2011年12月30日金曜日

“次元の意味と参拝について”

今日は30日
年の瀬も押し詰まって
来ましたね。
皆様は
いかがお過ごし
でしょうか?

お仕事を終えて
のんびりして
いらっしゃいますか?
それとも
大掃除の途中で
一服して
いらっしゃる方も
おられることでしょう。

日本も世界も
今年一年
いろいろな出来事が
起こりました。

2012年を
迎えるにあたり、
皆様一人ひとりの
それぞれの意識の中に
去来する思いが
浮かんでくるのでは
ないでしょうか。

今年も多くの方が
どこかに参拝に
行かれることと
思います。

そこで
どこかの
寺社や神社で
参拝するにしましても

参拝に臨む
心構えについて
お話しを
進めてみたいと
思います。

各人各様
それぞれの念いを
持って参拝されると
思いますが
参拝される前に
もう一度
自らの念い、
意識と言うものを
点検して
頂きたいのです。

そこで、
皆様にお話して
おかなければ
ならないことが
あります。

それは、
次元という言葉に
ついてです。

皆様は
次元という言葉を
聞いたことが
あると思います。:

三次元だとか
四次元だとか
十次元とか
聞いたことが
ありませんか?

よく宗教や精神世界の
指導者が言っています。
「私は九次元の存在です!」
だとか
「あなたは○次元です!」
とか?

では、
実際にそういう
分離された次元と
いうものが存在
するのでしょうか?

次元とは私たちの
意識の状態のことを
言っています。
私たちの意識に
すべての次元が
存在しています。

しかし、元々は
神一元という
一つの次元しか
存在しないというのが
霊的真実です。

私たちが
肉体人間として
長く物質世界を
送っている間に
本来は神一元である
完全なる意識を
様々に分離し
低めていって
様々な意識状態を
創造していきました。
そして、
何次元とか言っているに
過ぎないのです。

私たちは
今、どの次元に
意識状態を置いて
いるのかということを
点検しなければ
なりません。

私たちが今、
物質のみを重視して
いるならば
そのことを指して
三次元の意識状態に
今、在ると
いうことであって

次元と言う領域が
ある訳では
ありません。
次元はどこにも
存在しません。

私たちの意識にのみ
存在するのです。
ということは
自分次第で
どの次元にも
意識を向けることが
できるということ
なのです。

ですから、
まず、自らの意識が
どこにあるのかを
点検しなければ
ならないと
言っているのです。

怒りや恨み或いは
嘆きや悲しみ
単なる金銭や
個人の欲得の意識を
持って参拝をしますと、
その時に寄る神気は、
同じような種類の
次元の邪気が
集まってくるからです。

平安や安らぎ
今、生かされている
ことに対して
感謝の気持ちで
参拝をしますと、
感謝が増幅される
ような次元の
有り難い神気を
引き寄せていくからです。

参拝の時の次元
そのままに
現れてくるのです。

私たちを
照らす鏡のように
神気は瞬間で変わります。
変幻自在です。
私たち参拝する者の
意識次第であるのです。

私たちには
元々、
神一元なる
完全意識が
備わっています。

自身の内在神に対して
感謝を献げ
神と一体となり
今年一年最善と
最高を尽くすことを
決意することを持って
参拝するのです。

欲得で
お願い事ばかりを
してはいけません。

同じ次元の
波動を持った
彷徨える霊的存在が
参拝をする者を
頼りにして、
瞬時に集まるのです。

欲しいものと
欲しいもの同士
その願いは相殺され、
妨害する出来事が
次々と現れることに
なります。
注意をしてください。


あなたは、
今どこに
おられるのでしょうか?

どこに
住んでいようとも
神のような
意識そのもので
愛で満たされて
いるならば
あなたは
高次元の従者であります。

次元が区切られた
特定の場所に
あるわけではなく、

どこに意識を向けて
生きているのかが
問われているのです。

私たちの魂は
自由自在です。
融通無碍です。

私たちの実相は
神一元であるのです。

私たちは神の子で
あるのです。
神に不可能は
ありません。
神のすべての御技を
自分と言う
媒体を通して
顕現せしめること。
完全状態になること。

それが、
この世に
生まれてきた目的です。

日常生活の中に
神を実践していくこと。

自分の想念と言う。
汲んでも汲んでも
減らない
無限の智慧が
存在しているのです。

ただ、
それを自覚して
いないだけなのです。

無限の智慧から
分離している人間は
誰一人もいません。

一個一個の
個人個人のすべての
生きとし
生けるものの
小さな智慧を
総計したもの、
その総計したものと
私たちとは
一体であります。

そうすると
すべての宇宙空間に
満ち満ちている智慧を
自由に受信したり
送信したりできるのです。

どこに意識を
向けるかによって
高度の次元の意識も
地獄の次元の意識も
受信できるのです。

悪霊的なものを
語るものは、
悪霊的な次元の
レベルであります。

無限意識、
普遍意識、
神意識という
宇宙を支配している
完全な次元を
意識することによって
神の智慧と力を
自分のものに
出来るのです。

そうすれば、
肉体という衣装を
纏っていながら
天国の従者で
あるのです。

平安と安らぎの中に
日々の生活を
送ることが
できるように
なってくるのです。

この一体観念に
ならない限り、
到底すばらしい
智慧と力を
くみ出すことは
できないのです。

そこから
分離するがゆえに
不調和になるのです。

自分の心が分離して
勝手に
不完全な人間と
思い込んでいるに
過ぎないのです。

神は実在し、
実際的で
現実的で
活動的であるのです。
すべて私たちの
意識に存在します。

視野を無限大にすれば
全宇宙を知ることに
なるのでしょう。
意識の目が
すべてを見、
理解するのだと
思います。
それがお釈迦さまが
得られました
宇宙即我なる
悟りなのだと思います。

一体から離れれば
迷える子羊、
放蕩息子、
迷い子になるのです。

無限宇宙は
神が抱擁していて
神の中から
外に一歩も
出ることはできません。
そのままで
神と一体であるのです。

迷える子羊でも
戻って来れます。
全体は我であり、
私はあなたであり、
あなたは私である。
自他一体、
全体一体であります。

宇宙意識を
素直に受け取って
いきましょう。

次元というのは
すべて
自分の中の
意識の状態であります

その意識を
高めることも
低めることも
自分の意識次第です。
自由自在に
どの次元にも
存在することが
できるのです。

私たち一人ひとりは
神より創られた
神の御子であり、
肉の御子では
ないのです。
人間の意志によって
この世に
誕生したものは
一人もおりません。

それを処女懐妊と
言うのです。
私たちの実相は
霊存在なので
イエスさまだけが
処女懐妊ではないのです。

人間の肉体は
神の宿るところの
乗り物に過ぎません。
その乗り物のことを
馬小屋と表現しました。
イエスさまだけが
馬小屋で産まれた
訳ではないのです。

結局のところ
神のご意志によって
生かされているのです。
誕生も死も
すべて神のご意志
であるのです。
神から出でて
神に還るのです。
これが
宇宙の法則なのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちは
今この瞬間に、
神の大調和の中に
没入することが
できるのです。

その次元には
自他の一体があります。
裁くものも無く、
憎めるものも無く、
粗末することも無く、
争うことも無く、
非難することない
愛と調和の体験が
現れる世界です。

それは真我なる意識
私たちの中の
内在神(仏)を
よく自覚して
健全な人生を
全うする道なのです。

これからの
参拝にあたって
書かさせていただきました。
参考にして
頂きたいと存じます。

今年はこのブログを
読んでいただいて
本当にありがとう
ございました。

2012年が
読者の皆様にとって
真我なる次元に
留まり
あらゆる出来事に
惑わされないように
不動心の一年に
なりますよう
祈りつつ2011年の
ブログは
終わりたいと思います。

生かして頂いて
ありがとうございます。

2011年12月26日月曜日

“森安さんからの学び”


12月24日のブログ
メリークリスマス
予告しておりました。
森安英憲さんから
掲載許可を
いただきましたので、
紹介させて
いただきます。

森安さんは
私が毎日愛読している
山元加津子さんの
「宮ぷー こころの架橋
プロジェクト」の
メルマガ上で

森安さんの
講演の内容を
紹介されていました。

それを読ませて
頂きまして
あまりにも
感動しまして涙を
流してしまいました。

是非、ブログの
読者の皆様にも
知って頂きたいと思い
森安さんに
お断りも無く

「宮ぷー こころの架橋
プロジェクト」の
メルマガの紹介と同時に
掲載してしまいました。

その後
森安さんに
事後承諾に
なりましたが
快く了解を頂き、
良かったと
思っています。

読まれていない方は
8月20日号ブログ
是非、読んでください。
また、8月24日号
佐和さんからの学び!
8月26日号
森安さんからのメール」も
併せてご覧ください。

それでは
お待たせしました。
森安さんからの
メールです。

『こんにちは。お久しぶりです。
ブログ拝見しています。
難しい文章が多く結構骨が折れます 笑。

私も幼少のころから、父母に、
いまだ木鶏たりえず
鶏口となるとも牛後となるなかれ、
など難しい言葉を聞かされてきました。
何千年も前の人が残した比ゆだと思いますが、
人のありようを知らなければ
言えない言葉だと思います。

私は経理の仕事をしています。
経理とは、会社の仕事を効率よく合理的に
するための情報分析・提供をする仕事だと、
長年信じ込まされてきました。

知的障害のある子どもたちと出会ってから、
この社会の本質を教えられるようになりました。

今や、金勘定は、最も非効率で
不合理な社会を作るためのものだと思っています。
私は、人はそんなにバカじゃないはずだと思いますが、
人の心をコントロールしている力があるのでしょうか?

競争とは力を殺ぎあうためのもの。
みんなが一つになれば、力は有り余るものです。

金勘定という概念がなくなる社会を作りたいと思います。

お金を媒介にしなければ何も動かない社会。
お金は媒介ですから、なくても同じことはできるはずです。
お金がなければ、銀行は全部つぶれます。
失業?そんなわけないですよね。
無用の仕事がなくなったらそれこそ効率的ですよね。
飯が食えない?分け合えば有り余るでしょう 笑。

この社会で価値が高いと思われていることほど、
無用のものであると私は思います。

さて、私たちの会社では知的障害のある社員が多くいて、
大活躍をしてくれています。
いっしょにいる私たちは、
「彼らは私たちに欠けている私たちの一部なのだ」
とわかっているのですが、
一歩外から見る人などは「あれ(私のこと)はアホだ」と。

「障害者など雇って生産性落として、
どれだけ余計なコストをかけているのか見せろ」という圧迫も。
ところが、障害者の多くいる職場ほど、
職場の改善が進み、最も高効率であることが証明されるのです 笑。
それでも人は変われない。

30年来、地元でも何をやっている会社か
知られていなかった私たちの会社が、
最近では地域から年間何十回も見学に来られます。

見た人はみんな変わっていく。頭でしか考えない人は変われない。
私はそのはざまにいて、会社のためではなく、
社会のために仕事をしようと思います。
本当はこんな区別はおかしいですけどね。
どちらも同じもののはずですから。
これが通用しないなら、会社は反社会存在だということになります 笑。

冬、ふと陽だまりのあたたかさに気づきます。
そこにはすべてがあると思います。

今年も1年お世話になりありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。』
掲載了

どう感じられました
でしょうか?

森安さんは
こう仰いました。

『競争とは
力を殺ぎあうためのもの。
みんなが一つになれば、
力は有り余るものです。

金勘定という概念がなくなる
社会を作りたいと思います。』

24日のブログで
紹介しました
日本理化学工業の
会長である
大山さんも
やはり森安さんと
同じように
知的障害の方と共に
仕事をされている方です。

大山さんは
たまたま法事で
出会ったお坊さんから

『人間の究極の幸せは、
愛されること、
褒められること、
役に立つこと、
人に必要とされる
ことの4つです。
愛されること以外は、
働いてこそ得られます』
と聞いて気づきました。

そして
人間の幸せを
かなえられるのが
会社なら、
知的障害者を一人でも多く
雇用しようと
考えるようになりましたと
仰っています。

それ以降
工場見学に来る
小学生や中学生の
子どもたちが来ると

「働くって、
どういうこと?」と
投げかけて
みるのだそうです。

すると全員が
「会社に行っておカネを
もらうことです」と
答えるのだそうです。

子どもたちは
私たち大人が
言ったり考えたり
していることを
言っているのに
過ぎないのですが、
ここにも
金勘定という概念が
蔓延しています。

大山さんは
その時、
法事の時の
お坊さんから
聞いた言葉を
伝えるのだそうです。

「働くとは、
人に必要とされ、
人の役に立つことだと
思います」と。

大山さんも
森安さんも
知的障害者という
くくりで

社会が勝手に
決めつけられている
方たちと
働くことによって
人間の本質を
掴まれた方々だと
思います。

知的障害者と
呼ばれている方たちこそ
本質において
健常者であり

私たちの方が
本質においての
障害を持っています。

知的障害者と
呼ばれている方々は
常に真我から
語り表現しています。
神の心のままに

森安さんが
指摘されるように
私たちは
金勘定や物質や
単なる効率や
生産性やコストとか
いう訳の解らないもので
分析などという
あたたかくない言葉で
人や物事を
分け隔てています。

自我による
どんなことも
偽者なのです。

偽者こそ
現象だけに
囚われています。
それこそ
障害者なのです。

私はこのブログで
真なるリーダーシップを
学ぶ意味で
『呻吟語』からの学び
紹介しました。
その中にも出ていますが

リーダーが
人を使うときの
重要な心がけとして
「相手の能力を引き出す」
という箇所があります。

「駱駝(らくだ)は
百鈞もの重さを
背負うことができるが、
蟻はわずか
一粒のものしか
背負うことができない。
それで駱駝も蟻も
全力をつくして
いるのである。

象は数石もの
水を飲みほすが、
鼠はわずか
一勺の水しか
飲むことができない。
それで象も鼠も
腹一杯に
飲んでいるのである。

君子が人を使う場合、
必ずしも同じような
実績を期待しない。
相手がそれぞれの長所を
発揮できるように
しむけるのである。」


このように
人にはそれぞれに
すばらしい特性が
備わっています。
その特性をきちんと
見て、適材適所に
配置するのが
リーダーとして
とても必要なことです。

それが真なる
仕事なのです。
その適材適所を
正しく見ないで

一番大事な仕事を
怠っている人程
効率や生産性や
コストとか
金勘定を言うのです。

森安さんが
森安さんのメールを
掲載許可を
して頂いた返信の
メールも紹介させて
いただきます。

「うちの職場を見ていると本当に面白いです。例えば、2名のペア作業。2つの作業内容を二人でするのですが、ひとりは「作業1」しかできない。他方は「作業2しかできない」。ところがふたりがそろえば、まるでプロフェッショナルのように仕事ができるわけです。

ふたりチェンジしたら、できない。

ホームランバッターにバントをさせてもうまくいかないし、バントの名手にホームランを打てといっても打てない。バントの名手がバントを決め、ホームランバッターがホームランを打てば大量点が取れる。

生産性を低下させるものは、能力の高い低いではなく、能力に見合わない仕事をさせることです。

日本理化学工業の大山会長は本でしか拝見したことがありませんが、50年来こんな立派な仕事をして来られたのに、日本はちっとも変わっていないのだと思います。テレビでも紹介されても、みんな感動はしても行動はしない。

いや、昭和初期から、「この子らを世の光に」と提唱し実践してこられた糸賀一雄先生も日本にはいらっしゃいます。

日暮れて道遠しの感がありますが、でも私はきっと変われると思います。時代が変わってきたと思うから。宇宙のエネルギーが確かに変わってきたと思うから。

陽だまりの暖かさのように、本当に大切なことは、いつも目の前にあるいちばん簡単なことだと思います。

ありがとうございました。」

いかがでしょうか?
本物のリーダーが
語る言葉を
聞いて頂けたでしょうか

『今日は残りの人生の最初の日』

私も日本は
変われると思います。
山元加津子さんや
森安英憲さんや
大山泰弘さんのような方が
居られるから

知的障害者と
呼ばれる方々に
認められている方たちです

知的障害者と
呼ばれている方々が
お墨付きを出すのです。

彼らの本質よりの
純粋性は

私たちも本質から
接しない限り
見透かされて
しまいます。

知的障害者と
呼ばれている方々の
前にたって
恥ずかしくない
本当の自分を
発見しようでは
ありませんか!

