2011年9月30日金曜日

“相手の神性をみつめる”

今日は
ユーチューブで見た
先生 可能性のない人なんていない」を
紹介します。


“ある小学校で
いいクラスをつくろうと
一生懸命な先生がいた

その先生が五年生の担任になった時
一人、服装が不潔でだらしなく
遅刻をしたり、居眠りをしたり

みんなが手を挙げて発表する中でも
一度も手を挙げない少年がいた

先生はどうしてもその少年を好きになれず
いつからか、その少年を
毛嫌いするようになった

中間記録に先生は少年の
悪いところばかりを
記入するようになっていた

ある時
少年の一年生からの記録が目に留まった

そこには、こう書いてあった

『朗らかで、友達が好きで、人にも親切。
勉強もよくでき、将来が楽しみ』とある。

間違いだ。他の子の記録に違いない、
先生はそう思った。

二年生になると

『母親が病気で世話をしなければならず、
時々遅刻する』
と書かれていた。

三年生では

『母親の病気が悪くなり、疲れていて、
教室で居眠りをする』。

三年生の後半の記録には

『母親が死亡、
希望を失い、悲しんでいる』とあり、

四年生になると

『父は生きる意欲を失い、
アルコール依存症となり、
子どもに暴力をふるう』。

先生の胸に、激しい痛みが走った。

だめと決めつけていた子が突然、
深い悲しみを生き抜いている
生身の人間として
自分の前に立ち現れてきたのだ。

先生にとって目を開かれた瞬間であった。

放課後、先生は少年に声をかけた。

『先生は夕方まで、教室で仕事をするから、
あなたも勉強していかない?
分からないところは、教えてあげるから』。

少年は、初めて笑顔を見せた。

それから毎日、少年は教室の自分の机で
予習、復習を熱心に続けた。

授業で、少年が初めて手を挙げた時、
先生に大きな喜びがわき起こった。
少年は自信を持ち始めていた。

六年生では、先生は少年の担任ではなくなった。

卒業の時、

先生に、少年から一枚のカードが届いた。

『先生は僕のお母さんのようです。
そして、いままで出会った中で
一番すばらしい先生でした』。

それから六年、またカードが届いた。

『明日は、高校の卒業式です。
僕は五年生で先生に担当してもらって、
とても幸せでした。

おかげで奨学金をもらって
医学部に進学することができます』

十年を経て、またカードがきた。

そこには、先生と出会えたことへの感謝と
父親に叩かれた体験があるから
感謝と痛みが分かる医者になれると記され、
こう締めくくられていた。

『僕はよく五年生の時の先生を思い出します。
あのままだめになってしまう僕を
救ってくださった先生を、
神様のように感じます。

大人になり、医者になった僕にとって
最高の先生は、
五年生の時に
担任して下さった先生です。』

そして一年、

届いたカードは、結婚式の招待状だった。

『母親の席に座ってください』
と一行、書き添えられていた。

先生は嬉しくて涙が止まらなかった。。。“

いかがでしょうか?

私は
このユーチュブの動画を
見たとき
(と言っても中島みゆきさんの
BGMが流れ文字だけが流れます)
涙で文字が揺らぎました。

是非、ご覧になってください。

私の人生の
それぞれの
瞬間、瞬間において

目をかけ
手を差し伸べてくれた
関わったくれた
人たちの思い出が
走馬灯のように
浮かんできました。

私の人生も
プロフィールに
ある通り
決して褒められた
人生では
ありませんでした。

しかし、
その中でも
人の評価は
どうであっても

私を評価してくれ
無所得の愛を
与えてくれる人たちの
お陰で
今、現在があります。

改めて
その人たちに
感謝したいと
思います。

昨日のブログ
「ひとを信じるエネルギー」でも
あったテーマですが、

「たったひとりでいいから、 
自分の未来を信じて
こころを注いでくれるひとがいたら、
ひとは、生きていける」

ほんとうに
そういうひとが
人生の節々に
いてくれました。

その人たちは
神の化身以外
何者でもありません。

その人になって
私の前に
姿を現わして
くれたのです。

そして
私にエネルギーを
与えてくれました。

その人たちが
いなければ
その時に
一般的に下されていた
評価のまま
人生は
送られていた筈です。

その時に
私を信じるエネルギーを
与えてくれた
その人に
影響を受け
そのエネルギーに
応えようと
変容をしていきます。

私たちも
多くの評価を
人に下しています。

果たして
この評価は
適切なものでしょうか?

何を持って
評価をして
いるのでしょう?

自分の価値観である
一般常識という
モノサシで
測って
決めつけているに
過ぎないのではないか?

私たちは
自分にとって
相手が
どのように見えようとも

外見や容姿
先入観からではなく
相手の神性を
みつめるように
見ることが
大切なのでは
ないかと
思うのです。

その神性を見るとき
相手の神性も
輝きだします。
相手を信じたように
その通りに
また、それ以上に
輝くものです。

こう考えると
結局のところ
私たちの
ものの見方
考え方次第だと
いうことが
分かります。

相手を
自分の価値観や
先入観で
ものを見るのか

相手の神性を
見つめるのか
次第と
言うことなのです。

あなたの周囲に
起こる出来事や
関わる人たちは

今のあなたに
どう映っていますか?
あなたの
見方や捉え方に
意識を向けてください。

この世界は
あなたが信じたものを
見る世界です。

あなたの観念が、
あなたの世界を
創造しています。
人は、創造エネルギー
そのものです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日、この瞬間
あなたは
何を創造しますか?

今日も
共有ありがとうございます。

2011年9月29日木曜日

「ひとを信じるエネルギー」


このブログで
何回か紹介
しています。
「宮ぷー こころの架橋
プロジェクト」の
山元加津子さんの
講演会が
9月26日に横浜で
あったようです。



その講演会に
参加していた
かめおかゆみこさん
という方が
山元さんの講演会の
すばらしい感想文を
書いてくれました。

そのかめおかさんの
すばらしい感想文が
「宮ぷー こころの架橋
プロジェクト」メルマガに
掲載されて
いましたので
抜粋させていただきます。
共有してください。

『山元加津子さん(かっこちゃん)の
講演会を聴きに行ってきました。
涙あり笑いありのすてきな講演会でしたが、
何よりもこころに残ったのが、
このひとことでした。

「たったひとりでいいから、 
自分の未来を信じて
こころを注いでくれるひとがいたら、
ひとは、生きていける」

ひとは、意識的であれ、
無意識的であれ、
さまざまなことを期待して
(ときには怖れながら)
生きているものです。
そのひとつが、
ひとからどう思われるか。
そのため、ときには、
きらわれないように、
浮かないように、
自分をおさえこんだりします。

けれども、
本当は、そうではないのですね。
たとえ、
1000人のひとと
知り合いになったとしても、
本当にこころをひらけるひとが、
そこにいなかったら、
ひとりぼっちの気持ちが
深まるだけでしょう。

たったひとりでいいから、
本当に、自分のことを信じて、
見つめてくれるひとがいたら…。
それが、家族であっても、
友人であっても、
誰でも。ひとは、生きる勇気を
もらえるのだと思うのです。

年間3万人を超えるかたが、
みずからいのちを絶っていく。
そんな異常な事態が、
13年もつづいているこの日本で、
そこにいたらないまでも、
誰ともこころをわかちあえないで、
苦しんでいるひとは、
どれほどいることでしょう。

いえ、かつての私もそうでした。
もっと言えば、
そう思いこんでいた
時期がありました。
思いこんで、
勝手に自分を孤独に
追いやっていたのです。

本当は、たくさんのひとたちに
見守られているのだということ。
本当は、たくさんのつながりの
なかで生きているのだということ。
そのことに気づきもしないで…。

孤独のただなかにいるとき、
ひとは、それを感じるだけの
余裕をもつことができません。
だからこそ、
それを伝えるひとが必要なのです。

たったひとりでいいから、
そのひとをまっすぐに見つめて、
あなたのことを信じているよ。
あなたは、絶対に大丈夫。
そんな思いを注いでくれるひとが。

だから、あなたのまわりで、
そんなふうに
苦しんでいるひとがいたなら、
どうぞ、あなたが、
その「たったひとり」のひとになって、
そのひとを信じてあげてください。

信じて見つめてあげてください。
何もできなくていいのです。
信じるだけでいいのです。

それは、
まちがいなくエネルギーとなって、
そのひとに届きます。

そしてね。
どうぞこのことに気づいてください。
あなたが誰かの可能性を
本気で信じるとき、
あなた自身のなかに、
「ひとを信じるエネルギー」が
生まれるのです。

自分には、誰かをこころから
応援することができる。
誰かの未来を本気で信じて、
応援することができる。
そう思う気持ちが、
エネルギーに
ならないわけがないのです。

だから、私たちは、
ひとを信じることで、
そのひとにエネルギーをあたえ、
自分自身にも、
エネルギーを
あたえているのです。

私たちが、お互いに、
その、「たったひとり」の
ひとになりあえたら、
かなしみと絶望の連鎖を、
終わらせることが
できるはずなのです!

かっこちゃんの講演を聴きながら、
私は、ひとりで、
そんなことを考えていました。
かっこちゃんが、それを信じて、
語りつづけていくように、
私もまた
語りつづけたいと思いました。

それぞれの場で、
それぞれのやりかたで、
どうぞ、あなたも、
その「たったひとり」のひとに
なってください。

そうして、お互いが、
「たったひとり」のひとに
なっていきましょうよ。

いつか気がついたら、
たったひとりのみんなが、
手をつなぎあって、
たったひとりではなくなって
いるかもしれませんが。(*^_^*)

そしたら
世界は変わりますね!
かがやく未来が
ひらけますね!』


いかがでしたか?
「たったひとりでいいから、 
自分の未来を信じて
こころを注いでくれるひとがいたら、
ひとは、生きていける」
このメッセージが
届きましたでしょうか。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日、
あなたは
誰に対して
こころを
注ぎましょうか?

あなたの周りに
ちょっと
気になる
愛する人は
いませんか?

その人に
こころを差し向けて
あげましょう!
信じるエネルギーを
広げていきましょう!

共有ありがとうございます。

2011年9月28日水曜日

“神.ドット.com”

私たちの本質は
色である肉体に
あるのではなく、
空である生命に
あるのです。

これは何回も
このブログで
書いている内容です。

昨日、
こんな夢を見ました。
イメージとしては
渋谷の
ハチ公前の信号から
たくさんの人々が
渋谷109の方向に
歩いています。
それを109側から
TVの画面で
私が見ています。

TVの画面が
どんどん
拡大していきます。

人々の顔や姿が
はっきり
見えてきます。
どんどん
近づいてきます。
だんだん近づくと
姿や顔の形は
無くなり
TVの粒子のような
ドットのように
なりました。
ドットだけが
見えます。
TV画面は
ドットで
敷き詰められました。

そして
徐々に画面が縮小し
ドットが全体に
広がっているのが
見え
そのドットが
徐々に見えなくなって
人々の顔の形が
見えてきて
姿が見えてきて
人々が歩いていました。
逆回しです。

そして
さらに
画面が
縮小していきます。
人々が
どんどん小さくなり
最後は
点になりました。
ドットです。

私はその時
生命の実相を
イメージとして
見させていただいたと
感じました。

私たちの
本質は
このドットで
現わしたところの
不可視の存在に
あります。

ドットは
すべてに
遍満していました。
人々にも
周囲の空気にも
信号にも
道路にも
樹木にも
同じドットで
満ち満ちていました。

縮小したとき
そのドットは
ひとつでした。
ひとつのドットが
すべてを
生か占めている
そう夢の中で
感じたのです。

このドットが
いつも
このブログで
書いているところの

冒頭の
私たちの本質は
色である肉体に
あるのではなく、
空である生命に
あるのです。
と書いた本質です。

空であり
大生命であり
大気であり
大霊であり
大愛であり
普遍エネルギーである
ところの
神の存在です。

神は
あまねく
遍満していました。
人々にも
周囲の空気にも
信号にも
道路にも
樹木にも
同じ神の
エネルギーで
満ち満ちていました。

生きとし生けるもの
万有万物すべてに
例外なく
遍満しています。

同じ神が
すべてに
宿っています。

ひとつの神が
すべてを
生か占めているのです。

遡るところ
2600年前の
お釈迦さまに
宿るところの神(仏)も

2000年前
イエスさまに
宿るところの神も

あなたに
宿っている神も
同じひとつの神が
宿っています。

神は
時間
空間
距離を超えて
始めなく
終わりなき
存在

永久不変の
一なる本源
根源神であり
創造主である
存在
すべてのすべて
在りて在るもの



上帝
大霊
大愛
サムシング・グレート
無限大と
呼ばれる存在

それが神なのです。

と同時に
肉体は
何の力も持たない。
何のエネルギーも
ないことを
感じました。

人間は
生きて
いるのではなく
生かされて
いるという
実感です。

肉体は
生命の
乗り舟に過ぎない
生命が
離れたとき
すべての
肉体機能は
失われます。

以前、
ティーパック・
チョプラ博士の著書

『チョプラ博士の
クォンタム・ヘルス―
こころ からだの
完全健康
(パーフェクト
ヘルス)ガイド』を
紹介しました。
その中で
チョプラ博士は、
こう述べています。

