2011年8月20日土曜日

「宮ぷー こころの架橋プロジェクト」

今日は、
「宮ぷー こころの架橋プロジェクト」
という
メルマガを紹介
させてください。

このブログでも
一度、紹介させて
頂きました。
東日本大震災に寄せての
山元加津子さんの
動画を貼付しました。
「是非、ご覧になって
友人にも紹介してください」
4月22日号ブログ参照)

山元加津子さんの日記を
一部抜粋して
星野ひとつさんが
メルマガとして
毎日配信してくれています。

山元加津子さんは
特別支援学校の先生を
しています。
以前は養護学校と
呼ばれていました。
その養護学校の
同僚だった
宮田俊也さんが
2年半前に
脳幹出血で突然
倒れました。
脳幹出血という病気は
ほとんでの方が
亡くなられる病気で
生存しても
ほとんどが
寝たきりになって
しまう病気です。
かっこちゃん
(山元加津子さん)が
献身的に
宮ぷー
(宮田俊也さん)を
介護して
奇跡的に宮ぷーが
回復していく姿を
綴った日記です。

同じ病にあり
毎日の闘病での悩みを
持つ家族の方々からの
こころからの
メールを紹介しながら

命の大切さ
重い病にあり
コミュニケーションの
取れない辛さを
解決する方法や
リハビリのあり方を
教えてくれています。

かっこちゃんの
強い思いと愛情は
患者との心の交流や
意思伝達装置など
知らなければ
いけないことを
知らないが故に
苦しんでいる人たちが
いることに対する
悲しみにもなっています。

一人でも多くの人に
知ってもらいたい。
かっこちゃんの強い
思いです。

最後にメルマガ登録
アドレスを
書いておきますので
是非、読んでいただき
お友達にも広めて
くださいますように
お願いいたします。

今日は
そのメルマガの中から
最新の三日間に
紹介されている。
森安さんという方の
講演での内容を
紹介させていただきます。


“子どもたちが教えてくれたこと”
『私たちの会社は平城宮跡朱雀門の隣にあります。
会社ができて36年になります。
社員は85名で、障害のある社員が14名、難病の社員が1名います。
私たちの会社はユニットバスを作っています。
工場で部品を作って、建築現場で組み立てて作るお風呂のことです。

人はみんな、持って生まれた能力があります。
100点の人もいれば、50点の人や30点の人もいます。
いろんな人がいるのがこの社会です。
私たちの会社には、知的障害のある社員がいます。
彼らの能力は確かに低いかも知れません。
でも、私たちの会社は、彼らが働くようになって、
50点や30点の人がいても、今までと同じ、それどころか、
今まで以上の結果が出せるんだということがわかってきました。

私が社員を採用するときの基準は、
「仕事にふさわしい人を採用する」というものです。
普通の会社は、応募者を比較して、優秀な者から順に採用します。
AさんとBさんが応募して、AさんとBさんを比較します。
Aさんは優秀、Bさんは能力が低い。
満場一致でAさんを採用するのです。
でも私は、仕事とAさん。仕事とBさんを比較します。
確かにAさんは優秀。
でもこの仕事ではAさんは能力を遊ばせてしまう。
Bさんは能力が劣る。でもこの仕事のレベルにふさわしい。
だからBさんを採用しようと。

その考えは今、さらに進んでいます。
仕事を誰でもやりやすく易しく変えていけば、
能力の低い人にも働いてもらえる会社になるのだと。
逆に、能力の高い者しか受け入れられない会社は、
働きにくい会社なのだと。
そして私たちは、
この会社に知的障害のある社員を迎え入れてから、
それまで目の前にあったのに、誰も気づかなかったことを、
たくさん教えられるようになりました。

今日はそんな彼らが教えてくれたことをお話していきます。
この写真は私たちの会社の知的障害のある仲間たちです。
また、毎年、養護学校の知的障害のある子どもたちが、
職場実習に来てくれます。
障害あるみんなは、いつもいつも、
いろんなことを私たちに教えてくれます。
私は、この障害あるみんなのことを
たくさんの人に知ってもらいたくて、
こうやってお話させてもらっています。

私はある出会いから、
養護学校の知的障害のある子どもたちと知り合いました。
障害のために、就職も難しく、
幸せとはほど遠い一生を送る子も多いことを知りました。
私はその場で、この子どもたちのために仕事をしようと思いました。
会社で職場実習の提案をしましたが、
「知的障害者は何をするかわからん」
「うちの会社に知的障害者が働ける職場などない」と言われました。
そんな中で初めての実習は行われました。
実習に来たのは高校2年生の男女3人です。
そして、私の思いどおり、
この3人の子どもたちの活躍は、社員たちの目を大きく変えてくれました。
今の私があるのは、この子どもたちのおかげです。

