2011年7月21日木曜日

「私とは、何者か?」

私たちは
今まで
両親をはじめ
兄弟
友人
近所の人たち
先生や
会社で出会う人たちを
含め多くの方と
出会い
いろいろな体験をして
様々な
影響を受けてきました。

今もその影響を
受け続けています。

そして、
「私」というものを
確立していきます。


お釈迦さまは、
2600年前
私とは何者か?という
テーマに対して
五蘊(ごうん )の
教えを説かれました。

五蘊とは
“五つの塊”
という意味です。

私たち人間は。
「色(しき)」
「受(じゅ)」
「想(そう)」
「行(ぎょう)」
「識(しき)」
の五つの塊に執着し、
それを「私」として
捉えています。

この教えは
「自我」を分析して
弟子たちに語ったものです。

一つ目の
「色蘊(しきうん)」とは、
姿かたちのことで、
肉体を現わします。
私たちは
肉体こそ「私」と執着します。

私たちは
今までの人生を
この肉体を維持するため
この肉体を喜ばせるために
食事をし
服を着て
家を確保してきました。

世界中の財産は
ほとんどが
この肉体のために
使われています。
さらに、
もっと、もっとと
執着していきます。
際限がありません。

しかし、
この「私」と思っている
肉体は
生命が離れた瞬間から
ただの亡骸に過ぎません。

また、
どんなに若くて
美人で
すばらしい肉体を
持っていても
老いや病からは、
離れることはできません。

肉体とは
そのように
変化をし続けていく
物体に過ぎないのです。
そこに「私」という
実体はありません。

二つ目は
「受蘊(じゅうん)」です。
受蘊とは、
感覚の塊のことです。
眼・耳・鼻・舌・身の
五感すなわち
五つの感覚器官が
感じるものを
「私」と思います。

これも、
際限がありません。
もっと、もっとと
気持ちのいい感覚を
求めていきます。

そうやって、
私たちは
感覚に執着していきます。
常に、
変化し続けています。
そこに「私」という
実体はありません。

三つ目は、
「想蘊(そううん))です。
想蘊とは、
知識の塊のことです。
意識しなくても
知っているはたらきです。

私たちは
様々な人たちとの出会いで
様々な経験の中で
これが「私」と
固執していきます。
それは、
妄想に過ぎないのです。

例えば、
子供の頃、
陰湿ないじめに
遭っていたとします。
その対象にある
当時の加害側の子供の
表情や言葉を
思い出して
今でも、
苦しみ続けています。

それは、妄想であり、
知識の執着であります。

しかし、これも
常に、
変化し続けています。
そこに「私」という
実体はありません。

4つ目は、
「行蘊(ぎょううん)」です。
これは、
行という
心のはたらきの塊です。

私たちは
常に何かを考えています。
「何かをしたい!」と考え、
その何かを行い、
また何かを行うと
また、
「何かをしたい!」と考えます。

ただ、「何かをしたい!」と
考えているだけなのに、
そこに意味づけをして、
あらゆる感情を
作り出していきます。

それは、
行の執着です。

そこに
落ち着いた状態は
存在しません。
常に、
変化し続けています。
そこに「私」という
実体は存在しません。

5つ目は、
「識蘊(しきうん)」です。
識蘊とは
認識の塊のことです。
受蘊が
眼・耳・鼻・舌・身の
感覚作用のことを
言いましたが、
この識蘊は“意”即ち
心の働きのことです。
いわゆる
見たり、
聞いたり、
嗅いだり、
した感覚を
心で認識する
作用のことです。

例えば、
女性を見て
視覚として感じたものに
比較のための
「きれいな女性だ!」と
価値基準を
与えているのが
識蘊です。

ようするに
受蘊や想蘊や行蘊の
はたらきを得て
情報を流している
作用のことです。

それは、
認識という
心のはたらきの執着です。

この認識という
心の作用も
一瞬、一瞬と
変化をし続けていきます。
そこに、
「私」という
実体はありません。


如何でしょうか?
この“五蘊”という
お釈迦さまの教えは、
いつも
「私」と思っている
その「私」は何者なのか?と
問うているのです。

この教えは
すべて、
私たちが
今まで
体験してきたことが
ベースになっています。
いわば、
過去の体験なのです。
過去、
体験したことが
執着として
現れている「私」に
囚われているに
過ぎないことを、
仰っています。

その執着は、
“苦”の源泉になります。
「自我」なのです。
それは、
偽者の「私」です。
「偽我」なのです。

この三次元という
現象の世界に
現れている
あらゆる出来事や
人々は
変化し続けるのです。
移ろい行くものです。
幻想に過ぎません。
実体はないのです。

実体のないものに
無用な力を
与えてはいけません。

そのことを
2600年前に
お釈迦さまが
“五蘊”という教えで、

非実在の「私」を
分析し喝破したのです。

無明の「私」を
仏の道をいく「私」へ

究極的な平安
永遠の安らぎ
無限なる高みに
至る「私」へと導く
仏我の道
涅槃への道を示したのです。

さあ、
私たちが
確立した「私」とは
自我からの「私」ですか?
仏我からの「私」ですか?

真実の私は
仏我(神我)の私なのです。

『今日は残りの人生の最初の日』

過去の
延長線上に
「今」があるのでは
ありません。

真実は、
「今」という瞬間
この確かな瞬間しか
実在していないのです。

この「今」という
瞬間に
仏我(神我)は顕れます。

その瞬間、
言語では
言い現すことのできない
平安と安心が
魂を支配していきます。
満ち足りた
愛の光を受け取ります。

そして、
受け取る者が、
与える者となり、

受け取る魂が
“一なる本源”と
同期し、
そして、
永遠なる
無限なるものへと
飛翔していくのです。

今日も共有していただいて、
ありがとうございます。

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