細胞には
知性があると
述べて
次のように
知性の持つ
再生の力を
語っていられます。

『肌は5週間ごとに、
一見すると
頑丈そうな骨格は
3か月ごとに、
胃の粘膜は
5日ごとに、
全て
再生されています。

外見は
以前と変わらない
ように見えても、
細胞は絶えず
入れ換わって
いるのです。

そして
1年後には
体の原子の
98パーセントが
新しくなっています。』

博士の言う
知性とは何でしょう?
言い方を変えた
神の呼び方だと
思います。

私たちの
肉体の細胞や
組織を
生かし続ける
エネルギーが
常に
私たちの
肉体の中で
働き続けています。

1年後には
身体の原子が
98パーセント
新しくなっている
ということは

ほぼ、1年ごとに
新しい肉体を
再生している
ことになります。

このメカニズムこそ
知性(神)の
存在の仕事です。

肉体自身は
肉体だけでは
何にもできません。
すべてが
神(知性)の
為せる業なのです。

生かされているのです。

生命が離れた
肉体に
いくら
動くように
命じても
動くことは
ありません。

焼かれて
骨になり、
いずれは
その骨も
消えてしまいます。

私たちの実体は
無限が創造した
有限の中に
無限が宿り
表現をしています。

その有限こそが
自分と
勘違い
しないことです。
有限の中で
無限を
表現するために
有限でいるだけです。

1年で細胞は
入れ替わります。
輪廻をしているのです。
最後は
有限は
役目を終えます。

しかし
無限は
生き通しなのです。
無限は永遠です。
永遠不滅なのです。
永久不変なのです。

有限は
幻影に過ぎません。
仮相です。

無限は
実相なのです。
無形無相の大霊です。
不可視の大愛です。

仮相である
有限である
肉体や物質に
惑わされては
いけません。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間に
実相を感じることが
できます。

いつか
実相になると
いうものでは
ないのです。

無限は
今の瞬間に訪れます。
それは
この瞬間こそが
永遠の今だからです。

生かしていただいて
ありがとうございます。

ありがとうございます。

2011年9月26日月曜日

「完全性を知る!」

昨日のブログ
知花先生の
宇宙のしくみを
学びました。

結局のところ
私たちの本質は
宇宙に
遍満するところの
気体であり

この物質界に
一時的に
水という
質量と
気体である
電子・原子を
宿している
肉体という
固体を持っている
存在であり

死と言うのは
この乗り舟である
固体から
気体が離れることに
過ぎないことが
解ります。

固体そのものには
何の力も
何のエネルギーも
ありません。

それを
与えているのは
自らの内に
備わっているところの
気体である
宇宙エネルギーであり
フリーエネルギー
真空エネルギーで
あります。

この本質の
不可視の存在
それを
大霊
大愛
無限
久遠の存在
神と呼んでいます。

それは
宇宙のしくみや
神という偉大な
存在のことを
説明して
いるだけではなく

あなたのことを
言っているのです。
他人事と
思わないでください。

その存在が
あなたなのです。

宇宙のしくみは
人生のしくみでも
あります。

あなたの
ありのままの存在
そのままの存在は
無形無相
在りて在る者
永遠不滅の存在
無限の存在
完全で完璧の
存在なのです。

この固体に入り
肉体を持つ
ということは
この完全性を覚る
ためにあるのです。

気体にとって
液体や
固体になることは
バイブレーションを
低くしなければ
なりません。
わざわざ
低級我になるのです。
固体は
これ以上
下げられない位
バイブレーションを
低くし荒くして
います。

これが
修行の目的に
なるからです。
固体という
肉体を纏いながら
バイブレーションを
高めていく旅を
続けています。
高級我への道です。

肉体は
仮の相です。
せいぜい
80有余年着ている
衣装のようなものです。
だからいずれ
脱がなければ
ならないのです。

有限のものが
本質であるわけなど
ないのです。
仮想に過ぎないのです。

しかし
私たち人間は
本質を忘れ
仮相を自分と思い
肉体こそ自分と
勘違いをし
肉体のみを
喜ばすことに
専念するように
なっていきます。

今までは
それでも良かった
かもしれません。

少しぐらいの
回り道は
良くあることでした。

しかし
今、時代は
霊性の時代に
入ってきています。

今までの
行き過ぎた文明は
極を向かえ
地球をいくつも
滅ぼす程の核を持ち
宇宙にまで
影響をさせる
ところまで
バイブレーションが
下がっています。

物質文明が
行き過ぎた時
過去の大陸も
滅びてきました。
ムー大陸やレムリア
並びに
アトランティスが
そうでした。

今は、
その時以上に
物質文明が極まって
います。
極まりは窮まりでも
あります。

急速に
本質である
実相である
霊性に
目覚めなければ
ならないのです。

私たちは
今ある最善の場所で
そのままで
完全・完璧で
あること
不足しているもの
など何もないこと
すべては
与えきりで
満たされていること
永遠の存在で
無限大であること。
愛しか
存在しないことを
知ることです。

元々の
実相の存在に
目覚めることです。

無限である存在が
有限であるものに
振り回されては
なりません。

そんなものは
小さなことです。

肉体という
有限を重視するから
大きく見えている
だけなのです。
錯覚に過ぎません。
惑わされては
いけません。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、既に
満たされているか
不足しているかは
それは
あなたの
選択にしか
過ぎません。

足りているものに
意識の焦点を
合わせた人が
満たされた人であり。

不足しているものに
意識の焦点を
合わせた人が
満たされない
人なのです。

結局は
あなたを
制限しているのは
あなた自身の
自我意識が
そうさせているのです。

あなたが
真我意識に
フォーカスすれば

「すべては無限で、
完全である!」ことに
気づきます。

それは、あなたに
絶対の至福感と
やすらぎの気持ちを
もたらすことでしょう。

ありがとうございました。

2011年9月25日日曜日

“宇宙のしくみ”

今日は
先日ブログ
一部
取り上げた
知花敏彦先生の
勉強会の
テープの中からの
メモを参考に
整理してみたいと
思います。

宇宙のしくみに
ついて
解りやすく
説明して
くれています。

まず、神が
宇宙を
創造されました。
その
宇宙の創造により、
エネルギーと
質量が
生まれました。
そのエネルギーと
質量とから
物質が
創造され、
天と地が
生まれました。

構造的には
天を陽として
地を陰とする
陰陽の法則が
横軸に

天という原因と
地という結果の
原因と結果の法則が
縦軸になり
十字の構造と
なります。

そして
その十字の中心の
横と縦が
交わる点が
プラスマイナスゼロの
完全調和点と
なります。

この
完全調和のことを
“愛”というのです。

この交点の
愛の法則の
ゼロポイントから
すべての
エネルギーは
発生されています。

それは
光の
エネルギーであり、
フリーエネルギー
真空エネルギーと
言われています。

ゼロ磁場から
エネルギーが
発生するのです。

N極とS極の
中心磁場には
SとN極が生れ、
磁力はN極から
S極へと流れます。

数字の8の字を
横にしたような
∞の図を見たことが
あると思いますが、 
これをメビウスの輪、
無限大の循環とも
いっています。

十字の法則に
この
エネルギー
循環の法則を
加えたものが、
宇宙法則の基本です。

陰陽の法則、
原因と結果の法則、
それに加えて
エネルギー
循環の法則です。
十字の交点は
プラスマイナス0の
ポイントとなります。

このゼロポイントは
完全調和、
完全バランスした点で、
中性磁場であり、
ゼロ磁場です。
ここが
神の愛のポイントです。

愛とは完全中和の
ことをいうのです。
愛は力であり
すべてのエネルギー
なのです。

万象万物
生きとし
生けるものの
すべては

愛の法則によって、
この現象世界に
創造されて
くるのです。

宇宙の構造は
ミクロの世界と
言って
気体の世界
マクロの世界は
液体と
固体の世界です。

この物質界は
個体の世界です。

気体である
空気を冷やすと
水になり、
水を冷すと
氷になり
固体となります。

氷を暖めると
水という液体になり、
水を暖めると
蒸発して
空気に戻ります。

冷すということは
バイブレーションを
下げ、
暖めるということは
バイブレーションを
上げる
ということです。

この
三つの次元差は
バイブレーションの
差があるだけで、
いずれも
エネルギーと質量、
又は
原子と
電子の世界では
共通しています。
これを「三位一体」と
いっています。
この宇宙の構造は
この三つの次元しか
ないのです。
気体は
目に見えません。
不可視です。

お釈迦さまは
この目に見えない
気体の次元を
空と呼び、
目に見える液体や
固体の次元を
色と呼んだのです。

氷と水は
必ず空気に
帰りますから、
液体と
固体の世界を
諸行無常と
いったのです。

無常とは
常に一定の
ものはない。
エントロピーの
法則によって
滅びる次元だと
いったのです。

この
物質次元の
世界には
生老病死はあり、
不可視の
気体の世界は
常在で
苦しみはないと
説かれたのです。

お釈迦さまは
空の世界こそが
実在の世界であり、
色の世界は
仮想の世界だと
説かれました。

ミクロの世界が
あるのみであって、
この物質世界は
幻影で
必ず空の世界へ戻ると
説かれたのです。

これが
色即是空
空即是色
色心不二の教えです。

私たちは
輪廻転生を
繰り返しますが

それは
この物質界で
肉体を持ち、
この肉体こそが
生きていると
思う人の魂は
結局、
物質感から
離れられず
固体波動を持ちます。

また、
自分が肉体だ、
肉体が死んだら
自分も死ぬと
思っている人の魂は
固体波動を持ちます。

その肉的の死により
魂は幽界という
場所に赴き、
この物質界に
再び生まれてきます。
これを
輪廻転生といいます。

自分の本質は
生命であり、
気体という
天から来た者で
あることを
知っている魂で、
完成された魂は
肉体死に際して、
魂は霊界
いわゆる
気体に帰ります。

このことを
成仏とか
解脱、昇天と
呼んでいます。
再び
この物質界に
生まれることは
ありません。
輪廻転生からの
解脱です。
人生の
最大の目的は
解脱する
ことなのです。

イエスさまは
「再び生まれてはならない、
天の住者になりなさい。」
と仰られました。

私たちの本質は
色である肉体に
あるのではなく、
空である生命に
あるのです。

次に
ミクロコスモスと
マクロコスモスに
ついて
知花先生は
次のように
解説しています。

メモを参考に
整理します。

この
宇宙空間のことを
ミクロコスモスと呼び、
この
物質界のことを
マクロコスモスと
呼んでいます。
この両者には
いかなる因果関係が
あるのでしょうか?

また、
ミクロとマクロとは
何が
違うのでしょうか?

この宇宙の星々
そして
そこに生存する
万象万物は
いかに生まれ、
死んで
ゆくのでしょうか?

私たち人間や
万象万物は
エネルギーと質量の
バランスの結果
生まれました。
それは前述した
通りです。

アインシュタイン博士は
有名な
相対性原理の中で

エネルギーと
質量とが
相対する
関係によって、
万物は生まれるとの
仮説を立てました。

EとMが
相対であると
考えたために、
アインシュタイン博士は
それ以後
宇宙の解明に
行き詰まったのです。

お釈迦様は
エネルギーと
質量は
バランスする、
慈悲、中道が
正しい法則であると
悟りました。

ですから、
お釈迦さまは
慈悲の仏陀と
呼ばれるのです。

イエスさまは、
このエネルギーと
質量が完全調和し、
バランスして
物質が
生まれると唱え、
この完全調和を
愛と説いたのです。

ですから
イエスさまは
愛のキリストと
呼ばれるのです。

お釈迦さまや
イエスさまが説いた
この
エネルギーと
質量が
安全バランスを
とることによって、
物質は
創造されるのです。

アンバランスでは
物質は
創造されないのです。
愛のバランスによって、
この宇宙の
万象万物は
創造されるのです。

私たち
一人ひとりも
この愛の
バランスの結果、
この物質世界に
存在しているのです。

ミクロの世界は
永遠であり久遠、
そして
無限大の世界です。
エネルギーも
質量も無限大に
この宇宙空間に
遍満しているのです。

物質には
マイナスの
エントロピーの法則が
働きますから、
物質には必ず
始め終りがあります。
必ず消え去っていく
定めなのです。

ミクロの世界には
プラスの
エントロピーが
働きますから、
滅びることのない
久遠の世界です。

エネルギーと質量は
原子と電子と
呼び変えても
同じことです。

物質は
マイナスの
エントロピーが
働き続けますから
原子と電子も
変化し続けるのです。

アインシュタイン博士の
物理学の世界は
結果としての
物質のみを
対象としていますから、
どうしても
限界があります。

原因の世界の
エネルギーと
質量または
原子と電子は
見えない世界で、
計測も分析も
できませんから
人間の科学の
対象とは
なっていません。

しかし、
この不可視の
エネルギーと質量の
世界こそ
原因の世界であり、
この原因の世界を
対象とするのが
本当の科学では
ないでしょうか。

結局、
学問は結果であり、
消え去る
物質のみを
対象としているのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちは
今日、今という瞬間に
確かに存在しています。

その存在には
必ず
根源の原因が
あるのです。

それをもたらす
ものが
神の愛と調和を
因子として
成り立っているのです。

私たちは
とても美しいもの
そして
平和で安全な
バランスの中に
在るものです。

この事実を
知ったあなたは
今日、どのように
感じ、生きるのでしょう?