共有ありがとうございます。

2011年12月24日土曜日

メリー・クリスマス

今日は
クリスマス・イブです。
皆様、
思い思いの
聖夜をお迎えの
ことでしょう。
このブログでも
何回か紹介させて
いただいています。
こころのチキンスープ」の
中から
“ベンのプレゼント”という
お話を紹介します。 

“ベンのプレゼント”

『毎日牛乳配達するベンは、
11月末に、お得意さん2人に
たまった牛乳代を払わずに、
引っ越されてしまいます。

そして彼がそのツケを埋め合わせる羽目になり、
1人は、20ドル、もう1人は79ドルもあり、
かなり落ち込んでいました。

そして、こんなふうに言っていました。
「この奥さんがまた美人でねぇ」と彼は言った。
「子どもは6人いたが、もう一人おなかにいて、
だから、信用したんだなぁ。
ああ、おれはなんてバカだ!人のために
いいことをしていると思っていたのに、
痛い目にあったよ。だまされちまった!」

私は、「お気の毒に」と言うのが精一杯だった。(略)
私は慰めの言葉を口にして、
なりゆきを見守ることにした。
だが、ベンが帰った後、
私は自分がなんとか彼の力になりたいと
思っていることに気がついた。
このままでは、
ベンは暗い人間になってしまうかもしれない。
何か私にできることはないだろうか?

ふと、クリスマスが近いことに気がつき、
祖母が昔口癖のように言っていた言葉を思い出した。

「誰かに物を盗まれたら、それをその人に
あげてしまいなさい。
 そうすれば、もう盗まれることはないよ」

つぎにベンが牛乳を配達してくれたとき、
私は79ドルの件で
うっぷんを晴らす手があると言った。

「そんな手があるわけないでしょ。
でもとにかく教えてください」

「牛乳はその女性にあげたと思いなさい。
子ども達へのクリスマスプレゼントだったと思って」

「冗談じゃない」と彼。

「そんな高いプレゼントなんて、うちの女房にだって
やったことはないよ」(略)

私はそこで口をつぐんだが、
ベンならきっとわかって
くれると信じてていた。
彼が配達にくるたび、
2人はそのことで軽口をたたき合った。
「もう彼女に牛乳をあげた?」と私が聞く。
「いや」と彼が切り返す。
「でも、またどっかの美人のお母さんにカモられる前に、
うちのやつに79ドルのプレゼントを
してやろうかと思っているよ」

私がこの質問をするたびに、
彼の口調も軽やかになっていった。

やがて、クリスマスの6日前に、あることが起こった。
彼が満面の笑みを浮かべ、目をキラキラと輝かせてやってきた。

「やったよ!
牛乳をあの人にクリスマスプレゼントしちゃった。
いやあ、正直きつかったけど、たいしたことじゃない。
牛乳そのものは、とっくにくれてやっちゃってるんだし、
そうでしょう?」

「そうよ」私は彼といっしょに喜びながら、
「でも、本気でそう思って贈らなきゃダメだわ」

「わかってますって。本気ですよ。ああ、いい気分だ。
だから、クリスマスってのはめでたいんだよね。
あの家の子ども達は、おれのおかげでたっぷり
牛乳が飲めたじゃないですか」

クリスマス休暇がきて、やがて終わった。
2週間後、よく晴れ上がった一月のある朝、
ベンが玄関先に小走りにかけてきた。

「いやぁ、聞いてくださいよ」と言って、
にこにこしている。
彼の話では同僚のピンチヒッターとして、
いつもとは別の配達ルートを回っていると、
誰かに名前を呼ばれた。
振り返ると、1人の女が手にした紙幣を
振りながら走ってくる。

あの子だくさんの美人の母親だった。
腕には、おくるみにくるんだ
生後間もない赤ん坊をだいている。

「ベン!ちょっと待って!」女は大声で言った。
「あなたにお金を渡さなきゃ」

ベンはトラックを止めて、外に出た。
「ごめんなさいね」と女は言った。
「支払いをしなきゃって、
ずっと気にかかっていたんだけど」

話を聞くと、彼女の夫がある晩帰宅して言った。
「おい、安いアパートを見つけたぞ。
それに、夜の仕事も見つかったんだ!」
それで急に引っ越すことになり、
そのどさくさのせいで
ベンに転出先のメモを残すのを忘れたのだと言う。

「でも、ちゃんと貯めておいたの。
 ほら、まず手始めに20ドル」

「いいんだよ」とベンは言った。
「もう払ってあるんだ」

「払ってある!」女はビックリした。
「どういうこと?誰が払ったの?」

「おれだよ」

彼女は、彼がまるで神の使いであるかのように彼を見、
やがて泣き出した。

「それで?」
ベンが話し終えるのを待って、私は尋ねた。
「あなたはそれでどうしたの?」

「どうしたらいいのかわらなくてさ。
泣いている彼女の肩に手をまわしたけど、
いつのまにかおれまで涙が出てきて。
なんで泣いているかわかんなかったけど、泣いていた。

それから、あの子ども達が、コーンフレークに
おれの牛乳をかけて食べている様子が
目に浮かんできてね。
おれ、奥さんの言うとおりにして本当によかった」

「それじゃ、その20ドルは受けとらなかったの?」

「もちろんさ」彼は憤然と言った。

「あの牛乳は、おれからの彼女への
クリスマスプレゼント。でしょう?」

シャーリー・バチェルダー

いかがでしたか?

私たちも
このベンのように
過去から引きずっている
ことがあるかも
知れません。

今日、思い出して
すべて許してあげましょう!
それがどんなことであれ
結局は
自分を許すことに
なるのですから

これも
私のブログで何回も
紹介させて
いただいています
今日の山元加津子さんの
メルマガ
「宮ぷーこころの架橋
プロジェクト」の中に

加津子さんの
大好きな詩が紹介
されていました。
盲ろうであられる
お友達の
福島智先生に教えていた
だいた詩なのだそうです。
これも紹介します。


~生命は~ 詩人・吉野弘
生命は自分自身で完結できないようにつくられているらしい
花もめしべとおしべが揃っているだけでは不充分で
虫や風が訪れてめしべとおしべを仲立ちする
生命はすべてそのなかに欠如を抱きそれを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分他者の総和
しかし互いに欠如を満たすなどとは知りもせず知らされもせず
ばらまかれている者同士無関心でいられる間柄
ときにうとましく思えることさえも許されている間柄

そのように世界がゆるやかに構成されているのはなぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで虻の姿をした他者が光りをまとって飛んできている
私も あるとき誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき私のための風だったかもしれない
・・・・・

いかがでしょうか?
私たちの存在そのものが
他者との総和で
成り立っています。
というより
自と他は一体なのです。
すべてはひとつに
繋がっているのです。

生命
智慧
光の視点において
同じものが
感応して
増幅しています。

昨日、最近
良く参加させて
いただいている
或る会の感謝忘年会が
ありました。

その席上
責任者の
方のお話がありまして、
日本理化学工業㈱の
会長である
大山泰弘さんの
お話をして頂きました。

日本理化学工業は
56年目を迎える
黒板に書くチョークの
製造会社として
国内の3割超を超える
会社です。
その会社の社員さんの
74人の中で
7割超が
知的障害者の方たちが
働いています。

今では、
「日本でいちばん
大切にしたい会社」
という本でも
紹介されている会社です。

しかし、
最初のきっかけは
1959年だったそうですが、

知的障害者の通う
養護学校の先生が
会社に飛び込んで
きたんだそうです。
来年卒業する子の
就職依頼でした。

大山さんは
門前払いのような感じで
その依頼を
断ったのだそうです。

しかし、
その看護学校の先生は
めげずに
3回も大山さんの会社に
訪ねられたそうです。

3回目には
『子どもたちは卒業したら
地方の施設に入ります。
そうしたら働くことを
知らずに一生を終えます。
もう就職は
お願いしませんから、
働く経験だけさせて
もらえませんか』と
大山さんに
頭を下げて
お願いしたそうです。

不憫に思った大山さんは、
2週間の約束で
実習を受け入れました。

実習をしに、
やってきた2人の
知的障害の少女は
2週間、
一心不乱に
ラベル貼りをしました。
昼休みのチャイムにも
気づかないくらい
頑張るのだそうです。

その姿に
大山さんの会社の
社員さんが
心に打たれて、

「不足しているところは
私たちが補うから
雇ってください」
と大山さんに
お願いしたそうです。
そして、
初めて
知的障害者を
採用することに
なりました。

それから暫くして
大山さんは、
法事でたまたま隣に座った
お坊さんにこの話を
したのだそうです。
そして、
「施設にいれば
3食付いて幸せなのに、
どうして彼女たちは毎日、
満員電車に乗って
会社に来るんでしょう」
と尋ねたそうです

そうしましたら、
そのお坊さんは
「人間の究極の幸せは、
愛されること、
褒められること、
役に立つこと、
人に必要とされる
ことの4つです。
愛されること以外は、
働いてこそ得られます」
と言われたのだそうです。

その言葉を聞いて
大山さんは
気づいたんだそうです。
「人間の幸せを
かなえられるのが
会社なら、
知的障害者を一人でも多く
雇用しようと
考えるようになりました」
とのお話でした。

このお話を聞き
そして、さらに
このブログで
何回か紹介させて
いただいています。
森安英憲さんから
今日、
メールを
いただきました。
森安さ
奈良市の
立積住備工業株式会社で
大山さんと
同じように
知的障害者を雇用されて
おられて
彼らと心の交流を
されておられる方です。
すべては繋がっています。

今日、メールを拝見したのが
遅かったものですから
明日、森安さんに
メールの掲載の
許可を頂いてから
是非、皆様にも
共有して頂きたいと
思っています。
是非、楽しみのしてください。

私のブログ
森安さんからのメール参照
してください。

『今日は残りの人生の最初の日』

最後に友人から
カナダの
セリーヌ・ディオンさんと
ノルウェイのシセールさんの
「オー・ホーリナイト」が
届いています。
セリーヌ・ディオンさんの
透き通った素敵な
歌声を堪能してください。
セリーヌ・ディオンさん
「タイタニック」のテーマ
を歌った方です。
http://www.youtube.com/watch?v=iaxXAkDMlWI&feature=fvwrel


また、
シーセルさん
落ち着いた暖かい歌声も
また、とても素晴らしい
歌声です。
浅田麻央さんが
よくフィギュアで
使われている
歌の一つだそうです.
http://www.youtube.com/watch?v=jr5D9AbDSxs&feature=related

メリークリスマス
共有ありがとうございます。

2011年12月20日火曜日

「イマダモクケイにオヨバズ」

暫く、『呻吟語』を
題材にブログを
進めていまして、
安岡正篤先生の
『呻吟語を読む』を
紹介していた時に、
ふと双葉山さんの事が
頭をよぎりました。

私は大分県の出身で
郷里が生んだ大横綱
双葉山さんの
大ファンでした。

双葉山さんこそ
呂新吾さんが
『呻吟語』で語る
深沈厚重
(しんちんこうじゅう)の
第一等の
資質を持つ人物として
頭に浮かんだことも
さることながら、

さらに
安岡先生と
双葉山さんとの
出会いにおける
或るお話を
思い出したからです。
それは、「木鶏」の話です。

安岡先生の
『人物を修める』
(致知出版社刊)という
本の中に
それは書かれています。
このお話も
とても奥深い
人格形成にふさわしい
実話で大好きな
おはなしです。
引用させていただきます。


「恐らく老子と
その最も代表的な
後進である荘子と
前後する人と思われるのが
列子であります。

しかし、
この人については、
老子の後学で
荘子の流(ながれ)であると
推定される以外、
全くわかっておりません。

その「列子」に
「木鶏」(もっけい)
の話があります。

紀渻子(きせいし)、
王の為に闘鶏を養ふ。
十日にして而して問ふ、
鶏已(よ)きか。
曰く、未だし。
方(まさ)に
虚憍(きょけう)にして
而して気恃(たの)む。

十日にして又問ふ。
曰く、未だし。
なお影響に応ず。

十日にして又問ふ。
曰く、未だし。
なお疾視(しつし)して
而して気を盛んにす。

十日にして又問ふ。
曰く、幾(ちか)し。
鶏、鳴くもありと
雖(いえど)も、
已に変ずることなし。
之を望むに木鶏に似たり。
其の徳全し。
異鶏敢(あえ)て
応ずるもの無く、
反って走らん。

これと同じ話が
「荘子・外編」に
出ております。

紀渻子という人が
闘鶏の好きな王
(学者によって
説もありますが、
一般には
周の宣王ということに
なっています)
のために
軍鶏(しゃも)を養って
調教訓練しておりました。

そして
十日ほど経った頃、
王が“もうよいか”と
ききましたところが、
紀渻子は
“いや、まだいけません、
空威張りして
「俺が」という
ところがあります”
と答えました。

さらに十日経って、
またききました。
“未だだめです。
相手の姿を見たり
声を聞いたりすると
昂奮するところがあります”。

また十日経って
ききました。
“未だいけません。
相手を見ると
睨みつけて、
圧倒しようとする
ところがあります”。

こうして
さらに十日経って、
またききました。
そうすると初めて
“まあ、
どうにかよろしいでしょう。
他の鶏の声がしても
少しも平生と変わる
ところがありません。

その姿はまるで
木彫の鶏のようです。
全く徳が充実しました。
もうどんな鶏を
連れてきても、
これに
応戦するものがなく、
姿をみただけで
逃げてしまうでしょう“と
言いました。

大変おもしろい話で
ありますが、
私はこの話を
往年の名横綱双葉山関に
したことがありました。

これは双葉山関自身が
『相撲求道録』という本に
書いておりますが、
まだ横綱になる前の
大変人気が出てきた頃でした。

双葉山を
非常にひいきにしていた
老友人に招かれて
一緒に
飲んだことがあるのです。

なにしろ
私も
まだ若かった頃ですから
つい一杯機嫌で、
“君もまだまだだめだ”と
申したましたところ、
さすがに
大横綱になるだけあって
私もそのとき
感心したのですが、
“どこがいけないのですか”と
慇懃(いんぎん)に
尋ねるのです。

そこで私が
木鶏の話を
いたしましたところが、
大層感じ入ったらしく、
それから
木鶏の修行を
始めたのです。

その後は皆さんも
ご存知のように
あのような
名力士となって、
とうとう
六十九連勝という偉業を
成し遂げたのであります。

なんでもそのとき、
私に木鶏の額を
書いてくれということで、
書いて
渡したのでありますが、
その額を部屋に掛けて、
朝に晩に静座して
木鶏の工夫をした。
本人の招きで
私も一度まいりました。

今度の大戦
(第二次世界大戦)の
始まる直前のことで
ありますが、
私は欧米の
東洋専門の学者や当局者達と
話し合いをするために
ヨーロッパの旅に
出かけました。

もちろん
その頃はまだ
飛行機が
普及しておりませんから
船旅ですが、
ちょうどインド洋を
航行中のときでした。

ある日、
ボーイが
双葉山からの
電報だと言って
室に飛び込んできました。

なにしろ
当時の双葉山は
七十連勝に向かって
連戦連勝の最中で、
その人気は
大変なものでしたから、
ボーイもよほど
興味を持ったらしい。

そして
“どうも電文がよく
わかりませんので、
打ち返して
問い合わせようかと
係の者が
申しておりますが、
とにかく
一度ご覧ください”と言う。

早速手にとってみると
「イマダモクケイにオヨバズ」
とある。

双葉山から
負けたことを報せてきた
電報だったのです。

なるほどこれでは
普通の人に
わからぬのも
無理はありません。

この話が
たちまち船中に伝わり、
とうとう晩餐会の席で
大勢の人にせがまれて
木鶏の話を
させられたのを
覚えています。

その後双葉山の
木鶏の話が
自然に広がり、
あちらこちらに鶏ならぬ
人間の木鶏会が
できました。
しかし、
これは結構なことです。」
引用了

双葉山さんが
69連勝を達成する
時代というのは
昭和11年~14年で

当時、大相撲は
1月場所と5月場所の
年二場所の興行でして
しかも、11日間でした。

12年5月場所から
13日間になりましたが、

それも、双葉山人気が
凄まじいものであって
徹夜で入場券を
求める人たちが
後を絶たず
当時の相撲協会も
判断を下し
昭和12年5月場所より
13日間行われることに
なったのです。

その時代の69連勝です。
丸三年間の連勝記録です。

三年もの間
コンディションと
精神力を高めていくのは
並大抵のことでは
なかったことでしょう。

双葉山さんは
元々、右目が見えません。
子どもの頃に
吹き矢が当って
失明を余儀なく
されています。

また、小指も二回
事故で骨折しています。

ハンデもものともしない
双葉山さんの精神力は
木鶏たりえたからこそ
為しえた快挙と
いえるのではないかと
思っています。

私が子どもの頃は
既に引退されており
私が知っている
双葉山さんは

時津風部屋の親方として
横綱、鏡里をはじめ
大関も多数輩出された
名親方として

また、
日本相撲協会の理事長
として相撲協会の
トップに君臨されており、
数々の改革も
為されたリーダーとして
大活躍された方でした。

57歳の若さで
亡くなられました。
2012年2月9日が
双葉山さんの
生誕から100年目で

郷土の大分県宇佐市では
100周年記念の
イベントで
真っ盛りだそうです。


木鶏は
木で作られた鶏です。
真に強い闘鶏は
まさに木鶏のようだと
言います。

木で作られた鶏は
無心であります。

そこには
相手に勝ちたいとか
名誉が欲しいとか
お金が欲しいとか
人を憎む心も
怒りも妬みも
何もかもありません。

一切の我執を離れた時
人間を超えた
真なる我、
尋常ならざる
偉大な力が
湧き上がってくると
思うのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちも
この木鶏の寓話のように
虚心坦懐の我に
なれるのです。
それは、
元々、備わっている
性質だからです。

