ(笑))

シュタイナーさんは
「36年前の“真理ノート”」でも
紹介しました、
ゲーテさんの研究者として
今まで無名だった
シュタイナーさんは、
世に知られるように
なっていきます。

ゲーテさんの影響を
受けて、
自らの思想体系を
確立していくようになります。

その後、
ブラヴァツキー夫人を
中心として設立された
神智学を探求します。
そして、
その神智学から離れて、
アントロポゾフィー
(人智学)を創立しました。
霊能力者としても
才能を発揮された方です。


今日は数年前に読んだ、
ルドルフ・シュタイナーさん著作の
高橋 巌さん翻訳の
『シュタイナー霊的宇宙論』、
原題、
『霊界のヒエラルキアと
物質界におけるその反映』
講義の抜粋です。
比較的、
解りやすい内容のところです。
タイトルは
難しそうなのですが(笑)
共有してください。


(By.Photo,H.Sugaya)


『土星紀において、人格霊は人間であり、
太陽紀において、大天使は人間であり、
月紀において、天使は人間であり、
そうしてこの地球紀において、私たち人間は人間である。
しかし同じく人間の段階にあるといっても
その意味は同じであるとはいえない。
 
人間は自由の霊であるともいわれるように、
悪の可能性のなかをも生きながら、
自分の力で自由に進化し得る存在であり、
おそらくはそのためにこそこうした
きわめて不自由な物質的世界のなかに降ってきた。
これまでに人間であったことのある存在のなかでも、
ここまで降ってきた存在はなかったのである。
しかもある意味でほとんど目隠し状態に近い。
 
一方で、非常に高度なことを学んでいく進化プロセスがあったとして、
そこで非常に高度なことが効率よく達成し得るとする。
また一方で、何を学んでいけばいいかわからない状態のなかで
ほんのわずかなことだけをかろうじて学べるだけだけれど、
それは自分の力で学んだことにほかならないとする。
おそらく現在の人間は後者なのだろう。
そこに非常な愚かさをいきざるをえない現状があり、
同時にそこにこそ自由があるのだともいえる。
 
みずからの愚かさを誇るわけにはいかないし、
その愚かさのことをちゃんと知る必要もあるのだけれど、
そういう状態でしか得られないもののことを
少なくとも誇り高く思ってもいいのではないだろうか。
つまり、「より深く降りてきたことによって、
おそらくより高く昇っていく権利を得た」ということ。
しかし、「権利を得る」こととそれを行使することとは
別のことであることは知らなければならないだろう。
 
どちらにせよ、私たちはとても深く降りてきて、
こうして地上をはい回りながら生きている。
きわめて制約の多い自由のなかを…。』


如何でしたでしょうか?

土星紀・太陽紀・月紀・地球紀
というのは
シュタイナーさんの霊視による
過去の霊的進化過程を
分類したものです。

以前、
私のブログ
「不完全を愛せ」
(6月13日号ブログ参照)
でも書きましたが、
私たちは不完全な
完全存在なのです。

シュタイナーさんが
言うところの、
「より深く降りてきたことによって、
おそらくより高く昇っていく権利を得た」
ということは、
多くの不自由な体験を
多くの苦難・困難な体験を
経験できるということです。

それは、とても
素晴らしいことと
思いませんか。

それをも耐えて
跳ね返す力が
備わっていることの
証明ではないでしょうか。

その、
不自由さ。
不完全さの
プロセスこそが
光を見出す
鍵なのです。

その
不完全さの
プロセスこそが
無限なる道
永遠不滅なる道へ
繋がっていくのです。

私たちは、
この時代を
あえて、選んで
生まれてきました。
この制約の多い
自由の中をです。

制約が多いからこそ
飛翔できるのです。
真実の自由を
創造できるのです。
底が深ければ深いほど
より高く上昇できるのです。
それを望んで
降りてきているのです。

私たちは
創造主の子です。
創造主の愛を、
その叡智を、
その意志を、
すべての創造に向けて
もう一度送り出すのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちは
このひとつの瞬間、
この今という瞬間の中で、
すべての創造のひとつ
として存在しています。

今日も
どんな出会いがあり、
創造主の歓びを
感じれるのでしょう。

今日も、
共有していただいて
ありがとうございます。

2011年7月22日金曜日

「友人からのメール③」


以前、ブログで書きました。
中国の深センに
設計事務所を構える友人が
7月15日~19日まで
日本に戻っていました。

今回は
友人も忙しく
また、私の事情もあり、
あまり、お話しする
時間は取れませんでしたが、
それでも、
16日に恒例の場所で
恒例の仲間たち
(ほとんどが高齢)との
飲み会があり、
一時間半ほど
会うことができました。

以前のブログにも
彼の人となりは
一部書きましたが、
「友人からの学び」
(6月10日号ブログ参照)
「友人からのメール②」
(6月12日号ブログ参照)

彼と会うと
どんな
シチューエーションで
あっても
例え、そこに、
初対面の人がいても、

また、それぞれが、
思い思いのことを
語り合っていたとしても、

全体が
その場と仲間に同期し
和み、溶け込んでいく、
不思議な雰囲気を
引き出すのです。

彼を中心として
彼の関係性の中で
集まってる人たちです。
それぞれが、
深く知らなくても
また、彼が日本を離れて
その人たちと会わなくても、
また、集まったとき
前回、会ったときの
話の続きを
そのまま
続けられるような雰囲気
そこには、
時間も空間も
関係ありません。

19日には、
香港にビジネスがあり、
日本を離れるというので、
新宿駅で会い
羽田空港に向かう
タクシーの車中で、
話をして、
羽田空港に着いてから
出発までの
1時間ほど、
話をすることができました。
いつもそうですが、
楽しい充実した時間を
共有できる人です。

彼から、
20日にメールが届きました。
『昨日は羽田空港まで来ていただきありがとうございました。
沢山話しが出来ました。
また、毎日ブログが来ますから大変力が出ます。
兄貴(私のことを彼はそう言います)が
現れたことは感謝の言葉も有りません。
羽田で帰るうしろ姿に暖かい温もりを感じ
いつまでも自分の中に有りました。
生きると言うことは楽しいです。
この出会いは、生涯の中で奇跡の様な出会いです。
力を合わせてひかりが見える仲間をつくりましょう!』

私からは、
依頼されている件の返事と共に
『こちらこそ、ありがとうございます。
そちらでも、
忙しい日々を送られることでしょう。
ひとりでも多くの人が、真理を発見できるように
微力ながら、発信していきます。』と返事をしました。

再度メールが送られてきました。

『(アーカメロディ)兄
昨日から香港にいました。
110階のホテルの部屋で天界に近く雲の流れが目の前です
できたばかりのホテル、素晴らしく美しいのに、
自分には形が痛い、うまく表現できませんが、
優しい居心地がほしい人には、痛いのです。
たくさんの人の努力によりできたのでしょうが
インドの死の館の居心地にかないません。
本当の美しさが見えるよう、
天界が我の体にあることを知るために、
今いるところが天国だと知ることができるように、
生きるすべてにおいてあらゆる変化をする現実の今の時間、
今日のこの時間、また明日もきらきらウキウキする初恋の時間です。
(アーカメロディ)兄、
この真理というべきもの、皆に伝えたいが、
これは己で見つけるものです。
しかしこの秘法のありかの地図はかけます、
うまく言えません。
そうだ、そもそも言葉で伝えるものではありません。
言葉を超える音が出せたら、超える色が出せたら、思いは尽きません。
皆がもっているものを思い出せないなんて、
今日もご苦労様。』

彼の言う通りです。
真理をことばでは
伝えることはできません。
彼が言うように
『秘法のありかの地図』を
書くことはできます。
しかし、
その秘法を見つけるのは
自分自身なのです。

お釈迦さまも
仰っています。
『私は、
あの月を
あなた方に
指し示すことはできるが、
月を見るか見ないかは、
あなた方の
自由意志に任されている。』

また、
お釈迦さまは
こうも言いました。
『仏法とはまこと
不思議・不可思議である。』
『本当の真実、
真理といわれるものは、
私たちの
思いが及ばない、
言葉で表すことが出来ない。』
と言う意味です。
まさしく、
真理の持つ性質をよく
現わした教えと思います。

10数年前
私の友人は
インドのコルカタ(カルカッタ)にある
マザー・テレサさんの
「死の館」に行きます。
※ヒンズー語では(ニルマル・ヒルダイ)
「清いこころの家」と言います。

その内容については
「友人からのメール②」
(6月12日号ブログ)の、
中で紹介した。
彼からのメールに
詳しく書いてありますので
是非、戻って読んでください。

(By.Photo.H.Sugaya)

少し、紹介します。
『人力車で尋ねた道端に
テレサ様の教会の
女性が3人歩きます、
その姿は
世界一の輝きを
放出しておりました。

私のようなものには、
見つめることすらできません。

何も期待せず
信じた行いをするものの
神々しい姿は、
何よりも美しいものです

すべてを捧げきる、
そのことへの
こだわりさえない姿は、
この人々の自覚は
どうして
作られるのでしょう。

縁あるものは
兄弟であります。
あなたの苦しみは
私の苦しみです。

心が同期したとき、
その方は
私を心の支えとしてくれます。

その方は
私の杖となり
私を見守ります。
それが私たちの、
もう作られている道であります。』

と、書いてあります。
当時の彼は、
その
「死の館」に
秘宝をみつけに
いったのかも知れません。

そして、
マザー・テレサさんの
教会の3人の女性と
出会います。
その方たちは
そこに佇むだけで、
神々しさを
醸し出していました。
世界一の輝きと
表しています。

