2011年6月30日木曜日

身・口・意を正す


お釈迦さまは、
よく
弟子たちを集め
説法しました。

『人間は
生まれによって
尊いのでも
賤しいのでもない。
その人の
行為によって
尊くも
賤しくもなるのである。』



2600年前のインドは
カースト制度であり、
徹底的な
人種差別の時代でした。

その時代に、
お釈迦さまは

人の貴賎は
身分ではなく
その人の
行為そのものである。
と、喝破されました。

それが、
『三業』(さんごう)と言って、
仏教の
根幹を為す
教えの
ひとつになっています。

一つ目は
身業(しんごう)です。

汝、盗むなかれ
汝、姦淫するなかれ
汝、殺すなかれ

そんなの
当たり前すぎると
思いますか?

当時のインドは、
カースト制度による
差別が
差別をする側
差別をされる側共に
その立場においての
心の荒廃があった時代です。

しかしながら、
今の時代でも
盗むなかれや
姦淫するなかれを
一度も
経験したことがないと
言い切れる人は
少ないと思います。

そして、
世界では
今も
戦争が止むことはなく
殺しあっています。

私たちが、
悪い行いをしたならば、
これは身の罪になります。

二つ目は
口業(くごう)です。

汝、妄語を語るなかれ
汝、悪口を語るなかれ
汝、両舌を語るなかれ
汝、綺語を語るなかれ

私たちが
嘘を言ったり
悪口を言ったり
二枚舌を使ったり、
飾った言葉で
しゃべったりしたならば、
これは口の罪になります。

三つ目は
意業(いごう)です。

「貪欲(とんよく)を
生じ
瞋恚(しんい)を
おこすことも、
そのみなもとをいえば、
みな愚痴よりいでたり。」

仏教でいう
最も、根本的な
三つの煩悩、
貪(とん)
瞋(じん)
癡・痴(ち)を
心の三毒(さんどく)
と言います。

必要以上に物を求める心
貪(むさぼり)りの心
怒(瞋)りの心
愚痴の心
愚痴という意味は
「グチを言う」
という風に
使われていますが
ここで言う愚痴は
真理に対する
無知を意味します。
癡(痴)の心です。

私たちが、
このような心を
持つならば、
これは意の罪になります。

お釈迦さまは、
身分が
高いことによって
低い身分の人間を
奴隷以下に扱い
悪業の限りを
尽くしている人たちに
警鐘を鳴らし、

身・口・意の
三つの悪業から離れ
善業を
為すことの道を
説いたのです。

今の時代の
私たちにも
充分に
心しなければならない
教えです。

私たちは、
身・口・意でしか、
その
霊的エネルギーを
使用することはできません。

ですから、
私たちは、
身を正し、
口を正し、
想い(意)を
正さなくてはなりません。

「汝、幼子の如くあれ」

私たちにも、
幼い日々がありました。

純粋な子供の頃
あなたは
神の子そのもの
光の子
そのものでした。

自らの心を
曇らせるものは
何も
存在しませんでした。

唯、
存在しているだけで
周囲を
輝かせてきました。

周囲は
あなたを見て、
微笑んでいます。

その微笑む姿を見て、
あなたも、
微笑み返します。

あなたは、
もう愛そのもの、
幸せそのもの、
光そのものでした。

しかし、
時が経ち
あなたの本性である
光を
徐々に曇らせていきます。

まず、
親が持つ
習慣性の中にある
無知が
光を閉ざす
要因になります。

あなたは、
その習慣性を
身につけるように
なってきます。

そして、
大人なればなるほど
いろいろな欲望の虜に
嵌っていきます。

怒り
憎み
誹り
罵り
嫉妬し

さまざまなものを
引き寄せ
身・口・意を
曇らせて、
賎しいものに
なってきました。

このように
悪意というもは
後天的に
生まれるのです。

私たちは、
赤ちゃんの時は、
みんなが
可愛い善意識です。
在るだけで
尊いのです。

なぜならば、
生命が
生まれるからです。

生かし産ませる
善エネルギーが
生命を
宿しているからです。

その後の
成長過程で
悪意が生まれ、
賎しくなってきます。

であるならば、
お釈迦さまの
仰るとおり、

悪を想わず
悪を語らず
悪を為さないと意識し、
身・口・意の業を
点検し、
チェックする
ことだと思います。

自らの
生命であるところの
善なる
エネルギーに
照らし

正していく
プロセスを
経ていくことが
尊さに
繋がっていきます。

本質としての
神性や仏性は
光一元です。

後天的に
二次的に
発生したものは
あくまでも幻想に
過ぎません。
必ず、
消え去っていくものです。

今の一瞬、一瞬を
大切にし、
目の前に現れる
人や出来事に
善を
為していくことこそが
何よりも
尊いのでは
ないでしょうか。

有難うございます。

2011年6月29日水曜日

混乱のほんとうの意味

私たちを、
取り巻く環境は、
危機と災厄に
満ち満ちて見えます。

それら
一連の出来事は、
私たちに、
危機と災厄を
与えようとして
いるのでしょうか?

人間の
有限な視点からは、
そう
見えるかも知れません。

しかし、
私たちは
この混沌と
混乱の世界に
誕生することを、
敢えて
選んで来ています。

この混沌と
混乱の世界と
見えしものは、
生の目的に
適っているのです。

それは、
進化するために、

自己探求を
続けるために、

自らの真理を
見出すために、

愛と光を追求し、
それを、
分かち合うために、

内なる対決と
成長にとっては
完璧な背景であります。

この現象界においては、
あらゆる摩擦は
自らの本質を
見出すために
与えられている
エネルギーです。

飛行機は
空気抵抗がなければ
飛びません。

自動車は
地面の摩擦がなければ
走りません。

私たちも
あらゆる摩擦や抵抗を
受けて
成長していくのです。

永遠性の観点から
眺めてみれば、
たくさんの
流れの中に、
身をおいている
上での出来事であり、
幻想に過ぎないのです。

自らの内部に生まれる
危機や災厄
並びに
混沌と混乱が

愛と
希望と
平和や光に
満たされた時
幻想は
消えるしかありません。

世界は鏡です。
その鏡を
心を込めて
丁寧に磨いて
きれいにしましょう。

その清浄な鏡に映る
自分こそが、
ほんとうの
自分なのです。

2011年6月28日火曜日

ノンレム催眠とレム催眠


私たちが、
眠っているとき
深い眠りと
浅い眠りが
約90分周期で
交互に現れます。

深い眠りを
ノンレム催眠といい、
浅い眠りを
レム催眠といいます。

眠りについてから
ノンレム催眠に入り、
約90分位すると、
約20分位、
レム催眠が続きます。
これを眠りの中で
平均的に4~5回経験します。

この、レム睡眠の存在を
発見したのは
1953年
クライトマン博士と
アゼリンスキー博士を
中心とした
シカゴ大学の
研究によって
明らかになりました。

人が眠っている時
深い眠りに入って
一定の時間になると
急速に
眼球が動く時間帯が
あることを発見しました。

それで、
Rapid Eye Movement
(REM催眠)
それに対して
眼球が動かない睡眠を
Non Rapid Eye Movement
(ノンREM催眠)と
名づけました。

下記は、
私の仮説ですが、

ノンレム催眠は
深い眠りの状態
この時間帯には
夢を見ないと
言われています。

しかし、
この時間帯にこそ
潜在意識が働きだし
右脳が
活発になる時です。

呼吸する回数も
脈拍も
少なくなっています。
脳波は
シータ波からデルタ波です。

脳が働かない時間と
言われていますが
それは、
左脳が
休んでいる状態です。

皆さんも
経験したことが
あると思いますが

突然、
起こされた時に
ボーっとして、
すぐには、
その場の
状況をつかめない
ことがあります。

ノンレム催眠中に
起こされると
こういう
状態になります。

夢もそうですが、
見ていないのではなく
ボーっとして
覚えていないのです。

逆に
レム催眠に
入ってきますと、

顕在意識が働いて、
眼球が
急速に動いてきて
左脳がだんだん
起きてきます。

呼吸も脈拍も
不規則に
動き出してきます。

脳波は
アルファー波上部で
ベータ波に
近くなってきます。

この状態で
起きますと
目覚めの
準備状態ですので
すっきりと
起きることができます。

夢を見る時間帯と
言われていますが、
レム催眠の時の夢は
五感に関係した夢が
ほとんどと感じます。

ただ、
覚醒しかけていますので
夢の内容は
よく覚えています。


私たちの
神聖な領域での

体験や
インスピレーションは

ノンレム催眠の時に
見ています。



ただ、
覚えていないのです。
ですから
実在を感じるために
(6月25日号)に
書きましたが、
間脳に
働いてもらいましょう。

実感される人が
一人でも増えることを
祈っております。

ありがとうございました。

2011年6月26日日曜日

意識の上手な使い方

昨日のブログで
潜在意識と
脳の活用を
書かせていただきました。
「実在を感じるために」参照
(6月25日号)

その後、
私のメールに
複数の方から

「早速、
今日から
実施してみます。
楽しみながら
やってみます。
ありがとうございます。」

と、
同様のコメントが
届きました。

朝、起きて
覚えていると
いいですね!

私は以前
仕事で
リラクゼーション
プログラムの開発を
していたことがあります。

過去のブログ
「イメージと
ビジュアライゼーション」
(5月27日号)
にも、
詳しく、
潜在意識や脳の
働きについて、
書いていますので、
参照してください。
より、
理解が深まると
思います。

以前にも紹介した
マフィー博士や
ナポレオン・ヒルさん達の
成功法則も
この、
潜在意識と
脳の働きを
活用しています。

この方法は
驚くほどの効果を
上げますので
言葉の使い方を
誤ると
作用しますので
毒になることも
あるので、
注意が必要です。

私たちが、
言葉をインプットするとき
願望ではだめなのです。

例えば、
「私は、幸せになりたい!」
という願望は、
今は幸せでないという
前提があります。

ですから、
今は幸せではない状態が
実現してしまいます。

昨日の、
ブログでも書きましたが、

「既に、なれり!」

と断定しなければ、
なりたい自分に
なることはできません。

願うのではなくて、
もう、すでに、
「自分は幸せなんだ!」
と確信を持つことです。

言葉が浮かぶ
言葉を発する
言葉を書くということは、
私たちの意識が脳を
働かせて
言葉として
今の心の状態を
現していることなのです。

ですから、
意識の使い方を誤ると
毒にもなります。

例えば、
私たちは今、
苦難や困難の連続で
悩みが尽きない状態で
あったとします。

「なんて、
私は不幸なんだろう!」
と思います。

しかし
そう、
思い続けているとしたら
思いの力は強いので
不幸が
実現してしまいます。

このような意識では
永遠に不幸から
脱することは
できないでしょう。

それでは、
どうしたら、
その心の状態から
脱することが
できるのでしょうか?

私たちの
目の前に起こる
さまざまな出来事は
すべて、
必然だから
起こっています。

それを、
苦難、困難と
見るのか

自分を磨く
砥石として
現れていると見るのか
どちらの
見方をするかなのです。

「今まで、苦難、困難だと
思っていたこの出来事は、
自分の神性を磨くための
砥石であった。
生かして頂いて
ありがとうございます。」

と、思えたとき
すべては、
解決するしかないのです。

ですから、
何かを
実現しようと思うときは

「今、私は生かされている。
私は、幸せである!
ありがとうございます!」

と、意識上に
受け入れることが
必要なのです。

意識の
使い方ひとつで
毒にも
薬にもなります。
意識は
エネルギーですから
強力です。
どちらにも作用します。

苦難・困難にある時、
その
対象となる人に対して
あなたは、
どのように
エネルギーを
使うのでしょう。

憎しみの
波動は、
憎しみの
意識から、
憎しみの
エネルギーが出てきます。

怒りからは、
怒りの
エネルギーが出てきます。

あなたが怒っている時、
誰がその影響を
受けると思いますか。

あなたは
相手を
傷付けたと
思っていますが、
もっとも傷付くのは
自分自身なのです。

自分から出るものは、
全て自分自身へ
影響してきます。

何故ならば、
人を
憎むということは、
まず、
自分を憎むと
同じことなのです。

自分を憎まない限り、
人を憎むことは
不可能なのです。

『風に向かって唾吐く
お天道様に石
空向いて石を投げる
天を仰いで唾をする
なんじに出ずるものは、
なんじに反る 』

作用と反作用の法則です。
私たちは、
意識の使い方ひとつで
自分自身を
高めることも
低めることも
できます。

ですから、
意識を
上手に使いましょう。
意識を
正しく使いましょう。
苦難・困難は
自らの
神性を磨く砥石として
現れるのです。
私たちは、
今も、
このように完璧です。
パーフェクトです。