しかし、
努力なしには
為すことはできません。
今、この瞬間から
意識して
「木鶏」を目指すのです。
あなたは
真の強者になり得るのです。
共に頑張って
まいりましょう。

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年12月19日月曜日

「脱原発~電気は足りている!」

きくちゆみさんと
いう方がおられます。

私は
きくちゆみさんを
以前、このブログでも
紹介しました
ご主人の森田 玄さんの
ブログ
「玄のリモ農園ダイアリー」を
通じて知りました。

森田 玄さんは
友人である
コスタリカのヒーラー
であるカレンさんから
情報を得て
ハワイの
「ホ・オポノポノ」の
ヒューレン博士や
「マシュー君のメッセージ」を
翻訳して
日本に伝えた方です。

「ホ・オポノポノ」は
浄化の秘儀であり
「マシュー君のメッセージ」は
アセンションを中心として
2012年に訪れる
地球と私たちの
次元上昇の様子
心の在り方を
伝えてくれています。

共通しているのは
地球や私たちの
すばらしい未来を
語ってくれていることと
私たち一人ひとりに
備わっているところの
内面の力がすべての
鍵となるところです。

今日は
この詳細については
いずれ紹介することとして
きくちゆみさんの
現在の様子が
プロフィール調に
書かれていますので
紹介します。

きくちゆみ Yumi Kikuchi
千葉鴨川の山間地で食べものを自給し、築200年の古民家に暮らしてきたが、311原発震災をきっかけに長年の夢である「ハーモニクスライフ@ハワイ」の実現に向け行動開始。環境と平和と健康をテーマに書き、訳し、話す。戦争と原発のない持続可能な地球を実現したいので、それに一歩でも近づくよう自分の人生を使います。

それでは
きくちゆみさんの
ブログである
「きくちゆみのブログと
ポッドキャスト」から
原発についての
論考を紹介させて
いただきます。

私たちが
いかにマスコミや
専門家と言われる人たちの
情報をそのままに
鵜呑みにしているかを
知らなければなりません。
知ることによって
私たちはどう判断したらよいかを
知るのです。

最初の記事は
12月16日に書かれた
きくちゆみさんの
脱原発の誓いの
文章です。


2012年を脱原発の年に

311原発震災から早九ヶ月が過ぎ、2011年も残すところ2週間となりました。

全国の空間線量は落ち着いてきていますが(ハーモニクス・ライフセンターのある鴨川は0.1μSv以下)、全国で瓦礫を処理(焼却)することで、また大気中、焼却灰の中へ、そして土壌から水系へと放射性物質は移動してしまいます。

汚染瓦礫などはその場で処理する方が被害が小さく済みます。全国に拡散させてしまったら、今、日本中で起きている助け合い(西や南に住む人が、東と北に住む人に、より汚染の少ない食べ物や住まいを供給しています)ができなくなってしまいます。

放射性物質について政府やメディアなどが言う「除染」とは、実際には「放射性物質の移動」のことです。放射性物質を一カ所に集めて、環境から隔離するということはもちろん有効ですので、やったほうがいいですが、集めた放射性物質も長い年月(半減期の10倍程度)を待たなくては無害化されません。

そこが熱処理や化学処理で分解できる化学物質と放射性物質の違いです。半減期の短い放射性物質はどんどん消えていきますが、長いもの(30年ほどのセシウムやストロンチウム、2万4千年ほどのプルトニウムなど)は、私たちが生きている間はなくなりません。つまり、残りの人生、これからずっと対策が必要、ということです。

チェルノブイリ周辺では、まだ25年前の事故の影響が続いています(その一部は『チェルノブイリ・ハート』という映画に描かれている通りです)。福島、そして日本も世界も、今後長い間今回の事故の影響が続いていくでしょう。そんな放射能汚染の中でも、私たちはたくましく生き抜いて、いのちを次世代につないでいきたいです。

それには、これまでにも増して、各自が食や暮らしの工夫で、免疫を高めておく必要があります。とくに子どもたちの食生活には気を配ってあげたいですね。

化学物質も放射性物質も発がん性や催奇性が疑われますので、311の教訓を得た日本人は、かつて日本の祖先が完全循環の中で生きてきたことを思い出して、「自然のもの(本物)」に頼って暮らしていきましょう。農業は自然農や有機農業を応援・推進し、各家庭では、掃除も洗濯も美容もキッチンにあるもの(酢や塩、重曹など)だけでやりましょう。家庭でできる自然な暮らしの工夫を詳しく知りたい方は、牧野佑子さんの『楽して得して徳して楽しく暮らそう』(350円)が参考になります。

さて、今日のテーマ(私の誓い)は「2012年を脱原発の年に」です。このまま原発の再稼働を各地で阻止すれば、実現可能です。

「美浜の会」HPより「全国の原発の状況」:

再稼働ストップ作戦「ナノハナ革命」:

年明けにはパシフィコ横浜で「脱原発世界会議」が開催されます。私ももちろん参加します。会場でお会いできるのを楽しみにしています。14日は「東京ピースフィルム倶楽部(東京平和映画祭)」Presents「脱原発映画祭」を午後1時から5時まで開催していますので、ぜひいらしてください。

東京ピースフィルム倶楽部のトップページにも案内が載りました:

世界から100名のゲストを招き、日本全国から「脱原発世界会議」に結集します。1月、パシフィコ横浜でお会いしましょうね。

私は311以降、民間でいち早く福島原発周辺の妊婦さんと子連れ家族の受け入れを始めた「つなぐ光」を応援しています。もう最近は報道も減り、関心も薄らぎ、「つなぐ光」の資金は底を尽きました。それで、収益を「つなぐ光」に寄付するためのチャリティイベントです。汚染地域に住む妊婦さんと子どもたちのサポートは、これからも長い間必要になると思うので、あなたのできるサポートをお願いする次第です。

12,16記事転載了

きくちゆみさんは
このように
あらゆる活動を
している方です。

私も何回か
お会いさせて
いただいていますが、
小柄ながら
とても
エネルギッシュな方で
すばらしい透明力を
持った方です。

そして
下記の転載記事は
上記のきくちゆみさんの
脱原発記事に対しての
ブログ読者からの
コメントと
そのコメントへの回答です。

二日後の12月18日の
ブログ~転載します。

まだ「原発止めると電気が足りなくなる」と信じている人がいる!
二日前に、「2012年を脱原発の年に」というブログを書きました。
すると、匿名の方から以下のようなコメントをいただきました。

「頼みますので、再稼働阻止など電気を止めるようなことをしないでください。病院など人の命がかかっています。
冷静に考えれば、一般家庭がいくら節電しても原子力分を賄えないのはお分かりでしょ?
(私も節電は大切だとは思っています)
たとえ原子力を止めて化石燃料で賄ったとしても、電気料金の値上げは目に見えていますし、貧しい家庭は、これ以上電気料金が上がるのも困ります。
また、放射能も恐ろしいかもしれませんが、二酸化炭素による温暖化のほうが、世界規模でもっと恐ろしいのではないですか?
不安な思いも十分わかりますが、もっと現実を客観的に直視してみてください。」
ーーーーーー

ちょっとびっくりしました。

なぜなら、日本はすべての原発を止めても電気は足りているからです。

私はこのコメントに対して、以下のようにお返事しました。


「あなたが本気で「再稼働阻止な=電気を止めるようなこと」と信じている、と仮定してコメントします(もしかしたら、そうじゃない可能性もあるので)。

日本は原発がなくても電気は止まらないのです。これまでも、これからも。「原発止めたら電気が止まる」と言って脅してきたのは、原発を推進したい人たち(それで潤っている人たち)だけです。

「えっ!足りてたの?」のキャンペーンなど、今では多くの市民が今ではそのことに気づいていますので、どうぞ匿名さんもご自分で日本で必要な最大電力と、火力、原子力、水力、再生可能エネルギー、自家発電の設備容量を調べてみて下さい。節電しなくても足りてます。

参考サイトをあげておきます:
原発なしでも電気足りてる:小出裕章」

えっ!足りてたのhttp://sunaga.org/works/311t.htm

やはりマスコミの力は絶大ですね。
日本の市民運動、独立系メディアの力ではまだまだ太刀打ちできません。

それでも、このブログとかメルマガとかTwitterなどのネットメディアを使って、一人また一人と「原発なくても電気は足りる」ことを理解する人を増やしたいです。どうかあなたも力を貸して下さい。

転載了

皆さんも
小出裕章先生の
ユーチューブを
是非、ご覧になって
判断なされてください。
くれぐれも
一方だけからの情報による
きめツケをされないように
正しい判断を求めます。

2011年12月18日日曜日

「正しい生き方を学ぶ」

本日も
呂新吾さんの
呻吟語』から
始めさせて頂きます。

安岡正篤先生訳著の
「呻吟語を読む」の中に
「四つの難」
事を行うものの心得を
抜粋いたします。

「自分が判断したことを
人に伝えることで、
4つ難しいものがあると、
呂新吾が
『呻吟語』の中で
整理しています。

(本文)
進言に四難有り。
人を審(つまびら)かにし、
己を審かにし、
事を審かにし、
時を審かにす。
一も不審有れば、
事必ず済(な)らず。

(解説) 
人は、多彩な知識が
あったとしても、
相手をよく見て
伝えなければならぬ
ことはいうまでも
ありません。

自分は
どういう人間で
あるかということを
知っておくことが
必要です。
耳学問で
己に似つかわしくない
放言をしてみたところで、
相手に通じるはずは
ありません。

第三に、
事を内容を
しっかり取られることは、
言うまでもありません。

最後に、
何事にも時、
時機というものがあって、
それを逸するとかえって
害をおよぼすことがある。

この四つのうち一つでも、
はっきりできなければ、
事はかならず成功しないと
訓示ともいえる
四つの難です。」

ほとんどの問題や
トラブルの元は
上記の四難によるもの
と言いましても
過言ではないと
思います。

どうして
あんなに社会的にも
認められた方が
あんなに
すばらしいことを
やっているにも
関わらず
上手くいっていない
のだろうということは
世間にたくさん
あります。

私も含めて
ほとんどの人が
体験しているのでは
ないかと思います。

それと、
私も大好きな
故事の中で
「四知」というものが
ありますが、
これは、
南朝宋時代の
『後漢書』の中の
「楊震伝」(ようしんでん)
にある
故事です。

“天知る、
神知る、
我知る、
子知る、
何ぞ知る無しと
謂わんや“
というものです。

「楊震伝」は
後漢、安帝時代の
名臣だった
楊震さんのことを
伝えた逸話です。

楊震さんが
東莱郡の
太守(長官)だった時
王密さんという
優秀な人間を
茂才として推挙しました。

茂才とは
官吏登用試験の
合格者のことです。
王密さんが優秀なので
官吏登用試験に
合格しては
いませんでしたが、
長官である
楊震さんは、
王密さんを
推挙したのです。

喜んだ王密さんは
夜中に
楊震さんの家を訪れ
賄賂として金十斤を
贈ろうとしたのです。
断る楊震さんに
王密さんはさらに
賄賂を進めるのです。
王密さんは
こう言いました。

“暮夜無知者”

“今は夜ですから、
誰も見ていませんから
知られることは
ありません“

それに対して
楊震さんは
こう言葉を返すのです。

“天知、神知、
我知、子知、何謂無知“

冒頭の故事

天知る、
神知る、
我知る、
子(あなた)知る、
何ぞ知る無しと
謂わんや

“(誰も知るまいと
思っても)
天や神が知っている
だけでなく、
私が知っており、
あなたも知っているでは
ありませんか“

この楊震さんの
断りの言葉に
王密さんは
自らを恥じて
帰ったという
故事です。

安岡先生は
この『後漢書』の中の
「楊震伝」を例に
あげながら
「呻吟語を読む」の中で
こう書いています。

「無知を欺く、
知る無きを欺く
というのは
まだどこかに
忌(い)み
憚(はばか)る心、
何ものかを
畏れつつしむという
良心的な
反応の心である。

この内心の
びくびくするという
忌憚の心が
誠と偽との
分かれる関門である。
ところが
知る有るを
畏れないというのは、
これはもう
忌憚の心もない。

人間にとって
最も大事なものは
敬恥の心でありまして、
その敬恥の心が
悪い方に働くと
忌憚の心になる。
従って忌憚の心を
失ってしまったら、
これはもう
「此れ死生の関」
でありまして、
正に死の道である。
まだ人に知られては
困るという間は
良心が死に切って
おらぬからである。」

楊震さんの態度は
天地・神に恥ない
「正々堂々」とした
立派な態度であります。

この四知の故事は
自宅の私の机の
目のつくところに
書いて貼ってあり、

常に言い聞かせる
言葉として
繰り返し
読ませて
いただいています。

そして、
安岡先生は
「呻吟語を読む」の中で

「天徳は只是れの無我、
王道は只是れ箇の愛人」

意味は、
無我こそ至上の徳。
王道も、人間に徹して
人間を愛することより
外にない。
と結ぶのです。

いわゆる
『呻吟語』全般に
流れているエキスは
人間としての
正しい生き方
人格を高めることの
重要性を
知らせようとした
呂新吾さんからの
メッセージなのです。

再度、守屋洋さんの
訳著の『呻吟語』の
第2章“教養”の中に
こう書かれています。

「広く学問を窮める。
すばらしい技術を
身につける。
これはこれで
一つの長所だと言ってよい。
だが、
人格の形成に
終わりがないのと比べれば、
これらのことは
ある段階にまで達すると、
それで終わってしまう。

重要なのは、
立派な人格の形成、
これである。

一人前の
社会人となるためには、
能力と人格の
両面にわたって
自分を鍛える必要がある。
呂新吾に言わせれば、
能力を身につけるのは
まだやさしい。
むずかしいのは
人格を磨くことだという。
現代の日本では、
人格形成の面が
おろそかにされている
嫌いがないでもない。」

さらに
第2章“修養について”
の中にこう
書かれています。

「鋭い切れ味は、
十分に磨いて
おかなければならない。

ただし、
切れ味は内に秘めて、
おっとりと構えている
必要がある。

昔から、
禍いをこうむるのは、
十人のうち九人が
切れる人物であった。
おっとりした人物で
禍をこうむったものは
一人もいないのである。

ところが近ごろの人間は、
ひたすら
切れ味の鈍さだけを
心配している。
これは愚か以外の
なにものでもない。

人間には、四つのタイプが
あるのだという。

「かしこかしこ」
賢いことを表に出し続ける

「かしこあほう」
賢くみせて実は中身が無い

「あほうかしこ」
無知・無関心を装い、
実は賢い人間

「あほうあほう」
全くの無知、無関心

言うまでもなく、
理想は
「あほうかしこ」である。
ここで呂新吾が
語っているのも、
これに近いかもしれない。 」

呂新吾さんが
『呻吟語』に
込めた思いは
何でありましょう?