そこに
真理を見たのだと感じます。

それが、
今回頂いたメールに
繋がっていきます。

香港の新しく出来た高級ホテル
その110階の部屋で
「形が痛い」と
居心地の感覚を表現しながら、
『インドの死の館の居心地にかないません。
本当の美しさが見えるよう、
天界が我の体にあることを知るために、
今いるところが天国だと
知ることができるように』と、
そして、
『皆がもっているものを思い出せないなんて』
となるのです。

私たちは、
誰の例外もなく
光り輝く神性を
持っています。
それを
思い出すだけなのです。

それが、
「汝自身を知れ、
そうすれば神を知ることになる」という
イエスさまの言葉にも通じます。

汝自身が
永遠の中で、
光り輝く存在なのである。
と仰っています。

真理とは
既に、
私たちひとりひとりに
在るところの
神我を発見し、
今、この瞬間に
その神性を顕すことに
他ないのです。

それが、彼曰く
『生きるすべてにおいて
あらゆる変化をする現実の今の時間、
今日のこの時間、
また明日も
きらきらウキウキする初恋の時間です。』
という心の状態を
創っていくのです。

ありがとうございました、

2011年7月21日木曜日

「私とは、何者か?」

私たちは
今まで
両親をはじめ
兄弟
友人
近所の人たち
先生や
会社で出会う人たちを
含め多くの方と
出会い
いろいろな体験をして
様々な
影響を受けてきました。

今もその影響を
受け続けています。

そして、
「私」というものを
確立していきます。


お釈迦さまは、
2600年前
私とは何者か?という
テーマに対して
五蘊(ごうん )の
教えを説かれました。

五蘊とは
“五つの塊”
という意味です。

私たち人間は。
「色(しき)」
「受(じゅ)」
「想(そう)」
「行(ぎょう)」
「識(しき)」
の五つの塊に執着し、
それを「私」として
捉えています。

この教えは
「自我」を分析して
弟子たちに語ったものです。

一つ目の
「色蘊(しきうん)」とは、
姿かたちのことで、
肉体を現わします。
私たちは
肉体こそ「私」と執着します。

私たちは
今までの人生を
この肉体を維持するため
この肉体を喜ばせるために
食事をし
服を着て
家を確保してきました。

世界中の財産は
ほとんどが
この肉体のために
使われています。
さらに、
もっと、もっとと
執着していきます。
際限がありません。

しかし、
この「私」と思っている
肉体は
生命が離れた瞬間から
ただの亡骸に過ぎません。

また、
どんなに若くて
美人で
すばらしい肉体を
持っていても
老いや病からは、
離れることはできません。

肉体とは
そのように
変化をし続けていく
物体に過ぎないのです。
そこに「私」という
実体はありません。

二つ目は
「受蘊(じゅうん)」です。
受蘊とは、
感覚の塊のことです。
眼・耳・鼻・舌・身の
五感すなわち
五つの感覚器官が
感じるものを
「私」と思います。

これも、
際限がありません。
もっと、もっとと
気持ちのいい感覚を
求めていきます。

そうやって、
私たちは
感覚に執着していきます。
常に、
変化し続けています。
そこに「私」という
実体はありません。

三つ目は、
「想蘊(そううん))です。
想蘊とは、
知識の塊のことです。
意識しなくても
知っているはたらきです。

私たちは
様々な人たちとの出会いで
様々な経験の中で
これが「私」と
固執していきます。
それは、
妄想に過ぎないのです。

例えば、
子供の頃、
陰湿ないじめに
遭っていたとします。
その対象にある
当時の加害側の子供の
表情や言葉を
思い出して
今でも、
苦しみ続けています。

それは、妄想であり、
知識の執着であります。

しかし、これも
常に、
変化し続けています。
そこに「私」という
実体はありません。

4つ目は、
「行蘊(ぎょううん)」です。
これは、
行という
心のはたらきの塊です。

私たちは
常に何かを考えています。
「何かをしたい!」と考え、
その何かを行い、
また何かを行うと
また、
「何かをしたい!」と考えます。

ただ、「何かをしたい!」と
考えているだけなのに、
そこに意味づけをして、
あらゆる感情を
作り出していきます。

それは、
行の執着です。

そこに
落ち着いた状態は
存在しません。
常に、
変化し続けています。
そこに「私」という
実体は存在しません。

5つ目は、
「識蘊(しきうん)」です。
識蘊とは
認識の塊のことです。
受蘊が
眼・耳・鼻・舌・身の
感覚作用のことを
言いましたが、
この識蘊は“意”即ち
心の働きのことです。
いわゆる
見たり、
聞いたり、
嗅いだり、
した感覚を
心で認識する
作用のことです。

例えば、
女性を見て
視覚として感じたものに
比較のための
「きれいな女性だ!」と
価値基準を
与えているのが
識蘊です。

ようするに
受蘊や想蘊や行蘊の
はたらきを得て
情報を流している
作用のことです。

それは、
認識という
心のはたらきの執着です。

この認識という
心の作用も
一瞬、一瞬と
変化をし続けていきます。
そこに、
「私」という
実体はありません。


如何でしょうか?
この“五蘊”という
お釈迦さまの教えは、
いつも
「私」と思っている
その「私」は何者なのか?と
問うているのです。

この教えは
すべて、
私たちが
今まで
体験してきたことが
ベースになっています。
いわば、
過去の体験なのです。
過去、
体験したことが
執着として
現れている「私」に
囚われているに
過ぎないことを、
仰っています。

その執着は、
“苦”の源泉になります。
「自我」なのです。
それは、
偽者の「私」です。
「偽我」なのです。

この三次元という
現象の世界に
現れている
あらゆる出来事や
人々は
変化し続けるのです。
移ろい行くものです。
幻想に過ぎません。
実体はないのです。

実体のないものに
無用な力を
与えてはいけません。

そのことを
2600年前に
お釈迦さまが
“五蘊”という教えで、

非実在の「私」を
分析し喝破したのです。

無明の「私」を
仏の道をいく「私」へ

究極的な平安
永遠の安らぎ
無限なる高みに
至る「私」へと導く
仏我の道
涅槃への道を示したのです。

さあ、
私たちが
確立した「私」とは
自我からの「私」ですか?
仏我からの「私」ですか?

真実の私は
仏我(神我)の私なのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

過去の
延長線上に
「今」があるのでは
ありません。

真実は、
「今」という瞬間
この確かな瞬間しか
実在していないのです。

この「今」という
瞬間に
仏我(神我)は顕れます。

その瞬間、
言語では
言い現すことのできない
平安と安心が
魂を支配していきます。
満ち足りた
愛の光を受け取ります。

そして、
受け取る者が、
与える者となり、

受け取る魂が
“一なる本源”と
同期し、
そして、
永遠なる
無限なるものへと
飛翔していくのです。

今日も共有していただいて、
ありがとうございます。

2011年7月20日水曜日

“苦難・困難の意味するもの”

私たちは
困難・苦難と思える
出来事に出遭った時、
どう考え、
どう対処するでしょうか?

尻込みをして
逃げ出すでしょうか?

それとも
積極的に受け入れ
自分の
一冊の問題集として
教育的観点
学びの機会として
取り組みますか?
どちらを選択しますか?

私のブログを
最初から
読んでいる方々の
ほとんどは
後者の
学びを選ぶと確信します。

この観点は
私たちの人生にとって
重要な
キーポイントに
なってまいります。

仏教においては
業(カルマ)の法則という
教えがあります。

私たちの
輪廻の中での因縁で
過去世に為した罪障を
(未解決な問題)
刈り取る意味合いで
今世、
さまざまな困難・苦難が
生起するという法則です。

この世という
括りだけで考えたなら
なぜ?
何も
悪いことを
していないのに
こんなにも、
次から次へと
苦難・困難が
立ちはだかるのか?
そう思うかもしれません。

しかし、
自らが為した行為は
今生では
思い出すことは
できないとしても、

責任を回避した問題は
学び、
説き終えなければなりません。

これは、
厳然とした事実として
我々の眼前に現れてきます。

しかし
さらに
付け加えたいと思います。

人間は因縁と言う
言葉に重きをおいて、
覚えていない過去に
囚われ過ぎる
必要はありません。

嫌な事があれば
自らの為した
前世からの
借金の反射だと
悲観するのではなく、

これから、
良いことが起こる
貯金をしているのだと、
考えて頂きたいのです。

未来に備えて
霊界銀行への貯金を
しているのです。

この起っている
苦難・困難は
チャンスなのです。

折角、
霊界銀行の
複利の貯金ができる機会を
逃すことは
もったいないのです。
そう考えて頂きたいのです。

このような、
徳を積むという
意味合いもあるのです。

私たちの目の前に
どんなことが起ろうとも
苦難・困難が
立ちはだかろうとも、
それは、
所詮は一過性のことなのです。
その、一過性のものごとに、
永遠の意味づけを
与えてはなりません。

人生に顕れるところの
あらゆる体験は
真実の光を
輝かせるためのものです。

私たちに
障害物を持つ
苦しさを知らせ
それを
乗越えることを
促します。
すべてが、
“一なる本源”に
向かう道なのです。

その神聖なる目的を
知ったとき
最早、
障害物は存在しません。
苦難・困難は
幻想でしかないのです。
それは
究極のレベルにおいては
導きそのものなのです。

『今日は残りの人生の最初の日』
苦難・困難何するものぞ!