「私は、幸せです!!」

ありがとうございます。

2011年6月25日土曜日

実在を感じるために

私たちの肉体は
生まれ
老い
病を持ち死んでいきます。

肉体そのものは
物質ですから
何の力も
持たされてはいません。

肉体に
生命が
宿らない限り
肉体自らは何もできません。

ですから、
私たちが
“死ぬ”ということは
肉体から意識が離れる
肉体から生命が離れる
死体になるということです。
ですから、
死は
魂が離れる
変化活動に
過ぎないのです。

生命は
肉体から離れても
厳然として
在り続けます。

私たちが
行く世界は
見知らぬ世界ではなく
進化をし続けている
リアリティーある世界です。

元いた世界なので
懐かしさをも感じます。

生と死は
決して
対極に
あるのではないのです。

肉体の死は、
魂にとっては、
誕生でもあります。

豊かで
さわやかで
活力が
みるみるうちに
蘇ってきます。

魂が
肉体を離れるとき

煌めく光が
私たちを覆い
満ち足りた
愛の感覚に浸されます。
完全なる安心感と
心の平安が
私たちを
包んで
抱きとめてくれます。

全体も個も
ずっと
ここにいたのだという
自覚が現れてきます。

確かな存在感、
より密度の濃い
別の次元へ
ステージを
あげていくのです。

この次元の儀式は
完璧です。
それぞれの魂の
レベルに併せて
ガイドたちが
適切な介助を施します。

そして、
存在のもっとも
深いレベルで
ゆく必要のある領域へ
導かれていきます。

人によって
感覚の違いは
あるとは思いますが

肉体という
荒い波動から
離れた世界は

精妙な波動で
あらゆる色彩の感覚も
愛や
光や
絶対の至福感や
安堵感は
共通して
感じているようです。

臨死体験をした方からの
話でも
よく出てきます。

しかし、
私たちも
いつも、
体験をしているのです。

眠ることによって
潜在意識の分野が
活動し出します。

潜在意識は
脳の右脳の部分を
装置として
操っているのです。

潜在意識が
オペレーターとして
リーダーシップを発揮し
右脳は
コンピューター担当と
いったような
しくみになっています。

眠っている間
私たちは
肉体を一時離れ、
次元を超えて
あの世を
宇宙を
体験しています。

ただ、起きたときに
忘れてしまいます。

忘れないように
するためには
ちょっとした
テクニックがあります。

人間の脳は
左脳と右脳があります。

左脳は、
私たちの肉体で受ける
「痛い」とか「痒い」とか、
「計算する」とか
「しゃべる」とかの
五感の世界です。
粗雑な部分を扱っています。

私たちの日常的に
働いている脳で
はっきりしていて
感知しやすいのです。

脳波で言えば
荒いβ(ベータ)波や
γ(ガンマ)波の領域です。
謂わば、デジタルの世界です。

右脳は、
感性脳とも言って
宇宙のすべてを
知っている脳です。

精妙な微細な振動で
細かすぎて
働いていることが
感知しにくいのです。

脳波で言えば
δ(デルタ)波や
θ(シータ)波の領域です。
謂わば、アナログの世界です。

そして
右脳と左脳の間に
間脳(脳幹)があります。
脳を管理しています。

アナログを
デジタルに変える
変換装置のような脳です。

この脳の働きを
活用すると
眠っているときの体験を
忘れないようになります。

潜在意識が活動し、
右脳を駆使します。
右脳は
宇宙に
遍満している智恵、
情報を感知します。
細かい振動、波動です。

その神聖なる情報を
間脳が受信して
デジタルに変換させて
左脳に送信します。

それら、
一連の流れを
流れやすくし、
間脳が働きやすく
するために

寝る前に
メモ用紙に
丁寧に
記憶に
インプットするように

「今日、
体験することは
朝、起きたときに
覚えています!」

と書き、声に出して
宣言します。

「忘れないように
してください」とか、

「覚えておいてください」とかは、

忘れるかもしれないという
前提が入りますので、
ダメです。

「既に、なれり!」と
断定することです。

眠っているとき
私たちは
潜在意識下にあります。
そのために
右脳が得た情報は
明確で、
ありありと感じる
ことができます。

しかし、
起きたときから、
時計を見て
学校や職場に行く
準備に取り掛かり
すぐに
日常に戻っていきます。
左脳が正確に
働き出してきます。

本当は
知っている
覚えているのですが、
忘れていきます。

起きて直ぐに
覚えていることを
書き留めてください。

そういった意味では
明日は
休日のような
金曜日とか
土曜日なんかが
いいかも知れません。

是非、
皆様も
自分の一日の中の
三分の一を締める
眠っている間の
貴重な体験を
忘れないように
してください。

それが
あなたの人生にとって
どれ程、
必要なことであるか、
論を待たないと思います。

ありがとうございます。

2011年6月24日金曜日

病気が語りかけるもの

私たちは、
病気になることがあります。
小さいことでは、
風邪や腹痛などから、
高血圧や
糖尿病や
癌等々
数え切れないほどの
多くの病名があります。

生長の家の創始者である
谷口雅春先生は
ご自身の著書の中で
病気について
『本来病なし、
現象に囚われてはいけない。
あなたの実相は神の子である。
神の子としての実相を
ありありと観じなさい。
真に自己の実相を自覚したときに、
病は消えゆくしかありません』

谷口先生が仰る通り
神の世界に
病は存在しません。
神が病気を創ったわけでは
ありません。
神は完全であり
全知全能です。

であるならば、
なぜ、病気をするのでしょうか?

私たちは、
この現象の世界に
肉体を持って
この肉体をこそ
自分自身であると錯覚し
本来の実相の本質を
忘れていきます。

そして、
いつも外的に活動している
私たちの魂に
病気が否応なくもたらす、
静かな時間、
自らを省みる時間を
強制的に与えます。

病気は
魂からのメッセージであり
教育的観点からの
側面をもっています。
気づきを促します。

「病は気から」といいます。
気は、エネルギーです。
気が混乱を起こすと、
乱気流になります。
そうすると病気になるのです。

「病は気から」発生するのです。
魂の混乱が、
物理的に外に現れ、
意識にとって
はっきり
自覚するようになったもの
それが病気です。

今までの生き方を反省し
私たちの中の
異常なエネルギーを
それが
精神的であるにせよ。
感情的、
肉体的なものであっても、
ただ受け入れ、
やさしく、慈愛をもって
包んでください。
エネルギーを
変容させるのです。
エネルギーバランスを
とっていくのです。

病は病み、
闇(やみ)です。
病気の正体は
生命の本質で
あるところの
無限や
大愛
光から
離れていることによって
顕れる現象です。
闇は光によって
消え去るものです。

あらゆる苦痛は
私たちが
受け入れる
準備ができたときに、
語りかけてきます。
精神的苦痛の意味を
感情的苦痛の意味を
肉体的苦痛の意味を
自分の人生において
偶然起こることは
一切ありません。
必然として
起こっています。
何が病気を
引き起こしたか
その意味を
理解したときには
苦痛は
消え去っていきます。

私は
10年前に眼底出血をしました。
糖尿病によるものです。
その時から毎日4回
インスリンを注射しています。

私の連れ合いは
7年半程前に
食道がんの宣告を
受けました。
現在に至るまで
20回もの入退院を
繰り返し
治療を受けています。

これらの病気から
非常に多くのものを
学びました。
病気は
本人だけでなく
その家族や
周囲の人たちにも
影響を与えていきます。
それぞれが
それぞれの分の
問題集があります。

病気ひとつ
治せないものが
このような
ブログを書いています。

矛盾は
承知です。
ただ、
今までの人生で
学んできたことですし
今も学んでます。

ひとつは
自分に対して
書いています。

そして、もうひとつは
真理の端緒についた
人間の責任として
書いています。

ただ、
忘れているだけなのです。
思い出していただきたい。
そう、念じています。

まだ、
人生途上です。
「今日は残りの人生の最初の日」
今日、
生まれ変わることができます。
今の、
この一瞬においては
私たちは
共に悟ることができます。
悟りとは、
現実と理想との間にある
障害の
「差を取る」ことが
「差取り」
「悟り」に繋がると思っています。

ありがとうございました。

2011年6月22日水曜日

ホームレスの人たちとの出会い


昨日ふと、
思い出したことがあります。
10年ほど前のことです。
当時、
シルバー層の方たちの
健康や仕事をサポートする
目的を持って、
NPOを立ち上げました。



その後、
縁を持った方の中に
以前、ホームレス体験が
ある人がいました。

その人は、いわゆる
昔、
ヤクザと呼称される人でした。
若い頃、
過ちで人を殺め
網走刑務所に
長年服役していた人です。

裁判のとき
殺めた人の奥さんから
「お父さん(夫)を帰せ!!」と
言われた言葉が、
今も脳裏から離れないと
当時、言っていました。

しかし、
出所して戻ってきても、
服役中に知り合った
暴力団の組長と
兄弟の契りをしていたことと、
中々、
仕事につけないこともあって
再び、その組長を頼り、
ヤクザの道に戻っていきました。

人間には元々、
良心が備わっています。

彼は、
取り返しのつかないことを
してしまったことに対して、
毎夜、毎夜、
自責の念に責苛まれ、
眠れない毎日を
過ごしていたと言っていました。

結局、
眠れないがために、
そこから逃れるために
酒に溺れる。
そのうちに、
酒でもどうにもならず、
麻薬に
手を
のばすようになってきます。

シャブに浸り、
お決まりの
転落の人生が
はじまります。

シャブが切れると
不安と恐怖が襲ってきて、
そこから逃れたいために
一時の慰めと
高揚感を得たいがために
益々、
嵌まっていくようになります。

その後も、
依存し続け、
自分を見失い、
暴力事件を何回も起こし、
刑務所に戻されました。
私が知り合った頃は、
出所して、数週間かした頃、
ある病院で知り合いました。

私も、
たまたま
その病院に
入院していました。

彼は、
C型肝炎に
侵されていること、
毎日、
インターフェロンを
打っていて
精神的に落ち込むし、
疲れるということを
話してくれました。

ヤクザという職業の人たちに
大変、多い病気です。

彼も、
ご他聞にもれず、
全身刺青を
彫っています。
刺青・酒・シャブ
(だけでなく注射針の廻し打ちで、
うつるケースも多いのです)は
C型肝炎だけでなく、
肝炎に
ならない方が
おかしいぐらい、
肝臓を虐めてます。

私が、
病院に入院していた
3週間あまり、
病気のことだけではなく、
過去のことや
今の心境のこと
今後のことなどを
話して
聞かせてくれました。

その後、彼は退院して、
私を尋ねてきました。

彼を
立ち直らせる
意味もあって、

当時、
初心者向けの
パソコン教室も
やっていましたので、
彼に、
パソコンを
勉強させました。
と同時に、
生活保護の手続きを
役所に
相談しに一緒に行きました。

重病でもあるので、
割と早く
受給できるようになりました。

アパートを借り、
生活用具も揃え、
後は、
あまり無理をしないでも
できる仕事を
探せばいい体制を
共につくっていきました。

その頃、
彼が出所後、
病院に入るまで
ホームレスを
していたことを
聞いていたのと。
又、
以前にも何回も
経験があることを
聞いていました。。

それで、私は
最初に記述したとおり
NPOを立ち上げていて、
特に
シルバー層の
ホームレスの人たちの
生活状況や
健康状態等を知りたいと
思っていた時でした。

彼に頼んで、
紹介をしてもらいました。
三日間、
ホームレスの人たちの
貴重な生の声を
聞かせていただく
ことができました。
彼も一緒に
付き合ってくれました。

或るホームレス氏がいました。
その人は
当時60代前半くらいでしょう。
背広を着ていて、
きれいに洗濯された
真っ白なワイシャツが
とても印象的でした。
眼鏡をかけていられて、
髪も、オールバックで
ブラシで整えていますし。
身なりがきちんとしていました。
とてもホームレスに見えません。

その方に、
話を聞くことができました。
その方は、
宇都宮で何かの工場を
経営していたとのことです。

取引先の
思いがけない倒産の
憂き目に遭い、
資金繰りに
困窮していたそうです。

当然、
近くの親・兄弟、
親類縁者に
お金を借りては凌ぎ
また、お金を借りては
凌ぎを重ねていました。
しかし、
その繰り返しも
限界がきました。
結局、
筋の良くない金融に
借りるように
なってしまったそうです。

何回も
強引な取り立てをされ、
恐怖に慄いていました。
もう、
明日にでも、
どうにかしないと、
命を取られるかもしれない、
ぎりぎりのところに
追い詰められたそうです。

それで奥さんと子どもたち
(二人いると言っていました)に、
話して
「お父さんの知り合いで、
静岡に資産家の親友がいるから、
今からその人のところに行って、
必ずお金を用立ててくる。
必ず連絡は入れるから、待っててくれ!」
と言い残して、