単なる処世術として
著したものでは
ありません。

諸行無常の移ろい行く
この世の中にあって
勿論、その場その場を
対処していくこと
「才覚」を発揮する
ことも重要では
あります。

しかし、
そういう現象界で
あるから
変わらないものが
大切であるのです。

人間として
いかに正しい
生き方をしていくのか?
これは大変難しい
課題でもあります。

「このスピード時代の
世の中で
そんなことを
言っていたら
取り残されて
しまうよ!」という
声が聞こえてきそうです。

しかし
こんな時代だからこそ
忘れてはならないのです。

多くの売上をあげ
多くの利益を出す。
これは
素晴らしいことです。
それによって
多くの税金が払われ
社会は成り立っています。

でも、利潤のためには
何をやってもいい
とはならないのです。
それが一義ではないのです。

多くの経営者は
人格的にも
すばらしい方が
大半ではあります。

しかし、
才に溺れる
経営者も
後を絶たないのも
現実です。

私たちが
肉体を維持して
いくために
毎日、ご飯を食べて
栄養を与えているように

私たちの心にも
継続的に栄養を
与えていかねば
なりません。
正しい生き方を
示してくれる
この『呻吟語』のような
時代を超えた
先達たちの教えは
こちらがその気になれば
いつでも引き出す
ことができます。

リーダーだけでなく
人間としての
正しい生き方は
毎日、少しでもいいから
繰り返し
学んでいかなければ
筋肉にならないのです。
一日でも怠れば
直ぐに筋肉は落ちます。

継続こそ力なりです。
継続することによって
「人格」が形成されて
いくのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日、この大切な
あなたの貴重な瞬間に
あなたを高める瞬間に
していきましょう。

あなたが
知っている
正しい生き方を
示してくれる書物や
あらゆる媒体に
少しでも接してください。

そして
今日一日を
為し無事に終えることが
できたなら、
生かされていることに
感謝をし、
自らの行いを
振り返ってください。

そして、
人間としての
正しい生き方に
反した行ないを
為さなかったかどうかを
点検するのです。
為していたなら、
反省をすることです。

今日の因を知り
正すことにより
人格と言うのは
高められていくのです。

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年12月12日月曜日

「“THINKER”のNAOKIさんからの重要情報」

2011年7月5日のブログ
次世代エネルギーと送電線の国有化
の情報を送っていただいた
“THINKER”のNAOKIさんから
子宮頸がんワクチン・ガーダシルの
件についての、重要情報が入って
来ましたので、下記に添付します。

下記の原文もユーチューブも
日本語で翻訳されています。

アーカメロディ

最近、気になったニュースをお伝えします。
少し前になりますが、今年の9月、アメリカにおいてメルク社の子宮頸がんワクチン・ガーダシルに遺伝子組換えされたHPVウイルスが混入され、汚染されていたことが、外部のワクチン安全性調査会社のセイン・バックス社の調査により、判明しました。

原文はこちら


このニュースによれば、遺伝子組換えされた生のHPVウイルスが混入されていたのは、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、スペイン、ポーランド、フランスへ輸出されたバイアルで、世界的な現象であると推測されます。ここ日本でも、7月にガーダシルは厚生省の認可を受け、現在、子宮頸がんワクチン接種を受ける女児は、英グラクソ・スミス・クライン社のサーバリックスかこのガーダシルのどちらかを選択できることになっています。

ワクチンの危険性に関して最も詳しい専門家の一人であるシェリー・テンペニ-博士のインタビュー動画をユー・チューブのTHINKERチャンネルにアップしました。

この中には、テンペニ-博士の子宮頸がんワクチンに関するコメントも含まれていますので興味のある方はぜひご覧ください。動画の最後には、彼女から賢明な親への熱いメッセージが込められています。
ユーチューブ動

アメリカの現在の状況は、日本がごく近い将来直面するものです。
この情報が大事だと思われた方は、周りの方へお伝えください。
ご協力ありがとうございます。

THINKER・NAOKI

2011年12月9日金曜日

“『呻吟語』からの学び”

今日のブログも
引き続き
呂新吾(りょしんご)さんの
呻吟語』(しんぎんご)
から進めていきます。

呂新吾(りょしんご)さんは、
1536年から
1618年の人で
その当時、中国は
明の末の時代でした。

呂新吾さんは
陪臣(ばいしん)といって
現在の
高級官僚だった方で
地方長官を
歴任していました。

その時代は
あちこちで
政争があり
国は混乱していました。

呂さんは
官僚として
政治改革をしなければ
ならないと思っていて、
改革案なるものを
作っていました。

しかし、
呂さん自身も
その政争の中に
巻き込まれて
陪臣から退くことに
なるのです。

その時の呂さん自身の
体験を通して
人間観や処世訓として
書かれたのが
『呻吟語』であります。

呻吟という意味は
嘆きうめくこと
ですので、

呂さん自身の魂から
絞り出すように
書きとめた言葉
だったと
思われます。

自らも地方の長官として
人材の任命や登用、
或いは移動等も
したでありましょう。

そういう体験の中で
多くの
才智と機知があり、
弁が立つ者
いわゆる
聡明才弁の者を
重用する弊害を
身に染みて
経験したのだと
思います。

呂新吾さんの
『呻吟語』を
守屋洋さんが編・訳を
された本が
徳間書店から出版
されています。
とても解りやすく
解説していますので、
是非、お読みに
なってください。

その守屋洋さんの本の
はしがきに
こう書かれています。
引用させていただきます。

「『呻吟語』という書名は、
「病気に苦しみながら
発する沈痛なうめき声」
なのだという。
呂新吾の生きた時代は、
現代と同じように
混迷の時代であった。

かれもまた、
われわれと同じように、
一人の社会人として、
また組織の責任者として、
悩んだり
苦しんだりすることが
多かったにちがいない。

だが、かれはそういう
悩みや苦しみに反省を
加えることによって、
かれなりの確信に
達していったらしい。

それを折にふれて
記録にとどめたのが、
のちに『呻吟語』として
まとめられたのだという。

『呻吟語』もまた、
人間とはどうあるべきか、
人生を
どう生きるべきかなど、
われわれにとって
切実な問題を
さまざまな角度から
解き明かしている。

これを読めば、
必ずやわれわれの
当面する問題について
多くの示唆を
汲みとることが
できるであろう。」
とあります。

他に、『呻吟語』は
安岡正篤先生訳著の
『呻吟語を読む』も
致知出版社から
出版されています。

安岡先生の本も、
大変わかりやすく、
『呻吟語』を
学べる本です。
こちらも、
是非、お読みに
なってください。

その両方の本から
私のメモを見ながら
紹介していきます。

「過ちを指摘されたら喜べ」
というのがあります。
そこには、こう
書かれています。
守屋さんの訳です。

「自分の過ちを
指摘してくれるのは、
必ずしも過ちのない人
だとは限らない。

過ちのない人に
過ちを指摘してほしいと
願っていたのでは、
一生かかっても
自分の過ちを耳にする
機会はないであろう。

相手がたとえ
どんな人であれ、
過ちを指摘して
もらえるのは、
ありがたいことだと
思わなければならない。

相手に過ちがあろうと
なかろうと、
そんなことを
気にしている
暇はないのである。」
とあります。

この言葉は
私自身
大変身に染みた
言葉でした。

特に、若い頃の私は
ひとつ過ちを
指摘されれば、
相手の過ちを
みつけては何倍にも
言い返し、
逆上していました。

そんな状況ですから
誰も私に指摘して
くれる方がいなくなって
しまいました。
敢えて言えば女房ぐらい
それでさえ、言い返して
いましたね(笑)

今、思えば
大変勿体無いことを
してしまったと
反省しています。

女房を含めて
私に指摘をしてくれた
方々に対しまして
この場を借りて
お詫びしたいと
思います。
「ごめんなさい。
許してください。
愛しています。
ありがとうございます。」

年をとると
自然に過ちを
指摘してくれる方は
こちらから望んでも
いなくなります。

若い方は
是非、自分の過ちを
指摘してくださる。
家族や友人や先輩を
大切にして下さいね。

さらに
「相手の人物いかんは
問わない」というのが
あります。

そこには
こうあります。
これも守屋さんの本を
引用したメモから
抜粋させて
いただきます。

「発言を聞き
行動を観察する、
これは
相手の人物を
判断する
ポイントである。

発言には
耳を傾けるが
人物のいかんは
問わない。
これは
自分を向上させる
ポイントである。

ところが、
近ごろの人間は
すばらしい
教えを聞いても、

「話すことは立派だが、
おやりになって
いることが
それに伴わない。

あいつの
話すことなど
聞いても仕方がない」
と言って、
受け付けようとしない。

こういう人間は
思いちがいをしている。
そもそも相手の発言に
耳を傾けるのは、

自分にとって
プラスに
なるからである。
自分にプラスに
なるならば、
相手の人物が
どうあろうと、
いっこうに
構わないではないか。」

その通りであります。
私たちは
どんな人間からも
いや、人間だけではなく
生きとしいけるもの
すべてから学べます。

そう考えると
どんな時も無駄では
なくなります。
すべては自分の進化の
ためにあるのです。

又、リーダーが
人を使うときの
重要な心がけとして
「相手の能力を引き出す」
という箇所があります。

「駱駝(らくだ)は
百鈞もの重さを
背負うことができるが、
蟻はわずか
一粒のものしか
背負うことができない。
それで駱駝も蟻も
全力をつくして
いるのである。

象は数石もの
水を飲みほすが、
鼠はわずか
一勺の水しか
飲むことができない。
それで象も鼠も
腹一杯に
飲んでいるのである。

君子が人を使う場合、
必ずしも同じような
実績を期待しない。
相手がそれぞれの長所を
発揮できるように
しむけるのである。」

人にはそれぞれに
すばらしい特性が
備わっています。
その特性をきちんと
見て、適材適所に
配置するのが
リーダーとして
とても必要なことです。

そして、
小さなことから
大きなことまで
争いの種は尽きません。

例えば
国と国の戦争という
大きなもので
あろうとも
はじめは
小さなことが原因で
その小さなうちに
種を摘み取る
努力を怠った結果
大きくなっていくのです。

『呻吟語』の中には
こういうのも
書かれています。

「譲れば争いは起こらない」
という箇所です。
これも
守屋さんの訳です。
引用します。

「二つの物が
ぶつかれば、
必ず音をたてる。

二人の人間が
交われば、
必ず争いが起こる。

音をたてるのは、
両方とも
固いからである。
両方とも
柔らかいなら、
音はたたない。

一方が固くても
一方が柔らかいなら、
やはり音はたたない。

争いが起こるのは、
双方とも
欲の皮が突っぱって
いるからである。

双方とも譲るなら、
争いは起こらない。

一方が欲深でも、
一方が譲るなら、
これまた
争いは起こらない。

それよりも
さらに望ましいのは、
柔らかいほうが
固いほうを軟化させ、
譲ったほうが
欲深い相手を
感化させることだ。」

そして欲について
天の欲と人の欲の
違いを下記のように
書かれています。

「有天欲 有人欲 
吟風弄月 傍花随柳 
此天欲也 声色貸利 
此人欲也 天欲不可無 
無則禅 
人欲不可有 有則穢 
天欲則好底人欲
人欲即不好底天欲」

「欲には天のものと
人のものがある。
風と歌い、
月と遊び、
花を傍らに、
柳に随う、
これは天の欲である。

名声、色、利子を
貪るのは、
人の欲である。

天の欲は
持つべきであり、
持たないならば、
禅となってしまう。

一方、人の欲は、
持つべきでない。
持てば、穢れる。
天の欲は、
人が
持つべきものであり、
人の欲は、
天の欲ではない。」

呂新吾さんが
一等の資質という
「深沈厚重」な人と
言うのは
まさしく
人の欲とは無縁な
自我我欲のない
実相を感得していた
人であったのでしょう。

今日も
『呻吟語』に
ついて
書かせて
いただきましたが
これから所用が
ありますので

安岡先生の
『呻吟語を読む』等の
メモも紹介したいので

明日以降も
引き続き
『呻吟語』の中からの
学びを共有させて
頂きたいと思います。

生かして頂いて
ありがとうございます。

2011年12月6日火曜日

「リーダーとしての資質とは!」

中国明代の著名な
思想家である
呂新吾(りょしんご)さんの
『呻吟語』(しんぎんご)
という著書の中に
リーダーの
資質としての
重要な性格として
以下のように
述べられています。
皆さんにも
役に立つと思います。
共有してください。

深沈厚重是第一等資質

磊落豪雄是第二等資質

聡明才弁是第三等資質

深沈厚重
(しんちんこうじゅう)
なるは、
是れ第一等の資質なり。

磊落豪雄
(らいらくごうゆう)
なるは、
是れ第二等の資質なり。

聡明才弁
(そうめいさいべん)
なるは、
是れ第三等の資質なり。

深沈厚重
(しんちんこうじゅう)が、
リーダーとして
一番重要な資質とは、
沈思黙考
(ちんしもっこう)
いわゆる、
深く静かに物事を考え、
重厚な性格を
持っていることであり、
私利私欲を抑えた
公平無私な
「人格者」でなければ
ならない。

磊落豪雄
(らいらくごうゆう)が、
二番目に
重要な資質とは
細かいことに拘らず、
物事にもこだわらず、
つまり型にはまらない。
度量が大きい性格を
もっている人物である。

聡明才弁
(そうめいさいべん)が、
三番目の資質
いわゆる、
リーダーとしての
資質としては
一番優先順位が
低いとしている。
頭がきれて、
才能が有り、
弁舌巧みな人物である。
と呂新吾さんは
仰っています。

論語の中の
泰伯第八の205にも
以下のように
述べられています。

子曰、巍巍乎。
舜禹之有天下也。
而不與焉

子日(のたま)わく、
巍巍乎(ぎぎこ)たり。
舜(しゅん)・禹(う)の
天下を有(たも)てるや。
而(しこう)して
与(あずか)らず。

「孔子さまが仰るには、
何と(徳の高く尊い)
立派なことであるか!
舜と禹が、
天下を治めた方法は、
自らが、直接的に
政治に関与せず、
有能な部下を信頼して
任せきった所にある」
とあります。

古代中国では
理想的な君主として
尭(ぎょう)を含め
舜(しゅん)禹(う)を
3人組と称します。
尭から舜へ、
また舜から禹へ、
有徳の人へ帝王から
禅譲で政権が
譲渡されたことから

孔子さまは
上記のことを
述べられたのだと
思います。

その中の
舜と禹の聖王が
天下を
統治されたことは
「巍巍乎たり、
而して与らず」
と述べられているのです。

「巍巍乎たり」が
山の高さの
偉大さのことで、
徳の高く尊い
という意味で、
堂々として
立派なものだと
仰っています。

そして
「而して与らず」
舜と禹は
政治を独占しなかった。
磊落豪雄の臣下や
聡明才弁の臣下に
権限を預ける
器量があった。
いわゆる、
深沈厚重たる
第一等の人物で
あったのです。

特にこの論語の
泰伯編は
泰伯(大伯)という
大変、徳の高い人物の
名前を冠した編です。

有徳のリーダーとは
どういうものかを
孔子さまが
語っておられる編で
ありまして
大変ためになります。

この泰伯さん自身も
下記のように
語られています。
紹介します。

「泰伯は
それ至徳(しとく)と
謂(い)うべきのみ。
三たび天下を以て譲る。
民得て称するなし。」
とあります。

意味としては、
泰伯は徳の極致と
いうべき存在である。
己の天下を譲って、
絶対に
自分が取ろうとは
しなかった。
泰伯の譲り方が
譲ったと
わからないような
ものだったので、
民衆も
称することが
できなかった。

泰伯さんは
自我の一切無い
自分の中にある
良心を開眼した方だと
思います。
泰伯さんのように
特に国を治める
リーダーとしての
立場を持ちながら
自分の美徳を
ひけらかすこともなく
民衆が気がつかぬまま
禅譲する見事な振る舞い。
まさに、
深沈厚重たる
第一等の資質を持った
人物です。

本当に徳の高い人は、
自分のなす
善なる行為を
喧伝する必要を
感じない人物ですので、
有名な人の中には
いないのかも
しれませんね。


こういった
舜や禹、泰伯さんの
ような
深く静かに物事を考え、
重厚な性格を
持っていながら、
私利私欲を抑えた
公平無私な
「人格者」の
リーダーの出現が
地球規模で
待ち望まれているの
ではないでしょうか。

日本においても、
政治や企業における
リーダーの
不祥事が数多く
報道されて
おりますが、

ただ、聡明才弁である
いわゆる、
頭が切れて、
弁が立つ人物が
第一等として

リーダーに
据えているという
勘違いを
しているが故に

起こるべくして
起こっている
出来事なのでは
ないでしょうか?

聡明才弁は
官僚や各部署の
リーダとしては
有能な資質かも
知れませんが、

孔子さまは
論語の季氏第十六で
こう仰っています。
「陪臣(ばいしん)
国命を執(と)れば、
三世(さんせい)にして
失わざること希なり。」

陪臣とは、
官僚のことを指します。
官僚が国の政治を
取り仕切るようになると、
三代続くことは希である。
と述べております。

いわゆる
聡明才弁の資質の
限界を語った
ものと思われます。

そして、
権力を失い
そこで
磊落豪雄が割拠して
国の混乱が生じて
最後には
深沈厚重たる
徳の高い人物が
国を治め、
聡明才弁の人物や
磊落豪雄の人物を
適材適所に配置し
権限を委譲して
任せていく
スタイルこそ
理想的ではないでしょうか?