“今日一日、
生かしていただいて
有難うございます“

有難うは難が有るのです。
だから、
有難うございます!なのです。
難は避けるものでは
ありません。
積極的に受け入れた時
もうそこには、
苦難・困難は消え失せ、
有難うございますの
感謝の想いが湧いてきます。

ありがとうございます。

2011年7月19日火曜日

“至福のこころ”



私たちは、
心の内奥に
神の性質を宿しています。

その神の性質を
顕した時
人は
この上ない
至福感を得ます。

この至福感を
思いっきり
感じてください。

それは
静かな時と
意識を
自分が感じる
一番幸せな場面に
焦点を当てることで
可能になります。

心を空っぽにして、
頭脳を使わずに
ただ、そのものへ
今、この瞬間に
感じてみてください。

意識は創造力です。
すべてを生み出す
力の源泉です。
そこに
至福感を感じてください。

焦点を
喜びに
深い大きな愛に
無限に
久遠に
合わせるのです。
同調するのです。
同期するのです。
波長同通するのです。

私たちには
神そのものの
生命エネルギーが
満ち満ちているのです。
それを、
充分に感じてください。

その感じた
生命エネルギーを
人々に
生きとし生ける
すべてのものに
分け与えてください。

自分が感じなければ
分け与えることはできません。
自分が感じた至福感を
その心のままで
接するのです。
それが、神の座、
心の真ん中に
在るということなのです。

私たちの
目で見えている世界
頭脳で考えている世界は
単に
自分の五官が
捉えているに過ぎません。

そこにばかり
エネルギーを
注ぐのは
非現実な事に
力を与えている
ということです。

そこに
心配がはじまります。
心を配るから
心配が始まるのです。
負のエネルギーの
連鎖が始まるのです。

心を中心に置いて
その存在のままに
エネルギーを放射し
与えるのです。
受け取る側との
波長同通です。
お互いに
引き寄せるのです。
そこに統合が
生まれてくるのです。
安全で
永遠な
そして無限に
平和と安心が
満ち溢れてくるのです。

今までの人生
どんな困難。苦難と
見えようとも
進化のための
一里塚です。
通過点にすぎません。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日、
至福の時を感じる日なのです。
ワクワクしながら
今日を確かに生きて
いや、
生かさせていただきましょう。

有難うございます。

2011年7月18日月曜日

「光は不滅です!」


わたしたち
ひとりひとりの内には
神性が宿っています。
このブログで、
何回も語ってきました。

「神性、汝の内にあり」
「霊性、汝の内にあり」
陽光燦然と輝く
光の種が
すべての人に
分け隔てなく備わっています。




しかし、
神性は
不可視なるが故に
見える
この肉体のみを
自分と思い
外にあるところの
物質にばかり
重点を置くように
なっていきます。

本当に見るべきは
現象である
肉体ではなく
本質である
神性をこそ
見なければなりません。

結果である
人間ではなく
私たちを創造し給う
原因であるところの
唯一不二の神をこそ
見なければなりません。

私たちの肉体は
神の愛の表現体として
生かされているのです。

神という生命が
離れるとき
肉体は消滅していくのです。

見えるものは
必ず消えていきます。
見えるものは
無常です、
一定のものはありません。
非実在です。
実在しているのは
見えない魂のみです。

目には見えない
神という実相から離れては
仮相である人間という
肉体は存在できないのです。

お釈迦さまは
その実相のことを
「空」(くう)と言い
その仮相のことを
「色」(しき)と言いました。
「空即是色」です。

「空」と「色」は
離れては
存在できないということです。

私たちは
元々は自由で、
無限で完全な
神性を備えた
実在の魂です。
それが
わざわざ
不自由で
有限で不完全な肉体を持ち
この現象界に
生まれているのです。

この神聖なる計画に
思いを馳せて
いただきたいのです。
魂の進化の道を
思い出して
いただきたいのです。

最初に
私たちのひとりひとりの
内には
わけ隔てなく、
神性が宿っていると
言いました。

その神性を
輝かせることです。
神性であるところの
思いやり
慈しみ
感謝の心
愛の心を
輝かせることです。

人々に対して
生きとし
生けるものすべてに
光を広げるのです。
神性は
神我とも言い
神意識とも言います。

神は積極です。
積極的に
意識して
行うのです。
神我を顕現することです。

自らの内なる光、
神我と対面してください。

静かな時を持ち
心を平らにし
自らの内なる光へ
一心集中してください。
そこにのみ
神は坐しています。

その光は
智慧であり力です。
その光は
エネルギーです。

光に勝る
智慧はありません。
光に勝てる
力は存在しません。
光は不滅です。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちは光であります。
今日、出会うすべてに
感謝を捧げ
光の配達人として
光を届けに行きませんか。

ありがとうございます。

2011年7月17日日曜日

“良寛さんを想う”

今日は、良寛さんの長歌
「月の兎」を共有してください。


石(いそ)の上(かみ) 古(ふ)りにし御世(みよ)に 有りといふ 
猿(まし)とと 狐(きつに)とが 友(とも)を結(むす)びて 
朝(あした)には 野山(ぬやま)に遊(あそ)び 
夕(ゆふ)べには 林(はやし)に帰(かへ)り かくしつゝ 
年(とし)の経(へ)ぬれは 久方(ひさかた)の 天(あめ)の帝(みかど)の 聞(き)きまして 
其(そ)れが実(まこと)を 知(し)らむとて 
翁(おきな)となりて そが許に よろぼひ行(ゆ)きて 申(まう)すらく 
汝等(なむだち)たぐひを 異(こと)にして 同(おな)じ心(こころ)に 遊(あそ)ぶてふ 
信聞(まことぎ)きしが 如(ごと)あらば 
翁(おきな)が飢(うゑ)を 救(すく)へとて 杖(つゑ)を投げて 息(いこ)ひしに 
やすきことゝて やゝありて 
猿(まし)は後(うし)ろの 林(はやし)より 菓(このみ)を拾(ひろ)ひて 来(きた)りたり 
狐(きつに)は前(まへ)の 河原(かはら)より 魚(いを)を銜(くは)へて 来(きた)りたり 
はあたりに 飛び飛べど 何もものせで ありければ 
は心 異(こと)なりと 詈(ののし)りけれは はかなしや 
りて 申(まう)すらく 猿(まし)は柴を 刈(か)りて来(こ)よ 
狐(きつに)はこれを 焼(や)きて給(た)べ 
言(い)ふが如(ごと)くに 為(な)しければ 
炎(ほのほ)の中(なか)に 身(み)を投(な)げて 知(し)らぬ翁(おきな)に 与(あた)へけり 
翁(おきな)は是(これ)を 見(み)るよりも 心(こころ)もしぬに 
久方(ひさかた)の 天(あめ)を仰(あふ)ぎて 打(う)ち泣(な)きて 
土(つち)に僵(たふ)りて やゝありて 胸打(むねう)ち叩(たた)き 申(まう)すらく 
汝等(なむだち)みたりの 友達(ともだち)は いづれ劣(おと)ると なけれども 
ぞ殊(こと)に やさしとて 元(もと)の姿(すがた)に 身(み)をなして 
骸(から)を抱(かか)へて 久方(ひさかた)の 月(つき)の宮(みや)にそ 葬(はふり)ける 
今(いま)の世(よ)までも 語(かた)り継(つ)ぎ 月(つき)のウサギと 言(い)ふことは 
これか由(よし)にて ありけると 
聞(き)く吾(われ)さへも 白栲(しろたへ)の 衣(ころも)の袖(そで)は 透り(とほり)て濡(ぬ)れぬ
月(つき)の(をさぎ)
(糸魚川歴史民俗資料館『相馬御風と良寛遺墨』から読み方のルビ引用)

 ずっと昔のこと、
猿と兎と狐が一緒に暮らそうと約束し、
朝には一緒に野山を駆け廻り
夕方には林に帰り仲良く暮らしていました。
こうして年月が過ぎていきました。
天帝がそのことを聞き及び、
そのことが本当かどうか確かめたいと、
老人に姿を変えて現れました。
そして、よろめき倒れながら
「お前達は異なった種類なのに仲良く暮らしていると聞いたが
それが本当ならば、私のこの空腹をどうにか救ってくれないか」と
杖を投げ出して座り込んでしまいました。
猿は、「それは、簡単です」と
林の中から木の実を拾い戻って来て、老人に与えました。
狐は川原から魚をくわえて老人に与えました。
兎は野山をあちこち飛び廻ってみたけれど、
何も手に入れることが出来ませんでした。
老人が「お前は他のものと異なって思いやりが無い」と
兎を叱りました。
兎は心の中で考えて
「猿さんは、柴を刈って来て下さい、
狐さんは、それを燃やして下さい。」と言いました。
 二匹は言われたとおり準備をしました。
兎は炎の中に飛び込んで焼け焦げ、
老人に自分の肉を与えました。
老人はその姿を見て心も、
しおれるばかりに天を仰ぎ涙し、地面に倒れ伏しました。
しばらくして胸をたたくようにしながら
「お前達三匹の友達は誰が劣ると言うのではないが、
兎は特に心が優しい」と言いました。 
天帝は兎の亡骸を抱き、月の世界の宮殿に葬ってあげました。
今現在も語り継がれ「月の兎」と呼ぶことは、
こんないわれであったのだと、聞いた私までも、
感動のため白たへ(黒染め)の衣の袖が涙で滲みてぬれてしまいました。