共有、ありがとうございます。

2011年9月24日土曜日

“秋分の日に思う”


昨日は
秋分の日でした。
昼と夜の長さが
ほぼ同じ日です。
これからは
少しずつ
日の入りが
早く
感じられるように
なってくるでしょう。


女房の病院でも
昨日の夜食に
おはぎが
ついていました。
女房は甘いものが
苦手なので
私がそのおはぎを
頂戴いたしました。
とても
おいしかったです。
ご馳走様でした。

又、
秋分の日は
彼岸の中日
でもあります。
これから
一週間ほどは
太陽が
真東から昇り
真西に沈みます。

この太陽軌道の
節目は、
太陽からの
波動を一身に受けて
願いが叶うと
言われています。

ただ、
自分のために
願うのではなく
世のため
人のために
願うので
なければ
なりません。
他を思い願いを
かけることに
よって
自分も生かされる
ことに
繋がっていきます。

私は
東日本大震災で
被災された方
並びに
復興に全力を
挙げていらっしゃる
方たちへ
救いの手を
述べて頂けるように
願いました。

そして
世界中が
平和で仲良く
している
イメージを持ち
願わせて
いただきました。

そして
勿論、
皆様の健康と
女房の健康を
願わせて
いただきました。

お彼岸には
こういった
願いの作用が
強力に働く
期間であると
言われています。

皆様も
どうか大切な
人のために
願いをして
みては
如何でしょう。

女房の具合の方は
非常に順調です。
貧血が続いて
いましたので、
数日前に
輸血をしました。

輸血は
その血液が
適合するかもあって
30分ごとに
体温及び
血中酸素濃度と
血圧を測って
チェックを
します。

何事も無く
輸血も定着し
今は
歩行訓練や
筋力をつけるための
リハビリを
始めています。

食事も
おかゆを大盛に
して頂き
おかずも
食べています。

体重も
昨日、計りましたら
32キロに
なっていました。

お腹が空くという
感覚が
戻ってきました。

目のくぼみも
無くなってきて
表情も
明るいです。

あれ程
何ヶ月にも亘り
摂食障害を
起こして
いたことが
信じられないような
回復振りです。

前向きに
なったことで
自然治癒力が
発露し

細胞や組織の
一つひとつが
活性化してきて
いると思います。

それぞれが
持っている

大いなる自己からの
癒す力の
エネルギーの
強さに

今更ながら
感動させて
いただいています。

これも
関わって
頂いている
担当の先生や
看護師さん

並びに
皆様の応援の
お陰です。
とても
感謝しています。

ありがとうございます。

まだまだ
これから
体力が回復して
くれば
がんの切除手術が
待っていますので

この経験を生かし
さらに
前向きに
考え
共に頑張って
いこうと
思っています。

『今日は残りの人生の最初の日』

本当に“そうだな!”と
実感しています。

今、この瞬間から
新たなる人生が
始まります。

この
永遠の今に
生かされていることに
心よりの
感謝をし
今日も
送らせて
いただきます。

「生かしていただいて
ありがとうございます」

2011年9月22日木曜日

「“焦り”は何故、起こるのか?」

今日は
寝ているとき
左足のふくらはぎが
攣りました。

昨日は
右足だったので
これで
すべては
終了します。

やはり
痛みも
バランスを
取らなければ
可哀相です。

これで
私の方も
両足が
痛いので
バランスよく
歩けます。
ありがとうございます。

昨日は
ブログを見て
多くの方が
心配をしてくれました。

このブログで
何回も紹介した
中国で設計会社を
している
友人から
(参照1)(参照2
こんなメールが
届きました。
面白いメールです。
紹介します。

「アーカ・メロディ兄
階段から
6段落ちたわけ、
たわけもの、
修行が足りん。

先々週、
自分も膝が痛くて、
こんだけ
歩いておるのに、歳だ。
それも痛みが、、、

斜めに
階段を上る、
がん細胞が
骨に来たか
E-シンに相談、
(お医者さんと思います
・・・アーカ)

馬鹿者、
バナナを食べているか、
少なくとも
1週間に1本、、、
はあーと言いながら、
食べた2日後、
痛くない、

どうして、と聞くと、
あたしも痛くて、
医者で検査、
バナナが
足りないという。

この医者、
しかし彼女も
バナナで直りました。
このように
人の体は
非常によく
できております、

痛いとき、
体に対する
ありがたさが
わかりまして、
良いことです、

でも、
アーカメロディ兄を
お待ちくださる、
皆様のために、
健康を
保たなければ
なりません、
朝、気功など
試みてはどうです、

自分の先輩で
車生活の人は
早く亡くなります、
インドのバスは
いつくるか
わかりません。
アフリカは
公共乗り物が
ないですから、
歩くだけです。
時間は
時を
刻むものがなければ
日が暮れる、
昇るで
わかるだけです。

あわてて
どうするのですか、
そんなに
奥様が見たいのか、
幸せ者に違いがない、
ともかく気をつけて。」 
というメールです。

私からは
「○○さん
いつもありがとうございます。
たわけです。
バナナを食べます。
気功もします。
でも偉大な
自然治癒力を
再認識しましたよ!
ありがとうございます。
日本には来ませんか?
アーカメロディ」
と返信しましたら、

「アーカメロディ兄へ
行きます
23日晩上
東京です
たわけ様に
会いたいです。」
と、書いていました。

23日といえば
明日です。
今から
とても楽しみです。

前述の
バナナの話
面白いですね。

バナナを
食べれば
痛みが取れるのだ
そうです。
早速、
試したいと
思います。

でも実際
足が痛んだり
骨が痛かったり
足が攣ったりする
根本原因には
カリウムの不足が
あげられます。
バナナは
カリウム豊富
ですからね!
他の栄養素も
あるでしょうし、
本当に
いいかも知れませんね。

そういえば
女房が以前にも
今回のような
食欲がないことにより

栄養障害になり
入院したときに

検査をして
骨粗しょう症だと
診断されました。

その後
カリウムを
多量に服用
しています。
根拠は
大有りですね。

気功は
やり方が
わからないので
中国から
折角
友人が来るので
本場の
やり方を
教えて
もらいましょうかね(笑)

もうひとつ
メールを
紹介させてください。

女房の弟さんからの
メールです。

女房の弟さんは
女房の入院で
必要なものが
あったら
いつでも
言ってくださいと
声をかけて
くれました。
いつも
心配してくれる
心優しい
弟さんです。

女房の兄弟は
この弟さんも
そうですが
香川県に嫁いでいる
妹さんも
よーく女房のことを
思ってくれて
手作りの
履きやすい
パンツ(ずぼん)とか
上着など
また、手作りの
お守りなどを
送ってくれたり
その
たびごとに
心を送ってくれます。

今回も
妹さんから
寒くなるのでと
裏地をつけた
パンツと
上着を作って
送ってくれました。

寒がりの
女房は
大喜びです。

姉思いの
妹と弟です。
いつも
感謝しています。
ありがとうございます。

妹さんも
弟さんも
私のブログを
見てくれていて
たまに
メールで
コメントしてくれます。

その弟さんからの
メールです。
「私達、
プラント運転を
している人間にも
非定常作業の焦りは
事故を招くので
十分な注意をはらいます。
でも労災は
発生してしまいます。
焦りは何故、
発生するのでしょうか
わかりません。」
と書いてありました。

弟さんは
リサイクル会社に
勤務されており
後輩に指導する
立場でも
あるので
関心があるのだと
思います。

それでは
焦りは何故
起きるのでしょうか?

今、
やっている仕事や
物事に集中して
いないからだと
思います。

わたしの例を
見ても
家の階段を
降りていて
「ふと女房の病院に
早く行かなくっちゃ!」と
思った瞬間
意識が病院に
いっていて
「女房が待っている!」と
イメージされました。
そこに照準が
当った訳です。

本当は
階段を
一歩一歩
集中して
降りていれば
階段を
踏み外すことは
なかったと
思います。

私の場合は
兎も角として
特に仕事の場合
お客様への
訪問で
遅刻することは
問題は
あります。

交通機関は
中々
予定通りには
いきません。
ちょっとした
アクシデントに
巻き込まれ
「遅刻するかも
知れない!」と
思った瞬間から
「時間がない!」と思い
意識の照準を
遅刻に焦点を
当て続けて
しまいます。
これが
“焦り”です。

“焦り”が
遅刻の意識を
増幅し
遅刻という現実を
創造し始めます。

「どうしよう!」と
思えば思うほど
泥沼に嵌り
遅刻を引き寄せて
しまいます。

会社の
工場などでも
納期であるとか
期日が
限られているような
仕事に
“焦る”気持ちは
よく、現れます。

勿論、
その納期に
間に合わないのは
ビジネスとしては
問題は
あります。

しかし
“焦り”は禁物です。
結局
「間に合わない!」に
照準を当て
間に合わない現実を
引き寄せて
しまいます。

納期の問題は
仕事の仕方に
あります。
リーダーの問題が
多いと思います。

会社の人間の
現有勢力を
つかんだ上
この人数で
このくらいの時間を
かければ
この納期に
間に合うという
シュミレーションをし
計画を
立てればいいことです。

“焦り”を
生み出さない
環境をつくれば
いいことです。
それが
リーダーの仕事です。

それぞれの
仕事には
それぞれに
合った
納期というものが
ある筈です。

ビルを
一棟
今日中につくれ!とは
来ない筈です。
これは
単なる無謀にしか
過ぎません。

目の前の仕事や
していることに
集中すること

仕事を
している最中に
あのトンカツ屋さん
お昼は
すぐ混むから
一分でも
早くいきたい!と
思いながら
仕事をしていると
“焦る”
気持ちが生じます。

事務系なら
兎も角
あらゆる現場作業中
であれば
労災も起こって
しまいます。

結局のところ
起こってもいない
現実に意識を
向けて
時間が無い!
間に合わない!と
いう思いが
“焦り”の正体です。

ひとつの
取り越し苦労で
あります。

『今日は残りの人生の最初の日』

どんな些事であっても
目の前の仕事
今、やっている
ことだけに
照準をあてること

そこに
全力を挙げることが
“焦る”気持ちを
起こさない
唯一の
方法では
ないかと
思います。

ありがとうございます。

2011年9月21日水曜日

“時間は無限にある”


実は
私は
女房の入院した
参照1)(参照2
参照3)(参照4
翌日に(9月10日)
自宅の階段を
踏み外し
頭と腰を強打して
しまいました。







頭は
2~3日で
痛さは
治まりましたが
尾てい骨から
腰は
いまだに
座ったり
立ったりする時に
痛みます。

歩行にも
困難をきたし
所要や
女房の病院には
車を使って
移動しています。

その上に
寝ているときに
足が攣り
強烈な痛みを
感じ
起きて
処置をして
又、寝たのですが
朝起きてみたら
攣った箇所が
痛くて
歩くと痛みが
襲ってきます。
びっこを引きながら
歩いています。

いつも
車での移動を
していたので
運動不足で
足が
攣ったのかなと
思っています。

何れにせよ
何をやるにしても
時間がかかります。
不自由という
自由を
味わっています。

まず
「階段から
なぜ
落ちたのかなあ!」と
思いました。

その日は
女房が入院した
ばかりなので
病院に持って
いくものや
いろいろな
些事を行って
いました。

既にお昼を
廻っていて
早く病院に
行かなければという
思いがよぎりました。

その時
スリッパが滑り
そのまま
階段の6段目
くらいから
下まで落下したと
言う訳です。

別に
何時にと
約束をしている
訳ではありません。

それなのに
勝手に
焦る気持ちが
出てきて
急がなければと
いう思いが
あったことは
事実です。

それが
原因で
いまだに
痛さが抜けず
今日までの
結果に
結びついて
いきます。

いやいや
強がりでも
何でもなく
不自由を
味わいながら
普通に歩けると
いうことは
こんなに自由で
あったのかと
この痛みを
かみしめています。

また
改めて
与えられて
いることの
多さに
気がつきました。

肉体の傷や
痛みは
いずれ癒えます。
腰も
最初の痛みとは
明らかに
変わってきました。
それは
尾てい骨が
あまりに
痛いので
感じます。
最初は
腰が痛いと
感じていました。

私たちは
日常的には
人と自由に
話すこともできます。
それなのに
その財産に
気づかず
閉じこもり
人と話をすることを
拒否している人も
います。

愛の言葉も
この口から
たくさん
語られてきました。
それなのに
人を
罵り
非難するために
使う人もいます。

私たちは
日常的には
すばらしい景色や
美しいものを
自由に
見ることもできます。
それなのに
その財産に
気づかず
闇を見て
目を閉ざす人もいます。

何でも
自由につかめる手
ご飯を食べたり
握手をしたり
肩を組んだり
髪や頬を撫でたり
できます。
それなのに
人を傷付け
何かを奪うために
利用する人もいます。

手は
あらゆる
絵画や彫刻や
音楽なども
創ってきました。

私たちの足は
どんな場所にも
自由に
行くことができます。
日本の隅々まで
世界の果てまでも
夢を追いかけて
それなのに
愛から逃避する
ために使う人も
います。

このように
数え上げたら
キリがないくらい
多くのものを
与えられています。

痛みにより
感じるものも
たくさんあります。

痛みの効用は
人の痛みが
わかります。

痛みに
手を当て
さすってもらうと
人の
あたたかさを
感じます。

痛みを
日々感じていると
自分には
自然治癒力という
偉大な力が
備わっていることを
感じます。

また
今回の
この痛みは
私の中にある
焦りの気持ちが
原因で
階段から
落ちた
結果として
生じました。
その連鎖で
腰をかばい
車利用等で
足の筋肉を
弱らせてしまい
足が攣り
さらに
痛みを
増幅させました。