今日は
呂新吾さんの
『呻吟語』の
リーダーとしての資質を
論語の中の
孔子さまの語られた
お言葉を交えて
みなさんに
共有していただきました。

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年12月4日日曜日

“「真我」に到達する方法”


本日は
仏教の中心的な
教えのひとつである
「四無量心」
(しむりょうしん)を元に
書かせていただきます。

ます。「四無量心」は
慈悲の心を
高める修行であり、
与える愛の大切さ、
与える愛とは
何なのか?を
しっかりと
つかむことができます。
また、
人びとに対する
祝福の心を
つかむことができます。

「四無量心」とは
「慈」(じ)
「悲」(ひ)
「喜」(き)
「捨」(しゃ)
それぞれに無量心を下に
つけて
「慈無量心」
(じむりょうしん)
「悲無量心」と
(ひむりょうしん)と
繋がっていきます。

これは、5月5日の
私のブログでも
取り上げました。
参照してください。

「慈」とは、
他の人の
幸福を心から願う心。

「悲」とは、
他の人の
苦しみや悲しみを
取り除いて
あげようという心。

「喜」とは、
他の人が
幸福になった姿をみて
満足できる、
心から喜べる心。

「捨」とは、
他の人が
幸福になった姿をみて、
とらわれない心。
(嫉妬心がわかない・
心が揺れることがない。)

それぞれ
「慈」「悲」「喜」「捨」
の四つの徳目が
無限に
どこまでも成長させる
ことができるという
意味で
無量心といいます。

私たちは、
人のために
役にたちたいと
いう心を
先天的に持っています。

それが
「四無量心」の中の
「慈」「悲」の心です。

しかし、
三次元波動の
肉体や物質に
とらわれて
鈍感になっています。

その三次元波動から
心を解放して
本来の真我を素直に
引き出すこと。

それが、この
「慈無量心」
「悲無量心」の実践です。

この実践は
今日一日の
行動を点検する
ことによって
無限に
成長させる
ことができます。

今日一日の
終りに
静かな場所で
2~3回深呼吸を
してください。
鼻で息を吸って
お腹の下に空気を
落として(丹田)
一回止めて
息を吐きます。
吐くときはゆっくりと
吐きます。
(吸った時間の倍以上かけて)

そして目を瞑り
眉毛と眉毛の
真ん中の少し上
(チャクラ)を意識して
まず次にあげる
5つのステップに沿って
思い描いてみて下さい。

(1)ステップ
今日、会った方
一人ひとり
(家族・知人・友人・
会社の方・その他)を
思いだして下さい。
その方たちに、
どういう思いを
出したでしょうか。

(2)ステップ
そうした人たちに、
具体的に幸福を願う心、
祈る心をだせたか
どうかの点検を
して下さい。

(3)ステップ
出会った人、
一人ひとりの
幸福を願いましょう。
自分にとって
千載一遇の
出会いなのです。
一期一会、
縁があるから出会える。
気持ちを込めて。

(4)ステップ
出会った人が
苦しみや悲しみが
あるのなら
それを取り除いて
あげようという心。

それは、
苦しみや悲しみが
実体としてある
というのではなく、

既に、そのままで
完全円満であること。
その人に
内在する神の完全性、
無限性を拝むように
祈ります。
愛の具体化のために
愛の架け橋になる
気持ちを込めて。

(5)ステップ
慈悲の心を
段階的に広げていきます。
① 家族に対する
愛の念い、慈悲の念い。
② 友人・知人。
③ 自分の住む町の人たち。
④ 自分の住む国の人たち。
⑤ 地球全体、宇宙全体を
つつむ念い。
(太陽の慈悲のような念い)

ここまで広げますと、
神や仏の慈悲の心の
一端を感じれるように
なってくるでしょう。
真我に到達する
きっかけになります。

この「四無量心」における
「慈」「悲」の点検を
することによって、
自分に対する
変革課題も
明確になってきます。

他の人の幸福を
願うにも実力が
あると思います。

今、自分自身が
苦しみや悲しみの
渦中にあるのに
他人の
幸福どころではないと
思っている方も
いるかも知れません。

しかし、
悩みごとの本質は、
何故悩んでいるかを
分析してみますと、
奪う愛になっています。

今がどんな現状でも、
それでも
私たちは
大きな慈悲で
生かされているのです。

「四無量心」の点検は
まず、生かされている
ことに対して感謝を
することです。

現状への感謝の
基礎を固めた上で
行動をしますと、
必ず積み上がって
行くのです。

とにかく現状への
感謝をする磁気が、
この世では
とても、大切なのです。

そして、
与える愛に
念いを切り変えて
今日一日の点検を
することで
解消できていくのです。

愛の心は
日常的に
使っていないと、

愛の念いを
いつもいつも
出していかないと
錆びついてしまいます。

愛は使っても使っても
減ることは
ありません。

私たちが
惜しみなく
他の人たちを
満たそうとする時

他の人たちの心を
潤そうとする時に

神や仏の力が
無限の愛が、
無限の智慧が
無限の光が
無限の豊かさが
無限の勇気が
こんこんと
湧き出てくるのです。

自分に内在する
無限を信じることです。
与えることによって
無限が生じるのです。

奪う愛は
限定の自分
有限の自分です。
苦しみ、悲しみ
悩みの元は
小さな自分に
閉じ込めているから
起こります。

この世だけに視点を
おいた見方
金銭にしても
健康にしても
容姿にしても
家や財産にしても
あの世に
持っていけるものは
何も無いのに拘らず
それに囚われるから
悩むのです。

人は必ず
この世を去ります。
悩みの対象物は
すべてこの世だけで
消える内容なのです。

結局は
自分の内在神への
自覚を持てない限り、
よそ見ばかりして
迷うことに成ります。

その自覚を持つための
自己点検として
この「四無量心」の
徳目をチェックして
みましょう。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間に
愛を与えていきましょう!
それは、
自分の心の中にある
良心を見つめる行為です。
その良心こそ
内在神なのです。

「四無量心」の実践は
内在神をみつめる
習慣を醸成します。
「真我」に到達する
方法なのです。

生かして頂いて
ありがとうございます。

2011年12月2日金曜日

“「創造者」としての自覚”

人間は何故、
まだ来ない未来に対して、
いろいろと
心配するのでしょう?

人間は何故、
もう既に
過ぎた過去の出来事に
思い悩むのでしょう?

前者を
取り越し苦労と言い
後者を
持ち越し苦労と言います。

人間には未来も
過去も本当は
存在しないのです。

すべては今、
この瞬間しか
確かな時間は
無いのにも拘らず

この今と言う瞬間に
過去と未来を
持ち込んできます。
今と言う時間を
過去と未来で
占有させてしまいます。

それでは
今を生きていない
ことになります。
今しかないのに
今を生きていない
と言うことは
何も生きていないことと
同じことです。

過去はどんなに
思い悩んでも
悔やんでも
既に飛び去ったのです。

未来は
今の自分自身が
継続して蓄積して
行くのです。

今、目の前に
現れている事だけに
集中すれば
いいだけなのです。
未来は、
今の瞬間の連続に
過ぎないのです。

私たちは
完全自由な神性が
宿っている
存在であることに
今、気づくことです。

私たちは
創造者である
神の子であり、
神の創造的性質を
持つものです。

単なる肉体と言う
物質存在では
ありません。

物質は自発的には
動くことは
できない存在です。
それなのに
何故?あなたは
自由に動くことが
できるのでしょうか?

その物質を
動かすところの
精神エネルギーこそが
私たちの本質なのです。
私たちは
創造者の子にして
私たちも
創造者そのものなのです。

創造者である神が
過ぎた過去や
まだ来ぬ未来を
思い煩ったり
するのでしょうか?

神は何者にも
支配されることは
ないのです。

過去や未来や
どんな環境によっても
左右されることは
有り得ないのです。

私たちも創造者です。
創造者と言うのは
まだ、来ない未来を
心配したり
過ぎ去った過去を
思い悩んだりすることを
創造するのでは
ありません。

それは、
創造とは言わないのです。
それは自我という
偽者の我が
生み出す幻想にしか
過ぎないのです。

幻想に振り回されては
なりません。
既に無い過去や
まだ訪れていない未来に
今と言う瞬間を
費やされてしまい

本当の自分を
発揮することが
出来なくなっていきます。

未来は
今、創造したことの
延長上にあるのです。

今という瞬間が
未来を創るのです。

今というこの瞬間は
過去をも変える
力も持っています。

自分に内在する
創造者としての魂は
現在、只今
顕現することが
できます。

あなたが
今、
抱いている思いや
話している言葉や
なしている行いは
一瞬のうちに
過ぎ去り、
消え去っていきますが、
同時に
”何か”を
新しく創り、
生み出しているのです。

その”何か”とは
あなた自身です。
あなたは
つねに
「新しいあなた」を
創造し続けているのです。
あなたの
創造主は
あなた自身です。

自らが主人公なのです。
過去も未来も
どんな環境も
自分を歪めたりは
できないのです。

自分が主体で
創造している訳ですから
一切はすべて
自分の責任であり、
自分以外の他の
何者の責任では
ないのです。

今、あなたが
どんな環境であろうと
自らが自らの
主人公としての
自覚を持てば

良くも悪くも
自らの選択において
現われているに
過ぎないのですから
余計な取り越し苦労や
持ち越し苦労は
今日からよしましょう!

谷口雅春先生著作の
真理第9巻295ページに
こういう喩えが
書かれています。
紹介したいと思います。

『ある日、
父と子どもとが
花園の手入れをして
草花に
水をやっていました。

子どもは水道の栓に
ゴムホースを繋いで
ホースの先から出る水を
草花に注いでやるのが
楽しみでした。

ところが突然
その水道の水が
止まってしまったのです。

「お父さん
水が出なくなりました。」
と、その子どもは叫びました。

父は振り返って
ゴムホースを見ました。
見るとその子ども自身が
ゴムホースを右足で
踏んでいるのです。

「お前がホースを
踏んでいるではないか!」
と父は子に言いました。

子どもは気がついて
右足を上げますと
また元の通り
ゴムホースから
水か豊かに
噴出しはじめました。

ところが暫くすると、
子どもはまた叫びました。

「お父さん、また
水が止まりました。
足を上げているのに
水か止まったのです。」

父がまた
振り返ってみますと、
今度は子どもの
左足がゴムホースを
踏んでいました。』
という物語です。

この喩えが
教えているものは
まさしく、
神と私たちの関係性
並びに、
私たちに内在する
無限なる永遠なる
創造者の魂の存在を
伝えています。

私たちには既に
ありとあらゆる良き物を
与えられているのです。

しかし、
与えられているにも
拘わらず
自分の足で
ゴムホースを踏んでいて
無限の供給を
止めています。

過去は自分はこうだった!
今のシステムが悪過ぎる!
環境が悪い!
誰々が悪い!
私の未来はどうなる!
ゴムホースが詰まっている!
等々
ゴムホースの
せいにしています。

神の子の自覚とは、
一切はすべて
自分の責任である。

自分以外の
他の何者の責任でも
ないのである。
と自覚することなのです。

自己を一切者とする
自覚の発動こそ、
真に人間神の子の
自覚の証左であります。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日、この瞬間
自分はすべてに責任を
負うところの
創造者であり
一切者であると
宣言しようでは
ありませんか!

過去や未来や
環境やゴムホースに
罪をきせるような
卑怯な真似は
よしましょう!
自分が自分の
主人公なのです。

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年11月28日月曜日

“「国民総幸福」幸せを求めて”

今年も早いもので
あと1ヶ月あまりで
2012年が
目の前に訪れよう
としています。

今年は日本では
大変大きな
出来事として
3月11日の
東日本大震災が
ありました。

多くの方が
お亡くなりになり
残された方たちも
家族を失い
家を失い
仕事を失い
悲しみや苦しみを
乗り越えながら
頑張っているご様子が
あらゆる媒体で
伝えられています。

そんな時
日本中は元より
世界中から
救いの手が
差し伸べられました。

人と人との絆が
こんなにも
実感できたことは
不幸な出来事の中に
一服の清涼感を
もたらせました。

プロスポーツ界からは
プロゴルファーの
石川 遼選手が
2011年の
獲得賞金全額を
東日本大震災復興の
義捐金として
寄付すると発表して
話題を
集めました。

また、大リーガーの
松井秀喜さんも
今までも
スマトラ沖大震災とか
いろいろな天災が
あるたびに
大金を
寄付していますが、
今回もいち早く
義捐金寄付に
名乗りを上げています。

イチローさんも
たくさんの金額を
寄付されています。

また、
いろいろな分野で
活躍されている方たちが
今回の震災のための
イベントや寄付
並びに食料配布や
現地での炊きだしや
激励や介護等に
それぞれが
できることで
参加してくれています。

わが国の
天皇陛下と皇后陛下も
ご高齢にもかかわらず
直々に
被災地を激励に
行かれておられます。

多くの方が
感動のあまり
涙を流して
おられました。

人の気持ちが
人を救うことを
本当に感じることが
できた2011年で
ありました。

これからの
私たちが
進むべき方向が
暗示された一年でも
あったと思います。

3月11日以降
はっきりとしたのは
磁場が明確に
逆転したのを
感じます。

それは
自分のことを中心に
する時代は
終焉を迎え

他に対する
思いやりの気持ちが
優先する時代に
切り替わったと
明確に感じます。

与える愛の実践の
時代の到来であります。
それは霊性の時代です。
霊性がはっきりと
浮き上がって
まいります。

霊性の時代は
自分だけよければ式の
自我からの欲望は
実らない時代に
入ってきています。

今までのように
ただ、
思いが強ければ
物事が実現していく
時代は終わりました。

その思いによって
他を害する
可能性のある
あらゆる実現は
実ることは
ありません。
そう、断言します。

これからは
多くの人が幸せに
なる方向の念いをのみ
発することが
実っていく
ことになります。

自分から積極的に
他に対して思いやりを
配るのです。
他への思いやりを
出していくのです。
見返りなどは
求めずに
与えていくことです。

「与えよ、さらば
与えられん」なのです。
この聖書の中の
「与えよ!」は
見返りを求めない
愛のことです。
無条件の愛なのです。

「さらば 与えられん」は
自己の内面や
他者を通じて
神の祝福が
与えられるのです。
内面からの
輝きなのです。
それが霊性の時代の
証なのです。
そういう時代に
入りました。

霊性の時代の
象徴としてなのか
11月15日に
ブータン王国国王
ジグミ・ケサル・ナムギャル・
ワンチュク陛下及び
同王妃ジツェン・ペマ・
ワンチュク陛下が
国賓として訪日され,
東京,福島,京都を訪問され,
11月20日に
離日されました。

皆様も
いろいろな報道で
ご覧になったことと
思います。
とてもさわやかな風を
日本中に
届けてくださいました。

被災地の
福島県にも訪問され,
小学生と交流されたり、
また、被災地域へ赴き
犠牲者の追悼も
行なっていただきました。
被災地の方たちの
一人ひとりが
どんなに励まされた
ことでしょう。

そして
幸福指数なるものも
お示しくださいました。

このブータン王国に
ついては
私も大変注目を
していまして
“世界一幸せな国”
として
3~4年前から
度々、メルマガで
紹介させていただいて
おりました。

国民総幸福(GNH)とは
Gross National Happinessの
頭文字を冠しています。

① 環境保護~自然環境の豊かさ  
② 伝統文化の推進と保全 
③ 良き統治(政治) 
④ 公正な経済発展
上記、四つの柱から
なっています。

日本においては
戦後の復興に
全力を注ぎ
アメリカを中心に
世界の工場として
大量生産を掲げ
右肩上がりで経済が
上昇していきました。

アメリカについで
GNP(国民総生産)
GDP(国内総生産)
世界第2位として
豊かさを世界に
アピールしていた。
1970年代当時、
世界がこのGNP、
GDPを
代表的な指標として
採用して
生産性をあげるために
躍起になっていました。

GNP、GDPのPは
Products、
物やサービスのことで、
それを取引して
お金の量を増やすことで
豊かさも増えていく
イコール社会や
国民の幸せも増える
という考え方を
政府や国民も
していました。

その時を同じくして
世界でも最もGNPの
低い国のひとつだった
インドと中国に挟まれた
ヒマラヤの小国、
ブータンの国王が
言い出したのが
「GNH(国民総幸福)」
という考え方だったのです。

当時急死した父親である
ジグミ・ドルジ・ワンチュク
第3代国王から継いで、
弱冠16歳で即位した
第4代国王
ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下は
GNPには
私たちの健康や
人々の思いやりや
生きがいというのが
勘定されていない。
本当の幸せとは
いったい豊かさだけで
量れるものだろうか?