如何でしたか、
この「月の兎」の元になっているものとして、
古くは、
ジャータカ物語(本生譚・ほんじょうたん)
に記されており、
そして、孫悟空で有名な
玄奘(げんじょう)三蔵(三蔵法師)さんが
著した「大唐西域記」から伝わって
日本では「今昔物語」巻五にある
「捨身伝説」に基づいて
良寛さんが万葉風の長歌に
したためたものだそうです。

この評価は
読んだ方に委ねたいと思います。
コメント下されば
ありがたいです。

良寛さんは
あまり、人々に説法をするのが
好きではなく、
何か人に求められた時には
筆を取り書かれていたそうです。
上記の「月の兎」も長歌にして
遺墨として残しています。
(糸魚川歴史民俗資料館展示)

他の遺墨の中で
“言葉についての戒め”があります。
よく取り上げられているので
知っている方も多いと思います。
これも、共有してください。

ことばの多き、
話しの長き、
問わずがたり、
てがらばなし、
じまんばなし、
おのが氏素性高きを人に語る

人のもの言いきらぬ内にもの言う、
さしで口、
人の話のじゃまをする、
ことばのたがう、

たやすく約束する、
人に物くれぬ先に何々やろうと言う、
くれてのち人に語る

よく心得ぬことを人に教うる、
おしはかりのことを真実になして言う、
よくものの講釈をしたがる

人の隠すことをあからさまに言う、
人の悪しきことを喜んで言う、
口を耳につけてささやく

まけおしみ、
人のことをよく聞かずして答える、
へつらうこと、
心にもなきことを言う、
あなどること

いやしき人を軽しめる、
おろかな人をあなどる、
下僕をつかうに言葉の荒き、
鼻であしらう

語りくさき話、
学者くさき話、
茶人くさき話、
酒に酔いて理屈を言う、
あくびとともに念仏。

と続きます。
いかがですか?

当たり前のような
感じがしますが、
客観的に見ると
結構、当てはまるのでしょうね(笑)
いつも、意識していたい戒めです。

良寛さんは
道元さんの「正法眼蔵」(90巻)
を愛読していたようです。
道元さんの教えの中心は
「愛語」ですから、
良寛さんは、
自らの“戒”としての
“言葉についての戒め”
であったのだろうと思います。

良寛さんは
一生を通じて
「愛語」を貫き通した方でした。
そして、
無所有の今とここを極めた方でした。

ありがとうございます。

2011年7月16日土曜日

「自神(じしん)を見つめる」


最近よく、
悩み相談をいただきます。

「自分は、
ダメな人間です!」と
メールを
いただいたりすることが
あります。

その内容を見ていると
他の人との
比較をして
「自分はダメだ!」と
自信を喪失しています。


なぜ?
他人と自分を比較して
悩むのでしょうか?
他人と自分の
今生のテーマは
元々、違います。

違うテーマで
違う体験をしながら
進化をしています。

山に登る時
目指す頂上は同じであっても
登るルートは違います。

山登りをする方は
ご存知でしょうが、
富士山に登るにしても
吉田口(河口湖口)ルート
須走口ルート
御殿場口ルート
富士宮口ルートと
四つのルートの
登山道があります。

富士宮からのルートは
初心者向けのルートです。
初心者の方が
いきなり
吉田口や須走口から
登りますときついです。

それと同じように
それぞれの人生も
生まれ変わりの回数や
その輪廻の中で
体験を終えてない部分に
スポットを当てて
いますので、
違うのは当然なのです。

ですから、
違いを見て
比較をして
「自分はダメだ!」と
思うこと自体が幻想です。

他の人と
比較をする価値観をこそ
見直さなければなりません。

違う問題集を
解いているのに
人と比較して
自信をなくすことは
なんと!
馬鹿げていると
思いませんか?

自分の問題集や
設計図を
自信を持って
解いてください。
「自殺の意味するもの」
(6月15日号参照)

自分を
もっと信じてください。
自信とは、
読んで字の如しで
自分を信じることです。
自分を信じることで
自信が湧き上がってきます。

自信とは、
自神(じしん)です。
自分の内に
神が内在しているのです。

ほんとうの信仰とは
自分がそのままで
完全であることを
信じることなのです。
どこか遠くにある神を
信仰するものではありません。
自分の内をこそ
見つめてください。

そして、
自分の目の前に起こる
すべての出来事や
その出来事に関わる
人たちを受け入れてください。
自分に関わってくれる
大切な人たちなのですから。

そして、
自らの問題集のテーマを
大切にすることです。

以前のブログにも書きましたが
「病気が語りかけるもの」
(6月24日号ブログ参照)
私の女房は
6年半前に
食道がんになり
20回も手術をしています。
今は、
21回目の
手術を待っています。
しかし、主治医の先生は
「リスクがあるので!」と言って
もう既に、
一年近く延期しています。

今彼女は、
歩くことも
困難な状態です。
少しでも歩くと、
息が上がってしまいます。
彼女は、
体重も28キロです。
少しでも栄養をつけ
体力をつけ
普通に歩くことができて
手術に耐えられる体に
なることが
彼女の
今の最大の課題なのです。

あなたの課題が何であれ、
また、
「自分はダメだ!」と
自信を喪失している
渦中にいたとしても、
自分の中の
中心軸をしっかりと
見失わないことです。

その渦中において、
自らの神性であるところの
良心を顕現させることが
最大の目的なのです。
この目的に気づくことこそが、
自信の源泉なのです!

『今日は残りの人生の最初の日』
今日も生かされました。
その、
生かされていることに
心からの感謝をして、

自分のテーマを楽しんで
取り組んで
いこうではありませんか。

ありがとうどざいます。

2011年7月15日金曜日

「魂の約束」

今日は、
「魂の約束」という詩を
紹介します。
作者は、
醍醐千里さんと言って
長い間、
学校の先生をしていた方です。
この詩は、
2008年4月に、
新日本文芸協会芸術祭
奨励賞を受賞いたしました。

作者のこころが
満ち溢れている
やさしく包まれるような
とても素敵な詩です。
共有してください。


「魂の約束」       醍醐千里

私たちは生まれるとき、神様から魂をいただきました。
みんなその魂を、自分の真ん中においています。

魂は磨けば磨くほど光ります。

漢字の練習を一生懸命しました。
魂は昨日より光ります。

電車でおじいさんに席をゆずりました。
魂は昨日より光ります。

弟におやつをあげました。
魂は昨日より光ります。

今日はごめんねが言えました。
魂は昨日より光ります。

あの人にありがとうが言えました。
魂は昨日より光ります。

努力をしたり、誰かや何かに優しくすることは
魂を磨きます。

けれど
努力をしたり、優しくすることだけではなく、
楽しいこと、うれしいことも、
魂を光らせることが分かりました。

友だちと楽しく大笑い。
魂は昨日より光ります。

誕生日のプレゼント。
魂は昨日より光ります。

楽しいことやうれしいことも魂を磨くと知って、
私はなんだかホッとしました。

ある日、そうじをさぼって友だちと遊びました。
友だちと楽しく大笑い。
けれどその日、自分の中の魂を見て驚きました。

あんなに楽しく笑ったあとだったのに、
魂は、光るどころかくもっているのです。

ある日、友だちからネックレスをもらいました。
お店から盗ってきたネックレスだと言います。
ほしかったものなので、
よく考えもせずにそれを受け取りました。

その夜、魂を見てみたら、その日もまた魂は、
昨日よりくもっていました。

ある日、一人が言いました。

ねぇ、あの子、はぶかない?
あっという間に、その子はひとりぼっちになりました。
私は、その子をひとりぼっちにさせる側にいました。
その輪の中で私には、急に仲間が増えました。
新しくできた仲間とともに、
おもしろおかしく過ごしました。

そんな日々を送る中、
私は久し振りに、自分の中の魂を見てみました。

私の魂は真っ黒になっていました。
私は、自分の魂の色を見て、
とてもおそろしくなりました。

楽しいこと、うれしいことの中にも、
魂をくもらせること、
魂を濁らせることもあると分かりました。

楽しいこと、うれしいことには、
2種類あると分かったので、
これからは、
気をつけていかなければならないと思いました。

毎日魂を磨き、
毎日魂の様子を見ているうちに、
私は不思議なことに気がつきました。


磨いたつもりのない日でも、
魂の輝きが、増しているときがあるのです。

そういう日の一日を振り返ってみると、
その日は、きれいな花を見たり、美しい夕焼けを見たり、
そういう日だったことが分かってきました。

映画を見たり、本を読んだり、音楽を聴いたり。

そういうことでも魂を、磨くことができるのです。

楽しいことやうれしいこと、
目にした景色や、聞こえてくるメロディ、あたたかな言葉。
その日その日のなんでもないことも、
私の魂を磨き続けてくれたのです。

できるだけ魂を光らせようと、毎日を送っていましたが、
ある日、私は少しだけ疲れてしまいました。

夢の中で私は、神様に会いました。

夢の中で私は、神様に聞いてみました。

神様、私はいつまで魂を磨けばいいのですか。
私の魂は、いつ完璧に美しくなるのですか。

神様は言いました。

あなたは、あなたの最後のひと呼吸まで、
魂を磨き続けなさい。
みんなその約束をして、地上に生まれているのですよ。

でも、神様、磨き終わらないうちに、
最後のひと呼吸がきたら、
どうすればよいのですか。

心配しなくて大丈夫。
あなたの魂は、最後のひと呼吸のとき、
必ず、最高の光を放ちます。

神様、私にはその自信がないのです。

あなたは、毎日魂を磨いています。
だから大丈夫。
最後のひと呼吸のとき、
魂はそれまでで一番美しい姿を見せてくれます。
何も心配いりませんよ。
あなたの魂は毎日、昨日より輝きを増しているのです。