焦る気持ちは
禁物です。
という教訓です。

皆さんも
経験があると
思います。

人との約束で
待ち合わせを
しています。

まじめであれば
あるほど
「時間に遅れては
いけない!」という
刷り込みが
あります。

駅に着きました。
事故により
不通に
なっていました。
いつ復旧するか
わかりません。

皆さんは
焦って
並んでいる
タクシーの列に
並びます。

やっとの
思いで
タクシーに
乗り込みます。

道は混んでいます。
運転手さんに
状況を説明して
一時までに
どこそこに
行かなければ
ならない
「何とかならないか!」と
催促をします。

その間
四六時中
「右車線の方が
早かったのに!」とか
「もっとスピードを
出せばいいのに!」とか
状況をコントロール
し始めます。

一見
当たり前の
光景に
感じます。

しかし
ちょっと
待ってください。
その段階では
遅刻をした訳では
ありません。
焦りの気持ちは
起きていない
現実という
空想の中で
喘いでいることに
気づきます。

「遅刻をしては
いけない!」に
焦点を
合わせ続けています。

従って
この場合
遅刻を
引き寄せるように
なります。

遅刻に意識を
凝集して
「時間がない!」と
思った瞬間から
遅刻を
どんどん
引き寄せて
いくことに
なります。

私の場合は
何時という
約束を
していないのにも
かかわらず
いつも
何時ごろ
行っているから
「待っているだろう!」と
思った瞬間
階段から
落下して
痛い思いを
した挙句
結局、
何時間も
遅れてしまいました。

人間の
思念の力とは
すごいものです。
「時間がない!」と
思ったことが
実際に
時間を縮めていく
結果を
呼び込んで
しまうのですから。

焦る気持ちは
禁物です。
時間は
たっぷりと
あります。
だって
真実は
時間は
無限にある
訳ですから。
「遅れてはいけない!」
と思わずに
遅れてから
考えれば
いいのです。

そうすれば
遅れないのです。
体験してみてください。

私の
一時の
昔の心の
習慣性が
つい
出てしまいました。
その結果
思った通りに
なりました。
しかも
痛みという
おまけもついて

これも
たまには
いいかも知れません。

「時間は無限にある!
遅刻は
遅刻してから
考えればいい!」
と考えてみてください!
本当に
間に合いますよ!

「今日は残りの人生の最初の日」

今から
大事な待ち合わせが
あります。
時間は無限にあります。
行ってきます。

ありがとうございます。

2011年9月20日火曜日

「あなたは創造主!」


昨日のブログでは
嫉妬心の意味するもの
と題して
書いてみました。

結局のところ
嫉妬心だけでなく
どんな感情も
他の人や環境に
あるのではなく
自分のモノサシに
よる価値観が
判断した感情であると
述べました。


(Photo By.M.Tagawa)
それは
自我意識であり
自我は
分離や
区別や
対立を生む意識です。
エゴなる意識です。

真我意識は
対立を作りません。
真我は
神の我です。
神の遺伝子です。

神は
自他を区別する
ことはありません。
統合です。
平和です。
安全です。

自我からでなく
真我から
考えるように
してください。

「そうは言っても
そう簡単に
出来っこないよ!」

とエゴの我は
語ってくるでしょう。

それは
いつもの
パターンなので
エゴに
黙って
もらってください。

エゴは
ニセモノの我
偽我なのですから
あなたの本質では
ありません。

いつまでも
大きな顔を
されていては
どれが
本物で
どれが
ニセモノかも
解らなくなって
しまいます。

自我は
偽我で
エゴですから
対立が好きです。

すぐに
人と人との
分離を
し始めます。

人に対して
何か批判めいた
感情が
湧き出てきたとき
それが
自我であることに
気づいてください。

その感情を
野放しにしておくと
ひとりでに
増殖し始めます。

本当の自分が
悲鳴を上げ
悩みや
恨みや
つらみや
ねたみや
怒り
無明の心に
占有されて
しまいます。

この状態からは
離れなければ
ならないのです。

解りますよね
あなたは
神の子なのですから。

真我を
神我を
受け入れることです。

受け入れることが
自分を
変えることに
なるのです。

自分が
変われば
受け入れる
のではなく
受け入れるから
自分が
変わるのです。
それを
忘れないでください。

あなたは
神の子です。
神の子とは
創造主の子です。
創造主の遺伝子を
有するものです。
それを
受け入れるだけ
なんです。

いつも
真我の自覚で
いることです。
忘れないことです。
何か
批判めいた心が
起こったなら
“黙れ”と
命令してください。

ニセモノ
なのですから

実体は
ないのですから

幻なのですから

自分の陰にしか
過ぎないのですから

消え去るしか
ないのです。

真我意識は
自と他を
区別しないと
言いました。

と言う事は
他というものは
他の人や環境、
出来事は
存在しないと
言うことでも
あります。

あなたが
創造主なのですから

良いも悪いも
あなたが
創造しているに
過ぎません。

自分の
心の内にある
感情は
あなたが
創っているのです。
あなた
次第なのです。

あなた以外に
ないのですから。
真実は
あなたの
幻影でしか
ないのです。

真我意識に
立った時
時間も
空間も
距離も
なくなるのです。

時間も
空間も
距離も
この三次元社会に
おける物質を物質
ならしめるために
見える
幻想なのです。

お釈迦さまが
仰った
色即是空
空即是色
不二一体は
そういう意味です。

空は
不可視の実相
一なる本源である
神のことです。
神は宇宙に遍満する
エーテルであり
大霊であり
大愛であります。

色は
可視の仮相の世界
物質界の
万有万物
すべてのことです。
私たちです。

見えるものは
見えないものから
創られ
見えるものの中に
存在している

それが
色すなわち
これ空
(色即是空)

空すなわち
これ色
(空即是色)
という意味です。

不二一体であると
いうことです。

神は
万有万物の中
すべてに
存在しています。

あなたに
宿っている神も
動物・植物に
宿っている神も
同じ神が
宿っています。

2600年前
お釈迦さまに
宿っていた
神(仏)と同じ
神が宿っているのです。

神は
大宇宙に
遍満しています。
ただひとつの神が
すべてに
宿っているのです。

時間も
空間も
距離もないのです。
一つの神が
すべてに
備わっています。

これが
大宇宙の実相
なのです。

そして
あなたという
神の因子も
一人しか
いないのです。

「今日は残りの人生の最初の日」

この観点に
立った時
あなたは
すべての責任は
自分にある。
大宇宙の責任は
自分にあるという
ことの意味が
解りかけてきたので
ないかと思います。

この大宇宙は
自分の外には
何もないのです。
自分が創造した
人や環境や出来事
なのです。

今日一日
今の瞬間から
真我意識に立ち
思い通りの世界を
創造しましょう!

あなたが
創造主なのです。

ありがとうございます。

2011年9月19日月曜日

「嫉妬心の意味するもの」


今日は
ある友人の奥さんから
こんなメールが
届きました。

「いつも
メルマガ拝見しています。
メルマガを見るたび
自分自身を見つめる
きっかけになり
大分、考え方も
変わってきたと
思います。



これも
アーカ・メロディさんの
お陰と感謝しています。
しかし、
どうしても
抜けきれない思いが
自分の中を
支配します。
私は、
嫉妬心の塊です。
前の奥さんのことを
思うだけで
どうしようもない
嫌な気持ちが
湧き上がってくるのです。
そんな私は
嫌いなのに、
止められないのです。
アーカさん
つまらない話で
申し訳ありません。
スルーしてください」
というメールでした。

メルマガとは
このブログ以外に
6年くらい前から
親しい友人に
心に残った言葉とか
自分の思いを
書き留めていたものを
携帯やPCに
送っているのですが、
そのことを
指しています。

この方は
友人と4年ほど
付き合って
この程
籍を入れました。

友人の
前の奥さんは
まだ、
友人との間に
子供の養育費とか
生活費の面で
折り合いが
ついておらず
度々
友人の下へ
携帯やメールが
来るそうです。

そのことについて
度々
友人と今の奥さんの
間で
口喧嘩が
始まるのだそうです。

友人の奥さんの場合
いわゆる
“やきもち”の
感情でしょうが、
嫉妬心と言っても
人に対して
軽く
“うらやましい”と
感じるものから
“ねたみ”から
“うらみ”“つらみ”に
至るまで
様々な感情が
あります。

新聞紙上や
ニュースで
男女の痴情の
もつれだとか
親子間の
或いは
兄弟間に
おける
財産分与に
おける事件とか
殺人にまで
至る報道は
後を絶ちません。

それ程
この嫉妬心の
問題は
本人にとっては
やっかいなもの
だと思います。

この友人の
奥さんの
場合のように
自分を見つめる中で
克服できない
嫉妬心に
悩んでいる
そんな
自分が嫌いであると
書かれているので
ある意味では
冷静な心を
取り戻しつつ
あるのではないかと
思います。

嫉妬心は
どうして
発生するのか

解っているのは
相手がなければ
発生しないことが
解ります。

嫉妬心を
持っているとき
誰もが
陽気で
楽しい状態では
ないことも
解ります。

ということは
陰な状態にあり
マイナス波動に
陥っています。
この状態に
ある時
次から次へと
嫉妬の感情は
湧き上がってきます。
これは強烈な
ものです。

この嫉妬という
感情の正体を
知るには
まず、
対象の相手から
離れて

自分の中の
どんな考え方が
この感情を
創り出したのかを
見つめていくのです。

そうしていくと
今、嫉妬している
感情が
自分の限定された
価値観に
基づいて
判断をしているに
過ぎないことが
発見できます。

その限定された
価値観は
あなたが記憶した
情報に
基づいています。

その情報を
上書き修正
すればいいのです。
そうすれば
起きてくる
感情も変わります。

変わるものに
本質的なことは
ひとつも
ないのですから
変えればいいことです。

大体
起こってくる
出来事に
良いも悪いも
ないのです。

自分の限定された
価値観で
判断をした
自分にとって
良い出来事
自分にとって
悪い出来事に
過ぎないのです。

ある意味では
これらの
出来事によって
自らに
起こってくる
感情というものを
知るきっかけに
なっています。

自分は
どんな
判断基準を
持っていて
いかに
その価値観という
モノサシに
翻弄されていたかを
知らされることに
なります。

その価値観は
自我による
価値観です。

自我は
分離を生みます。

自と他を
区別します。

自我は偽我です。
対立を生みます。

自我は
他の人や環境を
通じて
自らの
ニセモノの自分の
部分を
本物と
信じ込ませる
働きがあります。
負のエネルギーです。

嫉妬心の
“ねたみ”の感情は
自分が関心の
ないものに
向かうことは
ありません。

その中において
比較という
概念において
“うらやましい”と
いう感情が
起こり
自分の不足している
部分に
焦点を
合わせていきます。

そして
自分をどんどん
ダメな人間に
陥れていきます。

その
どうしようもない
感情が
他の人や環境に
強烈に向かって
いるのです。
これが
自我による
嫉妬心の
メカニズムです。

私たちが
人や環境に
関心や興味を
持つことは
とても
すばらしい事です。

「あの人の
ようになりたい!」とか

「あのようで
ありたい!」とか

素晴らしい
対象を見て
そう思うことは

自分の内に在る
真我を
見つめているから
気づくものです。

自らの
内にある
本質の
優しさ
慈しみ
美しさ
麗しさ等々
光り輝き
照らすところの
愛の念いに
反応して
湧き出るのです。

前にも
書きました
不足しているものを
いくら
積み上げても
何にも成らないことを

今、そのままで
満たされていることの
何と多いことか

私たちは
「今、そのままで
満たされているのです!」

『今日は残りの人生の最初の日』

自我は偽我です。
真我は神我です。
神の我
神の子には
何の不足もないのです。
元々
神の遺伝子を有する
ものです。
この物質界で得た
限定された価値観を
手放し
神の価値観を
上書きしましょう。
それが本来の
自分なのです。

ありがとうございます。

2011年9月18日日曜日

“生命エネルギーの力”

昨日は
所要も在り
ブログを
休みました。

昨日も
女房は
三食共
ごはん(お粥)を
全部食べて
くれました。
おかずは
半分ほど
残しますが

ここ
何ヶ月かの
摂食障害が
まるで
なかったかの
ような
感じです。

今更ながら
しっかりと
血液検査や
その他の検査
日常の細部の
チェックを
しながら
点滴や内服薬等で
健康管理を
して頂ける事に
対して
病院の先生や
看護師さんに
感謝の念が
湧きます。
有難い事です。

さらに
人間の持つ
回復力にも
驚かされます。

女房自身が
一番
「このままでは
いけない!」
「食べなければ
いけない!」と
思っていて

それでも
食べることが
できない
歯がゆさを
感じていました。。

病院の
システムと
適切な処置
並びに
手厚い看護が
身体の中の
治癒力という
エネルギーを
引き出すことが
できたのだと
思います。

病気そのものは
肉体と精神の
アンバランスで
起こります。

自分自身の
不調和で
病気に
なってしまいます。

しかし
自分が
創ったものを
治す力も
自分に
備わっています。

病気になるのも
病気を癒すのも
自分次第なのです。

先生や
看護婦さん達の
純粋動機による
愛のエネルギーが
女房の
愛の領域にある
癒すエネルギーを
感知させたのだと
思います。

私たちのいる
この物質界は
無常です。
常に変化を
し続けています。
肉体も変化
し続けているのです。

肉体を動かす力こそ
生命エネルギーなのです。
生命エネルギーが
働いてくれなければ
この肉体は
ひとつも
動かすことなど
出来ないのです。

生命エネルギーが
肉体を
完全に離れた状態が
死と呼ばれるものの
実体です。
肉体死です。

医学博士で
心と体の健康や
量子力学や
スピリチュアルや
平和に至るまで
幅広い分野の
書籍を書かれている
ディーパック・チョプラ博士は、
「チョプラ博士の
クォンタム・ヘルス―
こころ からだの完全健康
(パーフェクトヘルス)ガイド」
(春秋社)の中で、
こう述べています。