経済の発展も
大事ではあるが
一部の人たちだけが
発展することを
もって経済発展という
ことはあり得ない。

戦争(人殺し)で使われる
武器や爆弾も
GNPに含まれて
計算されている。
として、
「GNPよりGNHが大切だ」
と言われたのです。
GNPのProductsのかわりに、
Happiness、幸せのHを入れると
国民に発表したのです。

そして
その国民総幸福を
国是として
国民と一緒になって
30年もの間
議論を重ねていったのです。

そして2005年には
総選挙が実施され、
2008年に
ブータン史上初の
憲法の第9条に
GNHという言葉が
盛り込まれました。
そこには、
国民総幸福を保障するのが
政府の責任であると
明記されているのです
2006年12月には
予定を繰り上げ
王位を長男である
現在の第5代国王に
譲位いたしました。

経済発展を
第一に掲げてきた世界は
物質至上主義に陥り
そのために
自然をも破壊し
自我を満足させる
為だけの目的で
持つものと
持たざるものを
分離し
すべてを分割、分析し
破滅に向かってきました。

国と国の間でも
不足しているものは
奪えばいいと
エゴのまま
果てしない欲望を
満たそうと
醜い争いに
現を抜かしてきました。
豊かさを
追い求めた結果
経済的には豊かに
なっても
その経済は
人の生命を守るために
あるのではなくて
今回の震災での津波や
原発のように
経済を生み出すことを
重視しすぎて
多くの犠牲を出したことは
私たちも経験しました。
記憶に新しいことです。

ブータンの
1人当たりの
国民総所得は
1,920米ドルだそうです。
(世界銀行,2010年)

しかし、ブータンの
国勢調査においては
国民の約97%が
「幸福」であると
回答しています。

その国勢調査には
「家族は互いに
助け合っていますか」
「睡眠時間はどれだけ
とっていますか」
「植林をしましたか」
「医療機関まで
どのくらいの距離が
ありますか」など
72の指標が
策定されているのです。
幸福の指標も
国民を交えて
随時話し合われ
政策を立案,調整する
GNH委員会が
重要な役割を担っています。
その背景には
チベット系仏教の
国家の精神的な遺産としての
価値観があり、
「足るを知る」が
国民一人ひとりに
息づいているのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちは
もともと
自分だけの豊かさを
求めたことは
ない存在なのです。
「足るを知る」
民族なのです。

大和の国は
聖徳太子が
示したところの
人の和をもっとも
重要視した民族なのです。

他に対する
思いやりが深い
人種なのです。
それを思い出せば
いいのです。
神のDNAと
大和のDNAが
共に備わった存在です。

今日、この瞬間に
豊かさより
幸せを求めて
いきましょうよ!

人が喜ぶ顔こそ
何よりの
幸せでは
ないでしょうか。

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年11月23日水曜日

「奇跡の生還に導く声~“守護天使”の正体は?~」

先週の土曜日放映の
地球ドラマチック
「奇跡の生還に導く声~
“守護天使”の正体は?~」
をご覧になりましたか?

私の友人の
何人かには
メールで案内を
しましたので
見た方もおられると思います。
皆様は如何でしょうか?

もし、ご覧になって
いないようでしたら、
11月28日に(月)
再放送もありますので、
是非、ご覧になって
ください。
午前0:00~0:44分です。
深夜で遅いのですが、
大丈夫な方は
見てください。

NHK Eテレの放送です。
ご注意願いたいのは
11月28日(月)なんですが、
午前0:00のため
日付が変わっているので
日曜の深夜と覚えて
置いたほうが
いいかも知れません。

TV番組で
正面から捉えて
守護天使を堂々と
タイトルの一部につけて
放映するように
なってきたというのは
大変喜ばしいことだと
思っています。

こういう実例は
たくさんあるの
ですけれども
取り上げなかった
というのが本当の所です。
これからも、
こういう番組が
増えてくるのを
希望しています。

内容を少し
紹介します。

奇跡の生還を
果たした人たちの多くに、
共通した体験があります。
不思議な声に
導かれたというのです。

声の正体は
いったい何なのか?
脳科学者の
ユニークな研究を
交えて伝えていきます。

この番組は
ジョン・ガイガーさん
という同名の本に
基づいて番組は
構成されています。

2001年9月11日に
ロン・ディフランチェスコさん
という男性は
ニューヨークの
ワールドトレードセンター
サウスタワー84F
オフィスで働いていました。
ノースタワーから10分後
サウスタワーにも
飛行機が突っ込んだのです。

ディフランチェスコさんは
同僚と共に
暗い非常階段を
急いで降りていきます。
すると行く手に
炎が燃え上がるのが
見えたので
上に引き返しました。
そして、
狭い非常階段から
フロアに非難しようと
ドアをあけようと
しました。

ところが、
セキュリティのために
ドアがロックされていて、
他のフロアに
行けないことが
わかりました。

皆、絶望的になって
その場に座り込んで
しまいました。
粉塵と煙に覆われて
空気は乾燥して
いました。
皆、水浸しになっている
非常階段の
冷たい床の上で
眠りはじめました。

その時、
ディフランチェスコさんに
「起きろ!」と
男性の声で導く声が
聞こえたのです。

ディフランチェスコさんは
誰かが強い声で
助けようとしていると
感じました。

「私についてきなさい!
君を家まで
送り届けてあげよう!」と

ディフランチェスコさんは
その声に導かれるまま
1500段余りもある階段を
一気に下りていきました。

ディフランチェスコさんは
サウスタワーの
地下に誘導されました。
サウスタワーに
飛行機がぶつかって
56分後のことです。
ディフランチェスコさんは
外に出ることができました。

しかしその時に
上から火の玉が落ちてきて
ディフランチェスコさんは
気絶してしまうのです。
3日後に病院で
目を覚ましました。

ディフランチェスコさんは
奇跡の生還を
果たしたのです。
ディフランチェスコさんは
「その声は、私に
力を与え脱出を
助けてくれました!」と
力強く言い放つのです。

今、アメリカの
あるアンケート調査では
天使の存在を信じる人は
55%に及び
守護天使を信じる人も
46%いるとの
調査結果を
この番組で伝えて
いました。

以外に多いように
思いましたが
皆様はどう感じられ
ますでしょうか?
もし日本で
アンケート調査を
したとしたら
何%ずつになるので
しょうかね?

他にも
南極の氷の海に
10ヶ月もの間
閉じ込められ
奇跡の生還を遂げた
1914年の
アーネスト・シャクルトンさん
一行の例や

海中の洞窟で
潜水調査を行っていた
シュワーブ・ステファニーさんが
水深30メートルの深さで
真っ暗の海中で
命綱を見失い
パニックに陥ったとき

『亡くなった夫が
自分と共にこの洞窟に
いてくれている。
と感じました。

その時、夫の声が
「落ち着いて、
ステファニー!
慌てなくても大丈夫!」

暗かった洞窟が
明るくなりあたりを
見回せるように
なりました。』

そして、
泳いだ先にあったものは?

『白く光るものが
目に入りました。
信じられないことに
それは命綱だったのです。』

夫が導いてくれ、
九死に一生の
体験を遂げた例、そして

1997年に
宇宙飛行士である
ジェリー・ビネンジャーさんの
ロシアの宇宙ステーション
「ミール」での体験です。

船内の火事や
補給船との衝突等で
「ミール」は制御不能に
陥っていきます。

その万事休すの中で
7年前に亡くなった
父親が励まし
孤立感から解放され
奇跡の生還を遂げます。
ビネンジャーさんは
言います。
「父が物理的に存在し
話しかけて来たんだ!」と
断定するのです。

このように
生命の危機に
遭遇しながら
奇跡的な生還を果たし
九死に一生を
得た人たちの
体験談に耳を傾けると
その多くが
不思議な体験を
していたことが
明らかに
なってきたのです。

極限な状態のとき
守護天使の存在や
亡くなった肉親の
導きを得たお陰で
助かったという
体験者たちへの
インタビューの数々と

その体験を
神経科学の分野から
科学的なアプローチで
解明していくという
スイスの神経科学者の
オラフ・ブランケ博士や
自身も登山家で
医師でもある
ケン・カムラー先生
やはり神経科学者の
マイケル・パーシンガー博士
ピーター・ブルーガー博士達の
脳の分析やユニークな研究の
取り組みを同時に
伝えていきます。

是非、ご覧になってくださいね!
とても面白かったです。

2011年11月21日月曜日

“谷口雅春先生 ご講話テープからの学びⅢ“ 「預言の的中とその限界」

本日も引き続き
谷口雅春先生の
ご講話テープの
「預言の的中とその限界」
第三弾を紹介させて
いただきます。
これが、最終となります。

まず、本日は
まず最初に
仏教での預言として
法華経の
如来寿量品・自我偈を
抜粋しています。。

「衆生、劫尽きて、
この世が
大火に焼かるると
見るときにも、
我が浄土は
安穏にして
天人常に充満せり」

「人類の劫尽きての
劫(こう)とは
(天体が生まれ、
天体が消滅する
周期のことを言う。
一つの周期を一劫と
言う)
大惑星と衝突して
劫火に焼かれて
しまうけれども
我が浄土は
安穏にして
天人常に充満せり
(自分の住む
仏の国土は
安穏で天人が充満して、
いろいろあらゆる
すばらしいものが
行われている
美しい世界で
天から“まんだらけ”
という美しい花の雨が
咲き乱れている世界です。」

「でも衆生の
目から見れば、
憂怖こもごもの
苦悩がいっぱい
充満している。
迷いの心が
組み合わされて
いる世界である。
滅びる世界は
いつか来るのである。
世界終末の世界が
いつかは訪れる。
と言う意味を
含んでいます。」

「キリスト教においても
新約聖書
マルコ伝第24章
マルコ伝第13章に
世界の終末が書いています。

マルコ伝第13章には
その時の前兆を
知れと言う事で
このように書いています。」

「時の兆しを知れ。
我はキリストの
再臨である。
最後の審判に出てきた
のであるといって、
預言をして
惑わすものが出てくる。
(世界終末の前兆
として出てくる。)
汝ら人に惑わされぬ
ように心せよ。
戦と戦のうわさを
聞いて驚くな。
かかることは
あるけれども、
未だ終りにはあらず。
即ち民は民に、
国は国に逆らいてたたむ。
またところどころに
地震や飢饉がある。
これらは
生みの苦しみの始めなり。
汝ら自ら心せよ。
人々、
汝らを衆議所に渡さん。」

「親でも兄弟でも
子どもでも
密告制度にして、
人々は
身内を密告したり
訴えて革命に忠実な
ものだとして
助かろうとする
見苦しい状態の
時期が来る。
衆議所とは
(人民裁判のような
ことをする場所を指す。)
そういうことが
前兆として現れる
と言っている。

しかし、
その時期については
明らかにしていない。
天の使いも知らず、
イエスも知らず、
ただ神しかしらない。
とマルコ伝の13章には
書いてあるので、
1999年7月と
いうのは嘘である。
時期は神しか知らない
他に誰も
知らないのだから
ノストラダムスが
知る由がない。」

ただ、察知するには
時の兆しを知ることと
マルコ伝第13章には
書いてあります。

「イチジクの木よりの
その枝、
既に柔らかくなりて
葉、恵めば、
夏の近きを知る。
かくのごとく、
我らの
事の起こるを見れば、
人の子(キリスト)、
既に近ずきて、
門べに至るを知れ。
(再臨のキリストが
天から天下ってきて、
最後の審判を行う。
その時、
天変地異が起こって
多くの人類が
滅びてしまいます。)」

「しかし、
その時は神しか
知らないのである。
我はキリストの再来
であるという、
偽キリスト、
偽預言者が出てきて
奇跡を行う時、
世界終末の時の兆し、
キリストの再来は
決して肉体を持った
霊的手品師みたいな
奇跡を起こすのではない。
それは、
本当のイエスの再臨
ではないのである。」

「汝ら心せよ、
予め、これを皆、
汝らに告げおくなり。
日は暗く、
月は光を放たず、
星は空より落ち、
天にある万象、
震え動かん。
その時人々、
人の子(キリスト)の
大いなる力と
栄光をもて、
雲に乗り気たるを見る。
天に異称あり。
その日には
身ごもりたる女と、
乳を飲まする女とは
災いなるかな。」

「それでは
どういう姿で来るのか、
雲に乗って再臨する。
天に異称ありとは
天変地異が起こる
という意味。。
それで
赤ん坊などを
連れている女たちは
逃げ場を
注意しなければ
ならないということを
イエスが
言ったというので、
それをまともに
最後の審判が
すぐにでも始まると
信じたのは聖パブロです。

コリント全書の
第7章の冒頭に、

『「男は女に触れぬを
良しとする!」
それでも、
抑えることが
できないならば、
乱倫、乱交をする
性道徳が乱れるのは
いけないから、
その場合には
「男は各々その妻を持ち、
女はその夫を持つべし」
と言って、
夫婦は婚姻生活を
しなけらばならない
と伝えます。
処女(おとめ)
のことについては、
主に聞いたことは
ないけれども、
私は主に忠実に
仕えていたものとして、
私の意見をいいましょう。
と言い、
「例え妻を娶るとも
罪を犯すにはあらず。
処女(おとめ)
もし嫁ぐとも
罪を犯すにはあらず。
されどかかるものは、
その身苦しみに会わん。
我、汝らを苦しみに
会わすに忍びず、
兄弟よ我これ言わん。
時は縮まれり。」
時は縮まれりとは、
世界終末の時期は
逼迫しているのだから、
妊娠していたり、
子どもを育てたり
していくのは
大変だから、
結婚すると苦難に
合うことになる。と
書いてあります。』

「このように
前兆を見て、
惑わすものが
出てくるけれど、
そんなものは
信じてはいけない。
ノストラダムスが
予言をしたところの
アンリ2世のような
近いところの預言は
実現するのだけれど、
遠く先の預言は
朦朧としていて、
当るのが
難しいものである。
変わるかもしれません。
はっきりと言えない。
1999年の7の月に
世界最後の日が
来るという
ノストラダムスの
予言なんかも、
初めの予言が実現
したからと言って、
終りの予言も
実現するということは
決してないのである。」と
谷口先生は断定します。

次に確率の高い
預言者として
谷口先生が紹介したのは
ダニエルさんです、

『旧約聖書ダニエル書
第11章31節に

「彼より腕、起こりて、
清きところ
即ち難き城を穢し、
常供の物を取り除かせ、
荒す憎むべきものを立てん!」
それが悩みのときであって、
世界終末の
予告のようである。

そして第12章には、
「その時、
汝の民の人々のために、
立つところの大いなる君、
ミカエル立ち上がらん。」

ミカエルは
キリスト教では
最高の天の使いです、
ミカエルは
日本の神道で言えば、
住吉大神
(すみよしのおおかみ)
のような存在です。
「古事記」では
住江大神
(すみのえのおおかみ)
となっている、
いざなぎの大神、
いざなみの大神と
同じように
大神と書いているのは
他にはあまりないので、
ミカエルは
大天使と言ってもいい。

「これ悩みのときなり、
国ありてよりこのかた、
そのときに到るまで、
かかる悩み
ありしことなかるべし、
その汝の民は救われん。
すなわち
文にしるされたものは
皆、救われん。
(大天使ミカエルの
手に持っている
巻き物に書かれている
ものだけは救われる)
土の下に
眠りおるものの中の
多くのもの眼を覚まさん。
そのうち限りなき命を
得るものあり、
また恥辱を被りて
限りなく恥ずるものあり、
悟きもの
空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を
正しきに導けるものは
星の如くなりて
永遠に到らん。
ダニエルよ、
終りのときまで、
この言葉を伏し、
この文を封じおけ、
多くのもの行き渡らん。
そして知識増すべし。」と
ダニエル書の
最後の書に
将来の予言を書いてある。』

『このダニエル書を
日本に当て嵌めて
考えてみると
「荒す憎むべきもの」を
占領軍、原子爆弾と
捉える事もできる。
「清きところ」を神国日本
「常供の物を取り除かせ」
占領軍がやってきて、
神道指令を出して
常にお供え物を
取り除くように指令した。
伊勢神宮や靖国神社を
禁止したことに
当るかもしれない。
時の兆しを見て考えると、
「荒す憎むべきもの」が
何であるか?
清きところが日本なのか?
世界最後の日としての
起点として
考えることは出来る。

本当の終末の日が
起こるまで、
いつ終末の
大破壊が起こるか、
誰も天の使いも
イエスも解らない。
聖パウロが
その日が来ると、
孕める女と、
乳を飲ます女とは
苦しみを犯すから、
なるべく結婚するな!
といったように、
間違いを犯すことに
なるかもしれない。』
と語られるのです。

そして
このノストラダムスの
予言詩をダニエル書との
比較で対比します。

『「大きな七の数が
巡り終わるとき
虐殺が起こる。
それは、
かの大きな千年から
そんなに
遠く立った時ではない。
そのとき
墓に入っていたものは、
そこから
出てくるであろう。」