最後に残っていた
時計を質屋に入れて
何万円か作って
静岡に行ったとのことです。

静岡に着いて、
その友人に会い、
借金を申し込んだが
ケンもホロロ、
断られたそうです。

すべての望みは消え、
絶望感で
胸が
押しつぶされそうだったと、
表現していました。

「いっそ、
電車に飛び込もう!」と思い、
「いやっ!」と思い留まりを
繰り返しながら、
持ってきたお金がなくなるまで、
電車を乗り継いで
着いた駅が、この駅でした。
そこからとぼとぼ歩き、
気がついたら、この公園の
このベンチに座っていたのだと
座っているベンチに視線を移し、
仰っていました。

そのベンチの上に
その方の涙が数滴落ち
ベンチを濡らしたのを
今も、強烈に覚えています。

それから、5年間、
この公園で
生活をしているという話でした。

「女房や子供たちには、本当に申し訳ないことをしました。その後、どうなっているか?多分、大変な人生を送らせてしまったと思います。」

「帰りたいと思いませんか?」

「それは思います。しかし、今更、私が現れても却って迷惑をかけてしまうと思うのです。子供たちも成人しているし、自分たちの生活もあるでしょうし、何せ、どんな理由があるにせよ、私の勝手で放棄したのですからね。」
とため息をつきました。

さらに続けて、話してくれました。
「私は一着しかない背広とワイシャツと下着は、毎日きれいにしています。公園には水道がありますし、体だって洗えるし、背広は毎日、この拾ってきたブラシで汚れを落としています。あとは、粉石けんだけは、買って洗濯をしています。その樹木と樹木の間に紐を結び干しています。」と言った後、家族に対する気持ちを、こんな風に語ってくれました。

「いつ、どんな形で私を知っている人が私を見かけないとも限りません。もし、女房や子供たちに風の便りで耳に入ったとき、みすぼらしい、惨めな姿だけは、耳に入れて欲しくはありません。放棄しただけでも、大変なことなのに、ましてや、今に至っても、家族の心を痛めることはできません。」


それは、
10年前の夏の暑い日でした。
私は、
前述の方を含めて、
また、同行してくれた彼を含めて、
その公園の主の当時70代の
ベテランホームレス氏、
30代、そして40代の
ホームレス氏と、
違う世代の方たちの話を聞き、
過ごすことができました。

夜に差しかかって、
暗くなりかけた
7時頃だったでしょう。

ベテランホームレス氏が
「社長、
今、飯の支度をしにいっていますから、
ちょっと待ってください。
腹減ったでしょう。
飯でも食いましょう。
今日は社長が来てくれたんで、
特別メニューを誂えています、」

ものの10分もしない頃、
二人の(30代、40代)ホームレス氏が
ビニール袋に何袋も、
何かいっぱい詰めたものを
抱えて帰ってきました。

ビニールを敷き始め、
その袋の中のものを取り出し
紙パックの器に
器用に盛り始めました。

大変なご馳走です。
から揚げやエビフライ、
サラダから煮物、
おつまみになる食材までも
どんどん出てくるのです。
きちんと、袋ごとに分けています。
生野菜の袋
煮物の袋
揚げ物の袋
スープはスープ入れの容器に
お箸も、
スプーンも
フォークも
調味料は彼らの家(といってもダンボールですが)
に備え付けてあります。

思わず、
「これ、どうしたの!」と聞きました。

食材担当は、
「ええ、すべてルートがあるんですよ!廻りきれないぐらい、和食・洋食それもフランス料理からイタリア料理、コンビニに至るまで、何でもありますよ!社長が来てくれたんで、今日は高級店の料理ばかりです。客に出した後の残り物を貰ってくるんです。
いえ、いえ、汚いものじゃあないですよ!ソースがついてたり、マヨネーズがついてたりしたものは、捨ててきます。まったく、(客が)箸をつけてないものも、たくさんあるんです。これは、コンビ二から貰ってきたもんです。この周辺で、5、6軒のコンビニの店長とは入魂にしていますので!」

「後は、酒ですね!私たちは残ビー(残ったビールを少しづつ集め、一本の壜をいっぱいにし、手作りの閉め金具の様なもので蓋を閉めた物)で、いいんですけど、社長はそういう訳にはいかないでしょう!酒は買ってきてください!」
と言うことで、
豪華絢爛な
楽しい宴会をやりました。
歌が飛びっきり上手い30代ホームレス氏
プロ顔負け
落語が好きな70代ベテランホームレス氏
その間もビールを注いでくれたり、
ごみを整理したり、
ハエや蚊を団扇で追い払ってくれたり、
その団扇で風を送ってくれたり
マメにてきぱきと立ち回る40代ホームレス氏
寡黙だけど、その様子を楽しみながら
微笑を返す60代の宇都宮の紳士。

みんな、、
このまま、一般社会でも
立派に通じる人たちばかり、

しかし、そうはならない
複雑に絡み合って
ほどけない糸のような
それぞれの人生の妙味。

それそれが持つ
その場でできる最高のものを
もてなす心が醸成する。

今まで経験した
どんな宴会よりも
感動したのを思い出します。

今、震災があって、
サバイバルといったことも
話題になっていますが、
ホームレスの人たちの、
サバイバル能力は、
すばらいしいものがあります。
私たちより、
豊かさを
享受しているかもしれません。

ここで、私が聞いた、
ホームレスの人たちの
生活ぶりを少し紹介します。

彼らの朝は早いです。
夏は4時か5時には活動します。
彼らの仕事は
空き缶や新聞・雑誌・ダンボールを
拾って業者に持ち込み、
売って収入を得ます。

これも、
担当地区はありますが、
何人かが
バッティングするので
早く仕事に行き、
集めてこなくてはなりません。

でも、すばらしいのは
自分が
今日必要とする生活費以上の
収入は得ようとしないので、
目標の仕事をしたら、
情報つきで
他の人に譲ります。

それと、
大きなイベント等がある場合、
お金を渡されて、
何時間も並んで、チケットを買って、
その手数料をもらい収入を得ます。

これは、違法です。
ヤクザ組織がダフ行為
(買ったチケットを高く転売する)
をする目的の一翼を担います。

あとは、
建築現場や
土木事業や
船舶の荷積みや荷卸等沖仲仕等の
その日だけ人手が不足した時だけ
(特に肉体労働)
仕事にありついて収入を得ます。

山谷地区や
愛燐地区や
川崎の富士見町(通称原っぱ)等の
決まった場所に

働き手を得るため(求人側)、
また、
働く場所を求めて(求職側)
集まってきます。

求人側は
荷台のあるトラックで来て、
一日いくらでこんな仕事と発表すると、
われ先ととばかりに、
その車の荷台に乗り込みます。
求人定員に達し次第打ち切り、
競争力が高く、
あぶれるケースも多いのです。

ホームレスの方は、
宇都宮の方もそうですが、
いろいろな理由で
ホームレスになっています。

中には、
ほんとうに
怠惰なだけという人もいますが、
わたしが出会った
ホームレスの人たちは、
それぞれに事情があり、
ここに来るに至っています。

家がないということは、
上記のように
収入を得ることは、
限定されてくるので
容易ではありません。

だから、
特に都会で駅から
10分~15分以内の
優良物件・一等地を選んでいます。
そこは、
何でもある場所です。
或るホームレス氏が
「東京の街は、世界一豊かな場所ですよ!」
と、言ってたのも、思い出します。

収入が少なくても、
住むのに不自由がありません。
家賃はありませんし、
前述のように、
食事には困りません。
病気にならないように、
梅雨から夏場は
生ものは一切食べません。

そういうことさえ、
注意を払っていれば、
3月から10月くらいまでは
公園で新聞紙やダンボールを駆使して、
快適に過ごせるようです。

問題は11月から2月までの
4ヶ月間の過ごし方です。
毛布や布団、
湯たんぽやストーブで
暖をとる必要が出てきます。

しかし、都会にいれば、
粗大ごみなどで、
捨ててあるので、
いくらでも集まるそうです。
彼らは、器用ですから
壊れた物でも
修理して使います。

その公園にいた人は、
テントを張り、
発電機も持っていて、
テレビや
パソコン、
冷蔵庫・洗濯機を持ち、
湯沸し器でお湯を沸かし、
炊飯器でご飯を炊き
電気コンロで
自炊をしていました。
オール電化です。
全部、拾ってきたものか
貰ったものです。

最悪は、
雨や雪の日だそうです。
そのために何ヶ所か駅の構内や
他の凌げる場所を
押さえているんだそうです。
いずれにしても、
好立地だと、
どこかは探せるんだそうです。

私は、
夏場の公園で2泊しました。
ベンチに毛布を敷き、寝ました。
しかし、やわな私は
蚊にはまいりました。
蚊にあちらこちら血を吸われて、
かゆいのかゆくないの(かゆいんですが)
とても、眠れませんでした。

ところが、
他のホームレスの人たちを見ますと、
すやすや眠っています。
彼らも、蚊に喰われているとは
思うんですけど、
何ともないように寝ています。
免疫があるんですかねえ?

最後の日にも、
またまた、勉強になりました。
30代と40代のホームレス氏が、
どこからか、
靴を20足程もって来ました。

新品です。
価格の札やら
いろいろな札が
ついたままです。

「この靴、どうしたの?」

「拾ってきたんです。或る靴屋が定期的に廃棄するんです。」

「こんな、新品でデザインのいいものを捨てちゃうの?どうして?」

「良く、見てください。この種類は左と左でこの種類は右と右でチンバなんです。だから、似たデザインと同じ色や寸法を併せて履くんです。
一流品だから、履きやすいですよ。社長、足の寸法はいくつですか?」
と聞かれました。

確かに、
同じものは
左・左、右・右だけです。
思わず、笑ってしまいました。

そして、「26」と言いました。

「26ですか?こちらは、26で左がある。あっ!同じデザインのがあった!あっ!違う右は25,5だ!でも、これ履けませんか?履いてみてください。」
と言ってくれたので、
折角だから履いてみました。

やはり、
少し右のほうはきつめなのですが、
履けないことはありません、
「履けるわ!かっこいいね!」
「そうですか(笑い)、社長、よければ、それ貰ってください!」

その靴は、
つい4年くらい前まで、
ちゃんと
履かせていただいていました。
やはり、
いい品物は、
長持ちしますね!

いろいろ、
書きましたが
本当はまだまだ、
いろいろな話はあるのです。
彼らを語るのに
こんな限られた時間では
表現し切れません。
また、次の機会に
書くこともあると思います。

その後、
彼ら、
ホームレスの人たちが
どうされているか、
知らないのですが、

自らが設計した
設計図に沿って
自らの人生の問題集を
一生懸命になって
解き続けていると思います。

彼らの、
無事と
幸多からんことを
祈らずにはいられません。

すばらしい体験を思い出し

今更ながら、
その体験をさせていただいた方々に
感謝を申し上げたいと思います。、
本当に、ありがとうございました。

2011年6月21日火曜日

自分に厳しく、人には寛容な心を

私たち人間は、
概して、人には厳しく、
自らには甘い傾向に
ありがちなのでは
ないでしょうか?

人の欠点ばかりが、
よく見えて、
自らの欠点は
見つめようともしない。

自分の畑は
草が生え放題なのに、
人の畑は
「あなたの畑は
草がぼうぼうですね!」と。
指摘しています。

自分の心を見つめ、
雑草を
マメに刈り取り、
心を正し、
綺麗にして初めて、
人の汚い心も
綺麗にする
ことができるのです。

自らに厳しく、
人には
寛容な心が大切です.

自らを
厳しくすることが
自己成長に繋がります。
自らの心は
自分自身にしか
清めることは
できないのです。

基本的には
人の
欠点を直そうと
思うより

自らの欠点を
修正することの
ほうが簡単です。

それは、
自分自身だからです。

自分が変われば
変えようなんて
思わなくても
人は
変わっていくものです。

たとえ、
人が
変わらなくても、
自分の心を正し
きれいになった分
得したと
思いませんか?

「自分を
愛してください!」
と、言いました。
自分を
愛するということは、
自分に
厳しくあると
同義です。

自らの
正しい心
やさしい心
慈しみの心
思いやりの心
美しい心

それらの
神の性質を
耕すことに
関しては
厳然として
妥協しないことこそ

自分を
愛する
ことだからです。

自分に厳しく
人に
寛容で
あってください。

その人に対する
寛容さこそ
自分を
愛することにも
繋がっていきます。

自他は一体であり、
人と自分は
別のものでは
ありません。

人を通して
現れるものは
自らを
映す鏡です。

人を通して
自分の
課題のヒントを
与えてくれて
いるのです。

人を通して
現れることが
例え
嫌なことでも、

人を通して
現れるところの
天使のような心も

その時の、
自らの心に
反映して
起こるのです。

今の自分を知るには
自分以外の
周囲の人たちとの
関係性を見れば
自ずと
知ることができます。

その人たちが
明るく
調和して
光り輝いて
いるでしょうか?