「体とは細胞、
組織、
臓器の
集合体ではなく、
無言の知性の流れだと
捉えることができます。
肉体をつくり、
コントロールし、
自分自身の
肉体にしようとする衝動が
絶えず湧きおこっています。
人体のどこの部分であろうと、
自らの意思で
変化を起こすことは可能です。
これこそ生命の秘訣です」

これが
生命エネルギーの持つ
癒す力
自然治癒力と
言われているものです。

私たちは
生命エネルギーから
一秒たりとも
離れては
存在することは
できないのです。

知花敏彦先生と
いうかたが
居られました。
つい一昨年
亡くなられました。

知花先生の
本は
30年ほど前に
読んだことが
あります。
でもその時は
あまり
理解できませんでした。

でも
私の若い頃から
私を導いて
いただいた
ある先輩が
知花先生の
真理を
勉強されていました。

その時は
仏教系の
宗教団体に
入っていましたので
やはり
それ程
関心を
示さなかったのですが

その先輩に
テープや本を
貸していただき
読んだり
聞いたりするように
なりました。

何回も何回も
同じ事を
繰り返し
繰り返し
これでもか
これでもかと
潜在意識に
定着させるように
語られる
言葉の真実と
先生の
人間性が
湧き出ているのです。

知花先生は
既存の宗教の
神を食い物にする
金集めに
真っ向から
意を唱えています。

偶像崇拝や
教祖を特別視することや
神と人間を
分離する宗教に対して
教条主義
ドグマ主義と
喝破しております。

知花先生自身は
真理勉強会を
毎日
実施し
淡々と
勉強会を開催
していました。
組織や団体とは
まったく無縁の方で
ありました。

そんな方でしたから
書籍は何冊かは
書いていますが
ほとんど
テープと
ビデオです。
それも
販売向けに
作られて
いませんので
あまり
映像とか音声に
拘っていないので
聞きにくいものも
あります。

先輩から
お借りして
コピーしたり
ダビングしたりして
見聞させて
いただいています。

以下は
テープからの
抜粋です。

『水は質量と言って
マイナス電子です。
それに
プラスの原子・電子が
入って始めて
生かされるのです。
これが陰陽の法則です。
人間は、
人間の形をした
原子と電子です。
物には必ず
中心核があります。
その周囲には
マイナス電子が
ついています。
この電子の数で
鉱物にも
人間にもなるのです。
生命エネルギーは
宇宙の無限エネルギー,
フリーエネルギーです。
この世の鉱物、
植物、動物、人間は
このエネルギーの表現体です。
このエネルギーが
皆さんの全てを
コントロールする
癒し主でもあるのです。』

さらに抜粋します。
『食物の原子と電子と、
あなたの中に宿っている
原子と電子は異なりますか。
異なるなら、
食物の原子と電子は
あなたと融合しません。
なぜ融合するのでしょうか?
血液も原子と電子、
肉も骨も原子と電子だからです。
それが存在の本源であり、
コスモ細胞という
神の細胞なのです。
これが完全遺伝子で、
様々な形を現しているのです。
残念ながらこの原子と電子は
肉眼で見えない
ミクロの世界です。
この世界をミクロ宇宙といい、
如来といいます。
ミクロという
見えないものは真理で、
マクロは創られたものです。
エネルギーを与えれば、
エネルギーを得ます。
これが能動原理です。
皆さんどんどん与えて、
世の中のエネルギーを
高めていこうではありませんか。
そうすることによって
物の考え方も正常化していきます。
今、世の中でいろいろと
異変を感じますね。
太陽が太陽フレアーと
言って爆発しているのは
自然のことです。
地球の上には草木があります。
中心にはマグマがあり、
地震や火山が爆発したりして、
何回も形を変えています。
形は変化しますが、
本質である原子と電子は
永遠なるものですから、
絶対になくなりません。
平安があるのみです。』

『それだけの自信と力で、
生命に対して
満ち満ちた信念が
あるとすれば、
神は我々の日々の
生活の中に実在したと
言えると思います。
この世の中に、
偶然に存在している
ものはありません。
宇宙の法則に基づいて
存在しているのです。
今のままの状態が続くと
形の世の中は失われる
かもしれません。
今、世の中に異常気象、
天変地異が
起こらんとしています。
日本という国も
いつ爆発や地震が起きても
おかしくありません。
世界中のプレートが
日本に集中しているのです。
そこに我々はいるのです。
しかし、
どういう事態が起こっても
本質は失いません。
その永遠不滅の本質に、
今目覚めるべきです。』

『あなたは
生命エネルギーを
得たいならば、
その生命エネルギーを
食さなければなりません。
生命の臨在感、
生命との一体感です。
これを意識的に
行ったときに
あなたは真に
知恵あるものになります。
これが神我顕現です。
今からは
本当の神を知る時代です。
これを神世時代、
黄金時代といいます。
それはだれが
完成させるのでしょうか。
皆さん自身ですね。
皆さんが先駆者として
第一人者として、
完成させて
いただきたいと思います。』

知花先生の語る
この
生命エネルギーが
女房の中にも
確かな
生命の臨在感を
顕現しています。

『今日は残りの人生の最初の日』

大いなる希望が
湧いてきました。

私たち一人ひとりにも
備わっている
この生命エネルギーを
今日、この瞬間に
大いに発揮して
いきましょう。

今日も、共有していただいて
ありがとうございます。

2011年9月16日金曜日

「純粋動機に気づく!」

今回の
女房の入院で
改めて
感じたことが
あります。

このことは
入院する度毎に
感じていましたが、

医療現場における
お医者さんや
看護師さん達の
献身的な応対です。

朝から夜遅くまで
休む間も無い位
忙しく
立ち回っています。

それにも拘らず
どんなことにも
親切に笑顔で
対応してくれます。

本当に
頭が下がります。
心よりの
感謝をしたいと
思います。

私たちの周囲にも
ボランティア団体に
参加していたり
高度障害者に
積極的に
お世話したり

決まって
地域の道路や
公園の
草むしり等を
しておられる方を
見受けます。

意識的にかどうかは
別にして
私たちが
本来持っている
自己の本質を
現わしています。

私たち人間には
人や社会に対して
何か役に立ちたい!
人に優しくしたい!
という根源的な
欲求が元々
あるからだと
思います。

私たち夫婦も
そんな
優しい人たちの
恩恵を
いつも受けています。
私の家の
近所の方たちです。

女房の病気も
もう8年余りに
なりますので
近所でも
肉親のように
心配を
してくれています。

入院中は
特に
私も毎日
病院に行って
いつも遅く
帰るものですから

家の猫ちゃん達は
留守の間
近所の猫好きの
お宅に行って
ちゃっかり
ご飯を頂いたり
遊んでもらったり
しています。
たまには
お泊りも
しています。

また、町内の
決まりごとで
ごみ集荷場所の
清掃当番とか
いろいろ
ある筈なのですが
(以前は当番が
廻っていました)
誰かが
やってくれて
いるようです。

女房が
家に居るときでも
食欲がないと
聞いては
「これだったら
食べられるのじゃないか?」
と、
やわらかい物や
おかずを作って
持ってきてくれたり
常に、
声をかけたりして
いただいています。

又、近所の
美容室の方は

女房が
買い物に
出れないし、
外にあまり
出ないので

女性の
たしなみを
忘れることの
ないようにと
化粧クリームだとか
ローションや
口紅や
ヘアー関係の商品や
塗るためのブラシや
はけ等々

いろいろなものを
たくさん
持ってきて
くれます。
メーカーから
サンプルで
新製品が
届くのだそうです。

お蔭様で
女房は
一番新しい成分の
入った
綺麗になれる
化粧品の
セットを
使わせて
もらっています。

この心遣いに
対して
本当に
感謝の思いで
一杯です。

「いつも、
思いを届けてくれて
本当に
ありがとうございます」

このように
病院の
先生や
看護師さん
近所の方々に
しましても

まるで
自分のことのように
行動して
下さいます。

何の見返りを
求めるでもなく
純粋な動機によって
しているからだと
感じます。

「ただ、そうしたいから
そうする!」

「してあげたい!」
という気持ちが
受ける側の
気持ちも
素直に
させてくれます。

内なる本源から
湧き上がってくる
純粋動機は
する側も
される側も
共に喜びを
もたらし
自他の一体を
感じれる瞬間と
なります。

今、女房は
病院でも
毎日、毎日
点滴が
外れている時には
千羽鶴を
折っています。

女房は
昔から
紙が好きで
細かい物を
創ったりするのが
上手です。

ただ、
転んで
右手中指を
骨折してからは
指が曲がって
しまったので
やりにくそうでは
ありますが
それでも
少し時間は
かかりますが、
千羽鶴を
折っています。

東日本大震災において
津波で
亡くなられた
子供さんたちのために
宮城県の
ある
ステンドグラス工房の
主宰の女性の方が
千羽鶴を
折ってくれる方を
全国に
公募していると
知って
一生懸命
創っているのです。

もう3000羽ほど
送らせて
いただきました。

自分が好きで
創っているものを
喜んで
受け取ってくれて
いる方たちがいる

役に立って
くれている
女房は
「本当にありがたいね!」
と言っています。
今は、純粋に
共有しあっています。

女房は
今から20年程前に
なると思います。
目の見えない方たちへ
点字で本を作る
ボランティアを
していました。

人のために
役に立ちたいと
思ってのことです。
5~6年ほど
続いたと思います。

点字は
小さい
ドライバーの先が
釘みたいな道具
(名称を知らないので
ごめんなさい!)で
特殊な紙に
打つのですが
1年位したら
パソコンで
打てるようなソフトが
できて
パソコンで
打つように
なりました。

女房は
たまたま
打つのが早く
(ミスは多いのですが(笑))
そのボランティアの
依頼が早めに
終わるので

個人的に
いろいろな種類の
本や雑誌を
頼まれては
打って
あげていました。

しかし
それが
知れ渡ってくると
「この本も
やってもらいたい!
この本も」と
依頼が殺到します。

だんだん限界を
超えて来て
女房も
イライラし始めます。

それに加えて
ただ、
文章だけでなく

絵やイラストも
「どんなイメージか
知りたいので
説明をしてください」とか
要望も増えてきます。

今、思えば
ボランティアの方たちに
よくある
展開なのですが
女房本人も
そのパターンに
嵌っていきました。

よいことをしたい!
役に立ちたい!と
思いつつ
それまでの
“楽しい”から
“苦しい”の
重荷に変わっていく
瞬間を
迎えるように
なってきます。

そうなってくると
女房は
愚痴を
こぼすように
なってきます。

最終的には
「辞めたい!」と
なってきます。

私も私で
「自分が好きで
やったことなんだから
愚痴は言うんじゃない!」と
言うばかり。
つい口げんかに
なっていました。

それでも
それから
何年間も
頑張って
続けていましたが
ついぞ
点字の
ボランティアは
辞めてしまいました。

“人のためになりたい!”
“社会のためになりたい!”
そして
目が
見えない方たち
のために
読みたいものを
読めるように
点字で打って
あげたい。

このことは
とても素晴らしい
動機による
価値観だと思います。

その中で
自分にとって
よい体験による
喜びや嬉しさと

自分にとって
よくない体験による
重荷や苦しさを
味わいます。

実は
この両極にある
体験を通じて
人は学ぶのでは
ないでしょうか。

女房が
この点字の
ボランティアを
始めるとき
このよくない体験を
するとは
露ほども
思ってなかったと
思います。

多分
嬉しさや
喜びだけを
期待していたと
思います。

病院の
先生や
看護師さんも
多分
この両極を
体験したのだと
思います。

病院の先生や
看護師さんも
ほとんどの方が
“人の病を治したい!”
“人のお世話がしたい!”
と思って
今の仕事に
入られたのだと
思います。

しかし、
病人にも
いろいろな方が
おります。
手のかからない人も
いる反面
わがままな人は
多いです。
と言うより
身体が自由が
利かないから
そうなるんだと
思います。

その中で
先生や
看護師さんたちも
何回も
両極のジレンマに
陥ったのでは
ないでしょうか。

一回や二回は
辞めたい!と
思ったことでしょう!