ときどき、自分の魂を、離れたところから見てごらんなさい。
あなたの魂があなたの体を越えて、
まわりに光を与えていることにも、
気づくことができるでしょう。
このごろでは、あなたの魂の輝きで、
道を明るくする人も増えてきました。

さぁ、戻って、魂を磨いてきなさい。
毎日を楽しくうれしく感謝の気持ちで送るのですよ。
そうするとあなたの魂は、キラキラと光を強くしていきます。

あなたがここに来るのは、まだまだずっとずっと先。
あなたの人生を、楽しんでいらっしゃい。

あなたがどんなに素晴らしい魂を持って、ここに帰ってくるか、
私はそれを楽しみにしています。

目が覚めた私は、
それまで気づかなかったことに気づきました。

昨日より今日。
今日より明日。

私の魂は輝きを増し続け、毎日新しく生まれ変わります。
そして必ず、その日の魂が1番光る魂。

少しの努力、優しい気持ち、
そして
うれしいこと、楽しいこと。
日々の中に散りばめられた美しいもの。

神様との約束を思い出したので、
私は、なんにも心配しないで、
毎日を送っていくことができそうです。

なんにも心配しなくても、
私の魂は、昨日より光ります。

光り続けます。          (完)


如何でしたか、

“魂を磨く”と聞くと
何か、大変な修行や修練が
必要だという観念に
取り付かれている人もいて、
「こうあらねばならない!」とか、
考える方も多いです。

この「魂の約束」の
詩の中にあるように

“少しの努力、優しい気持ち、
そして
うれしいこと、楽しいこと。
日々の中に散りばめられた
美しいもの。”

自分の中に
元々は備わっている
素の自分を現わすこと。

それだけで、
魂は磨かれていくのです。

そして、
こうも書いていました。

“さぁ、戻って、魂を磨いてきなさい。
毎日を楽しくうれしく
感謝の気持ちで送るのですよ。
そうするとあなたの魂は、
キラキラと光を強くしていきます。“

私たちは、
常に、
生かされていることへの
感謝を忘れずに

そして、
わくわくして
人生を
楽しんでいきましょうね。

今日も
暑くなりそうです。
冷たいおしぼりや
涼を感じる
風鈴の音や
木々のそよぎ、
打ち水や
すだれ
カキ氷
あちこちに朝顔が
涼しい姿を見せてくれます。
公園の噴水
キャンディ売りのおじさんも
自転車に乗って
涼を運んでくれてます。
イベント会場や
レストランでは、
氷柱も見ることができます。
打ち上げ花火に
海やプールや
キャンプファイヤー
水族館
お化け屋敷や
扇子や団扇
ゆかた姿や甚平姿
そして
ビヤガーデンも入りますね(笑)
書き切れない位の
夏ならではの
わくわくや楽しみが
目白押しです。

今日あなたは、
何を味わいますか。

ありがとうございます。

2011年7月14日木曜日

“幸福を感じるこころ”

        By.Photo Akiyo.I

今、この瞬間
あなたは幸福ですか?
それとも、
不幸ですか?
こう問われたら
どう、答えますでしょうか?

「私は、不幸です!」と
答えたあなたは、
これから先も、ずっと
不幸な人生を
送ることになります。

今、この瞬間にのみ、
確かな時が存在します。
今、不幸だったら
いつ、幸福になれるのでしょう。

真理とは
単純明快です。

真理は、
ただ自分を
変えるために
存在するのです。

自分の見方・考え方を
変えるために存在します。
他の人や外の世界を
変えるのではないのです。

不幸ということは
あなたは、
自分の中に
不幸の種を見ています。

幸福ということは
あなたは、
自分の中に
幸福の種を見ています。

あなたの意識の焦点を
不幸に当てるか
幸福に当てるかによって
幸・不幸は決まるのです。
そのどちらかしかありません。

私たちの世界は
二元性という対極があるから
存在しています。
光をより輝かせるためには
暗闇が存在するように

しかし、
どちらに
スポットを当てるかは
自分で決められるのです。

あなたは闇を選びますか?
それとも光を選びますか?

あなたが、
幸福かそうでないかは
あなたの
今、置かれている環境や
状況によって
決まるわけではありません。

常に幸福の種を見つけ
それを育てていけば
幸福なのです。

私たちは
条件をつけることがあります。
「これさえあれば、
幸福なんだけど」とか
「これこれがないから、
不幸だ!」とか
言ったこと、ありませんか?

それは、
自分を狭く限定した
考え方に過ぎません。
その思考をこそ
変えなければなりません。

その価値観をこそ
変えなければなりません。

私たちの本質は
無限であり
自由自在であります。
それを発見せんがために
わざわざ
この世へ降りてきました。
魂の進化に必要だから
降りてきているのです。

神我である
自由自在
融通無碍
全知全能を知るために
不自由という
思い通りにならない感覚を
わざわざ学びに
降りてきているのです。

であるならば、
不自由な感覚を
充分に感じ取り
味わい尽しましょう。

そして、
人は、
ほんとうの自由に至るのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間に
目の前にある
幸福を感じてください。
目の前にある人々や
すべてのものを
愛してください。

ひとつの条件も
つけることなく
思いやり
慈しみ
心から愛してください。

それが、
”幸福を感じるこころ”であり、
神我に到達する道なのです。

ありがとうございます。

2011年7月13日水曜日

『告白的プロレス論』

本日は、
少し趣の変わったお話になります。
私のプロフィールの趣味の欄に
精神世界と並んで格闘技と書いてあります。

精神世界と格闘技に
どんなつながりがあるのかというと、
何もありませんね(笑)

告白でもあるのですが、
1973年5月4日のことです。
当時の格闘技と言えば、
プロレスです。
新日本プロレスの川崎市体育館での出来事です。

この日は、
プロレスファンなら
誰しもが知っている事件が起きました。
リングでは、
昨年8月に、お亡くなりになった山本小鉄さんと
スティーブ・リッカードさんの試合が行われてる最中でした。
客席から突如、
ターバンを巻いた大柄の外人がリングに乱入し、
山本小鉄さんを殴り、
コブラクロー(首を絞める技)で小鉄さんを失神させたのです。
それを、見ていた日本人の若者が、
その行為に激高し、
そのターバンの外人がリングを降りた瞬間、
飛び掛り、頭突きをその男に喰らわせました。
慌てたリングサイドに陣取っていた若いレスラー達が、
二人の間に立ちはだかり、一生懸命になって止めました。

その、ターバンの外人は、
その当時、日本では誰も知らないレスラー、
タイガー・ジェット・シンさんだったのです。
そして、そのシンさんに頭突きを喰らわしたのが、
今でも誰も知らない私(アーカメロディ)だったのです。
私たちの番外戦を止めてくれた若いレスラーたちの中には、
藤波辰巳さんやリトル浜田さんたちがいました。
その後、後で語る
『インディーズ活性化委員会』で知友を得た
グラン(リトル)浜田さんと
この話をして、大笑いをしたことがあります。

いまでこそプロレス界に“事件”は多数起こっていますが、
当時としては前代未聞の乱入劇でした。
その後、タイガー・ジェット・シンさんは
日本のプロレス界で長年に渡って大活躍をしています。
プロレスファンでなくても、
40代くらい以上の人でしたら知っていると思います。

その日の、川崎市体育館の会場には、
私のすぐ近くに座っていた
ターバンを巻いていた外国人は、
私も見て確認はしていました。
普通に観戦していたので
一般の観客と思っていましたので、
まさか乱入するなどとは、
露ほども思っていませんでした。

当時の私は、
6~7年前から、ボクシングや重量挙げなどをやっていて、
後で、書きますが
当時、国際プロレスという団体のストロング・小林さん
(現ストロング・金剛)と知友を得ていて、
私の練習場(といっても建材店の倉庫ですが)に来てくれて、
一緒に練習したり指導をしていただいていました。
国際プロレスの巡業にも
参加させていただいたりしていました。
後に全米の大スターとなる
故アンドレ・ザ・ジャイアントさんが
まだ、モンスター・ロシモフさんという
名前で出ていた頃のことです。

その当時の私は、好んで喧嘩ばかりして、
川崎のパチンコや飲み屋の用心棒などもしていた時期で、
心が荒れていましたので、
川崎市体育館のシンさんの乱入は
願ってもない“事件”だったのかもしれません。

その件について、
ストロング小林さんからも、
「あまり、無茶しないほうがいいよ!」と、
注意されたのを覚えています。
また、タモリさんが
この川崎市体育館のシンさんと観客の番外編を
ご自分のTVの番組で取り上げて、
「あの、タイガー・ジェット・シンに殴りかかった、
客がいた。
馬鹿な観客がいるものだ!」と言ったとか、
友人に聞きました。
(でも、こんなこと恥ずかしいので確認は取っていません。)