それとも、
暗く、
不調和で
不満の心で
いるでしょうか?

一目瞭然です。

今日から
自分を
愛してください。

自分を
愛するということは
今までの自分を
許すということです。

今までの
自分の嫌な部分を
許すということです。

そして
今日から
自分に厳しく
あってください。
人に
寛容で
あってください。

自らの神性をこそ
磨いていきましょう。

この道こそ
正しき道です。
神に至る近道なのです。

あいがとうございます。

2011年6月20日月曜日

「時間」という概念

皆さんは、
最近、
時間が速く過ぎていく
感じを受けたことが
ありませんか?

時間の加速は
事実起こっているのです。

十数年前
ピーター・ラッセルさんの
「ホワイトホール・イン・タイム」
という、本を読みました。
この本は、
ラッセルさんの
個人的な体験を
織り交ぜながら、
哲学や宗教
心理学や物理学、生物学の
豊富な知識で
進化の意味と
人間の未来について
現代科学の世界観に基づいて
書いています。
おなじみの
山川鉱矢さん、
亜希子さんご夫婦の翻訳で、
400ページ近い本ですが
読みやすく、
一気に
読ましていただいた本です。

少し、引用します。
一章の1に
“生活の加速化現象”という
項目があります。
『すでに、ほとんどの人が気がついているとおもいますが、
物事の変化の仕方はほとんど速度を増しています。
以前は何世紀もかけて、やっと世界中に伝えられた新技術が、
今では数年の内に世界全体に行きわたります。
昔だったら何十年もかかった複雑な計算も、今では二、三分
でできてしまいます。
昔は何ヶ月もかかった通信が、今ではほんの数秒という速さ
で可能となりました、あらゆる分野で、進歩のプロセスは、
どんどん速くなってきています。
その結果、私たちの大多数は、あわただしい生活を送り、中
にはまるで駆り立てられているような人生を送っている人々
もいます。吸収しなければならない情報の量も、学ばなけれ
ばならない技術の量も、やらなくてはならない仕事の量も、
どんどん増えています。
そのくせ、これらすべてを行うための時間は、ますます少な
くなっています。(中略)
そして、周囲の変化が速まってゆくに従って、私たちは将来
に対する楽観的な見方を変えざるを得なくなってきています。
今では、一年先のことはおろか、六ヶ月先のことでさえ、確
信を持って予測することはできません。(後略)』
一章の7
“今日―明日への跳躍台”
『これらのすべては進化という観点からすると、実質的には
一瞬のうちに起こりました。私たちは何十億年という時間の
単位から、ほんの十数年という単位にまで、どんどん間隔の
狭まりつつある、らせん状の発展の産物なのです。』

つまり、
ラッセルさんの言うことは、
時計を見れば、
1日は24時間です。
しかし、
同じ時間に起こる現象が、
加速度的に
増えているということは、
実際の時間は
スピードアップ
されているということです。

実際に、
計算してみると
今は1日が
16時間程なんだそうです。
時間は、
早くなっていたのです。

そして、
もう一人
「時間」について
タイムウエーブ・ゼロ理論
という理論を提唱した
テレス・マッケンナさんも
同様なことを
言っています。

簡便に言いますと、
『時間は
どんどん加速していて、
渦巻き状に
フラクタル構造を作っている。
さらに、
相似のパターンが
いくつも集まってきて、
時間の渦ができていて、
加速が渦巻きの中心に達し、
時間がゼロになる』
という、理論です。

丁度、
お風呂の栓を抜くとき
水が
ゆっくりと、らせん状に
排水口の方に
流れていきます。
排水口に
近づくにつれて
水が
らせん状に流れる
スピードが速まり
渦巻きは排水口の
中心に達し
水は無くなり
ゼロになります。
こんな、感じですね。

マッケンナさんは
さらに、
加速が渦巻きの中心に達し、
時間がゼロになる日を
計算して特定しました。
その日は、
2012年12月22日と
言いました。

マヤ文明や
古代文明の預言書
などと重なり
いろいろな議論を
呼んでいますが、
特に、
マヤ文明において
使われていた暦の1つ
長期暦が、
2012年12月21日から
12月23日頃に
終わっていることから、
注目されました。

二人の理論は
大変興味深いもので、
2012年12月22日前後に
何が起きるのか?
大変、楽しみにしています。

本質の世界
無限の世界
永遠性の観点からの
時間という概念は、
どうでしょうか。

こちらの世界の
直線的な時間感覚では
ありません、

ただ、
存り続ける
ということになります、
それは、
あらゆる万物の存在と
ひとつになる感覚です。

時間とは、
肉体という
物質的な次元でのみ
必要な構成要素として

私たちの進化のために、
学びのために

教育的な要素として、
存在しています。

それは、
物質的波動の中で、

敢えて、
二元的な
体験をするためには
時間は必要になります。

その中で、
美しいものと
醜いものや
慈愛と
憎しみや
光や
闇を経験し

美しいものや
慈しみや愛や光に
フォーカスし、
際立たせる
プロセスを踏みます。

それは、
進化のプロセスです。

そして、
今、この瞬間に
自らが
はるかに美しく
はるかに光り輝く
はるかに智慧ある
存在へとなっていくのです。

私たちが
物質的な肉体を
解き放ち
美しく
光り輝く
智慧者として
存在するならば、
もはや時間は
必要ではありません。

この世界に居ながら
ただ、
在り続けるという
永遠の至福の中に
満たされていくことでしょう。

2011年6月19日日曜日

潜在意識で観る

私たちの意識には
「顕在意識」と
「潜在意識」がある。

願望実現や
成功法則などの分野で、
一度や、二度は
聞いたことがあると
思います。

特に
「潜在意識」
という言葉を
世に知らしめたのは、
心理学者の
フロイトさんです。

私たちには
ジョセフ・マーフィーさんの
書籍の方が
なじみがあるのでは
ないでしょうか。
潜在意識を活用した
成功法則
「眠りながら巨富を得る」は
大ベストセラーになりました。
読んだ方も
多いのではないでしょうか。

フロイトさんの
理論にさらに
ユングさんが
理論を進め
解説しました。

その説明とは
人間の意識を氷山に例え

普段、
私たちが
意識している
顕在意識は
海の上に
顔を出している
部分にしかすぎない。

そして
海中に
沈んでいる部分、
つまり
意識の大部分が
潜在意識(無意識)によって
構成されていると
言いました。

さらに、
ユングさんは
潜在意識(無意識)は、
個人的な経験から
構成された
個人的無意識と

さらに
潜在意識の
奥深くに広がる
個人の経験の
領域を超えた
すべてに共通の
無意識領域がある。

そのことを
集合的無意識と
称しました。

仏教では
視覚、
聴覚、
嗅覚、
味覚、
触覚という
肉体感覚から受ける
意識と

末那識(まなしき)、
阿頼耶識(あらやしき)という
深層意識層を
説いています。

その
五感から受ける、
肉体感覚から
感じる、
外からの情報で働く、
意識のことを
顕在意識といい、

内なる意識
末那識・阿頼耶識の
深層意識層を
潜在意識と言います。

突き詰めれば
顕在意識と
潜在意識は
外と内の関係にあり、
本来は一体で
繋がっています。
離れることはできません。

顕在意識は
自我意識であり
潜在意識は
神我意識です。

この潜在意識は
宇宙意識そのものであり、
全知全能の情報源と
コンタクトできる
意識です。

ユングさんは
おそらく
そのことを
集合的無意識と
言ったと感じます。

私たちの多くは
この意識の
90%以上を占める
潜在意識を
忘れてしまい、
ほとんどの
時間と空間を
表面の意識
所謂、
顕在意識のままで
過ごしていきます。

外なるものと
内なるものは
一体であります。

潜在意識をもっと
働かせる必要が
あります。

一体になれば
そこに顕現されるのは
愛と光に包まれた
大調和のみです。

“人を愛す”
と言うこと、
ひとつをとっても

顕在意識は
肉体という
フィールターを通した
自我意識からなので、
五感を通しての顕れを
捉えるに過ぎません。

あの人は背が高く
ハンサムだから
大好き。
あの女性は、
ファッションセンスが
僕と合うし、
それに美人だから
好きです。
という、
限定的な意識です。

潜在意識下での
“人を愛す”は、
自他一体なのです。

潜在意識は
他人と自分の
区別がありません。
無差別
無所得の愛です。
すべてはひとつ、
人の幸せは
自分の幸せなのです。

顕在意識は
自分と他人とは
別と考えますから、
そこに
分離感が生じ、
不信感や憎悪から、
トラブルへと
発展していく
元になります

おのずと、
人に制限を
加える世界に
なっていきます。。

そのまま
放置していくと
顕在意識が
優位のままに
これからも
暗い世界を
表現することに
なっていきます。
それを、
暗示といいます。

顕在意識は
暗示となり、
潜在意識は
啓示となります。

啓示即ち
インスピレーションです。
それは
本源なる神からの
知恵であり、
偉大なる
プレゼントです。

お釈迦さまも
『外を見るなかれ、
内をこそ観よ』
と語られています。
それは、
『顕在意識で
見てはならない。
潜在意識で観る
ことによってのみ、
仏の智慧を
得ることができるのだ』
と、言っているのです。

私たちは
顕在意識を
遮断し
潜在意識を
働かせることによって
本来、既に在る
無限なる本質からの
ひらめきを
聞ける自分を
取り戻せるのです。

2011年6月18日土曜日

“我は生命なり”

イエスさまは
”我は生命なり”
と言いました。

私たちは
生命によって
生かされています。

自分の顔や肉体を見て
自分であると
思っていますが、

イエスさまは
“我は肉体なり”
とは、言いませんでした。


聖書には
”肉体は
宇宙の塵で創られた”
とも、書かれています。

宇宙の塵とは
何でしょう?

塵とは
質量のことです。
つまり“水”です。
肉体は“水”で
創られたのです。
母親の胎内の“水”
羊水で創られます。
しかし、
肉体そのものでは
生きている
わけでは
ありません。

その肉体を
生かしめているのが、
生命なのです。

生命は
エネルギーですから
生命エネルギーと
言い換えても
いいでしょう。

宇宙のすべてを
生かしている
大生命です。
宇宙エネルギーです。

宇宙エネルギーは
愛であり、
智慧であり、
光です。
光エネルギーです。

肉体には
老・病・死が
ありますが、
光エネルギーは
永遠です。
永久エネルギー
無限エネルギー
ともいいます。

この
無限エネルギーは
全てに
存在しています。
全てに
宿っています。

無限エネルギーは
二つとない
唯、一つの生命、
唯一不二の生命です。

その一なる生命
一なる本源が
宇宙に遍満し
私たちにも
存在しています。

それが
イエスさまが言った、
“我は肉体にあらず、
我は生命なり“
なのです。

肉体は物質であり、
生命によって
生かされています。

私たちが
言うところの
“死”
肉体の死によって
生命は
中断されることは
ありません。

永遠に
存在しています。
私たちの生命は
確かな
リアリティーを持って
生き続けていきます。

これは、
真理です。
真実です。
信じてください。
真実の“我”は生命です。
真実の自分を
失ってはなりません。

いつまでも
“我”は
肉体なりで、
生きているからこそ

死の我に生きて
死の恐怖に
怯えています

肉体という
小さな枠に
閉じこもっているから、
小さな我の
つまらない悩みが
尽きないのです。


“我は生命なり”
生命は
全知全能の神です。
それを
受け止め
それを
認めさえすれば、

私たちは
永遠に生きる
ものとなるのです。

2011年6月17日金曜日

自殺についての質問

ある知り合いの方から、
こんな質問メールが届きました。
長文ですので、
質問内容の部分に限って、
転載いたします。

Q『自殺について、
自らが設計した設計図を
中途で破棄した場合は、
起こった問題を
クリアしていないので、
来世にまた同じ問題を、
繰り返しやり直すと、
書いていましたが、
普通に死んだ場合でも、
必ずしも
自らの問題集を解いて
帰れると
いうことではないので、
絶望感や不安感を
持ってまま死んだとすると、
やり直さなければ、
ならないのでしょうか?
また、そうだとすると、
自殺しても、
別に変わらないのでは
ないでしょうか?』
という、質問です。
それに対して、
『明日のブログに投稿します。
と返事をしました。』


A:大きな違いがあると思います。
まず、
自殺は
人生設計を
自らの意思で
放棄しました。
別の言い方で
言いますと、
人が
学校をやめるのを
選択したときは
その時、
学ぶことが
できなかったことを、
学び直す
必要があります。

人生における問題集は、
自らの魂にとって
成長のためですから
今までの
輪廻の過程も
関係してきます。

誰だって
そうだと思いますが、
過去の輪廻で
経験して
学びきった問題は、
成長のためには、
磨きにはなりませんよね。
だから、
チャレンジの
し甲斐がありません。