しかし、
いくら判断しようと
思っても
答えがでません。
判断する心は
自我からの
意識だからです。

苦しみ、
葛藤し
悩み
人は気づくのです。

「そうだ!
私は人を助けたいのだ!
病を治したいのだ!
みんなに楽になって
もらいたいのだ!」と

その時
元々の純粋な動機に
思いが至るのだと
思います。

その時
よくない体験は
喪失し
重荷や苦しみは
消えていくしか
ありません。

今の担当の
先生は
8年前から
変わっていません。
看護婦さんは
昔から居る人は
他の病棟への
配置換えか
辞めたかは
わかりませんが
4~5人しか
見ません。

だから
解るのです。
何年かの間に
成長している姿が
以前は苦しい顔を
している時も
ありました。

しかし、
今は
自信に
満ち満ちています。
忙しい中に
余裕すら感じます。
風格もでてきました。

多分、
よい体験しか
していないんだと
思うんです。

『今日は残りの人生の最初の日』

あなたは
今、
もしかすると
両極のうちの
よくない体験を
しているかも
知れません。

でもそれは
元々の本質に
気づくために
現れているのです。

真の自分
真我に到達するまで
もうすぐです。
あと一堀ですよ!

ありがとうございます。

2011年9月15日木曜日

「存在そのものの価値」


昨日も
女房は
病院のごはん(お粥)を
朝・昼・晩
全部食べてくれました。

あとは
おかずを
もう少し
食べてくれて
不足している
栄養素を
補ってくれたり



病院で
毎日、
血液検査を
しながら
調合していただける
点滴や薬を
続けていけば

また、
手術が耐えられる
身体に
戻ってくると
思います。

先生も
大変喜んでくれて
私たちも
少しずつでも
確かな恢復を
していることに

病院の先生や
看護師さんに
感謝の心が
湧いてきます。
大変
嬉しいことです。

今回、改めて
私たちの
価値とは
その存在
そのものにある
ということを
再認識しました。

この病気を通して
女房の
体力低下や
体重減少を
食い止めるために

病院に来る
何ヶ月も前から

お互いに
励まし
励まされつつ
ただ、ただ
栄養をつけること

少しでも
食べてもらいたい!
と、毎日
体力恢復を
テーマに
健康に集中して
意識を
向けてきました。

今、
お蔭様で
少しでも
体力が回復して
くると

健康であること
それ自体が
すばらしいと
いうことを
感じさせて
いただきました。

私たちは
健康であるとき
健康は
存在すら
忘れられ
すばらしいとは
感じないできました。

そこに
価値があることを
認めないで
きました。

この健康という
存在の価値は

病気になり
初めて
健康であることの
すばらしさ

健康自体が
喜びであることに
至ります。

私たちは
健康であることは
当たり前
なのではなく

その健康である
ということ
それ自体に

大いなる
感謝を
向けなければ
ならないと
思います。

このように
いつもは
当たり前と
思っている
存在に意識を
向けてみると

ただ、在ること
その
存在そのものの
価値というものに
こころが
至ります。

私は
女房に対して
毎日
ごはんを
食べて欲しい!

少しでも
体力を
つけて欲しい!

そして
歩けるようになって
一緒に近くの
公園に
散歩に行きたい!
と思っています。

もし、
それができたら
私にとっては
この上ない
喜びに
なるでしょう。

それ以上
女房に
もっと
あれもこれも
出来るように
なって欲しいと
思っている訳では
ありません。

女房の存在自体が
価値あるもの
なのですから
その存在以上に
何が必要でしょう。

私たちには
既に
与えられている
多くの
価値ある
存在が
あります。

健康と同じように
気づくことです。

家族や
友人や
ペット達

自然や
今、自分のまわりに
ある万有万物
すべての価値に
気づくことです。

何と
満たされて
いるものの
多きことに
気づかされます。。

そして
自分自身

例え、今
あなたが
どんな
状態であろうが
あなたは
存在しています。

あなたが
存在していること
それ自体に
価値があるのです。

価値の
ない人など
ひとりも
いないのです。

なぜかと言えば
私たちには
一切の
例外が無く
神を有して
いるのですから

私たちは
大いなる存在です。
偉大なる
霊性なのです。

ひとりひとりに
また、
生きとし生けるもの
万有万物
すべてに
一なる本源である
同じ霊性が
備わっています。

私たちは
何かを
成し遂げなければ
価値が無いと
思わされて
きました。

そうでは
ありません。
存在そのものに
価値があるのです。

今、歩くことが
できなければ
それはそれで
いいんです。

手を携えて
歩いて
あげたいという
希望を
叶えてくれる
貴重なる
存在なのですから、

歩けるようになる
という
付加価値は
それはそれで
すばらしいものです。

しかし、
存在以上に
価値のあるものは
ないのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

今日、この瞬間に
自らの価値に
気づいてください。
初めからあった
偉大なる無限の
存在価値の
大きさに
気づいてください。

あなたは
元々
大いなる自己
なのですから。

「生かしていただいて
ありがとうございます。」

ありがとうございます。

2011年9月14日水曜日

“絶望感の底が意味するもの”

昨日は
とても嬉しい事が
ありました。

入院している
女房の体重が
27キロから
30キロに
なっていました。

まだ、入院して
昨日は5日目
外見からは
判らないのですが、
体重計に
乗りましたら
きっかり
30キロを示しました。

思わず
二人共々
目を合わせて
「良かったね!」と
喜びました。

今回の入院は
22回目の入院です。
8年間に亘って
大体年間に
3回づつ入院して
きました。

数年前にも
一回あったのですが、
普段でも食欲が
ないのに関わらず
口から
入れるものを
一切、
拒否して
しまうのです。
食欲中枢に
問題があるらしく
食べたいという気が
起こらないようです。

ここ何ヶ月かは
少しでも
食べてもらおうと
柔らかいものや
女房の
好みのものや
栄養ドリンク等々
手を変え品を変え
与えようとしますが、

目の前に
一緒に
1時間ぐらい
ついてあげて
食べることに
集中させながら
わずかなものを
食べてもらうように
していました。

歩行もままならず
毎日椅子に
座って
千羽鶴を
折っているだけの
生活リズムです。

(千羽鶴は
今回の
東日本大震災で
亡くなった
子どもたちにと
鎮魂の意味で
折っています。
もう、既に
3000羽の
千羽鶴を
送らせて
いただきました。)

そんな状態で
体力が
どんどん
低下していました。

今年の初めに
入院し
手術をして
退院して以来

定期的な
検査を
してきましたが
体力が
低下しているため
手術が
先延ばしに
なっていました。

今回は
先生も
見るに見かねて
体力の回復と
栄養管理と
リハビリのために
入院を勧めて
頂きました。

手術が
耐えられる
基礎的な
体力を
つけることが
目的です。

私の女房は
食道がんです。
食道の3分の2は
がんに侵されて
いました。

8年前に
別の病院で
がんではないけど
がんの一歩手前の
上皮なんとかという
病名で
入院したことが
あります。

しかし、
そこでは
手術も無く
治癒した
ということで
確か
三週間ほどで
退院しました。

退院後
半年くらい
経ってから
先ほど
お話したような
食欲低下が起こり
どんどん
痩せてきて
ひとりでは
歩けない状態に
なってしまい、

ある時
トイレに
立とうとした
瞬間に
転んでしまいました。

その時に
中指が完全に
逆向きになって
折れてしまいました。

近くの病院に
行って
中指の
レントゲンと共に
身体の
レントゲン等を
撮ってくれました。

その時に
その病院で
判明しました。

私だけが
先生に
呼ばれました。
「重度の食道がんです!」
そう言いました。

半年くらい前に
がんの一歩手前
ということで
治ったと
思ったのに
重度の食道がんと
言われて
耳を疑いました。

勿論、
そのことも
先生に聞きましたが
そういうことは
よく
あるんだそうです。

調べるために
細胞を取るのですが
ちょっとずれた
場合に

そう
判断することも
あるんだそうです。

それで、
その病院の
紹介状を持って
今、
お世話になっている
病院に
最初の入院を
することに
なりました。

先生と
今後の
病気治療について
話し合いを
持ちました。

その当時の
女房の体重は
26キロでした。
ほとんど限界でした。

先生は
本当は食道を
全摘出したいが

食道の位置が
背骨やあばら骨に
囲まれているために
大手術になる。

女房の場合
それには
耐えられないだろう。

リスクが大き過ぎる。
と言ってくれました。

他は
放射線治療と
抗がん剤治療を
やっていくの
だけれども
これも
今の体力だと
持たないかも
しれない。

無理の無い
ところだと
内視鏡で手術をする
方法がある。

しかし、これも
身体に
負担が
かからないと
言う訳ではない。

それと
一度に
2~3センチ程しか
切除できないので
切除して
傷を治して

また、入院して
切除するを
繰り返さなければ
ならないので
時間が
かかることと

何回も
やっている内に
傷が
治ろうとして
皮膚が
盛り上がるので
他のがん細胞が
切除しにくくなる。

また、
その間に
がんが
他に進行する
場合もあって
時間との
戦いになる
との説明でした。

私は
元々、
放射線治療や
抗がん剤治療に
対して
疑問を
持っていましたので

二も無く
この内視鏡治療を
選択しました。

この8年の間
女房は
二度ほど
生死を彷徨いました。

ただ、
体力が無いため
がんの進行も
遅かったために、
新しい進行は進まず
一年に三回ほどの
手術のテンポで
進むことが
できました。
何が幸いするか
解りません。

去年の暮れ近くに
咽頭がんが
みつかり
それは切除し
今も咽頭がんが
みつかりました。

今回、
体力が回復して
その咽頭がんと
他の食道がんを
切除する
予定でいます。

この8年間の間に
多くのがん患者とも
知り合いに
なりました。

女房より
軽かった
同じ食道がんの
方も
亡くなりました。

体力の無いことは
いいことでは
ありませんが
がんも
エネルギーです。
負の
エネルギーです。

元気のある方の
エネルギーを
食べて侵食します。

がんと言っても
いろいろな種類があり
予想の出来ない
動きをします。
徐々に侵食し
身体を弱らせ
止めを刺すもの。

また、
あんなに
元気だったのに
と思うぐらい
あっという間に
侵食し
一気に広がり
生命を
終わらせるもの
等々

一概に
語れるものでは
ありません。

多くの人の
多くの絶望感と
そこから
這い上がろうとする
生きる強さも
見てきました。

その人たちにも
守るべき
家族も居ます。

或いは
夫であったり
妻であったり
子供であったり
父母であったり
その人たちを
支える人たちの
様々な
表情の中に

それぞれの
人生ドラマを
感じてまいりました。

女房も
数々の
絶望を
口には出さぬが
感じていたのは
近くにいるものは
感じます。

人が
絶望を感じるとは
どういうことでしょう?

読んで字の如く
望みを
絶たれた状態
理想は消え
目標を見失った
状態のことです。

以前
メンタルトレーニングに
関する仕事を
したことは
以前のブログにも
書きました。

その時に
岡山にある
篠原クリニックに
行ったことが
あります。
そこの院長は
篠原佳年先生で
サンマーク出版から
「快癒力」等
多くの本も
書かれている方です。

その先生とは
その後何回か
東京に来られたときに
ホテルで会ったり
お付き合いをさせて
いただいていました。

その時に
聞かせていただいた
話で
印象に残ったことが
ありました。

ある時
東京から
岡山の
篠原クリニックへ
ある会社の社長と
その部下と
思われる方が
篠原先生の
ご著書を見て
わざわざ
やってきました。

その部下の方が
話を切り出しました。

「先生、
我が社の社長は
末期のがんに
侵されています。

東京の有名な病院に
悉く診断して
もらいましたが
あと3ヶ月の命だと
言われてしまいました。

先生の本を読んで
先生なら治せると思って
わざわざ
岡山まで来ました。
先生、何とか我が社の
社長のがんを
治して頂けません
でしょうか?

社長がいなければ
我が社は
存続できないのです!
お願いします。」

篠原先生は
「がんの
専門病院の
先生たちが
診断して、
3ヶ月の命と
いうものを、
私にも
治すことは
できません。

まず、
この
生きられる時間を
真剣に
生き切ることです。」
と言われたそうです。

その後、
その社長は
絶望の果てに
自殺をして
しまったそうです。

もう一人
女性の方で
末期のがんの方が
来られて
余命宣告をされた
方だったそうです。

その方も
先生の本を読んで
先述の社長さんと
同じように
先生に治してくれと
頼んだそうです。

先生は
同じように
治すことが
できないと
仰ったようです。

その方も
絶望をされて
肩を落として
帰られたそうです。

2~3年位経った
ある日
その方から
手紙が
来たそうです。

そこには
余命宣告された
がんが
すっかり
消えてしまったこと
その報告と
その時のお礼が
述べられて
いたそうです。

その方は
実は
その方には
息子があり
その息子が
その後
事故で
重度の障害に
なったのだ
そうです。

その為に
経済状態の事もあり
息子の看病や
介護をしなければ
ならない立場に
追い込まれて
しまったそうです。

自分の
病気どころでは
無くなって
しまいました。

一心不乱になって
医療費を
稼ぐために
働いて
あとは
息子の看病にと
大忙しの時間を
送っていたんだ
そうです。

とても
自分の
病気どころではなく、
病気を
忘れてしまって
いたようです、

そうして
気がついて
病院で
がんを
見てもらったら
がんは
消えていたという
お話でした。

この二人の
お話は
本当に
対照的な話です。

人はすべての
望みが絶たれたとき
命を失いたく
ないがために
自分の命を
自分で奪います。

その反面
がんの
余命宣告という
苦しさから
逃れようと
最後の可能性を
求めて
この篠原先生の
クリニックに来た
女性は
篠原先生の一言が
すべての望みを
絶たれたとき
可能性は無くなり
エゴが悲鳴を上げ
絶望のふちへと
落ちていきます。