ところで私は、こんな夢を持っています。
私たちの会社には、知的障害がある仲間がいます。
この会社で、彼らが幸せに働いてほしい。
彼らが幸せに働ける会社は、みんなが幸せに働ける会社です。
そして、この社会もそうです。
障害ある人たちが幸せに暮らせる社会は、
みんなが幸せに暮らせる社会です。
だから、誰もが当たり前に働ける会社に。
誰もが当たり前に暮らせる社会に。それが私の夢です。

「障害者ってどんな人?」
障害者と聞くと、どんな障害か、程度は、どんな行動をするのか。
そんなことを人は気にするものです。
その人のことを知るのに、障害の種類とか、重さとか、
行動特性とかが真っ先に重要なことなのでしょうか?
私は未だにうちの社員たちの何が障害なのかは知りませんが、
彼はこんなことが好き、彼女はこんなすてきなところがある、
みんなこんなに一生懸命生きている。
そんなことを私は知っています。

この会社の社員で知的障害のある留美さんです。
勤めて3年になります。
前に勤めていた会社では
「あんたら障害者なんて雇わんでもええねんで」
と言われていたそうです。
彼女が初めて会社に来たときのことは覚えています。
受付から電話がかかってきました。
「森安さん。用件が自分でわからないという人が来てますけど」
留美さんが来たんだなと思って、私は受付まで迎えに行きました。
留美さんは困ったように受付簿の前に立っていました。
「留美さん、どうしたの?」
「・・・ようけんって・・・なんですか・・・」
「留美さん、用件というのは、今日
この会社に何をしにきたかということだよ」
「めんせつです」
「用件のところには、面接って書いてね」
「・・・めんせつ・・・かけません・・・」
「留美さん、ひらがなは書ける?」
「かけます」
「ひらがなで書こう」
留美さんは、ひらがなで「めんせつ」と書いて、
ようやく受付を通りました。
そして面接をしたのだけど、私はこの仕事を始めたことを後悔しました。
なぜといって、
留美さんはとっても小さくて、とってもみすぼらしかったからです。
こんな人がうちの会社で働けるわけがない。そう思いました。
でもとにかく、実習をして決めようということで、4日間の実習をしました。
仕事の覚えはとても遅かったのだけど、
2日めぐらいには、私は彼女を採用しようと決めていました。
それは、彼女は何をやっても絶対に、
あきらめるということをしなかったからです。
夕方に、「留美さん、ご苦労さん。また明日がんばろう」、
そう言うと、彼女は材料を家に持ち帰って家でも練習しました。
ご家族が見るに見かねて
「今日はもうそのくらいにしといたら」と言っても、
彼女はやり続けたといいます。
その気持ちがあれば、何でもできるのだと、私は思いました。

こんなこともありました。50枚ロットで仕上げていく製品です。
やっと50枚できたので、
「留美さん、ひと山できたよ。数かぞえてみて」、
そう言うと、留美さんは、
「・・・10、11、12、13・・・・・・わかりません・・・」
「え?もう一度かぞえてみて」
やっぱり留美さんは、
「・・・12、13・・・・・わかりません・・・」
「じゃあね、留美さん。10まで数えたら、また1から数えよう」
そうやって、10ずつ、5回数えて、留美さんは50がわかりました。

入社してからも引き続いて、
留美さんと私は朝から夕方まで、作業の習得をしていました。
研修期間が終わっても、
彼女が達成できた作業スピードはたったの30%でした。
それでも私は手を放して、彼女を製造現場に入れました。
1か月がたち、3か月がたち、
少しずつだけど確かに彼女は成長していました。
そして6か月がたったとき、
彼女は一人前の作業者になっていました。
それだけではありません。
彼女は見違えるように、明るくきれいになりました。
初めて会ったときのことを思って、
人はこんなに変わるんだと、私は思いました。
・・・・・

次は社員の将義君です。
特定のことにとてもこだわりがある彼です。
朝更衣室で髪型を整えます。どうみても丸刈りに見えるのですが、
鏡を見て時間をかけて髪形を気にします。
やっと髪型を整え終わるのだけど、
最初とちっとも変わっていないのです。
洗面所で手を泡だらけにして、10分ぐらい
手を洗っている人がいたら、それは彼です。
バスが大好きで、必ず運転士が見える一番前の席に座るのは彼です。
養護学校在学中に、ほかの会社に就職が決まっていましたが・・・
その会社の社員たちから「あんな子と同じ会社だと思われたくない」
という声があり、取り消しになったそうです。