このような私でしたが、
このプロレスとの出会いは
親孝行からの出発でした。
まだ、小学校に上がるか
上がらないかの頃に溯ります。
「オールウェイズ三丁目の夕日」の
映画のシーンのように、
テレビが普及していない時代、
街頭テレビの時代です。

力道山さんが日本中の英雄でした。
空手チョップで
大きな外人をバッタバッタとなぎ倒していく勇姿を、
人々は街頭テレビの前で、
人だかりになって
歓声を上げながら見ていた時代です。

私の亡くなった親父が、
(45~6年前に亡くなっています)
相撲とプロレスが大好きで、
相撲はラジオで聞き、
プロレスはスポーツ新聞で読んでいました。

親父は明治20年代に生まれた人で、
私が
ものごころつくかつかないかの時分から、
喘息で苦しんでいて、
私の親父の記憶は、
喘息で咳をしている
その咳の音と苦しそうな親父の姿です。

その親父が、
視力も悪くなっていて
新聞も思い通りに読めなくなっていました。
好きなプロレスの情報が遮断されるのは、
楽しみの少ない時代です、
何か可哀想だと思いました。

私は、その時から毎日、
新聞のプロレスの記事を
親父に読んであげることが、
日課になっていました。
でも、プロレスは難しい技の名前や
難しい漢字があり、
悪戦苦闘しながら
兄が使っていた
ボロボロの辞書を引き引き
読んであげたことを覚えています。

「力道山!怒涛の空手チョップで赤鬼を粉砕する!」とか
「長時間に渡り、腕固めを決められる力道山、
必死な思いで、ロープに逃れる!怒り心頭に達した力道山は、
阿修羅の如く形相で空手チョップを12発も打ち下ろし、
最後はルー・テーズ伝承の岩石落しにて、
勝利を収めたのである!」と言った具合です。

とても、難しい!(笑)
そのお陰で
漢字は学校に上がってからも、得意になりました。
それがきっかけで、
自然にプロレスのファンにもなっていきました。

その当時から、
それ以降のプロレス黄金時代の事を
語ったらキリがありません。
要望があれば、又、どこかの機会で書くとして
先ほど、出てきたストロング小林さんと
アントニオ猪木さんとの試合について
書いてみます。


1974年3月19日
ストロング小林さんと
アントニオ猪木さんとの世紀の対決が、
蔵前国技館で行われました。
当時のプロレス界では、
力道山時代から
「善玉日本人対悪玉外国人」という流れがあり、
ジャイアント馬場さんの全日本プロレスも、
一流外国人レスラーと
馬場さんとの対決が主流でありました。

若手レスラーの場合を除いては、
「日本人対決」はタブー視されていた時代です。
ましてや、
当時ストロング小林さんは
国際プロレスのエース、
アントニオ猪木さんは
新日本プロレスのエースでした。
今のように、
プロレスや格闘技団体が
乱立している時代ではなく、
力道山由来の日本プロレスは
猪木さんや馬場さんが抜けて
風前の灯でした。
馬場さんの全日本プロレス
吉原 功さんの国際プロレス
猪木さんの新日本プロレスしか
ない時代のことです。

二人のエース対決は、
当時のプロレスファンのみならず、
世間を驚かせました。
試合会場の東京・蔵前国技館には
1万6500人(超満員)もの
大観衆で埋まりました。
チケットを買えなかった
多くの人々が会場周辺に溢れ、
蔵前国技館はごった返していました。

私は、
その戦いで、
ストロング小林さんのセコンドの一人として、
リングサイドの小林側コーナーに陣取り、
敵であるアントニオ猪木さんに罵声を浴びせ、
ストロング小林さんの応援をしていました。

試合はファンの予想を
はるかに超える名勝負になりました。
結果は29分30秒、
ジャーマン・スープレックス(原爆固め)で、
アントニオ猪木さんが勝利しましたが、
試合が終わって、
控え室に引き上げるストロング小林さんに向かって、
「お前は、強い!」とか
「お前がの方が勝ったぞ!」
とか、多くの観客が大声援を
送っていたのを覚えています。
控え室に戻ってからも、
控え室の上部にある
金網入りのガラス窓に人が群がり、
その丈夫なガラスに
ひびが入った程の熱気でした。

アントニオ猪木さんの
数ある名勝負の中で、
一番か二番に挙げられるほどの、戦いでした。
テレビ視聴率も20%を遥かに越え、
翌日のスポーツ紙は
全紙が一面で報じました。
一般の新聞にも掲載されたほどです。
私にとっても
思い出に残る一番の名勝負です。


私はその後、
縁があって少なからず、
プロレス界と
関係を持つようになっていきました。

新日本プロレス全盛時代の
タイガー・マスク(佐山サトルさん)が、
新日本プロレスを辞めて、
タイガージムを設立した際、
スポンサーとして参加しました。

『ザ・タイガー・甦る四次元殺法』とか
1984年7月23日に
後楽園ホールで行った試合の
『UWF無限大記念日 
ザ・タイガー・高田延彦VS
藤原喜明・前田日明』等のビデオを発売しています。

アントニオ猪木さんの
『闘魂ザ・ワールド』というビデオも出しました。

その後、
前にちょっと
書いた
グラン浜田さんと知友を得る
きっかけとなった、

伊藤章彦さんという
私の友人が立ち上げた
『インディーズ活性化委員会』の
顧問もさせていただきました。

前K-1の石井和義さんにも、
K-1が始まる以前に、
K-1の企画の話を伺ったこともあります。

新日本プロレスやゼロワン、
武藤敬二さん率いる
全日本プロレスの
ビデオやDVDを数多く撮ってきた
小路谷秀樹さんとも、
親しくお付き合いを
させていただいています。

親父にプロレス記事を
読んだことが縁を持ち、
いろいろな格闘技の
いろいろな方たちの
接点が持つことができました。

縁とは異なもの不思議なものです。
それぞれに、独特の個性があり、
いろいろ影響も受けてきました。
みんな、すばらしい方々です。
格闘技関係で出会った人々に
感謝したいと思います。

『今日は残りの人生の最初の日』
過去は教訓としてのみ、生かすことができます。
今日を皆さんと共有できたこと、
本当にありがとうございました。

2011年7月12日火曜日

「私は、主人公です!」

『今日は残りの人生の最初の日』
このブログの
タイトルです。

それは、下記の意味で
名づけました。

今日という括りしか、
私たちには
存在しません。

もっと、
厳密に言えば
今、
この瞬間にしか
確かな実在はありません。

だから、
昨日までの人生は
どんな人生だろうが、
もう、
既に
過ぎ去ったものです。

既に、
過ぎ去ったものに
しがみつき
それを、
実体のあるが如く
今をも、
心を占有し続ける。
それは、
幻想に過ぎないのです。

そういう意味で
『今日は残りの人生の最初の日』の
タイトルをつけました。

また、
これからの
未来の人生は
まだ、
誰にも来ていないし、
来る保障もありません。

それも、
実体のあるが如く
こころを占有します。
それも、
幻想に過ぎません。

そいいう意味では
『今日は残りの人生の最後の日』
でもあります。

過去も、
未来も
実体はありません。
それなのに
私たちの心は
いつも、
過去と未来に
占有されています。

それでは
今日を生きる。
今を生きる。
この瞬間、
瞬間を生きることは
できません。

それが
このブログで書いた
神道における
なかいま』(中今)の
考え方の
意味合いでもあります。

時間の
永遠の流れのうちに
中心点として
確かに
存在している今を

それは、
神と共に
存在している
今のことです。
と書きました。
『なかいま』
(7月9日号ブログ参照)