また、
小学生が一気に
高校生の勉強をしても、
難しすぎて、
とても
解くことは
できないでしょう。

私たちひとりひとりが、
少し難しい
ほどほどの問題を
選択します。

その際に、
この世の学校と同様に
進路指導の先生がいて、
環境や性別
両親や家族
肉体的能力
精神的能力
感情的能力
などの要素を
選択するための
相談に乗っています。

綿密に
人生計画が練られ
本人と神との約束が
交わされます。

そして、
この世に
創造主の
表現者として
降りてきます。

自殺は、
神並びに、
神の代理人である
指導者の先生も、
また、
何回も
要素を変えながら
共に進化を
し続けている
他の魂の兄弟たちとの
約束を
破ることになります。

さらに、
今回の生において
関係性を
持っている人たちに
対しての設計図も
微妙に
変更を
余儀なくされてきます。

自殺した方との問題性は
変わらざるを
得なくなります。

勿論、
自殺した方は
この世での
絶望感や
残した家族や
周囲の方たちへの
罪悪感、
今後、
どうしていくのかという
不安感
心配感を強く持って、
逝くことになります。

あの世に帰って、
暫くすると、
すべての真実を
思い出します。

魂としての自分は、
肉体がない分、
精妙ですから
自責の念も
何倍も何十倍にも
なってしまいます。

よく、
天国と地獄といいますが、
あの世に、
天国と地獄が
あるのではありません。
創造主である神は、
罰することはありません。
神は
無限であり
普遍の本源です。
永遠の愛しか与えません。

自らの魂が
苛むのです。
自らの魂が
暗闇を
創っていきます。

そういった魂たちが
ひとつの層を
創っている領域を
地獄と
言っているに
過ぎません。

しかし、
それも
永遠性の
観点からは
制限はありません。

自らの、
クリア
できなかった点を
チェックし
自らの
傾向性の
問題点を知り
多くの価値ある
学びをし、
「今度は、
失敗しないぞ!」
と、決意し
次の機会を
待っています。

人生の
設計図に沿って
問題集に
挑戦し
生を
全うすることは
真理を知り
神の
表現者としての
自覚を得るための
完璧な計画に
参加し続けた
ということです。

魂の成長のためには
とても、
大きく飛躍する
機会を得ているのです。
わざわざ、
肉体という
付加を与えて
鍛えている
磨いているのです。

乗り切れない計画を
立ててきたわけでは
ありません。
絶対に
クリア
することができます。
いつでも
神が潜在する部屋を
ノックして
話しかけてください。
あなたの内に在る
神が微笑みながら
やさしく
応えてくださるでしょう。
あなたの潜在意識が
息を吹き返す時です。

2011年6月16日木曜日

原因をこそ辿る

私たちが
今、この瞬間
存在していること
生きていること

それは
結果であり
結果には
必ず
原因があります。

それでは、
その原因なるもの
元になるものとは
何でしょう。

それが神であり
霊であり
生命エネルギーです。

霊あるゆえに
この色(しき)の世界が
存在します。

この見える世界は
霊がなくては
一切存在できません。
色心不二です。

私たちが
生きていると
書きましたが
正確には
その霊に
生かされている
というのが
真実です。

しかし、
この色(しき)の世界
この見える世界は
慣れてくると
ここが、
私たちが生きる
場所
住めば都で
住みやすく
なってきます。

そのうちに
結果だけに生き、
その原因で
あるところの
神霊
生命エネルギーを
見失っていきます。

この結果だけが
すべてだと
思い込んでいきます。

私も
そうです。

未熟で無知な魂で、
この世こそ
すべてであると
思っていました。

この見える世界を
絶対視し
貪るように
金銭や物質を
かき集めていました。

集めれば
集めるほど
もっと欲しくなる
この世のすべてが
お金で買える
人の心までもがと
際限を
なくしていきます。

大ばか者です。

この世は
無常です。
常なき物に
しがみついて
必死に、

人を傷つけようが、
手段も選ばず、
何をしょうが、
この世の物を
かき集めようとする。

無常の物、
永遠でないものを
かき集めようとする。

どんなに、
かき集めようとも
この世を去るとき
一生懸命になって
集めた
地位や
名誉や
財産は
持ち帰ることは
できません。

とろう!
とろう!の人生は
徒労に終わります。

この世は
結果の世界です。

目の前に
現れている
どんな現象も
幻想に過ぎないものです。

形あるものは
悉く
いずれは、
無くなっていきます。
有限です。
仮の相(すがた)です。

実相は神霊です。
無限です。
決して、
喪うことはありません。

この世は無常です。
見える結果だけに
生きることは
錯覚でしかありません。

その
本質である原因
無限の拡がりを
見出すのです。

何も
恐れることは
ありません。
何も
不安を持つことは
ありません。
恐怖も不安も
有限です。
実体はないのです。
実体のないものに
惑わされては
いけません。

真理を
思い出すことです。
自らの内にある
神性を
感じることです。

私たちは
普遍なる
永遠の生命をもつ
無限なる本源の
一なるものの
紐に繋がる
偉大な魂なのです。

2011年6月15日水曜日

自殺の意味するもの

◆相馬の酪農家自殺、「原発なければ」と書き残し
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110614-00000091-yom-soci
 福島第一原発の事故で、牛を処分して廃業した福島県相馬市の酪農家男性(50歳代)が
「原発さえなければ」と書き残して自殺していたことが13日、わかった。

 関係者によると、男性は今月11日、小屋で首をつった状態で見つかった。小屋の壁に白チョークで「仕事する気力をなくしました」「残った酪農家は原発にまけないで」と記していた。

 男性が住む地区は当初、加工前牛乳が出荷停止となり、男性は乳を搾っては捨てていた。今月初旬までに約30頭を処分した。男性は親の代から酪農を続けており、姉は本紙の取材に「(弟の死は)子どもたちのことを思えば話したくない。しかし、原発の件は訴えたい」と語った。

 酪農家仲間だった男性(51)は「避難区域ではないため、補償はないだろうと繰り返していた」といい、農業男性(53)は「連絡をとるたびに『原発ですべてを失った』と悩んでいた」と話した。


東日本大震災が
起こって1~2週間ほど
経った頃だと思います。
福島の野菜農家の方の
自殺が報じられたのは
まだ、
記憶に新しいことです。
福島第一原発事故で
基準値を超える
放射線物質が出て
対象野菜の出荷停止が
決まった翌日、
丹精こめて作って、
出荷するつもりだった、
キャベツ畑を
直前まで見て回った後に、
首を吊って、
命を絶ったとのことでした。

6月13日に
自殺された酪農家の方も
そして、野菜農家の方も
心中を察すると
その絶望感は如何ばかりで
あったでしょう。

日本に於ける
自殺者の数は
毎年3万人を超えています。
今年は
先月(5月)の自殺者が
過去ワースト1と
発表されたばかりです。
大震災や原発
景気悪化や失業
いろいろな社会不安が
人の心を蝕み
自らの命を絶つ
行動に走ったのだと思います。

皆様の中にも
一度や二度は
自殺を考えた方も
いることでしょう。

ただ、
本質の価値観
永遠性の観点から
この自殺の
意味するものは
どうでしょうか?

このブログを通じて
一貫して
語っていることは
私たちの
本来備わっている
神性を
躓き転びながら、
また、
打ちのめされながらも
思い出す道です。

私たちは
永遠性の中で
魂を進化させる目的で
自らが
環境や性別
両親や家族
肉体的能力
精神的能力
感情的能力
時間という要素を
選択し、
実体化させています。

魂の
あらゆる部分の設計は
学ぶために
自分にとっての、
最適な環境を
作り出しています。

永遠性の観点
輪廻転生の観点から
この自殺の意味は

自分で選んで
設計した
人生の設計図を
自らが
破棄することになります。

一冊しかない
人生の問題集を
解くのを停止する
ということになります。

この設計図に沿った
あなたの人生は
あなただけにしか、
歩むことはできません。
誰も、
変わって歩む
ことはできません。

この、
あなたの問題集は
誰も、
解いてあげる
ことはできません。

この
歩むのをやめたために
使わなくなった
設計図や
解かなかった
問題集は
一体、
どこにいくのでしょうか。

次の生、
来世に持ち越しとなります。

あなたは、
繰り返しの人生を
送りたいでしょうか?

絶望感や
恐怖感や
不信感や
不安感や
嫌悪感等々
不満足な部分を持ったまま
今生を絶った時、
それは、
未来世に
先送りになります。

私たちは
これからも
現象的には
いろいろな
苦難・困難が
目の前に
立ちはだかってくるでしょう。

しかし、
私たちが
肉体を持ち
人間という
制限された
存在形態を
とっているのは、

その制限された形で
受け取る
必要があると
いうことを示しています。

私たちは
今回の人生で
実力をあげ

嫌悪感や不安感を払拭し、
本質の光を照らし出し、
愛をいっぱい持って、
故郷に帰りたいものです。

今生を終えるとき

すべてのものと和解し
すべてのものに感謝して
旅立ちたいと思います。

ありがとうございました。

2011年6月14日火曜日

内観とは

お釈迦さまは
内観をしなさいと
お弟子さんに
よく言っていました。

内観とは
内を観ること
字の如しです。

それでは
内を観るとは
どういうことでしょう。

自らの内の
神性を観る
と言うことです。

瞑想と
同じことです。
私たちの
本質の価値観である
無限
一なるもの
久遠を観る
と言うことです。

神の
性質であるところの


真理
完全性を観る
と言うことです。

なぜ、
お釈迦さまは
弟子たちに
内観を
勧めたのでしょうか

私たちは
日常
肉体を持った
人間として、
どうしても、
物質に
重きを置いた
生活をしがちです。

お釈迦さまの時代の
2600年前に遡っても
眼・耳・鼻・
舌・身・意の
感覚器官が
お弟子さん
ひとりひとりの
迷妄の元だったようです。

世を捨て
出家をした
お弟子さんでさえ
この肉体の持つ
五感に
惑わされることも
少なくなかったのでしょう。

内観とは
本来の意識に
戻る行為です。

その意識は
全知全能
無限エネルギー
プラスの
エントロピーです。

日常に在るとき
私たちは
肉体の持つ器官に
縛られている状態です。
自縄自縛です。
そうすると
エネルギーが
低くなっていきます。

内観とは
その自縄から
自分を
解放する行為です。
自らが
自らを束縛し
自らが
自らを制約した
低い意識から
解放し
エネルギーを
高めることです。

私たちは、
その一瞬一瞬を
創造しているのです。
私たちは、
自分が思っている
通りのもので、
それ以上のものでも、
それ以下のものでも
ありません。

神は無限者です。
その本質は
私たちにも
厳然として
備わっています。

自我を見るか
真我(神我)を観るか

偽我を見るか
無限我を観るか

肉体我を見るか
久遠我を観るか
なのです。

私たちは、
修業して
無限となる
のではありません。

お釈迦さまも
長い迷妄から
自らを
解き放ちました。

お釈迦さまは
シャーキャ族の
カピラヴァストゥ国の
城主の王子として
物質的には
何不自由ない
裕福な生活を
送っていました。

しかし、
その生活に
疑問を感じ
29歳の時に
出家をし
その後
6年間に亘り
厳しい修行を
続けました。

ある時
水辺で
身体を清めている時
あまりの
やせ衰えた
お釈迦様の姿に
見るに見兼ねて
一人の乙女が
乳粥を差し上げました。

この乙女が
スジャータという人で
コーヒーのお供
スジャータという
ミルクの名称にも
なった方です。

その乳粥を食べて
顔に赤みがさし
みるみる
元気になっていきました。

その時の悟りが、
自分が王子として
何不自由なく
毎日を送っていたことも

厳しい修行に
明け暮れて
このように
痩せさらばえたとしても、
そのどちらにも
真理はなかった。
中道の道(正しい道)にこそ
真理があった。
それが
四諦八正道という
有名な教えになりました。

それは、
その身そのままで、
今、即、仏である。
今、即、無限である。

私たちには、
元々
仏の持つ性質
即ち、
仏性が皆に備わっている。
「一切衆生 悉有仏性」である。

その、仏のように
正しく見
正しく語り
正しく思い
正しく行い
正しく生活し
正しく努力し
正しく念じ
正しく内観する
ことが
真理への道であると
悟ったのです。

