2011年10月21日金曜日

「汝、幼子の如くあれ!」


私は
赤ちゃんが
大好きです。

赤ちゃんを
嫌いという人には
お目にかかった
ことはありません。

赤ちゃんなら
人間も動物も
大好きです。

大人が嫌いと
言う訳では
ありませんよ!

見てるだけで
思わず
誰もが
笑顔になる存在
それが
赤ちゃんだと
思うんです。

純真無垢な
表情や仕草
ひとつひとつが
天使そのものの
愛らしさと
そして
高貴ささえも
漂わせています。

赤ちゃんを
見ていると
神の子であることに
疑いをはさむ
余地はありません。

イエスさまは
言いました。
「汝!幼子の如くあれ!」と。

赤ちゃんのように
純真無垢で
ニュートラルな
すばらしい状態に
帰りなさい!と
仰っておられる
のでしょう。

私たちも
誰もが例外なく
最初は
赤ちゃんだったんです。
(私は、だいぶ昔ですが・・・)

でも
その赤ちゃんのときを
自分で見ることは
できません。

正確には
現在の
自分自身でさえ
この眼で
見ることは
できないのです。

自分の眼で
見れるのは
鏡という媒体を通して
見る自分のような
ものです。

肉体的なものは
すべて
限界があり
有限なものです。

私たちは
赤ちゃんを見て

純粋を
永遠を
無限を
優しさを
ほほえみを
光明を
高貴を
美しさを
愛を
そして
癒しを
感じます。

それは
肉眼で見て
心の眼で
感じるのです。

これらすべての
特性は
神の特性です。

最初に神をつけて
神の純粋
神の永遠
神の無限
神の愛と・・・
置き換えられる
言葉ばかりです。

私たちの奥底にある
神の特性、
いわゆる神性が
感応して
赤ちゃんに神を
見るのです。

私たちは
生まれたときから
元々

神性
仏性
霊性
イデア
理念と
呼ばれてきた
高貴なものが
備わっていたのです。

しかし
私たちは
この肉体に
徐々に
慣れるに従って
その高貴なるものを
忘れていきます。

成長して
認識が入り、
分別がつくように
なってきます。

良いとか
悪いとか
判断基準を
持つようになり、
自分の価値観を
創っていきます。

そして
絶えず過去に
引っ張られ、

過去の認識
というものに
つかまって
そこから
抜け出せなく
なっていきます。

私たちは
過去の認識
昨日までの認識が
今日の行動を
決定しています。

他の人から
罵詈雑言を
浴びれば
自分も
言い返します。

私の場合は
他の人の何倍かは、
声を荒げて
その上を
いかなければ
とても気が
済みませんでした。

或いは
怖くて
尻尾を巻いて
逃げ出すかも
知れません。

相手が会社の
上司かなんかだったら
明日は
会社に行くのさえ
嫌になり
休んでしまうかも
知れません。

このように
私たちは
過去の記憶への
対処から
行動を決定して
いるのです。

そして
そうこう
していると

知らず
知らずのうちに
自分と他人と
区別をし

あの人は悪い!
あの人はいい!と
自分の価値感で
判断を
していくように
なっていきます。

日常につかまって
しまうのです。

その頚木から
逃れなければ
なりません。

赤ちゃんは
そのままで
光輝いています。
神々しさも感じます。

「汝、幼子の如くあれ!」

この言葉は
真理そのものです。
赤ちゃんは
何ひとつ疑うことを
知りません。

自分の中の神を
金輪際
疑っていません。

そのままを
ありのままを
表現します。

そうしたら
神の愛の表現に
なるのです。

私たちも
何も変わりません。
今からでも
遅くないのです。

聖書の中の
マタイ伝
第13章12節に
こう書かれています。

「それ誰にても 
持てる人は
与えられて 
いよいよ豊かならん。
 
されど持たぬ人は 
その持てるものをも
取らるべし」

この意味は
「既に自分の内に
神の生命が
宿っていて、
無限の力が
備わっている
と自覚した人は、

ますます
神性が現れて
純粋を
永遠を
無限を
優しさを
ほほえみを
光明を
高貴を
美しさを
愛を
そして
癒しを
この現象界に置いて
発揮できるのである。

しかし
その自覚の
ないものは

自分が持っている
わずかな
長所でさえも
覆い隠されて
しまうのである。」

『今日は残りの人生の最初の日』

今、この瞬間
神の無限が
備わっていることを
信ぜよ!

一瞬たりとも
疑うな!
幼子のように

今、ここ
この瞬間の
自覚こそが
私たちの神が
歓喜の雄叫びを
あげるのだ!

生かしていただいて
ありがとうございます。

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