何回も振り返って
読んで頂きたいと
思っています。

私たちは
今という、
この瞬間、
神と共に
存在しています。

神は
有限者ではありません。
無限者であります。

神は、
生きとし
生けるものを
排斥し
分離はしません。
育みそだて統合します。

無限であり、
統合であるならば、

私たちの
目の前に
現れるところの、
すべての現実は
「私たちが生み出した。」
ということを
認める立場にある。
ということになります。

「なぜ?そうなるの?
冗談じゃない!
そんなこと厳しすぎる!」
と聞こえてきそうです。

それは
私たち
ひとりひとりが
「私は、主人公である。」と
認める立場でもあります。

私という存在は
毎日、毎日
確かな実感を
持っています。

いくら
身近にいる
配偶者や
家族でも
私という存在の
ようには感じられません。

その確かな私が
「主人公」なのです。

「私は主人公」という
立場であるなら、
私の目の前に現れる
すべでの物語の責任は
私にあることになります。

今までのように
有限という立場を
取っていたとしたら、

自分に都合のいいように
判断をし

「これは必要だけど
これは不必要だ!」

「この人はいい人だけど、
この人は悪い人だ!」と
分類して
仕分けをしていました。

この立場に
立つ限り、
何か不都合や
問題が起った時、
私たちは、
その原因を
自分の外部に求めます。

その責任を
自分以外の外部に
転嫁しようと考えます。

「私は主人公」という
立場を選択した場合は、

すべては、
自己責任ですから、
例え、
不都合や問題が
起きようとも
その原因を
外には
求めなくなります。

すべて、
「私が、生み出した!」と
なります。

何か問題が
生じたとしても、
「誰が?」と
いう考えはとらず、

「どうして?
そうなったんだろう!」
という内部からの
問いかけが
湧き上がってきます。

その立場で
また、
新たな現実が
起きてきます。

そして、人は
自我の気づきを得て
有限から無限へと
飛翔していくのです。

どちらの道を
行くかは
それぞれに
委ねられています。

しかし、
どちらを
選んだとしても
いずれは
無限の道へ
進むことになります。

それは、
私たち
ひとりひとりが、
帰り着く
”一なる本源”が
そこであるからです。

だとするならば、
『今日は残りの人生の最初の日』です。

過去は
既に過ぎ去っています。
過去の
奴隷になってはいけません。

今、この瞬間に
この確かな最初の日に
「私は、主人公である。」と
宣言しましょう。

そして、
『今日は残りの人生の最後の日』です。

未来は不確実です。
幻想なのです。

今、この瞬間に
この確かな最後の日に
「私は、主人公である。」と
宣言しましょう。

この道は
創造者である
神へ向かう道です。

この道を
選択したとき
すべての人々や
出来事は
私たちを
進化へと導く
協力者以外の
何者でもなくなります。

困難、
苦難と見える
様々な出来事も、
敵のように
立ちはだかっていた
憎き人たちも、

自分を主人公とする
自分の物語に
彩をまた、
渋さを加え、
充実した偉大なる物語に
完成させようと
協力してくれた
名バイブレイヤーだったのです。

さあ、
今日という一日に
出会う出来事
出会う人々
出会う環境は

私たちが自我に
気づき
神我へと
到達するための

私たちへの
メッセージを携えています。

感謝の気持ちで

その
珠玉のメッセージを
受け入れて
いこうではありませんか。

ありがとうございます。

2011年7月11日月曜日

“ひとりひとりのパズルピース”


人間も長く
生きていますと
その時間的経過の分
多くの人との
出会いがあります。

また、
私自身
いろいろな人間に
興味を持つらしく、
特に幅広い人たちと
接点を持ってきたらしいのです。

なぜ?“らしい”かと言うと
本人は、
至ってそのつもりがなく
その時の縁で
自分の人生に
拘っていただいた
人たちばかりなので、
年相応の
付き合いの範囲と
思っていましたが、

人の評価は
そうではないのです。

或る人に
言わせますと
反社会的勢力の人間も
裏の稼業も
一流企業の経営者から
ホームレスまで、
本当に
幅広い人脈を
持っていると言うのです。

世に、
反社会勢力とか
裏稼業とか
あるのか?
どうかは別にして

それぞれの
この世での
修行課題という
テーマにおいて、

それぞれの
個性の違いと
時代性が
幅広い
選択をしたという
観点での
幅広い領域の
友人はたくさんいます。
ただ、
それだけのことです。

このブログでも
書きましたが、
その時に、
ホームレスだった人たちとの
お付き合いもありました。
「ホームレスの人たちとの出会い」
(6月22日号・ブログ参照)
彼らは、
彼らなりの理由があり
ホームレスを
していましたが、
魂的には
豊かな人が多く
ほんとうに優しく
気のつく人たちでした。

私が会った
当時、ホームレスの人たちは
現代の修行僧の
如き人たちでした。

ほとんどの人が
そうであるように、

彼らも、
この世に生まれ
学校に行き
社会人となり
いろいろな人々や
いろいろな物事の
出会いを通して、
体験上、喪失をし
結果、
ホームレスと
なっているのです。

いや、実際は
結果ではなく、
まだ途上です。
プロセスです。

しかしながら、
魂は喪失している
わけではありません。

或る人は言いました。
「彼らは、怠け者だ!
やる気になれば、どんな仕事だってある!
公園は一般の人たちのものだ!
我が物顔で使っている!汚いし、景観も悪くする!
何とかならないのか!」

これは、
ある一面だけを見ての
発言です。
人間を
偏った見方だけで
判断する
典型的な考え方です。

彼らは
少なくとも
決して
怠け者ではありません。
仕事もしています。

彼らも
私たち同様、
“一なるものの本源”
というタイトルの
ジグソーパズルを
完成させるために、

絶対に
欠かすことの出来ない
自分特有の
パズルのピースを
持っています。

誰ひとり欠けても
ジグソーパズルは
完成できないのです。

何とかしなければ
ならないのは
その穿った見方をこそ
何とかしなければ
なりません。
分離からは
何も生まれません。
ジグソーパズルは
完成しないのです。

寧ろ
平凡ではない
彼らこそ
私たちが
代わり得ない
難しいデザインの
ピースを持っています。

私たちの道は
“一なるものの本源”を
完成させる旅への
道のりです。

永遠なる
無限なる
大愛なる
神と一体となるための、
旅であるのです。

私たちの
魂の真実は
その神性である

愛や
思いやりや
慈しみ
いたわり
励まし
ねぎらいという
言葉に顕される
性質の魂なのです。

もう一方で
私の友人の中で
この世でいう
成功者で
お金持ちと
言われている人が、
数多くいます。

その中の
決して少なくない
割合で
不安感や
焦燥感や
不足感に
苛まれている
人たちがおります。。

持っていない
人たちからすれば
何で
不安があるのか?
ましてや
不足があるのか?と
疑問に思うようです。

しかし、
私もそうでしたが、
どんなに
この世的に
成功していたとしても
お金持ちになり
高級なものを食べつくし
贅を尽くしたとしても
結局のところ
自分の魂を
犠牲にした成功は
真の成功ではないのです。

自分の魂が
損なわれた
形での成功では
こころが
満たされることはありません。

胃袋を
いくら
世界の
三ツ星レストランで
満たそうとも
一時の
舌の感覚を喜ばすに
過ぎません。

勿論、
一流シェフが創った
工夫や技術は
確かなものがあり、
それはそれで
すばらしいのですが、

一番は
せっせと家族のために
毎日、愛情を入れて
こしらえてくれる
奥さんの
ご飯と味噌汁とあじの開きが
おいしいのです。

幸福を感じることが
できるのは、
胃袋や
頭脳や
財布ではなく
魂だけなのです。

私たちすべてに
その魂の内部に
本源なる光輝く
愛と思いやりが
備わっています。

潜在的に
本質のこころが
解っているのです。

その良心とも
言うべき本質との
ギャップが
不足を感じるのです。
不安を感じるのです。

ホームレスの人たちも
お金持ちの人たちも
誰もが、
本質に本源に戻る道を
歩いているのです。
そういう意味では
公平なのです。

“一なるものの本源”という
タイトルの
ジグソーパズルが
確かな姿を顕すには、
あなた独自の
パズルピースを
的確な場所に、
愛の形で
歓びの形で
思いやりの形で
嵌め込まなければなりません。

歓びを選んでください。
愛を選んでください。
叡智を選んでください。
それこそが
真実のパズルピースです。

創造主の歓びとして。
創造主の愛を
ジグソーパズルの
キャンバスに
しっかりと
嵌め込んでまいりましょう。

ありがとうございます。

2011年7月10日日曜日

36年前の“真理ノート”

先日、
書斎を整理していたら
若いときに勉強した
古いノートが
でてきました。

ペラペラとめくりながら
読んでいるうちに
ちょっと、夢中になり
読み耽ってしまいました。

表紙を見ますと
“真理ノート”と書いてあり
その下に
1975年1月~と
ありましたので
36年前のものです。

中味は
どんなかといいますと
谷口雅春先生や
ルドルフ・シュタイナーさん
エマヌエル・スウェーデンボルグさん
ヨハン・ウォルフガング・
フォン・ゲーテさん
ドイツの詩人の
ゲーテさんは
こんな長い名前なんですね、
知らなかった。
当時の私のノートには
そう書いてある。

当時、
好きだった方の本の
抜粋が書かれていました。

内容を見ますと、
こころの内面に
関するところの
抜粋が多いのです。

それには、
私自身が驚きました。
と言いますのは、
当時の
私のこころの状態とか
実際の生活面においては
真逆の感が否めません。

しかし、
その“真理ノート”なる
ものは存在し、
見ていて
少しずつ、
記憶が蘇ってきました。

その当時、
既に家庭を持っており、
子供も2人いました。
生活がかかっていて、
したい仕事というより
お金の稼げる仕事を
重点にしていました。

ただ、ひたすら
その外的な事情に
翻弄されながらも、
流されながら
毎日を送っていました。

その結果、
経済的には恵まれ
物質的には
何の不自由のない
生活をしていました。

しかし、
内面から
突き上げてくる
何者かが?
常に、
こころをよぎったのを
思い出しました。

その中から
今の私が
当時の私が抜粋した中で
特に印象に残った
ゲーテさんの作品を
紹介します。


地上のあらゆる所有の中で、
自分のハートが最も貴重なものである。
(「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」第一巻第十章から)

心をよみがえらす泉は
自分の胸中から湧いてこねば、
心身をよみがえらすことはできない。
(「ファウスト」第一部544ー5行)

内面のものを熱望する者は、
すでに偉大で富んでいる。
(「エピメニデスの目覚め」1814年、から)

有為な人間は、
すぐに外面から内面へ向かって自己を教養する。
(「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」第二巻第三章から)

人間は見ることをやめないためにのみ、
夢みるのだと、私は思う。
いつか内部の光がわれわれの中から輝き出て、
それでもう他の光はいらなくなるようなことがあるかも知れない。
(「親和力」第二部第三章から)

そしていま すぐに内へと向かいゆけ
内にこそきみの中心があるだろう
気高い人の知っている中心が
というのも我が身を律する良心こそ
日々の道徳の紛うかたなき太陽なのだ