真実の
内観とは、
私たちの
本質であるところの
無限を
凝視する、
無限への
一心集中です。

私たちの
こころの内の
神仏に
スポットを当て
私たちを
光り輝かせる
ことなのです。

2011年6月13日月曜日

不完全を愛す

私たちは、
不完全な
完全存在です。

この三次元における
現象世界では
相対的な完全性しか
ありません。

お互いに愛し、
愛されるためには
不完全なまま
優しく
慈しみ
おだやかに、
心より
愛し合うことです。

不完全さも
自分です。
その自分を
やさしく、
許してください。

不完全で
あるがゆえに
成長も
望めるのです。
不完全を
愛してください。

受け入れてください。
受け入れるがゆえに
自由になれるのです。

不完全さを
拒否しないでください。
否定性は
自由を妨げます。

私たちは
魂の進化のために
この地球に
自ら、
望んできました。

完璧で
あることに
こだわらずに
多くのことを
体験してください。

ただ、
不完全さに
安住しなければ
いいのです。

不完全さの中に
真理に向かう
縁(よすが)が
上手に
隠されています。

私たちが
見つければ
いいのです。

私たちは
本質においては
完全存在です。

安心して
不完全な
自分を
光を妨げている
自分を
自分の
闇の部分を

満たされていないと
感じる部分を
隔てられているという
魂の痛みを
混乱する
自分を

慈愛をもって
受け入れ
そして、
手放してください。

その、
不完全さの
プロセスこそが
光を見出す
鍵なのです。

その
不完全さの
プロセスこそが
無限なる道
永遠不滅なる道へ
繋がっていくのです。

2011年6月12日日曜日

友人からのメール②

前々回のブログで
紹介させていただいた
中国から帰国した
友人からメールが届きました。

私は、そのブログの中で
彼のことを、精神世界に
精通している人だと書きました。

彼は、
台湾時代に
道学研究会という
真理の道を
探求する会に出会い
研鑽に励んでいます。


知遇を得てから度々、
道学の先生のことや
真理の話を
聞かせていただいています。

現在、
その道学の
創始者の先生は
お亡くなりになりましたが、
創始者の方の遺志を継いで
道学研究会で学んだ真理を
この現象界の中で
実践されています。

その友人からの
メールを紹介します。
とても、彼らしい
すばらしい波動の
あたたかいメールです。


『僕は
もう10年より前
インドの
マザー・テレサ様の
開いた学校に
行きましたが、
尋ねる勇気は
ありませんでした。

人力車で尋ねた道端に
テレサ様の教会の
女性が3人歩きます、
その姿は
世界一の輝きを
放出しておりました。

私のようなものには、
見つめることすらできません。

何も期待せず
信じた行いをするものの
神々しい姿は、
何よりも美しいものです、

私は
心から皆に奉仕したいのですが、
自分を捨てていません。
在家のままであります。

すべてを捧げきる、
そのことへの
こだわりさえない姿は、
この人々の自覚は
どうして
作られるのでしょう。

縁あるものは
兄弟であります。
あなたの苦しみは
私の苦しみです。

心が同期したとき、
その方は
私を心の支えとしてくれます。


その方は
私の杖となり
私を見守ります。
それが私たちの、
もう作られている道であります。

所有しているものを
思い出せばよいだけです。
上帝が
あなたを
私のところへ
与えてくれました。
この暖かな波動は
作られたものではありません。

買うことも
願うこともそこにはなく、
私のところへ来ました。
現生の中で一番の宝です。
そして磨きあいます。
光は皆を
最後の一人まで照らします。

人と生れ出たこの世界が
私たちとつながり、
私たちと生きています。
自分は、
人の素晴らしさを
上帝に伝えるために
生れ出てきたこと、信じています、

中国の皆様の仕事に
真心を伝えたとき、
自分が
日本人だということを
皆様が忘れ、
アジアの仲間となります。

磨きさらに磨く時、
みなさんの目に
光の波動が差し込みます。
その時、皆の
私を見る目が変わります。

仲間とされたとき
道が開きます。
暖かな波動は、
言葉を必要としない、
人との同期が始まります。
感謝の心と
暖かな安らぎが訪れ、
また道を歩きます。
己などありません、
皆様の心の粒が私です。

道学研究会 ○○』

い?かがでしたか

下記は
マザー・テレサさんの
言葉です。

「世界平和のために
何をしたらいいのか」と聞かれて

『帰って家族を
大切にしてあげて下さい。』

私たちは、
今生、
縁あって
出会うことが
できた人たちを
大切にする。
愛していく。
信頼していく。

小さなことだけど
精一杯の大きな愛で
大切にする。

家庭で
地域で
職場で
今日、
出会った人々や
植物や
動物たちを
大切にする。

真理は
何も特別なことでは
ありません。

今日一日
愛の言葉や
慈しみからの
行いの実践こそが

私の友人が書いてくれた
メールの最後の部分

『仲間とされたとき
道が開きます。
暖かな波動は、
言葉を必要としない、
人との同期が始まります。
感謝の心と
暖かな安らぎが訪れ、
また道を歩きます。
己などありません、
皆様の心の粒が私です。』

に、繋がっていくのだと
学ばせていただきました。

ありがとうございます。

2011年6月11日土曜日

自分の内の無限


私たちは、
個人として
両親から生まれ
姓名を持ち
肉体を持っています。

その両親も
それぞれに
それぞれの
両親から生まれ
肉体を持ってきました。

これは、
延々と続いてきました。
また、
今後も続いていきます。

今、
自分が存在しているのも
この永遠の営みの中で
先祖の縁をいただいて
きたからであり、

見えない先祖に対して
今、
生かされている
ことの感謝を
日々、
手向けていくことは
何より、大切なことです。

以前のブログにも
触れましたが、
私たちは、
私たちが、
両親を選択して
この時代を
この環境をも
選択してきました。

私も、
よく、親にいいました。
「好きで、
生まれてきたわけじゃない。
頼んでもいないのに、
勝手に生みやがって!」

皆さんは、
言ったことは
無いかもしれませんが、
思ったことは
一度くらいは
あるのではないでしょうか。

しかし、
事実は両親が
勝手に生んだ
わけではないのです。
私たちが、選んで
生まれてきました。
無知なるがゆえに
発した私の言葉に
恥じ入るばかりです。

それでは、
そこに
生命を
与えている存在
それは、
何なのでしょうか?

それこそが、
宇宙に遍満するところの
生命エネルギーであり
すべての
生きとし生けるものに、
生命を
宿しているところの
創造主である
神なのです。

私にも
あなたにも
鉱物や
動植物にも
ひとつの
エネルギーが
同じ
エネルギーが
存在しています。

私たちが、
人間として
この肉体ありきと
思っているものは、
ただの物質に過ぎません。

生命が
離れたと同時に、
呼吸をすることも、
動くことも
一切なくなります。

これが、
肉体における死
というものです。

これから、
暑い夏がきます。
コートを着る役目は
終わりましたので
もう、
着ることはありません。
コートは着なくても
最新の薄手の
クールビズは着ていきます。

このように
コート(肉体)の役目が
終わっても、
生命としては、
永遠に
生き続けていきます。

生命は永遠であり
久遠であり
無限であり
不死です。

私たちは
創造主の
エネルギーを
宿したもの
創造主の子
神の子です。

この大いなる真理を
久しく
忘れていただけです。

肉体のみを
すべてと思い
肉体を
喜ばすことのために
物質を得ることのために
空間を時間を
浪費してきました。

その間でも
生命エネルギーである神は
一秒たりとも
共に在ってくれて
一度も離れたことは
ありませんでした。

その大いなる寛容の性質
その大いなる愛の性質
その大いなる慈しみの性質
その大いなる信頼の性質
その大いなる美の性質
その大いなる善の性質

本質であるところの
燦然とする光そのものの
神の性質を
私たち
ひとりひとりに
わけ隔てなく
宿してくれています。

本質に生きるとは、
本来の自分
神の子であることの
自覚に立ち返り

久遠に生きる。
永遠不滅の
無限に生きることです。

それは、
私たち
ひとりひとりの内に
わけ隔てなく
宿っているところの
神性を
顕現する
神の我を
顕現することです。

内(神・天・仏)なる声が
インスピレーションとなり

今の一瞬を
神の表現者として
現すことが
真理の実践であり
悟りでもあると思います。

二千六百年前の
お釈迦さまや
二千年前の
イエスさまを
通して語られた真理も

私たちの
インスピレーションから
語られる言葉も

ひとつの神である
無限から
語られる真理です。
同じ無限です。
無差別の神です。

無限なる神は
人の上に人を創らず
人の下にも人を創る
ことはありません。

私たち
ひとりひとりの内に
お釈迦さまや
イエスさまと同じ
神が宿っています。
“汝の救いは、汝自身なり"と
イエスさまが説きました。
私たち
ひとりひとりが
救い主なのです。
救世主は
遥か遠い雲の彼方に
いるのではないのです。

2011年6月10日金曜日

友人からの学び

昨日は、中国でファッション関係の店舗設計で
成功している友人が帰国して、
三軒茶屋の彼の事務所でビジネスの話をしたあとに、
食事をご馳走になりました。
彼は、30年ほど前に、台湾に渡り、一から、
台湾や中国本土のファッション業界の発展のために、
頑張ってきました。
また、評判を聞き付けた方たちから、
依頼されて飲食店等の設計も、
手掛け成功させている人で、
日本の多くのデパートが
台湾に進出する際にも
彼に依頼するほどのスーパー設計士です。

彼の設計での真骨頂は決して
妥協しないことに
あると思います。
施主が求めるものであれば、
世界中を視野に入れて、
どんな材料でも
どんな技法でも手に入れてきます。

また、どこの国に行っても、
ファッション業界に関わらず、
あらゆる業界に関心を示し、
常に研究を怠たりません。

一見、設計に関係ないようですが、
店員の接客マナーや
商品の並べ方、
なぜ流行っているのか、
又流行っていないのか。
斬新なデザインや
アイデア、
写真に撮ったりデッサンしたり
ビジュアライゼーションを高め
積極的に設計に取り入れています。

『設計士として、
ただ、図面を書くだけなら、
僕でなくてもできる。』

細部にわたって隅々まで配慮し
その実現のために全エネルギーをかけ
大きな仕事を成し遂げていく
彼の仕事の背景には
この仕事を愛していること
また、顧客に喜んでもらえることが
何よりも幸せであることにあると思います。

彼の関係した顧客の店舗は100%成功し、
評判が評判を呼び引っ切り無しに設計施工の
依頼が舞い込み、大忙しの日常を送っている。

彼は言う、
『今、僕の意を汲む中国人スタッフ10人ほどと、
業界に関係している外部の材料関係の工場の社長は
全員莫迦(ばか)ばかり、
損得関係なく仕事が好きで好きでたまらない。
ひとつの仕事を全力で成し遂げることは元より、
より良いものを作るためなら時間もお金も
関係の無い奴ばっかり!!』

まさしく、彼自身がその通りの人で、
こだわらない性格で無欲でさらに寛容で
とてもエネルギッシュな人で、
彼が話し始めると
夢や希望が周囲に満ち満ちてきます。
その場にいる全員が巻き込まれて、
笑いに包まれ積極・無限・超プラスの
空間が醸し出されていく、
いつまでもそこから立ち去りたくない
気持ちにさせられる人なのです。

精神世界にも精通しており、
人間の永遠性、
輪廻や神の表現者としての
自分の在り方も知っていて、
私としてはどんな話でも
楽に話すことのできる人の内のひとりです。

その彼が今の日本に警鐘をならす。
『昨今の日本は、
このままでいると
世界から取り残されていくのではないかと危惧する。
それは、すべてが規格化され
一定の枠に嵌め込もうとする考え方の蔓延だ。
例えば、自分の業界であったとしても、
今の日本から学ぶものが少なくなっている。
それは、グローバルな視点で
より良いものを取り入れる風土が
喪われていることだと思う。

施主がこんなものを造りたいと思う、
業者は、
それは素人のあなただから発想できるもので、
プロの目からすれば絶対にできることではないと、
出来ない理由をひとつひとつ並べて否定する。
だから、
プロが選択した
安全なこの規格を選びましょうと施主に妥協させる。

もちろん、国として政策上、
守るべき権益はあるのはわかる。
しかし、どんなものにでも、
業界団体や各組織が関わってきて、
価格の安定化とシステムや製品の規格化を進め、
外部からのいい製品・システムを
受け付けないよう圧力をかけてくる。

長い間、台湾と中国で仕事に携わってきて、
今や中国は一部のものを除いて、
ほとんどのものは世界の工場として
製造することができる力も技も持ってきた。
最初のうちは粗悪品も多く、
問題にならないと思っていたが、
最近の中国ではほとんどのものが
日本を凌駕している。

ファッション業界においても
ユニクロを筆頭にたくさんの
メーカーが中国で製品をつくっている。
ヨーロッパのブランド品のほとんどは中国でつくっている。
それは、いいものが安く出来るからである。

僕の仕事の店舗設計は、施主が求めるものは
どうしても造りたいと思っている施主の理念でもあるので、
絶対に造ってあげようと情報を求めてどんな所にも探しにいった。
その結果のほとんどは私を充分に満足させ、
この国のダイナミックさと奥深さをより感じずにはいられなかった。
大陸を横断しながら、100件も200件も回っていると
中にはすごい達人に出会うことができる。
一緒に考えてあげると期待に応えてくれる人たちである。
否、期待以上の成果もたくさん生み出してくれた。