五島 勉氏は、
ロバーツという方
の解釈として

「西暦○○○○年
12月に、
1999年を上回る
大戦争が起こって、
細々ながら大破壊から
逃れて生き残った
破滅後の人類の子孫が、
今度こそ一人残らず
滅び去るのだ。
そして
墓に入っていたものが
出てくると言うことは、
幽霊しかなくなる
と言うことであり、
完全に絶滅である。」
と解釈しているのである。
こういう
暗い解釈ができない
こともないけれど、
ダニエル書には、
「土の下に
眠りおるものの中の
多くのもの眼をさまさん。
そのうち限りなき命を
得るものあり、
悟きもの
空の輝きの如く輝かん。
また多くの人を
正しきに導けるものは
星の如くなりて
永遠に到らん。」

すばらしい人間が
再び土から再生して
生まれてくると
書いてある。
悪い解釈の方に
味方をすると、
悪い心の思いを、
この地球上に
いっぱい漂わす。
心の思いが
互いに連絡して
組み合わされて、
丁度、
水蒸気が雲になるが如く、
現象界が生まれる
フィルムができる。
そのフィルムが
地上に悪いものを現わす。
悪いほうの
予言の解釈を
しないようにして、
いいように解釈する。
私はそう思う。』と
続けます。

そして、
谷口先生がご自身が
居られた教団、
大本教について
語るのです。

『最後の審判の
大破壊の日を予言して、
間違ったのが
かつての大本教です。
その時代に(谷口先生は)
大本教の機関紙の
雑誌の心霊界や
綾部新聞を編集していた。

大本教は教祖、出口ナオが
神懸かりになって、
明治25年正月元旦、
お筆先で神様の言葉を
自動筆記で書いたこと
から始まる。
そのお筆先はとても
読みにくいのです。
平仮名と数字で書いてある、
例えば
「ごくろうであるぞよ。」は
5と9は
数字で書いてあって、
後は平仮名で書いてある。
最後の審判の予言も皆、
平仮名で書いてある。
大本神癒には
「じしんかみなり
ひのあめふらして
たいらげるぞや」と
書いてある。
当時の幹部は、
「地震、雷、火の雨ふらし、
(隕石が夥しく降ってきて)
地上の人間は
皆、平らげられてしまう」と
解釈した。
そして、
大本教を信じて、
魂を清めて、
身を清めたものだけが
救われるというので、
皆、魂を清め、
身を清めていた。
しかも年限が
「めいじ55ねん
5がつ5にちは
けっこうなひであるぞよ」
と書いてあるので、
いよいよ
最後の審判だと
信者は注目していた。
大本教の信者の金持ちは、
当面の生活費を残し、
その他は教団に献金した。

年号変わって、その日は
大正11年5月5日、
しかし、
何事も起こらなかった。
(谷口先生は)
二年ほど前に
大本を後にしていたのである。
「最後の審判と言って、
皆殺しをするような
神様はない。
神様と言うのは
残虐なものでは
ないのである」と思って
大本教を出ていたのである。

「神は愛の神で
なければならない!」
と思って、
東京に出てきた。
論文集「聖道へ」
(しょうどうへ)を発表した。
それから、
「神罰を当てるような
神がおるか!」と
言うことで
「神を裁く」という
小説を書いた。
ところがこの「神を裁く」
という小説は、
東京の書籍小売店に
配給されたのが、
大正12年9月1日でした。
その日に
関東大震災が起きて、
この小説は
神から逆に裁かれた形で
皆焼けてしまった。
しかし、地方の書店で
残っていた
数十部の返品があって、
それをもとに
日本教文社から
「神を裁く」として
出ているのです。
あの頃(当時)
神をいかに見ているか。
最後の審判を
どう見ているか?
その中の、
「秘められたる神示」
57Pを抜粋する。

最後の審判の神示、
「キリスト再び来たりて、
裁くとは今のことである。
キリストとは
肉体にあらず真理である。
キリストとは
肉体にあらず光である。
肉体の我の来たるを、
待ち望むな。
我は既に、
ここに来たれるにあらずや。
我は道である、
真理である、
光である。
我、来たって迷いを裁き、
我、来たって闇を裁き、
すべての迷いと暗きとを、
地獄の火に投げ入れて、
これを焼き滅ぼす。
これこそ
最後の審判であると知れ。
されど恐るるなかれ。
我が教えは
恐怖の教えにあらず。
迷いを焼かるるものは
却って生き、
闇を焼かれるものは
却って光を現わさん。
病は癒され、
悩みは消えん。
焼かるるもは
汝にあらずして
偽者の汝である
からである。
偽者の汝は
神より出ずるに非ず、
神より出でざる汝は
実在に非ず。
実在に非らざる汝は
その真相を
暴露して消滅せん。
我が来たれるは、
真と偽と
実在と虚妄をより分けて、
偽りと虚妄とを
永久に
地獄の火術ざいの穴の中に
葬りて封印せんと
するためである。」

これは、
キリストの霊が
谷口先生に
降りて来たりて
筆記した神示であります。

谷口先生は重ねて
「予言には
やがて
起こるべき事実を
そのまま語られたり
書かれたりする予言と、
象徴的な預言とがある。
遠く起こるべく預言は、
今知らせては、
ならないものの預言で
象徴的な
預言とする場合が多い。

旧約聖書の黙示録に
書かれている預言は
そういう象徴的預言である。」
と言われました。

最後に5000年前の
エジプトの宗教家である
アガシャの預言を
紹介いたします。
この預言は
チェナーさんと言う
チャネラーを通じて
語られたものを
谷口先生が解説を
して頂いています。

「1944年9月22日に、
日本を一夜にして
破壊するある力について
予言があったのである。。
そして、9月29日には、
アメリカは
或るいけないものを
持っている。
それは巨大な爆弾だ。
1945年の3月3日
までの間に、
アメリカが
ほとんど一夜のうちに
日本を壊滅せしめる
ことが出来るであろう。」

そしてドイツの
ことについてもこう
預言しているのです。

「我々は、
いかに速やかに
戦争が終りに近ずくと
驚くであろう。
そして7月22日に
ほとんど一夜のうちに
間もなく終わる。」
さらに続けて

「1945年の
2月23日には、
ゲーリングに対して、
ある重大な
ニュースが出るであろう。
ゲーリングは
空軍総司令官という
戦争計画を遂行する
位置にありながら、
戦争の全計画を
引っくり返すような
ヒットラーに関する
秘密を暴露するだろう。
そして、さらに
重大なニュースとして、
4月26日に
ゲーリングが
辞職したと発表、
ヒットラーと
仲間割れをして、
ゲーリングの
死刑計画が発表される。
5月1日に
ヒットラーの
奇妙な死の広報が行われ、
それに次いで
ゲッペルス自殺の話等々、
重大な人物の話が
次々と預言されて
いるのである。
しかし、
世界最後の日については
はっきりと
予言はしていないのである。

将来のことについては、
アガシャは
「新しき世界は、
この地上には
1965年以後に
建設されるであろう。
それは非常に
平和な時代であるが、
人々はその変革の
準備として
地上を浄化するために、
地獄の
苦痛の如きものを
経過するであろう。
黄金時代は
確かに来つつあるが、
それが訪れる前に
人々の生活には
大きなショックが
与えられるはずである。
多くの不思議な
出来事が現われ、
人々はそれによって、
自分自身の中に
神の力が
あることを悟り、
眼を覚ましてくるであろう。
1965年までの期間は
多くの人々が
新しき神意、
偉大なる
世界同胞的理解のために
働く時期である。
1965年と
2020年の間に
無限の
進歩の時期が訪れる、
新アトランティスが
建設されるだろう。」

いかがでしたか?
三回にわたり
谷口先生のご講話テープ
「預言の的中と
その限界」を
学んできました。

ノストラダムスさんの予言と
アガシャさんの預言や
谷口先生の
「最後の審判の神示」を
対比してみて
明確になるのは、
未来への
大いなる希望であります。

ノストラダムスさんの
予言を貫くものは
暗黒の予言であり、
アガシャさんは
「多くの不思議な
出来事が現われ、
人々はそれによって、
自分自身の中に
神の力が
あることを悟り、
眼を覚まして
くるであろう。」
と語り、
大西洋の真ん中にあった
アトランティスの
高度の文明が、
再び建設されるだろうと
預言しているのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

イエスさまが
谷口先生を通じて
語ったところの
最後の審判は
「我は道である、
真理である、
光である。
我、来たって迷いを裁き、
我、来たって闇を裁き、
すべての迷いと暗きとを、
地獄の火に投げ入れて、
これを焼き滅ぼす。
これこそ
最後の審判であると知れ」
とあります。

迷いや闇は
自らの審判において
今、この瞬間に
焼き滅ぼし滅することが
できるのです。
今日が新しい時代への
出発なのです。

生かして頂いて
ありがとうございます。

2011年11月18日金曜日

“谷口雅春先生 「預言の的中と、その限界」Ⅱ ご講話テープよりの学び“

今日も先日の
ブログから引き続き
谷口雅春先生の
「預言の的中と、その限界」
のテープから
学ばせていただきたい
と思います。

谷口先生は
出口王仁三郎先生
大本教に入信されて
いる時に
後に心霊研究の父と
言われた
浅野和三郎先生と
出会います。

当時の大本教は
教勢を拡大させていて、
新聞社の買収をして
言論活動にも進出して
影響力を増して
いきました。

その当時の日本と言えば
戦争へ一気に進んで
列強国の仲間入りを
果たそうとの
機運が高まっている
時でした。

その中で
「美しい世界、
言葉で和ませる」などの
大本教の教義や
新聞での言論の影響や
活動内容が
国や当局から
マークされたのです。

信教の自由は
あったのですが
実質上は
一般市民を惑わす等の
言い掛かりをつけて
弾圧していったのです。

結局
1921年(大正10年)
不敬罪と新聞紙法違反の
疑いありということで、
出口王仁三郎先生と
教団幹部を検挙したのが
第一次大本事件です。
この事件は
第二次大本事件にまで
繋がっていくのですが
今日は省略します。

その大弾圧の後
浅野和三郎先生は
大本教を離れ
大正12年に
「心霊科学研究会」を創設
谷口雅春先生も
一緒に参画するのです。

その時に
浅野和三郎先生と共に
世界中の心霊関係の
書物や文献を
研究していくのです。
浅野和三郎先生は
英米語の翻訳等も
手がけていて
ワシントン・アーヴィングさんの
「スリーピー・ホローの伝説」
等が入っている文集
『スケッチブック』や、
チャールズ・ディケンズさんの
『クリスマスカロル』等
多数翻訳しています。

谷口雅春先生も
たくさんの翻訳本を
出しています。

前置きが
長くなりましたが、
兎も角、
世界中の心霊に関する
研究をしていったのです。
その中でも
谷口先生をして
秀逸な預言として
あげられたのが

フランスの
16歳のレイヌという
少女が語った預言を
紹介しております。

最初は、
レイヌをモデルにしていた
絵描きのコルニリエが
個人的に
催眠術をかけていた
だけだったのですが、
ある時に
霊媒的能力を
発揮しだしたのです。

レイヌは

急に怯えたように
戦争の悲惨な光景を
滅亡と破壊の様子を
今、その中にいて
目の当たりに
しているように

「多くの人々が殺戮される!」
「町は焼き滅ぼされる!」と

壮絶な状況を
恐怖の叫び声で
語りだしたのです。

それは、
レイヌにベッテリニという
高級霊が懸かってきて
語ったのです。

レイヌが語る
高級霊ベッテリニが
1913年2月14日の
降霊界で生々しく
第一次世界大戦の
様相を伝えているのです。

第一次世界大戦は
1914年7月28日に
始まりました。

1913,2,17の
心霊実験界では

将来に起こることの
予告をしました。

「流血と破壊とを喜ぶ
熱狂した精神波動は
ヨーロッパからアジアに
繋がっていき・・・」

第二次大戦の預言まで
伝えています。
その預言は正確で
すべて当っていました。

16歳のレイヌに
懸かった
高級霊ベッテリニは
人間の進化について
非常に興味深い話を
しているので
紹介します。

『人間の霊魂は
地上の進化の
一段階を完了するには
普通、
地球という生活学校で
4000年~
6000年かかる。

そしてその間に、
30回から40回程
地上に生まれ変わる。

その期間には
生まれ変わりに伴う
休養期間も含まれている。

他の星の世界から
地上へ生まれ変わった
霊魂群の間には
互いに相関関係が
有るのである。

白色人種として
進化すべく
他の星より
生まれ変わってきた
人間霊魂群は悉く皆、
地上の試練生活の
一サイクルを
終了するのには
25600年を経過
しなければならない。

現代地上に
生を受けている
霊魂たちは、
一度に
全部地上に生を受けに
来たのではない。

それは連続の
周期波によって
幾回にも分かれて
地上に移住して
きたのであって、

各自はかくして
自分の受け持つ
地上生活の
舞台を完了しつつ
あるのである。

フランス民族中には
この最初の頃の
地上に生まれ変わった
周期波に乗せられて
地上に移住した
人間霊魂群が
かなり多いのであって

これらの霊魂たちは
さらに重ねて
地上生活を手にする
必要はないので、

そこでこれらの
古い移住霊魂は、
今より
300年ほどの間に
完全に霊界人としての
生活を得る。』

いかがでしたか?
この上記の霊言が
1913年頃の
霊言として
300年と言うと
2213年頃となります。
その事を指して
谷口先生は

「ノストラダムスの予言の
1999年7の月
人類が滅亡する
という予言は
ないということになる。

早い人でも
300年たたないと、
地球生活を
卒業しないのだから

卒業できないまま
地球学校が
潰れることになるので、

1999年7月という
世界の最後の
ノストラダムスの
最後の預言は
間違いであると
いうことを言いたい。」

と今から
35,6年前に
ノストラダムスの予言の
滅亡の年の
1999年からも
遡る事
24,5年前に
言われているのです。

さらに興味深い
預言として
谷口先生は
「古事記」の中の文を
紹介していきます。

「古事記」は和銅4年に
稗田阿礼(ひえだのあれ)が
古代の日本民族から
伝え聞いたものを
筆記したものと
言われています。
稗田阿礼は記憶力抜群
だったと言われています。

ノストラダムスの
預言の中に
(450年前)
飛行機の預言が
書いてあって
実際に現代に飛行機が
飛ぶようになって
この予言の正確性を
伝える文が
書かれていましたが、

「古事記」では
ずっと古代の日本で
誰言うとはなく
語り部として
言い伝えられて
いることが
書かれているのです。

『次に生みませる
神の名は鳥之石楠船神
(とりのいわくすぶねのかみ)、
又のみ名は天鳥船
(あめのとりふね)と申す。

谷口先生解説:
石(いわ)とは
金のようなもの、
楠(くす)とは
不思議なると言う意味。
鳥のように
翼があって飛ぶ
(飛行機)の預言である。

次に大宜都比売神
(おほげつひめのかみ)
を生みき。

谷口先生解説:
大宜都(おほげつ)の
げつは(膳)のことで、
宮中でもみけつ(御膳)
と言って
大きい膳(食事)、
いわゆる大量生産の
時代がやってくる
という預言である。

次に火之夜芸速男神
(ひのやぎはやをのかみ)
を生みき。
亦の名は火之かが毘古神
(ひのかがびこのかみ)
と謂ひ、
亦の名は火之迦具土神
(ひのかぐつちのかみ)
と謂ふ。
此の子を生みしに因りて、
美蕃登(みほと)
炙(や)かえりて
病み臥(こや)せり。

谷口先生解説:
火を持って
速やかに焼き払う
神がでてくる。
大東亜戦争において、
日本の大都市という
大都市は火の海になって
焼き払われてしまう。
焼夷弾や
原子爆弾の
出現の預言である。

伊邪那美命
(いざなみのみこと)は
火之夜芸速男神を
生んだことを
後悔して、
美蕃登(みほと)とは
(陰部)のことで
生産器官のこと、
陰部を
炙(や)いてしまった。
そして病み
臥してしまうのです。
生産設備が全部
焼き滅ばされる
時代が来ることの
預言である。

その次に大戸惑子神
(おおとまどいこいのかみ)、
大戸惑女神
(おおとまどいめのかみ)

谷口先生解説:
人々が
何をしていいかわからず、
戸惑っている状態。
終戦直後の様な
状況を預言している。

多具理邇(たぐりに)
生(な)れる神の名は、
金山毘古神
(かなやまびこのかみ)、
次に金山毘売神
(かなやまびめのかみ)

谷口先生解説:
生産性が多い時代に
入ってくる。
(金山)黄金の山、
無限供給の時代、
生産過剰時代が
やってくることの
預言である。

次に屎(くそ)に
成れる神の名は、
波邇夜須毘古神
(はにやすびこのかみ)、
次に波邇夜須毘売神
(はにやすびめのかみ)。

谷口先生解説:
波邇(はに)は
埴輪(はにわ)のこと
夜須(やす)は
保(やす)の意味、
世は、経済大国になって、
GNP世界第二位になり、
平和ムードの
元禄時代の状況の
預言である。