彼はカウンターという製品を作る仕事をしています。
大きなプレス機を使って、たくさんの手順があって、
品質基準も厳しいとても難しい仕事です。
知的障害者にこんな難しい仕事は任せられないだろうという
見方に反して、彼は今1人でこの職場を任されています。
何かとこだわりのある彼は、仕事の手順も正確で、
検査も、非常に細かい
基準に正確に従うため、どんなキズも見落とすことがありません。
彼が検査したのなら間違いはない、とみんなに言われています。
私は彼が養護学校時代に、絵を描いたり工作をするのを見て、
物の成り立ちを見抜く力、物を作る力の優れているのに感心して、
この力はもの作りに活かせると思って、採用を決めました。
コミュニケーションはイマイチで、
いまだに話をするとかみ合わないことがあります。
でも4年つき合って、私は一度も困ったことはありません。

それからある養護学校で出会った、
知的障害のあるリサさんのことをお話します。
リサさんはおしゃべりが不自由です。
私はリサさんは何も考えてなくて、
何もわかってないんだと思っていました。
ところがある日、
たまたまリサさんが書いた作文を目にしてびっくりしました。
原稿用紙数枚にわたって、表現豊かにつづられた文章でした。
私は初めて、体や知的能力は不自由なところがあっても、
心はとても自由なんだということを知りました。
リサさんはメールが得意で、
送ったらすぐに生き生きとした返事が返ってきます。
そうやって、適切な補助があれば、
障害があっても自由に表現を楽しむことができるんだと思いました。
人の表面しか見ることができなかった自分に気づかされました。
ハンディがある人ほど、自分を表現できない、理解してもらえない、
もどかしい思いをしていることに気づきました。

最後に、職場実習にゲーム機を持ってきた生徒の話です。
「休み時間はいちばん好きな過ごし方をするんだよ」と言ったところ、
彼はゲーム機を持参しました。
そして、巡回で来られた先生に
「これは仕事と関係ないだろう。しまってこい」と言われました。
先生が帰られた後、私は彼に
「すぐ使いたいものは手元に置くんだよ」と言いました。
彼は安心して仕事をして、休み時間はすぐゲームをすることができました。
そして、自分で時間を守って、また仕事に向かいました。
大事なのは、こだわることも好きなことも思い切りやって、
仕事も集中してやる。そのけじめが自分でつけられることです。
私たちは「余計なことはやめさせることによって、仕事に集中させよう」と
思うものですが、それは教育の半分ができていないのです。
彼にとってみれば、どれも同じだけ大切にしているのだということを、
忘れてはいけないと思います。
好きなことをやめれば、きっと、仕事もできない、
切り替えもできない中途半端な人間ができあがることでしょう。
同じ気持ちで私は知的障害者の作業支援の勉強をしたときに、
こんなことを学びました。
知的障害者に仕事を教えるときは、こうするんだという方法です。
実際いっしょに仕事をしてみてどうだったのでしょうか。

1.初めから一貫して(同じ方法で)繰り返す
2.指示者、指導者は同じ指導をする
3.理解しやすい方法を考える
4.指導内容をいっしょに整理する
5.できたことをほめる
6.理解したかどうかの確認をする

ひもで作る部品があります。
養護学校の生徒には、同じ形にそろえるのが難しい作業でした。
私がいっしょに作業しながら、つまづいているところを観察して、
わかりやすい手順書を作って、
養護学校の生徒にも、この作業ができるようになりました。
後日製造課に行ったとき、
社員がみんなでその手順書を使っていました。
「これは、みんながわかりやすいから、使わせてもらってるよ」と。

私は、養護学校の生徒が、この作業がわかりにくいから、
できないから、それを何とかしようと思ってやったのだけど、
そんなことではありませんでした。
みんながわかりやすい、みんなができるということが、
いちばん尊いことなんだと。そうすれば、障害の有無なんて
関係ないんだと思いました。
障害あるみんなが、この作業はわかりにくいよ、
この作業は力がいってしんどいよ、この部品は何でこんな形なの?
といろんな疑問を出してくれました。
私たちはそれを一つ一つ改善していきました。
その結果どうなったでしょうか?
障害ある人だけが助かったのでしょうか。そうではありません。
職場のみんなが、わかりやすくなりました。
楽にできるようになりました。
健康な環境になりました。扱いやすい形になりました。
障害あるみんなが来てくれるまで、
私たちは何年も気づかずにいたことが、たくさんありました。
こうやって、障害あるみんなに気づかされて、
初めていろんな改善をしてきました。
指導法とか上から目線なものはあるわけですが、同じ気持ちで、
目の前にいる相手と学び合うことがいちばんだと思ったものです。