施主の求めるものは規格品ではない、自分だけの物である。
いわゆる、ひとつひとつをオーダーメイドで造るのである。
それも、とびっきり安く。そんな達人たちをいろいろなパーツで、
例えば、家具やガラス製品や照明や壁紙や石等々を
造る人を工場を発見することができた。
台湾や中国の私が携わった店舗は、その努力とお蔭で、
そんな施主の理念が実現されている。
そこには、携わったすべての人たちの
成し遂げた喜びがある。
今の日本の店舗には残念ながら、理念が見当たらない。

かつて、終戦後、日本も今の中国のように世界を真似て
いろいろな製品を造ってきた。
暫くは粗悪品と揶揄されたこともある。
しかし、その後、世界を凌ぐ技術を持ち
世界第二位の大国にまで伸し上がってきた。
今の中国はその日本がたどった道を猛追して、
もはや抜き去ったものも少なくない。

そのことは認めて、
いい製品で安く流通できるものは、
受け入れる広い度量を持つこが
今の日本に必要だと思う。

私は、私が経験してきて培ってきたものを、
自分という小さな枠で使うのは
本当にもったいないと思っている。
お世話になった業界や日本に、
希望があれば使ってもらいたいと思っている。
日本の家に店舗に事務所に人が集うところに
オリジナルの創造力が開花し、
それも安く造ることができたら、
喜びの輪も広がっていくと思う。
それが実現できれば嬉しい!』


彼の言うように、
創造する力を喪い、
挑戦することをやめれば、
この日本に日本人に
活力は戻ってこないと思います。

成功することが
すべてではありません。
私たちは、
この世で大きいことはできません。
小さなことを
大きな愛をもって行うこと、
それが大切なのではないでしょうか。
そのことを、
学ばしてもらったように思います。

2011年6月9日木曜日

花たちのささやき

昨日の朝は
小雨が降っていて
とても気持ちのいい朝でした、

自分の
オフィスに行きがてら
ブログに添付するのに
アジサイの花でも撮ろうかと
思って、外出しました。

ものの一分もしないうちに、
近所のお宅の玄関の横に、
きれいな百合の花が咲いていました。


思わず、立ち止まりうっとり、
とっても美しい
ピンクとホワイトのアンサンブル、
乙女百合でしょうか?
昔から、
「立てば芍薬、
座れば牡丹、
歩く姿は百合の花」
と形容されるがごとく、
どこからみても女性的な花です。

家にも
隣のお宅から頂いた
百合の花があるのですが
まだ、咲いていません。
いつ、咲いてくれるのか、楽しみです。

そして、
角を曲がって
100メートルくらいに公園があって、
その前に幼稚園があるのですが、
その脇にも
今度は白い百合が咲いていました。

私は白い百合も大好きです。


白い百合を眺めていると
そのままで、
こころ癒され、
清んでいくのが感じられます。

そう言えば、
白いユリの花は、
マドンナリリーと呼ばれ、
聖母マリアさまの
象徴として有名ですよね。
純潔の意味があるのだそうです。
もちろん、写真に収めました。


この梅雨の時期は
結構、
咲いている花の種類は多いので、
雨の中を歩くのが楽しみのひとつです。

私は、どんな花も大好きです。

私たちが、目をやれば
すぐ傍に存在していて、



夫々に、
自らの持つ
すばらしい個性を
充分に発揮して
美しい色彩と芳しい香りを
漂わせてくれています。

それは、何も求めず
唯、在ることの
神の表現者としての
本領発揮です。


私は、
その花たちを感じている時、
マザー・テレサさんの言葉を
思い出します。

『どんな人にあっても、
まず、
その人のなかにある、
美しいものを
見るようにしています。

この人のなかで、
いちばん
素晴らしいものはなんだろう?
そこから
始めようとしております。


そうしますと、
かならず
美しいところが見つかって、
そうすると
私は、
その人を
愛することが
できるようになって、
それが
愛の
はじまりとなります。』





私たちも、
マザー・テレサさんが語る
この言葉の想いを
我が想いとして
人と接する時


この美しい花たちのように
神の表現者として
愛を
インフルエンスして
いくことができると思うのです。

※勿論、アジサイの花も撮りました。

2011年6月8日水曜日

観の転回


私たちが、
苦難にあり、
否定的な感情に
見舞われるとき、

恐れて
混乱している子供を
愛おしく
慈しみ
見つめる母親の
眼差しのように、
自分自身を眺めてください。

私たちが、
嫉妬心や
復讐心や
怒りに震え、
人を許せない気持ちに
陥っているとき、

神や仏が
私たちに
無所得の愛の光を
投げかけているように、
俯瞰の眼で眺めてください。

これらの不完全な念いは、
その心から離れて、
第三者として、
眺めて観ることによって、
新しい見方を
発見できる機会を
得ることができます。

お釈迦さまが、
二千六百年前に、
説いた真理の一つです。
観の転回です。

例えば、
コップ一つとっても、
物質レベルの
眼でみたとしても、
角度を変えて見た場合、
形が異なるように、

コップの本質を観た時には、
コップは形ではなく、
ガラスなのです。

観の転回とは
見方を変えるというのではなく
元々、備わっているところの
本質の眼で、本源の心で
冷静に
自らを第三者的に
眺めて観るということです。

次第、次第に
こころのざわめきが
薄れていくのを
感じることでしょう。

否定的なる
不完全な念いというものは、
存在せず、
光が妨害されていることに
過ぎません。
すべての闇は
私たちが本来のこころを
忘れているに過ぎません。

観の転回とは
私たちの
本来のこころ
一なる本源のこころを
想いだす方法なのです。

2011年6月7日火曜日

防災コンセントとタイ料理のお話

昨日は私の友人からお誘いがあり
久しぶりに外でお酒を飲みました。
夕方6時に大久保駅で待ち合わせをして
防災コンセントという会社を経営している若い夫妻と
合流しました。

大久保駅に立ち寄ったのも何年かぶりです。
街の変化には驚きました。
狭いエリアの中に、いろいろな店がひしめいて
まるで、アジアのどこかの国にいる錯覚を覚えます。

最初に連れて行っていただいたお店は和風創作料理の
静かな雰囲気のお店でした。
夫妻が、行きつけの店だそうです。

夫妻は、共に若い経営者です。
ご主人は複数の会社を経営して、
成功している34才の青年経営者です。
奥さんは、28才で㈱防災コンセントの社長です。
5月に会社を興したばかりで社長見習いです。
会社の名前通り、防災コンセントを普及する会社です。

東日本大震災が3月11日に起こりました。
今回は津波による被害が多く、火災による被害が
目立ちませんでしたが、かなりの火災はあったようです。
16年前の1月17日に起こった阪神・淡路大震災では、
長田地区をはじめ多くの市街地が同時に火災に見舞われ
火の海になった光景は、未だに鮮明に記憶に残っています。
阪神大震災においての、消防庁からのデータ資料を
みせていただきましたが、
発火原因の約30%が電気による発熱体です。
しかし、原因が不明というのはその倍近くもあるのだそうです。
コンセントからの火災が非常に多いとのことです。
コンセントやコンセントに差し込んだプラグ部分に
埃や水分などが付着して、差込プラグの刃の間に電流が流れ、
火花放電を繰り返すことで、炭化し、導電化され
出火する現象も多く発生しており、
トラッキング現象というのだそうです。

また。コンセントにも寿命があるそうで、
たまには(5年毎?)交換したほうがいいそうです。
コンセント周辺もこまめに掃除をしたり、
注意をするにこしたことはありません。

我が家も、今の家に住んで25年以上経ちますが、
考えてみると一度もコンセントを変えたことはありません、
備えあれば憂いなしかもしれません。

ついこの間も、名古屋で三世代8人家族の家が全焼、
焼け跡からおじいさんと息子夫婦、
17歳の長男を筆頭に、11歳、9歳、6歳の女の子が亡くなって、
84歳のおばあさんだけが一人生存という
悲惨な火災事故がありましたが、
パソコン周辺のタコ足配線が原因ではないかと、報道されていました。
火災は本当に一瞬のうちに家族を引き離してしまいます。悲しいことです。

夫妻は、特に東日本大震災以降、
防災という意識が高まったと言います。
強い地震の時、電気が使えなくなることが多いです。
でも、地震災害への緊急対応や復旧に、不可欠なので、
電気は割りと早く復旧されるのだそうです。
このときに、火災が発生することが多いのだそうです。

例えば、コンセントにつながっている電熱器のような発熱体に
電流が通電されて戻るとき、地震で壊れた家具や
燃えやすいものに着火して火災が起こるのだと言います。
このような地震でなくても、
先ほど説明したトラッキング現象や
タコ足配線などの原因や雷等、いろいろな原因があげられます。

知らないために、万が一のことが起こりえる災害を、
少しでも減らしたいと強く思われて、
夫妻は防災コンセントを
広めたいと思いましたと語ってくれました。

この防災コンセントは、
震度5以上の地震を感知し、電源を即座に遮断し、
電気器具の破損、転倒、落下による火災を防止する。

落雷時に、配線を通じて流れてきた電流を遮断するので、
パソコンをはじめ電化製品の破損を防止する。

地震のときの停電後に電源の遮断を継続し。
再送電のときに起こる通電火災を防止する。

電気配線から火災の予兆を感知、電源を遮断し、
差しっぱなしコンセントに埃が溜まって、
発火(トラッキング)する火災を防止する。
また、プラグの半抜け状態のとき、
抵抗値が増加して発熱する、その発熱で発生する火災を防止する。

特にトラッキングによる火災は普段の生活でも
予防しにくいのだそうで、漏電ブレーカーでも
完全に防止することはできないんだそうです。

この防災コンセントは産学共同で
京都のメーカーと京都大学の大学院工学科研究所教授で
歴史都市防災研究センター長である土岐憲三さんを
筆頭とするグループで開発された商品で、
世界遺産である清水寺や東寺、平等院鳳凰寺、
金閣寺、東大寺、神護寺などや重要文化財や公共施設には、
既に取り付けられているとのことでした。

夫妻は知り合いから土岐先生を紹介され、
この防災コンセントの存在を知り、
すぐに清水寺や金閣寺等の取り付けてある場所に
連れて行っていただいて、
この商品のすばらしさに魅了されたのだそうです。
そして、「未然に防ぐことの出来る災害は少しでも減らしたい」
という一心で、一人でも多くの方たちの
役に立ちたいとこの事業を始められました。

久しぶりに若い情熱のある方と語らい、
楽しい時間を過ごさせていただいたと共に、
この若い夫妻の事業が成功することを、心より願わずにはおれません。

いつもは二件目からは遠慮するのですが、 夫妻からお誘いあり、
近くのタイ料理のお店に連れていっていただきました。
本当に久方ぶりのタイ料理です。
私は、20年くらい前になりますが、
仕事でタイに行っており2年間くらい
1ヶ月おきに日本とタイを往来していた時期があります。
タイ料理は大好きでこちらに帰ってきても
よく女房や社員たちと食べにいきました。
しかし、この5~6年行っていませんでした。

あっ!そうそう、バンコクの正式名を知っているでしょうか?
世界一長い都市名だと思いますよ。

『クルンテープ・プラマハーナコーン
・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー
・マハーディロック・ポップ・ノッパラット
・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン
・アモーンピマーン・アワターンサティット
・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット』
(タイ国政府観光庁より)

『イン神(インドラ、帝釈天)が
ウィッサヌカム神(ヴィシュヌカルマ神)に
命じてお作りになった、神が権化としてお住みになる、
多くの大宮殿を持ち、九宝のように楽しい王の都、
最高・偉大な地、イン神の戦争のない平和な、
イン神の卓越した宝石のような、偉大な天使の都。』
という意味だそうです。
バンコクにはこの歌があって、一生懸命に覚えました。
でも、今は忘れました。

タイ料理に戻りますが、
ヤムウンセンがでてきました。
「ヤム」とは、混ぜるの意味で、サラダのことを言います。
「ウンセン」は春雨、いわゆる春雨サラダです。
唐辛子、パクチー、レモングラス、ニンニクなどの
ハーブ類を細かく刻み、ナンプラー、ライム果汁、
パームシュガーを加えてドレッシングを作ります。
これに野菜やナッツ、肉そして春雨を混ぜてできあがりです。

大好物のヤムウンセンでしたが、辛いの辛くないのって
(辛いのですが)随分食していない間に、
舌の感覚が元にもっどってしまったみたいです。
おいしいけど、とびっきり辛いのです。
(タイ語ではアロイ・テー・ペーッマークといいます)