そこまでは
先述の社長さんと
一緒です。
しかし、
彼女の目の前に
現れたものは
息子の事故による
息子の高度障害です。

自分のことを忘れ
自分の大切な
息子のために
すべてを注ぎます。

エゴがすべてを
放棄したとき
その時から
新しいすべてが
始まります。

愛の力が
湧き上がってきます。
愛は
最大のエネルギーです。

人は
エゴから離れ
愛に生きるとき
すべての
愛の属性である
癒しの力
無限の力
永遠の力が
最大限に
現れてきます。

『今日は残りの人生の最初の日』

私たちには
今という瞬間の
この毎瞬、毎瞬に
今、ある愛の力を
使うことができます。

人は
絶望という底に
突き当たったとき
エゴである
自我が崩れる
瞬間があります。

その先には
すべてに
備わっている
真我が
発芽するのです。
絶望のふちに
あるものは
大いなる
神性の
覚醒なのです。

今を生き切ることこそ
大切なことです。

今日も一日
愛の心を
意識して
送っていきましょう。

共有、ありがとうございます。

2011年9月13日火曜日

「中秋の満月と友人」

このブログでも
以前、紹介した
(「友人からのメール」参照)
茨城に住んでいる
古い友人から
昨日
久しぶりに
メールを頂きました。


そのメールには
稲穂が筑波山を
見上げながら
一面に
広がっています。

私はこういう風景が
大好きです。
日本の
原風景です。
懐かしさと共に
優しい気持ちに
なります。



今回の東日本
大震災において
友人の奥さんの
実家も
家は半壊し
この辺も
惨憺たる状態
だったようです。

友人は
焼き鳥屋さんを
やっていますが
震災後
頑張って
店を開けても
大変厳しい状態が
続き
落ち込んでいました。

送られてきた写真と
友人からのメールを
ここに
紹介します。

「毎度お世話さまです。
茨城は
相変わらず暑いです。
(エアコン無いため)
窓の外は稲刈りです。
自然は凄いです。
田植えから
刈りとりまで
自分は
何もしてない内に
米が出来るんだから?
何を伝えたいか
わかんなくなった。
俺は米に負けたのかな? 」
と書かれていました。

私からは
この写真、
ブログに
使わせてください!と
返信しました。

そしたら
友人から
筑波山の写真を
送ってくれて
こうコメント
されていました。

「どうぞ。
人間も景色も
毎日見ていると
素晴らしさが
わからなくなる。
俺だけ? 
田植えから
今日の稲刈りまで
稲の成長変化に
気ずかない自分は
あほかな~。

最近は感動とかときめき…
素直に生きてみます。
今の筑波山です。
数時間でかわるな~。 」

短いこのメールの
写真とコメントを
見て
思わず涙が
流れてきました。

彼とは
30数年に亘り
お付き合いを
しています。

実際の彼は
このコメントに
あるように
本当に
素直な人です。

しかし
表現の仕方が
自分の
本当の気持ちとは
裏腹のことを
言ったり
やったりします。
照れ隠しなのか
敢えて
そんな現わし方を
する人です。
他の人にも
多くの誤解を
与えてきました。

このメールの
短いコメントから
十分すぎるほど
彼の気持ちが
現れています。

彼の心の
内部が
変容しようと
している兆しを
感じました。

私からの
返信です。

「いい景色ですね!
筑波山を
毎日
眺められるのは、
それは
大変幸せな事ですよ。

自然は
人々が通り過ぎようが、
感動しようが、
ただそこに
存在しています。

無所得、
無条件、
無差別にね。

私たち人間の
今の瞬間の
心を映し出す
存在ですね!

感じる心を
大切にして
くださいねm(._.)m
ありがとう!!」


そうしましたら
夕方過ぎに
この写真が
届きました。

「月が出ました!」

あっ!そうか!
今日は(昨日は)
中秋の満月だったんだ!と
思い出させて
くれました。




私は
十五夜のお月様が
大好きで
いつも
楽しみに
しているのに

今年は
先週から
女房が
入院したので
いろいろと
些事に負われ
心を
喪っていました。

思わず
病院の窓から
見ました。
少し小ぶりだけど
ちゃんと満月でした。
嬉しくなりました。

旧暦の
八月十五日という日は
秋の真ん中の月の
真ん中の日、
今年は九月十二日が
その日だったのですね。
旧暦の八月十五日は
秋全体の
真ん中の日と
考えられますから、
この日のことを
中秋と呼び
この日に昇る
満月の月を
中秋の満月と
いうのです。

病院の夕飯にも
十五夜の
お饅頭が
ついていました。

筑波山に
浮かぶ
遠くに
かすかに見える
この月は
私にとっては

今迄の
どんな中秋の満月より
綺麗な満月です。

一緒に
この写真の景色を
共有してください。

思いを込めて

ありがとうございます。

2011年9月12日月曜日

「“他”はもう一人の自分」

自他一体という
言葉があります。
このブログでも
紹介しました。

今から
お話しすることは
頭脳であれこれ
考えても
結論の
出ることでは
ありませんので
スーッと魂で
感じて頂ければと
思います。

本源的には
大宇宙には
すべてに遍満する
ところの神しか
存在しません。

私たち人間や
生きとし生けるもの
すべての
万有万物は
神が
自分の分身として
創りました。

すべてに
神が宿っています。
神が
複数いるのでは
ありません。
すべてに
ひとつの神が
宿っています。

私に
宿っている神と
あなたに
宿っている神は
別のものでは
ありません。

時間や
空間・距離を超えて
大宇宙に遍満する
ひとつの神に
すべては
存在すると
いうこともできます。

これは
いくら
説明しようとも
説明できる
ものでは
ありません。

神を言葉で
説明することは
不可能です。

それが
神です。
神は
大霊
無限
永遠
不朽

大宇宙
等々の
別名を持ちます。
すべて
不可視の存在です。

“汝の内に神在り
神の内に汝在り“
です。

私という存在は
神の子であり
神の化身として
存在しています。

他人とは何でしょう?
肉体で見ると
別々の様に
見えます。
それはどうしても
そう見えても
仕方ないのかも
知れません。

現象界を創った
目的の一つでも
あるので、
一概には
何とも言えませんし、
自他一体感を得る
ことは簡単では
ありません。

しかし、
本質的には
他人というのは
別のものでは
ありません。
もう一人の私
なのです。

他人とは
真の自分を
発見するために
使わされた
もう一人の自分
なのです。

私たちの
真実の姿は
形あるものでは
ありません。

しかし、
肉体の目で見たら
形があるように
見えます。

でも
自分自身の顔を
見たことのある人は
一人もいないことに
気がついたことが
ありませんか?

他人の顔は
見えますが
自分の顔は
見えません。

鏡や
写真や
動画などでは
見るでしょうが

生身で
自分の目で
見た人は
皆無なのです。
ひとりの
例外も無く
いないのです。

他人の顔は
よく見えます。
いいところも
悪いところも
すべてがよく
見えるでしょう?

特に自分の目を
自分の目が
見ることは
出来ないですよね。

「目は口ほどに
ものを言う」

「目は心の窓
目は心の鏡」と
昔から
言われています。

自分の目は
見ることは
できませんが、

他人の目は
目を見て
お話をしたり
表情を感じたり
できます。

こういう諺もあります。
「人のふり見て
我がふり直せ」

他人の行いの
善悪を見て、
自分の行いを
反省し、改めよ。

「他山の石、
もって玉を攻むべし」
つまり、
「他の山の石は、
それそのもので
飾ることは
できないが、
自分の玉を
磨くのに使える」
とほとんど
同じ意味です。

このように
知っているようで
一番知らない
自分に対して

自分の目の前に
現れてくれる
他人や出来事は
自らの
内宇宙を
映し出してくれる
存在として
現れてくれて
いるのです。

別のものでは
ありません。
すべては
神の
創りしもの
神の化身として

私たちの
今の心の状態を
反映して
現れているに
過ぎません。

今のあなたに
変容を促すために
現れている
他人という名前を
つけた
もうひとりの
あなたなのです。

あなたの
心の内面を
映す
映し絵として
現れている
存在なのです。

あなたが
もう一人のあなたを
見て感じるもの
それが
あなた自身なのです。

自分と他人を
分け隔てるものは
自我意識で
ものを見るからです。

自と他は
別のものでは
ありません。
自他一体なのです。

自他一体を
感じた時
自と他と
分け隔てるものが
一切無くなった時
真我意識に
至るのです。

この真理を
知ったとき
私たちは
他に
現れるところの

悪と
見えしものも
闇と
見えしものも
自分の反映だと
解ります。

その時
その相手や出来事を
変えるのではなく
私たち自身を
変えればいいことに
気づきます。

私たち自身が
変われば
私たちを
映す映し絵も
変わっていくのです。

風景が
180度転換
するのです。

“敵は自分の内に在り”
問題はすべて
我が内にあるのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

あなたの
目の前に
あなたの
あるべき姿を
見つけてくれる

たくさんの
“他”という
名前の
人や出来事が
存在して
くれています。

今日一日
“他”の人や
出来事に
感謝を
捧げましょう!

そして、
すべてを
大いなる愛で
包んで頂いている
神に感謝を
捧げましょう!

「生かしていただいて
  ありがとうございます。」

共有、ありがとうございます。

2011年9月11日日曜日

「体験をすること」

このブログのテーマは
今という
この瞬間に
生きるという
観点から
お話を進めています。

今、この瞬間にしか
確かな実在は
ありません。

今を
確かに
生き切ることこそ
実に
必要なことです。

では
「今を生きる!」と
言っても
「どう、生きれば
いいの?」という
声が
聞こえてきそうです。

昨日のブログにも
書きましたが
私たちは
この現象の世界に
自らの
問題集を
携えて
降りてきます。

その問題集は
過去に生きた中で
修正できなかった
数々の
自らの傾向性を
乗り越える意味で
綿密に
設計された
自らが
自らに
与えた問題集です。

この世に
生まれて
きたときには
すっかり
忘れて
この人生の課題に
取り組んでいきます。

すべては
神に繋がる道
魂の進化のために
現れているに
過ぎません。

人はよく
「なぜ?
わたしにばかり
次から次へ
問題が
起こるのだろう?」と
言います。

正確には
「なぜ?私は
こんなにも多くの
難題を
自分に
与えたのだろう?」
というのが正しいのです。

それは、
あなたが
それらに
耐えていける
大きな
魂であることと、

この現象界における
肉体や物質に
偏りすぎていて
自我から
問題を
解決しようと
今は
考えている
からなのです。

頑固な傾向性は
さらに
問題を
大きくしていきます。

自我では
問題は解決しません。
自我は
対立した考えを
生みます。

自我は
一生懸命
頭脳を
捏ね繰り回して
分析を企てます。

分析は
分離を生みます。
自分の価値観
自分の正しさの
基準という
曖昧模糊としたもので

自分のその時の
モノサシで
計ろうとします。

この
空間的場所における
思考世界に
嵌って
しまっています。

証明できないこと
立証できないことを
排除する意識が
問題をさらに
複雑にしていきます。

自らが
問題を
分析しようと
余計なことを
考えるから
さらに
混乱するのです。

困難にしているのは
自我から考えた
自分なのだと
気づかないうちは
堂々めぐりに
なることでしょう。

正しくは
自らが
この現象界に
生まれる前に

自らに課した
体験を通してしか
得られない
数々の
問題を
自らに
課している
ということです。

自分が
何かをするという
意識から離れて
自らが課した
目の前に
現れるところの
体験を目的と
するのです。

この現象界は
体験をする
場所として
設定されています。

あらゆる体験は
あなたにとって
無駄なものは
ひとつも存在
しないのです。

そして
偶然に
起こることも
一切ないのです。
すべて必然です。

あらゆる
出来事は
自らが
この現象界で
体験したかった
ものばかりです。

天上界で
問題を作り
この現象界で
自分が体験できる
問題集を
作成しているとき
天上界での
あなたは
ワクワクして
いた筈なのです。

「私は
今回の生においては
必ず
これらの問題集を
クリアして
なるべく
早い時期に
体験の目的を
知るだろう!
それは
心の内奥に
潜んでいる
神性に気づき
自らの
場所を
光り輝く
愛の世界に
することだったのだ!
私の周囲を
照らしていくのだ!
この現象界は
愛の表現界として
あったのだ!」と

こういう
気持ちでした。

どうですか?
思い出しました
でしょうか?

こう考えると
今、起こっている
問題と思っている
テーマを
体験していると
いうことは
自分の
思い通りに
起こっている
出来事でしょう!

すべてが
思い通りの
世界なのです。

私たちは
これらの体験を
通じて
元々備わっている
真我意識に
到達して
いくのです。

そこには
苦しみや
悩みは
存在しません

愛を表現するための
すべての要素が
備わっています

自由自在です。
思いやりや
慈しみや
美しさや
優しさや
安心や
平和や
愛のエキスが
いっぱい詰まった
神様の部屋です。

ここには
目を
吊り上げていたり
渋面の様相も
嘆き
喘いでいるものも
一人も
おりません。

皆が、
本質を
実感しています。

無限の世界
永遠の世界
実相の世界です。
喜びに
満ち満ちています。

私たちは
本当は
こちらが
永遠の
住まいなのです。

この現象界は
仮の住まいに
過ぎません。

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間に
あなたの体験している
テーマは何ですか?

折角ですから
喜んで
楽しみながら
体験してみてください。

あなたが
生まれる前に
このテーマを
こなしていく自分に
ワクワクしたように!