次に尿(ゆまり)に
成れる神の名は、
弥都波能売神
(みつはのめのかみ)。

谷口先生解説:
弥都波(みつは)は
弥都は(水)のこと
波も(水)
国運が
みずみずしく
満ち張る次代の
預言である。

次に和久産巣日神
(わくむすびのかみ)。
此の神の子は、
富宇気毘売神
(とようけびめのかみ)
と謂ふ。
故、伊邪那美神は、
火の神を生みしに因りて、
遂に神(かむ)避り
坐(ま)しき。

谷口先生解説:
和久(わく)は
和(平和)が
(久)しく続き
産巣(むすび)は結び、
陰と陽が結ばれる。
一切のものを生み出す。
沸くように
生産が増えていく
時代の預言である。
そして、
富宇気(とようけ)
富を宇気(受け)て、
五穀豊穣の時代の
到来の預言である。
そして
ところで今は
どうかと言うと
遂に神(かむ)避り
坐(ま)しき。
天の岩戸がくれの
時代であると
預言している。』

そして、
続いて「古事記」の
奇稲田姫(櫛名田比売)
くし(い)なだひめの
物語を話されます。

『奇稲田姫
(櫛名田比売)は
足名椎(あしなづち)と、
妻、手名椎(てなづち)との
間に生まれました。
火の川上あたりに
住んでいる、
その老夫婦には
たくさん
子どもがいたけれど、
ヤマタノオロチが
でてきて、
毎年一人づつ
姫を食っていって、
一人だけ残ったのが
奇稲田姫、
稲田と言うのは
瑞穂の国の
(日本)の象徴である。
ヤマタノオロチが
日本国をまさに
飲もうとしている。
眼を赤ほうずきの如く、
(赤い目をらんらんと
輝かせている)
ヤマタとは
唯物論の象徴である。
唯物論は
すべてのものを
細かく割って、
一つのものを
割って割って
そして結局、
分子とし分子を
原子とし原子を
もっと細かくして、
原子爆弾にし、
一切のものを
死の灰にまで
飲み干してしまおう
という、
世界中を
取り囲んでいる
蛇のことである。
暴力革命や
血の粛清を行うと
言ったことが
日本の古代に
言い伝えられていて
「古事記」に
書かれているのである。
そして、もし
この「古事記」の
預言が正しければ
ヤマタノオロチを
退治するところの、
スサノオノミコトが
現れてこなくてはならない。
ヤマタノオロチを
平らげる運動が
現れてこなくては
ならないと、
注目している。』
と、谷口先生は
仰いました。

このテープは
35年位前に収録
されたものです。

今、現在
1999年7の月から
既に12年以上
経過しました。

結局は谷口先生の
言われるとおり
「ノストラダムスの
大予言」に書いてある
最後の予言は
外れました。

しかしながら
「古事記」に
書かれているように

今、現在
日本や世界を
飲み干そうとしている
ヤマタノオロチは
どんな国や組織なのか?

或いはそういう
固定したものではなく
蔓延した
唯物的意識
肉体や物質にのみ
囚えられた考え方や
個人を指すのか?

我のみ良しの
自我なる
偽者の迷妄のことを
言っているのか?

それは、ブログの
読者に答えは
預けたいと思います。

また、同じく
スサノオノミコトの
正体は
救世主は
誰であるのか?

或いは、
精神の時代における
愛の革命なのか?
真我(神我)なる
内在する我を
知ることなのか?

これも読者に
預けたいと思います。

この時期に
この谷口先生の
テープに出会えたと
いうことは
大いなる意味が
あると思っています。

まだ、仏教における
預言やイエスさまの
預言等述べられて
おりますが、
次の機会に書かせて
いただきます。

最後に谷口先生の
ご著書
『生命の実相』
第一巻実相編の中に

「心の世界における
運命の形成」と言う
章があります。

その中の文章を
割愛して紹介して
今日のブログを
終了したいと
思います。

「心が毎日、
何を思うか?
ということによって

心の世界に
イメージを重ねて、
その心に描いた
イメージが
つなぎ合わされて、

一つの作品になって、
その人の運命を
形成していきつつある。

それが
大勢が心に
描いたものが、

互いに又、連絡して
繋ぎ合わさって、
世界の運命を
決していく。

我々が何を思うかは、
我々の生活に影響し
あっているのです。

だから心の世界を
いかにすべきかが
大事なのである。

まず、
神様の心の世界に
描かれたものは、
根本的に現れてくる。

宇宙の初めから、
大きな問題は
根本的に決まっている。

それは船が
横浜港に乗って、
ヨーロッパに
何月何日何時に
出発するというのは
決まっている。

しかし、
乗組員は
誰だとかいう、
小さい問題は
後に決まる。

ごく近くの問題は
後で決まる。
それは変化する
可能性がある。

ところで、
世界の終末の
大破壊は
結局は
いずれかは訪れる。

しかし、
1999年の7の月には
やって来ることはないと
私は結論する。」

生かしていただいて
ありがとうございます。

2011年11月16日水曜日

“谷口雅春先生 「預言の的中と、その限界」 ご講話テープよりの学び“


今日は
谷口雅春先生の
ご講話テープの中から
「預言の的中と
その限界」という
テープを聴いていまして
大変興味深い内容
でしたので
ブログの読者にも
紹介したいと
思います。





谷口先生が
このテープを収録
されたのは
当時「ノストラダムスの
大予言」という
五島 勉さんが
書いた本が
大ベストセラーに
なっている最中で
ノストラダムスが
予言したといわれている
1999年の7の月に
人類は滅亡するとした
暗黒の予言が
書かれていまして、
当時の日本
(1973年以降、
本の出版年)は
ちょっとした
ノストラダムスブームが
起きていました。

多分、その数年後かに
収録されたテープと
思われます。
少なくとも35年位前の
谷口先生のテープです。

谷口先生は
日本に於ける
光明思想の大家で
あります。
まず、自身が書かれた
「信仰の科学」という
本の中に予言に
ついての警告が
書かれています。
その文を紹介されて
います。

「暗黒を告げる、
憂鬱なる予言の徒に
注意するが良い、
彼らの予言に
耳を貸せば
黒き暗雲が
あなたの頭上に
下りてくるのである。」

そして谷口先生は
淡々と話されます。
「思うことが現れる
心の世界に
住んでいるのだから、
みだりに悪い予言を
信じては成らない。
また予言が
本当であるなら
必ず出てくるのだから
防ぎようがないのだから、
そんなことで
心配している
必要はない。
兎も角、
予言なんていうのは、
我々が
関心を持つものではない。」と
話された上に
予言についての
論説を進めていきます。

「この現象世界は
現象以状の世界
所謂、
霊的世界に描かれた
心の図(アイデア)が
この現象界に影を
通して現れて
来るのが現象世界である」
として、人間には
その霊的世界に
感応して知覚すところの
第六感というものがあり、
この感覚が
先天的に現れて
霊感や霊聴等の
感覚を強く持っている
人間はいると
続けます。

そして、
五島 勉さんが書いた
「ノストラダムスの
大予言」の中の文を抜粋され

『南フランスのサロンという
古い町にペストが流行した。
この病気は肌の色が
真っ黒になる病気で
多くの方が亡くなった。
この頃は、
この病気による原因は
分かっておらず
この地方の人たちは
これは、悪魔の呪いに
違いないと思い込んで
いて、町中が恐怖に
慄のき、町を離れた
のだそうです。
その混乱の最中に
ノストラダムスが
このサロンと言う町に
やってきて、
この病気を無くす方法を
伝授したのだそうです。
ノストラダムスは
自分の中の特殊な力
予知能力を発揮し
町中のねずみを
捕まえて焼き殺すように
指示し、ペストで
亡くなって埋葬していた
遺体も焼くように
命じました。
この地方では
遺体を焼くと言う
風習が無かったので
恐る恐る焼いたのですが、
そのことによって
すっかりとペストは
全滅してしまいました。
当時、
そのノストラダムスの
評判を聞き及んだ
フランス国王アンリ2世は
直属の顧問として
ノストラダムスを
呼び寄せた。
1551年
ノストラダムス48歳、
アンリⅡ世が46歳の時です。
ある時、王様は
ノストラダムスに
自分の健康について
占って欲しいと言った。
そこで
ノストラダムスは
「王様はご病気で
命を縮められる怖れは
万に一つもございません。
でも?」と言って
口をつぐんた。
アンリ2世は何回も
その続きを言うように
諭したが
ノストラダムスは
固辞した。
しかし、アンリ2世の
命令と言うことで
とうとう言うことに
なります。
「10年以内に、
脳に鋭い武器が
突き刺さり
その傷が
命を奪うのではないかと
危惧しています。」と
国王に告げました。
そこでアンリ2世は
考えます。
槍が突き刺さると
いうのだから
戦争のようなことに
よる出来事以外に
考えれない。
当時、隣国のサボア家と
仇敵で関係が悪く
戦争をする可能性があった。
この予言を回避するためには
サボア家と
仲良くしなければ
ならないと考え、
自分の腹違いの末の妹を
サボア家の王様へと
嫁がせ、親族関係を
結んだ。
所謂、
政略結婚させたのである。
その結果、
両家は
非常に良い関係になり
お互いの親愛の情を
もっと深めるために
その披露宴の
祝いのパーティーを
催したのであります。
それはノストラダムスが
言った丁度10年目の
最後の日に
当るときであった。
王様は安心をして
楽しく宴も進み
酒も入り
気持ちが良くなって
つい調子に乗って
余興をしようと
提言します。
両家で誰が槍の使い手か
試合をしようと
申し入れました。
勿論、余興ですから
危なくないように
槍の先には
サックをはめて
鎧、兜も防具は
きちんとして
試合はしたのですが。
国王は相手のサボア家の
親衛隊長の青年でしたが
王様の槍が
青年の兜を突いた矢先
青年も突き返したが、
運悪く、何の拍子か
槍の穂先のサックが外れて
王様の目玉に
突き刺さり脳髄にまで
達し、アンリ2世は
非業の死を
遂げたのである。』
ここに
ノストラダムスの予言が
成就したのである。
この件について
谷口先生は
「人間は兎も角、
信じたら信じた通りに
お膳立てをするように
なるのです。
自分が予言に適うように
自分が持っていく。
ようは、アンリ2世が
ノストラダムスの予言を
信じたからなのである」
と言われました。

そして
谷口先生の
「信仰の科学」から
この部分を考え方として
抜粋されたのです。
「我々の運動は
暴力の哲学と
誤れる理想に
立ち向かって
戦うのであるが、
それらを誤って
信仰する人間を、
人間そのものを
打つのではないのである。
その信念の暗黒を信じ
暴力を信ずる
その信念に対して、
我々は戦って
その悪い信念を
打ち消すのが
我々の運動である。」
と、明言するので
あります。

もう一つの実例として
「人間性の解放」という本で
主にフロイトを
中心とした内容を
紹介しています
精神分析で
エディポス・コンプレックス
と言うのがある。
このコンプレックスと
いうのは日本語で
錯綜(さくそう)と
(現在では劣等感と
一般的には言われる)
訳されている。
心の迷いが
絡み合っている状態。
ギリシャの
ソフォクレスという
悲劇詩人が書いた神話である。

『テーベという
ギリシャの王様が、
子どもがなく、
神様に子どもを
授けてもらうように祈った。
そしたら妃が妊娠した。

アポロの神様が、
「もし王様が子どもに
王子を得られたら、
その王子はあなたを殺し
あなたの妃を
自分の妻にするでしょう。」
と予言した。

その後、間もなく、
王妃のユカシタは
可愛い王子を産んだ。

けれども予言通りで
あるならば、
王宮で育てるわけには
行かないと王様は、
臣下に命じ
郊外にある隣の国の
国境付近に子どもを捨てた。

この隣の国は
コリンズと言った。
この王様は
子どもがなかった。
王様も子どもを
欲しがっていた。

ある時、
コリンズ王の臣下の一人が
その捨てられた子どもを
拾ってきて
コリンズ王に見せた
コリンズ王は
神の思し召しと
この拾った子を
エディポスという
名前をつけて
コリンズの
跡継ぎの王子として
可愛がって育てたのです。
しかし、ある時、
良く当たるとして
有名な預言者が
エディポスに
運命を占ってやろうと
言ったので、
占ってもらうと、
その預言者は
「お前は父を殺し、
その母を姦するであろう!」
と予言をしたのです。

エディポスは
コリンズ王を
本当の父として愛し、
そしてその妃を
本当の母と思って
愛していた。
これは何としても
避けねばならない
と思って、
エディポスは家を出て、
放浪の旅に
出ることになる。

途中で狭い山道に
差し掛かった、
その狭い山道を
向こうから
立派な馬車に乗って
上品な老人がやってくる。
道が狭いので、
馬車が引き返すか、
自分が引き返すか
しなければならない。

エディポスは王子に
育ったために
ある権威をもったつもりで、
その老人に
道を譲るように言う。
その老人は
「お前こそ道を譲れ!、
この道は私の国の道である!」
と引き下がらなかった。

エディポスは
その老人を殺してしまいます。
ところがその老人は
テーベの国王である、
実の父であった。

「お前は父を殺し、母を姦する」
と言われた予言の半分が
成就したのである。

エディポスは知らずに
テーベの都へ入っていきます。
その時に
非情な恐ろしい
上半身は女の姿で
下半身はライオンのような
格好をした
巨大な怪物(スフィンクス)
が横行して、
道行く人に
謎を掛けて
「この問題を解け!
解けなかったら殺す!」
と言って、
多くの人は解けずに
殺されていた。

エディポスにも
そのスフィンクスは問題を出す。
その問題とは、
「お前は幼いときには
四足で歩いて、
成長したら
二本の足で歩いて、
年がやってきたら
三本の足で歩くもの,
何か言え!」

今まで
誰も説かなかったけれども、
エディポスは
「それは人間である、
幼いときには
手足四本で這い歩いて、
大人になったら
二本の足で歩き、
年をとったら杖を突いて
三本で歩くのだ!」

その謎を解いたため、
その怪物である
スフィンクスは
自ら海に身を投じ
死んでしまったのである。

テーベの国民の危難は
これで解消してしまった。
ところが
テーベの王様は殺されて
ユカシタという妃である
エディポスの実の母親が
女王になっていた。
ユカシタはエディポスに向かい
「テーベの国を
救ってくれるのは、
あなたをおいて
他はありません。
エディポス様!
どうぞ私と結婚して
この国の
王様になってください!」
と言うのであります。
結局、断れないで、
とうとう
エディポス王として
テーベの国の
国王となるのです。
「お前は父を殺して、
その妃を妻とする」の
もう一つの予言が
成就したのである。
その予言を信じたがために、
予言の言葉に
振り回されて
予言が的中したのである。』

「このフロイトが
言うには
男の子には
誰にも
潜在的に
父親や学校の先生
といった存在に対しての
エディポス・コンプレックス
なるものがあると
いうのである。」とし、

その背景にある
教育に関わる
教える立場のものが
そういう観点から
子どもを洗脳するのは
問題であるとして
警告を促して
いるのです。

尚、谷口先生は
「ノストラダムスの大予言」
(五島 勉著)
の222ページに
書かれている文

「1999年の破滅は
100%確実に
襲ってくるわけである。
その前の様々な
前兆的災厄も勿論
間違いなく襲ってくる。
今、私が(五島 勉さん)
これを書いてるのは
‘73年の秋だから
‘99年まで
後26年足らずしかない。
そしてあなたが
これをお読みになるときは
もっと接近している
ことになるのだ」

この部分を抜粋し
『このように
恐怖を
与えているのである。
この世界は
心の世界で
起きているのである。
お釈迦さまも言いました。
三界は唯心の諸現である。
三界とは(欲界、色界、無色界
で現象世界である)
我々の心の現わす
ところなのです。
特に恐怖の念は
強く働くのである。
「信仰の科学」(自身の本)
で書いてある通り
「想像力は(創造力)である。
イマジネーションは
クリエーションである。
心に思うことが動力となり
それが具体化するのである。
スピリチュアル
エンティティ(霊的分子)
(霊的微小体)が
自分を中心に
放送電波のように
形の世界に
必要なように
呼び寄せてくるのである。
だから悪い予言に
耳を貸して
心を動かしてはならない。』
1999年7月人類破滅と
多くの人が信じたら
そのようになってしまうと
警告してるのです。

この後も
「ノストラダムスの大予言」の
暗黒的予言に対して
谷口先生が自身で
世界の霊的な書物を
研究された
「生命の実相」霊界編に
書かれた内容や
「古事記」や「聖書」に
於ける
光明的予言の数々を
引き続き講義して
いただいています。

また、引き続き
書かせて頂きたいと
思っています。

共有ありがとうございます。