さらにまた感覚をこそ信頼したまえ
きみの悟性がどんなときでも目覚めていれば
感覚はきみを欺くことがない
さあ 溌剌としたまなざしでこの世を享受し
恵みゆたかな世界の野辺を 
かろやかに 胸をはって歩みゆけ
(「遺言」1829年神と世界から)


ゲーテさんの作品は
詩でも戯曲でも
人間の内面に
テーマをあてた作品が
ほとんどです。
もう1回、
読み直してみたいと
思います。

今、私が
このブログを書いていて
中心にしたいと
思っているテーマが
36年前に
既にまとめてあり、
今日、
皆様と
共有することができました。

何か、
感慨深いものがあります。

ありがとうございます。

2011年7月9日土曜日

『なかいま』


神道(しんとう)の
教えの中の
中軸を為す考えに
『なかいま』(中今)と
いうのがあります。

中心の中に
今という字をあてます。

時間の
永遠の流れのうちに
中心点として
確かに存在している今の
ことを言っています。


一般的に言う
時間的な
現在というのではなく

今、
私たちが、
生きている
ということは、
心に、
内在している神と
共に在るということであり、

神と共に
今を生きるということは、
この瞬間、瞬間を
神を意識して
大切に生きるということだ。

例え、
小さなことであっても
大きな愛で、
しっかりと誠実に
やり抜くことだ。

過去とか
未来は
言葉だけの問題で
常に、
今しかないのだ。

今の
自分の生き方が
生きとし
生けるものすべてに
そして、
宇宙に影響を与えているのだ。

それが『なかいま』という
教えの意味です。

私たちは
この今という瞬間に、
望んでいない
経験をすることも
数多く、あると思います。

しかし、
常に、
どんな時も

私たちの
遺伝子と
繋がっている神が
内在しています。

どんな事が
目の前に
現れたとしても
怖れることは
何一つないのです。

それは
永遠性の中での
必要な経験なのです。

『なかいま』の
精神性で
今を真剣に誠実に
生き切ればいいのです。

私たちは
生きているのではなく
生かされているのです。

何があろうと、
どんなことが
起ころうとも、
生かされている
現状への感謝の気持ちを
現すことです。

このことが、
『なかいま』
神代を継承している今
内在する神が
私たちを通して
働き給うのです。

“今日は残りの人生の最初の日”

今という、
この確かな瞬間をこそ
最も、
大切にして
生きていこうと思います。

ありがとうございます。

2011年7月8日金曜日

「壁の落書き」

今日も
「こころのチキンスープ」
の中から
こころあたたまる
お話を、紹介します。
「こころのチキンスープ」より
(7月3日ブログ参照)

このお話は
「こころのチキンスープ」の
16巻に書かれている
ママと二人の息子との
短いお話です。
共有してください。


「壁の落書き」

くたくたママが店から戻り
買い物袋をかかえてキッチンへ入った。
待っていたのは八歳の息子
弟がやったいたずらを、
しゃべりたくてうずうずしてた。

「ぼくは外で遊んでて、
パパは電話中だったんだ。
そしたらあいつがクレヨンで、
壁に落書きしちゃった。
ママが書斎に張ったばかりの新しい壁紙にだよ。
そんなことしたらママが怒るぞって言っといたよ。」

ママはうめき声をもらして眉を寄せた。
「あの子、いまどこ?」
ママは荷物を下ろして決然とした足取りで
末っ子が隠れたクローゼット目指して歩いていった。

部屋に入ったママは、名字をつけて名前を呼んだ。
その意味がわかった末っ子は、恐しさに震えあがった。
それからの10分間、ママはわめき、怒鳴りちらした。
あの壁紙は高かったのよ、せっかくお金を貯めて買ったのに!

元通りにするのはたいへんなんだから。
なんてことしてくれたの、いたずらにもほどがあるわ。
叱れば叱るほど、腹の虫がおさまらない。
ママはすっかり取り乱し、部屋から大またで出ていった。

惨状を確かめようと、おそるおそる書斎に向かったママ
壁を見たとたん、目に涙があふれた。
読んだメッセージがダーツのように心を貫いた。
ハートで囲まれた「ママ、大好き」

その壁紙は、ママが見たときのまま残っている。
まわりに枠だけの額縁が吊るされて
ママにとっての、みんなにとっての思い出の品。
ときどき足を止めて眺める、壁の落書き。

バレリー・コックス

如何でしたか?
呼んだ方ひとりひとりの
感慨があると思います。

全体の物語に
感動をした方も
おられるでしょうし、

また、
物語の主人公に
自分を投影させて
読んだ方も
おられるでしょう。

ママの立場で、
ママに言いつけた
八歳の男の子の立場で、
愛のメッセージを書いた
弟の立場で、
それぞれに
それぞれの立場で、

いずれにしても
余韻の残る
すばらしいお話です。


わたしは、
このお話を読んだ時
魂の進化の上での
発展段階を思いました。

私たちの
おおもとのエネルギーは
神のエネルギーです。
それが
象徴としての
愛のメッセージ
壁の落書きです。

私たちは
自らの歪みを
創造します。

それが、
ママに言いつけた
八歳の男の子であり、

大切な壁紙に
クレヨンで落書きされた
ママの怒りです。

怒りが
さらに妄想を生み
怒りが増幅していきます。

そして、
そのママの尋常ならぬ
怒りに、恐れおののく
末っ子の弟

それは、
自らが創造した
歪みです。

この歪みは
末っ子の弟の
壁の落書きを見て
一瞬の内に
消え去っていきます。

そして、
もともとの
既に備わっている
「愛のメッセージ」を
人は、
みつけていくのです。

このお話は
人生の学びの
プロセスでもあり、
本源なるものに
回帰しようとする
道を示しているように
わたしは、
感じさせていただきました。

何れにせよ、
いいお話は
いいこころの
トレーニングになります。

是非、
皆様も、
いいお話や
すばらしいお話が
ありましたら
紹介してください。
コメント
お待ちしております。

今日も、
共有していただいて、
ありがとうございます。

2011年7月7日木曜日

「知足」

「足ることを知る」
この短い言葉の中に
重要な真理が
含まれています。

それは、
「今の、あなたは
そのままで完璧である」
と言う真理です。

そんなことはない!
と否定しますか?

しかし、
あなたにとって
最も深い意味において
もし、
今より完璧な
状態があるならば
今、あなたは
そのままでは
ないからです。

私たちは
意識を
進化させるために
この物質世界に
降りてきます、
それは、
私たちの
魂において
まだ、
学ぶべき点が
たくさんあるからです。

今ある状態こそが
自分に用意した
最高の舞台なのです。
完璧なのです。

「足ることを知る」

今の瞬間、
今のあなたそのままで、
既にどれだけのものを、
与えられているでしょうか?
不足でしょうか?

「足ることを知る」
ということは、
今の瞬間に
如何に
多くのものを
与えられているかを知り、
まず、
その事実に対して
感謝することでは
ないでしょうか。

老子さんの
教えの中にも
『足ることを知る者は富めり。
強(つと)めて行う者は志有り』
があります。
「(もっているだけのもので)
満足することを知るのが
富んでいることであり、
自分をはげまして
行動するものが
その志すところを
得るのである」
(『老子』小川環樹訳注/中公文庫)
とあります。

また、お釈迦さまが
今まさに
滅度されようとする
最後の時の
説法を伝える経典である、
仏遺教経
(ぶつゆいぎょうきょう)の中にも
この「足ることを知る」の
教えがあります。

「若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、
まさに知足を観ずべし。
知足の法は即ち
富楽安穏の処なり。
知足の人は地上に臥すといえども、
安楽なりとなす。

不知足の者は富むといえども、しかも貧し。
不知足の者は常に五欲のために
牽かれて、知足の者のために憐憫せらる。
是を知足と名づく」
とあります。

私たちひとりひとりは
今、この瞬間そのままで
完璧なのです。

そして、
今回のこの世の目的は
「人は、完全である!」
ということを
思い出す旅です、

完全である。
完璧であるということは、
足りないものは
ないということです。

もともと
私たちには
不足しているものは
何もありません。

これからも
どの瞬間においても
完璧で
あり続けていきます。

ただ、それを
見ようと
しないだけなのです。

この世において
肉体をのみ
自分と思い
いつも
不足の気持ちで
物質的なものばかり
「欲しい!欲しい!」と
追い掛け回したところで
心が
満たされることは
永遠に
来ないのです。

今、足ることを知るのか
不足していると思うのかは
それは、
自らの選択に過ぎません。

足りているものに
意識の焦点を
合わせた人が、
満たされている人であり、
不足しているものに
焦点を合わせている人が、
満たされない人なのです。

「今日は残りの人生の最初の日」

今までがどうあっても
悔やむことは
ありません。
無駄なことです。
今日、
生まれたのですから。

来てもいないこれからに
不安や
焦燥感を持つなんて
それこそ、幻想です。
未来は、
今の瞬間を
どう考え、
どう生きるかの
集積なのですから。

「幸せになりたい!」
といくら思っても
達成することは
ありません。
それは、
前提として
「今が幸せでない!」
と思っている
不足の心です。

今、「知足」
「足ることを知り」
「今の、あなたは
そのままで完璧である」

この真理を
知った瞬間から、
絶対的な安心感と
馥郁とした安らぎに
こころが
満たされていきます。

さあ、
有り余るほどのものを
持っている
豊かなあなたを
点検してみましょう!
ひとつひとつ
ノートに
書き留めてみては
如何でしょう。
びっくりする筈です。

ありがとうございます。


(By Photo, Akiyo.I)