ありがとうございます。

2011年9月10日土曜日

「無限に生きる」


“私たちは
無限である。“

このブログで
何回も何回も
書いてきた
テーマです。

この世で
私たちの
目の前に
生起することは
無限の自分が
選択をしない限り
起こることは
ありません。

どんな
些細なことでも
どんな
大きなことに
見えるものでも

無限の自分が
選択した結果
起こっています。

偶然はひとつも
ありません。
すべて必然です。

でも天変地異とか
自分で選択は
出来ないでしょう。
という声が
聞こえてきそうですが、

実は
無限の自分は
深い部分で
承諾していることです。

それは
無限を
感じなければ
解りえないことです。

無限で永遠の
存在である
私たちが
日常
起こってくる
出来事に
一喜一憂しているに
過ぎないのです。

無限で永遠の
存在である
私たちが
有限を
制限を
見てるに
過ぎません。

それは
形あるものを
真実として
捉えていて
本質を
見ようと
しないからに
過ぎないのです。

私たちが
生まれる前に
今回の生の
課題を
決めて

そして
有限の肉体に
閉じこもり
無限を覆い
この世に
現れてくる訳です。

無限は
覆われているだけで
ないのでは
ありません。
唯、奥深くに
眠っているのです。

問題を解くのに
答えが
解っていたら
実力がつかないので

自らの
課題の中で
いろいろな
問題を
与えながら

ひとつひとつ
解いていきながら
実力を
あげていきます。

すべては
心の奥深くに
厳然として
存在する
無限に
到達するために
絶妙に書かれた
進化の設計図なのです。

だから
何の心配もする
必要はないのです。

簡単な
問題を
解いていたら
退屈で
あくびがでるでしょう!

わたしたちが
小学校1年生の
読み書きや
算数の
九九のテストを
されても
つまらないでしょう!

新鮮かもしれませんが(笑)

巧妙に仕掛けられた
引っ掛け問題が
隠されています。

自分が作った
問題集ですから
自分の魂の傾向性を
よく知っていますから
間違えやすい問題も
誰よりも
解っています。

そういう問題を
出します。

その問題を
クリアして
こころの奥深くに
潜在している
無限を
発見するまで
これでもか
これでもかと
問題は
現れてきます。

問題が
問題で
なくなった時

私たちは
本質なる
実相の世界
無限へと
至っていく道を
発見するのです。

元々
備わっている
無限に
気づくことに
なります。

無限というのは
不可能は無いと
いうことです。

不可能はあると
お思いですか?

そう思っていれば
不可能は
まだまだ
あります。

人間は
自分自身の
思った通りの
自分に
なるのですから
不可能を
創っていきます。

そういった意味では
思い通りの
自分に
なっているのです。

みんな
超能力者です。
思った通りに
させる能力を
持っているのですから

どうですか
そういう観点に
たって物事を
見てください。

そうすれば
日常の中で
電車で足を
踏まれたくらいで
怒っては
いけないと
いうことにも
繋がります。

それは
自分で与えた
問題に
尻尾を巻いて
ギブアップして
いるようなものです。

自分の
怒りっぽい性格を
知っている
無限の自分が
自らに
与えた
問題なのですから

頑固すぎるくらい
怒りっぽいようだと
足を踏んだ上に
踏んだ相手は
「すいません!」も
言いません。

そこで
さらに
怒り狂って
墓穴を掘ります。

私が
そうでした
堪え性の無い
すぐ怒る人間でした。

若い頃は
目が合ったといって
喧嘩をふっかけ
殴る蹴るの
暴行を加えていました。

自分が創作して
いるにも
かかわらず
魂レベルで
相手役を
引き受けてくれた
恩ある
人を殴り蹴りをする
訳ですから、
何をか況やです。

私に
あらゆる罵声や
暴行を加えられた
数多い
心の友に
心から
お詫びを
申し上げたいと
思います。

「私の作品に
出演して
いただいた上に
ギャラも
払わないばかりか
罵詈雑言、
目に余る暴行を
与えて
申し訳ありませんでした!」

「しかし、
あなたの物語の中に
私の存在が
出演者として
あなたの傾向性を
修正し
無限に向かわせる
お手伝いが
できたとすれば、
そのことは不問に
付してください。
ありがとうございます。」

こう考えていくと、
私たちの
まわりに起こる
すべての出来事は
私たちに
責任があるという
立場に
変化していきます。

私たちの
まわりに生起する
すべての体験が
怒りや
妬みや
恨みつらみといった
苦しみを伴う
感情ではなく

自分自身に
巣食っている
マイナスの
こころの傾向性に
あることに
気づいていきます。

肉体に宿った
無限の自分が
有限性に浸り切り
その限定された
ものの考え方
ものの見方に
気づくのです。

自分が
創造の源であり、
他の出来事や
人間が
問題ではないことに
気づきます。

『今日は残りの人生の最初の日』

今までは
今までです。
既にないものです。

今日、この瞬間から
私たちは
すべてに
責任をとる
立場になれます。

そう思うとき
私たちは
今後、一切
被害を被ることは
ひとつも
ないのです。

「私が知らないこと。
私が承諾
していない出来事や
人に対しては
責任は持てない」と、
いうかも知れませんが、

あなたの目の前に
起こることは
どんな
些細なことから
大きな
出来事まで
あなたが
承諾して
いないことは
決して起こる事は
無いのです。

ありがとうございます。

2011年9月9日金曜日

“あなたは大きくなったら  何になりたいですか?“

今日は
何回かこのブログで
紹介させて
いただいている
「こころのチキンスープ」の
中から
こんな話を
共有してください。

このブログを
読んでいる方が
何歳かは
わかりません。

でも、
「あなたは
大きくなったら
何になりたいですか?」と
問いかけます。

それでは、
抜粋させて
いただきます。

『人間は、ひょんなときに思いがけない発見をすることがあります。
私は数週間前に、そんなひとときをもちました。
私が寝室のベッドの上で、赤ちゃんのおむつを替えていると、
五歳のアリッサがやってきて、ベッドに飛び乗りこう尋ねました。

「ママ、大きくなったら、何になりたい?」

私は、娘が新しい遊びでも考え出したのかもしれないと思い、
調子を合わせて答えました。

「うーん、そうね。大きくなったら、お母さんになりたいかな…」

「ダメよ、もうお母さんになってるじゃない。ねえ、何になりたい?」

つぎに、私はこう答えました。

「わかったわ。それじゃ、大きくなったら、牧師さんになりたい」

「だってママ、もうなってるでしょう!」

「あら、ごめんなさい。じゃあ、どう答えたらいいのかしら」と
私は言いました。

「ママ、大きくなったら、何になりたいか、
思ったままを言えばいいの。
何でも好きなものになれるのよ!」

私は、とっさにどう言ったらいいかわかりませんでした。
アリッサは、私から答えを引き出すのをあきらめ、
部屋を出て行ってしまいました。

しかし、このわずか数分のできごとに、
私は心を揺さぶられていました。
幼い娘の目には、
私はいまでも私のなりたいものになれる人と映っていたのです!
年齢も、牧師という職業も、夫と五人の子どもも、
学士号や修士号も、何ひとつ関係ありません。

彼女にとって、私はいまだ夢を描き、
高い理想をかかげることのできる人間でした。
私の将来はまだ終わっていないのです。

私は宇宙飛行士にも、ピアニストにも、オペラ歌手にもなれるのです。

彼女には、私がいまだ可能性に向かって成長しつつあり、
私の行く手には輝く未来が待ち受けていると
見えているにちがいありません。

娘は、誠実かつ純真そのものに、
まったく同じ質問を、おじいちゃんやおばあちゃんにも、
いえ、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんにだってするでしょう。

こう気づいたとき、娘と共有したこのひとときが
美しくきらめいて見えたのでした。
ある本に、こんな一節がありました。

「歳をとったとき、私は、
いまの私とはまったくちがった人になっていることだろう。
いま、もう一人の私が生まれようとしているから…」

さあ、あなたも考えてみてください。
大きくなったら、何になりたいですか?

テリー・ジョンソン牧師

「私たちが一番高くまで飛ばせる凧、それは想像力です。」
ローレン・バコール

いかがでしたか?
私たちが
いかに
制限された不自由な心に
支配されているか
気づかされる
短いけど
すばらしいお話です。

私たちは
神様の子ども
無限で
永遠な
存在です。

いつも
こころが
この領域に
ある時

どこまでも高く
飛翔できる
翼を
持っていることに
歓喜の声を
あげるでしょう。

『今日は残りの人生の最初の日』

あなたは、
大きくなったら
何になりたいですか?

共有ありがとうございます。

2011年9月8日木曜日

「瞑想のすすめ」

私たちの住む
この地上世界は
毎日、
この肉体の目で
見ている世界です。

朝起きて
最初に
目にするものは
何でしょうか。
時計でしょうか?
旦那さんや
奥さんでしょうか?
他のものですか?

何でもいいのですが
人によって
違うでしょうが
この目で
見たものから
意識が動き出します

時計を見て
「あ!何時だ!
急ごう!」とか

奥さんを見て
「おはよう!
ご飯できてる!」とか

そして
いろいろな
現象での
出来事の
一日が
スタートします。

多くの人が
このリズムで
毎日を
送っていきます。

一方
目に見えない世界が
あります。
周波数が異なる
意識の世界です。
便宜的に
天上世界と
呼びます。

私たち
肉の目で見る癖が
ついていますので
目に見えない世界は
無いと
断定する人たちは
多いです。

私の周囲でも
そんな方が
たくさんいます。

私自身も
そうでしたから
中々
見えない世界を
信じるということは
並大抵では
ありません。

その後の
いろいろな体験や
いろいろな縁や
勉強を通じて
ある時
確信するのです。

しかし
厳然として
あるのです。
ここは
あるという前提で
話を進めます。

あるということを
信じている方でも
この
地上世界と
天上世界は
別々にあると
思っている方が
多く
いらっしゃいます。

また、
ある宗派などでは
そう説いている
ところもあります。

地上世界と
天上世界は
別々にある
存在ではなく
同時に
存在しているのです。

天と地は一体です。

地上世界という
物質界は
変化の中に在り
一定のものは
無い世界です。

目に見える世界
有限の世界です。

天上世界は
不変の世界
目に見えない
意識の世界

ビジョンでしか
見ることが
できない世界
内なる宇宙の世界
無限の世界です。

天上世界は
原因であり、
エネルギーと
質量との
完全調和した
愛の世界です。

地上世界は
結果であり、
その天上世界の
愛の念いが
形として
物質として
現わした
結果の世界です。

天上世界と
地上世界は
このように
原因と
結果であり
離れては存在
できない
表裏一体の
世界です。

ただ私たち
結果の世界に
住まう人間が、

この地上世界に
生れる時に

すべての
潜在意識の記憶を
忘れてしまうために

有限の世界に
閉じ込められて
いるのです。
単なる錯覚に
過ぎません。

これは
肉体の目で
見ているだけ
だからなのです。

本質の目で
見なければ
なりません。
それは
私たちの原因を
知るということです。

原因を
知らない限り
肉体による
物質による
有限から
離れられなく
なります。

有限を
いくら求めても
不毛です。

それは
求めても
求めても
形を変えて
いくでしょう。

不変なもの
無限なものを
求めることです。


その方法は
一日のスタートに
20分でも
30分でも
いいです。

目から見ないで
目を瞑り
心の目を
開いていきます。
チャクラ
意識し
無限の光を
取り入れるのです。


意識して
あるべき姿を
見つめるのです。

夜の寝る前の時間
少しの時間で
いいから
目を瞑り
今日一日を
振り返り
肉の目で見た
数々の現象が
あったなら
チャクラを意識し
無限の愛の光を
取り入れて
開放してください。

そのわずかな時間が
あなたを
本質へと
誘う鍵と
なるでしょう。

地上世界も
天上世界も
有限も
無限も
原因も
結果も
同時に存在して
いるのですから

どちらの
思いを発するのかに
かかっているのです。

私たちは
同時に
存在しているものを
同時に
思うことは
できないのです。

天上世界の愛の
思いを発するのか?

地上世界の
自我の思いを
発するのか?

物質界の
有限の思いを
発するのか?

天上世界の
無限の思いを
発するのか?

創造主である
原因の世界から
思いを発するのか?

被造物である
創られた側
結果の世界から
思いを発するのか?

そのどちらかを
今、思うのでしょうか?

『今日は残りの人生の最初の日』

今日という
この瞬間
あなたは
どちらの思いを
選択し
発していきますか?

そのために
朝と夜の
寝る前の時間を
取って下さい

少なくても
この時間は
あなたにとって
永遠の時間に
なることでしょう。

真実は
あなたは
これから無限に
なるのではないのです。

最初から
無限なのです。
原因を
忘れているに
過ぎません。

今、この瞬間も
無限なのです。
未来永劫に
無限の存在なのです。

ただあなたが
目で見える
外だけを見て
内を見ないからに
過ぎません。

そして、
制限をつけた
存在
有限な存在に
周波数を
合わせています。

あなたの悟りは
あなたの
理解力によります。

あなたの救いは
あなたにしか
出来ないのです。

私たちは
もともと
無限の存在ですから、
そのことを
思い出すだけで
良いのです。

今日から
少しの時間で
いいから
瞑想を
してください。

それが
無限の自分
真実の自分を
思い出す
方法なのです。

「己を知ることは
神を知ることになる」と
言われているのは
このことなのです。

ありがとうございます。