もうひとり一緒に行った友人が
「辛いのを一瞬で抑える方法があるよ!」と教えてくれました。
その方法は、レモンを輪切りにして
塩を振りかけたものを食べるんです。
本当に一瞬で辛さがとれました。皆さんも是非試してみてください。

他に、サラダをもう一品頼みました。
豚肉のひき肉入りのサラダです。ヤムムーヨといいます。
これは、特別辛くないので辛いのが苦手な人にはいいですよ。

あとは、パッタイが出ました。
パッタイとは、お米で作ったやや太目の面を使ったタイ風焼きそばです。
えびや、ニラ、もやし、干しえびなどを炒め、
ナンプラー、タマリンド汁、砂糖、ライム、ピーナツ
などを加えて出来上がる、屋台を代表する料理のひとつです。
タイではこれに赤い唐辛子やナンプラー、砂糖などを
お好みで加えて食べます。
これは、食べやすいので初歩の人には、無難かもしれません。
あと、一品青菜を炒めたパップンファイデンも食べました。
これは、私の定番です。

それと、定番といえば、トムヤムクンですが、
おなかいっぱいに成りましたので、今回はパスしました。
トムヤムクンは、世界三大スープのひとつです。
「トム」は煮るという意味で一般的には汁物(スープ)のこと。
「ヤム」はサラダといいましたが、
ここでは元の意味で混ぜや和えると言う意味。
「クン」は海老のことです。
材料を海老から魚にすれば、トムヤムプラー。
鶏肉を入れれば、トムヤムガイとなります。
酸っぱ辛いスープは、一度食べたら忘れられない美味しさです。
今度来る機会があったら、是非いただきたいスープです。

ところで、世界三大スープって、
トムヤムクン以外に名前を知っていますか?
三大スープと言っていますが、実は四つあるのも知っていますか?
三大と名のつくものには、良くあることなのだそうですが、
選定する人たちが、互いに譲れない場合に
四つや五つあっても三大と呼ぶんだそうですよ。

世界三大スープはトムヤムクンの他に
・ブイヤベース(フランスマルセイユ発祥)
・ ボルシチ(ロシア料理)・
・ フカヒレスープ(中国料理)のことです。
以上、豆知識でした。

楽しい時間を過ごさせていただいたことに、感謝いたします。
ありがとうございました。

2011年6月6日月曜日

マザー・テレサとマハトマ・ガンジー


マザー・テレサさんのことは
何回か、
このブログでも
紹介しました。
マザー・テレサさんの言葉は
大好きなものばかりですが。
特に、
この内容が好きです。



『人は
不合理、
非論理、
利己的です。
気にすることなく、
人を愛しなさい。

あなたが
善を行うと、
利己的な目的で
それをしたと
言われるでしょう。
気にすることなく、
善を行いなさい。

目的を
達しようとするとき、
邪魔立てする人に
出会うでしょう。
気にすることなく、
やり遂げなさい。

善い行いをしても、
おそらく次の日には
忘れられるでしょう
気にすることなく
善を行い続けなさい。

あなたの
正直さと誠実さとが、
あなたを
傷つけるでしょう
気にすることなく
正直で誠実で
あり続けないさい。

助けた相手から
恩知らずの仕打ちを
受けるでしょう。
気にすることなく
助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを
世に与え続けなさい。
けり返されるかもしれません。
気にすることなく、
最良のものを与え続けなさい。

気にすることなく、
最良のものを与え続けなさい…。

結局のところ、
あなたと人との
間のことであったことはなく、
あなたと神との
間のことだったのです』

今更、語るまでもなく
マザー・テレサさんは
一なる本源の
愛と感謝の
最高の表現を実現した方です。


ガンジーさんも
そのひとりだと思います。

マハトマ・ガンジーさんは
『真理は神である』
この一言に
自分の全ての理念を
集約させた方です。



ガンジーさんが
非暴力運動(アヒンサー)を
実践する背景には、
神への
絶対的信頼がありました。

ガンジーさんの
有名な言葉を紹介します。

『歴史全体を通して
いつも真理と愛が
勝利をしたことを思い出す。
暴君や殺戮者は
そのときには無敵に見えるが、
最終的には滅びてしまう。
どんなときも、私はそれを思うのだ』

ガンジーさんは
神の無限
大愛
永遠性を
立派に表現されました。

彼は、
非暴力運動を
推進するにおいて

ともすれば、
自己の内の
臆病や
不安に
打ちのめされそうになり
怒りの気持ちが
こみあげてくる
民衆に向かって、

ひとりひとりが
神の本質を宿している。
目には目をは
全世界を盲目にしている。
真理と愛でたたかうのだ。
『真理は神である』
と激励したのでした。

その考えは
後の
マーティン・ルーサー・
キング・ジュニア
などにも
影響していく。

2011年6月5日日曜日

「汝の隣人を愛せよ」

イエスさまは
「汝の隣人を愛せよ」
と、おっしゃいました。

創造者であり
第一原因者である
一なる本源に基づいて
私たちは存在しています。


すべての
生きとし生けるものの中に
一なる神が顕現しています。

であるならば、
自分と他人を隔てるものは
何もないことが
わかります。
隣人も私たちも
一体です。
一体である隣人を
愛することは、結局のところ
自分を愛することになります。

すべての人間
ひとりひとりが
この世に
存在している目的は、

その魂と
肉体の目的は、
本源なる神の一つの
愛の
表現媒体として
在るのではないでしょうか。

愛を表現する為に
魂と肉体が
造られたのではないでしょうか。

「汝の隣人を愛せよ」

お父さん。
お母さん。
夫。
妻。
子どもたち。
友人や
地域や社会の方々。
自然や動物たちに。

自分の一生の中で
触れ合うことの出来る
数少ない隣人たちに。

精一杯、
愛と感謝を表現できる
自分で在りたいと思います。

私たちの多くは
私も含めて
戦後に生まれた方が大半です。

戦後、復興するために
私たちの両親や先輩たちは
血の滲むような努力をされ
日本を創る礎になりました。

その後の日本は
昭和30年代以降、
右肩上がりに成長を続けました。
テレビや洗濯機や冷蔵庫などの
家電が普及され、
全家庭が我先に購入しました。

物質主義が極まり
お金が
すべての権力の象徴で、
世界をさえ、
呑み込んでいきました。

行き過ぎで、
バブルは終焉しました。

しかし、その間に
最も大切な
心を喪ってしまいました。

私も、
そのど真ん中にいました。
金のためなら、
手段を選ばない。
極端に言えば、
人間は
お金を稼ぐための対象であり、
いかに欲を煽り、
みせかけの幸せや
楽しみのために
時間を浪費していました。

自己と他者
自分と他のもの
いわゆる、
自分と対象物という
考え方の最たるものです。

その考え方は、

その眼に見えるものだけの
無知なるが故に、
分離感を感じ、
罵り、
けなし、
人を裁き、
不調和の心を
引き起こしてきました。
結局、
満ち足りない念い
不安や
恐怖が巣食っていたのです。

イエスさまは
「真理は汝を自由ならしめん」
とも、説いています。

私たちは
真理を知ることによって
自らを開放して
自由になるのです。

私たち
一人ひとりは

愛と感謝を
表現するために
神性を宿して
人間として存在しています。

これは、真理なのです。

今日一日
どんな小さなことでもいい
愛を
感謝を
表現していきましょう。

2011年6月4日土曜日

一なる本源


天地一体といいます。
色即是空
空即是色といいます。
これは
同じ意味です。

天地一体は
イエスさまが説き
色即是空・空即是色は
お釈迦様が説きました。

私たちは、
無限の宇宙に
遍満するところの
ミクロの原子と
電子からできています。

原因のない結果が
存在し得ない様に
私たちは、
原子と電子から離れて
存在することはできません。

原子と電子は
神と言い換えても
いいかもしれません。

神は創造者であり、
第一原因者です。
原因である神と
結果である私たちは
決して離れて
存在することはできません。

ゆえに、
天と地も一体であり、
色(肉体・現象)即ち
是、空(原子・神)であり、
空即ち
是、色である
ということになります。

イエスさまやお釈迦様は
そのことを悟りました。

神は無限であり、
永遠であり、
不死であり、
原因であります。

即ち、
結果である私たちも
無限であり、
永遠であり、
不死であるのです。

原因の世界には、
四苦(生・老・病・死)は
存在しないのです。

お釈迦さまが
悟ったのは、
この現象界における
人間の観念、
概念にのみ、
四苦があるのであって、
原因の世界には
存在しないことを
理解されたのです。

この悟りにより
仏即我、
宇宙即我の境地に達し、
永遠の
仏陀となられたのです。

しかし、
私たちは
どうしても
分離した見方、
二元的な
見方をする癖があります。

自己と他者
自分と他のもの
いわゆる、
自分と対象物という
見方をするところに
どうしても
執着が生まれ、
あらゆる
欲の原因を創っていきます。
それが
苦しみの正体でもあります。

宇宙の真実は
天と地は一体であり
自他も一体であり、
色即是空 空即是色であります。
すべては一体であり
ひとつです、

自分の本源、
本質を追究していくと、
誰もが
ミクロの原子電子という
神に到達するのです。

結果の世界は、
原因の世界に
到達しなければならないのです。

2011年6月2日木曜日

自分に優しさを

テレビや
週刊誌等の車内広告から
垣間見える世界は、   
政治の抗争や
殺人や
強盗事件や
芸能人のゴシップ等
数々の
否定的な部分が
数多く語られています。

確かに
テレビや週刊誌等は
衝撃的なことを、
並べ立てた方が、
視聴率や販売部数が
伸びるのでしょう

しかし
テレビや週刊誌で
報じていることは
ほんの一部分に過ぎないのです。

私たちが
一番高い山に登り
私たちの世界を
眺めるとしたら
そこには
否定的なことより
はるかに多くの
感動的なことがあり、
憎しみより、
多くの愛があり
暴力よりも
やさしさに満ち溢れています。

自らの
本当の心を忘れて、
暴走している人たちが
目だって見えるに
過ぎないのです。

どうしていいかわからず、
喚いたり、
暴れたりしているに過ぎません。

私も、
そうでしたから
よーくわかります。

ある意味では
可哀想な人たちです。
自らの
本質に気がつけば
必ず、
元の心に
戻ってきます。
本質は
光の存在なのですから。

私たちは
自分を癒すものや
喜ばすものを
自らの心に施すことが
少ないように思います。

静かに座って
瞑想をしたり
音楽を聴いたり
自然と共に散歩をしたり
そして、
光のプリズムが
水面に映えるのを感じたり
花の持つ、
すばらしい色彩や
芳しい香りを感じたり
動物たちと
無邪気に戯れたり、
愛する人と
手をにぎりあったり

なんであろうと
自身の存在の
癒しや喜びの中心に
錨をおろし、
自身を愛おしみ、
優しく
大切に扱ってみてください。

肉体感覚の持つ
頭脳で考えたりとか
知性がもたらす雑音を
無視できるようなことを
やってみましょう。

形にこだわらず
自らの内なる
静けさの中に
内なる真実の中に
自分にできる方法で
入ってみてください。

それは
あなたの
存在そのもののが、
既にもっている
エッセンスであり、
魂の叡智への
鍵でもあります。

2011年6月1日水曜日

究極の道


私たちの
人生の途上で、
今まで、
多くの本に
出会い
感銘を受けてきました。

私たちの
方途を示す
羅針盤として、

また、
自信を失くしている時に
勇気を与え
怠け心に
やる気を与え
そして、
あらゆる知識を
与えてくれました。

また、
両親をはじめとして
兄弟、
夫婦、
子供、
友人、
仕事上の仲間達、
       
出会った
数多くの
人達との
稀有な
関係性の中で
共に
立場を換えて
貴重な
人生体験を積んできました。

愛し、
愛され、
離れたり、
またくっついたり、
憎んでみたり、
憎まれたり、
葛藤しながらも
知恵を汲み上げてきました。

あらゆる
本たちとの出会いも
あらゆる
人々との出会いも、
偶然に
出会ったものは
一つとしてありません。

自分が選択して、
出会ったのです。

両親も
自分で
選んだと言ったら、
言い過ぎでしょうか?
でも、

それは真実です。

自らの
永遠の輪廻の中で
残した課題(業)を
学ぶために

敢えて、
困難なる道も
織り交ぜながら、
人生を送ります。

それは、
自らの
本質であるところの、
愛を思い出す
旅なのです。

自らの
意識の中に
元々ありながら
ぼやけているものに
スポットを当て
真実の光を
照らすためであるのです。

自らの
インスピレーションを
見逃さないでください。
それは
あなたにとって
もっとも大切にする
価値のあるものです。

私たちは
外にある
人や物が
いくら偉大で
あろうとも、
全面的に依存したり
崇拝しないでください。

崇拝すべきは
自らの内部に
厳然として在るからです。

万人の内にいるところの
神の光を
輝かせることが
究極の道なのです。