次のお話は、養護学校の佐和さんです。高校2年生でした
が、小学生のように小さい子でした。
会社で用意したいちばん小さい安全靴もぶかぶかで、
詰め物をしてはきました。
「口ばっかり達者で、学校では何もできない子なんです」と、
先生はおっしゃいました。
佐和さんの職場実習は、製品に部品を取り付けて、包装する仕事でした。
「部品を取り付けるよ。まずドライバーを持って」と言ったら、
ドライバーに手が届きませんでした。ドライバーの位置を下げましたが・・・
今度は手が小さすぎてドライバーをしっかり持てません。
ビス1本打つのに1日中失敗し続けました。
手が小さすぎてテープカッターもちゃんと使えませんでした。
周りの社員が、ドライバーの持ち方、
テープカッターの持ち方を教えるのですが、
手が小さすぎて、全然そのとおりに使えませんでした。
見ている私のほうがヘトヘトに疲れて、
もうやめよう、
もう別の簡単な作業に変えようと何度思ったことでしょう。
でも失敗しつくしてあきらめるまでやらせようと思いました。
その日1日終わって、
私は明日少し様子を見たら、後は簡単な作業に変えようと決めて、
現場にも予定変更を連絡しました。
ところが次の日、佐和さんは自分の工夫をし出しました。
手だけではしっかりドライバーが持てない彼女は、
手と体でドライバーを固定して、体ごとビスを打ちました。
テープカッターは両手で持って体を使ってテープをカットしました。
実習が終わるころには佐和さんの顔は自信があふれていました。
この実習で口だけでなく仕事も達者な佐和さんになりました。

佐和さんは失敗しつづけていたのではありませんでした。
佐和さんは挑戦しつづけていたのです。
そして、挑戦しつづける人に失敗という言葉はないのだと、
佐和さんは教えてくれました。
口が達者な佐和さんは私に向かってどんなに
こう言いたかったことでしょう。
「私を信じて!待って!」と。
私たちは何もできなかったのに、自分の力でがんばりぬいて
ついに乗りこえた佐和さんの姿に、
「佐和さん、よくがんばったね」と言ったきり、
胸がいっぱいになって私は次の言葉が出てきませんでした。

この彼女は高校3年生だったゆみこさんです。
人との信頼関係作りがとても難しい彼女でした。
人間関係を作っていけるように、
毎月2日ずつ長期にわたって職場実習に来ていました。
いつもこんな顔で、居場所がないような、
おびえたような顔をしていました。
仕事場では一度もまともに言葉を発することもなく、
一度も笑うこともありませんでした。
現場では
「この子は手に負えない」
「こんな子の面倒は見られない」と言っていました。
私は「彼女は自分をどうやって表現したら
いいのかわからないのではないか。また、
相手との距離感を測っているのではないか」と思いました。
私はそんな彼女だからこそ、
どうしても友だちになってみたいと思いました。
ミーコというあだ名をつけて、昼休みにはいっしょにお弁当を食べて、
いつもミーコミーコと話しかけていました。
彼女は、「はあ」とか「ふん」とかそんな返事しかせず、ま
ともにコミュニケーションが取れませんでした。
月に2日しか会社に来ないので、
それだけでは友だちになるのは難しいと思いました。
そこで、彼女に手紙を書くことにしました。
私はこんなことが好きで、いつもこんなことを考えているよ。
そんな手紙を書きました。返事はありませんでした。
それから毎週手紙を書いていました。
書き続けた手紙は46通ありました。
それからミーコは、私にはいつも笑顔を見せてくれるようになりました。

一度だけ彼女から手紙をもらいました。
彼女が初めて、自分の言葉で自分の気持ちを伝えてくれたと思い、
たった1枚の手紙がこんなに重たく思えたことはありません。
でもミーコにはやっぱりこの社会で働くことは難しく、
今はどこか遠い施設で暮らしていると聞きました。
でも、ミーコが私にくれた笑顔と、私の前では驚くほど仕事を
していたその姿が、彼女の本当の姿だと、私は今も思っています。

私にはこんな夢もありました。
養護学校を卒業した人だけで、一つの職場を作ってみたい。
あるとき現場の社員にそんなことを言ったのです。
すると「それは最悪の場合や!」と言われました。
そうか、養護学校の子は最悪なのか・・・。
私は将来必ず夢を本当にしようと思いました。

木のパレットを修理する仕事をしている社員です。
養護学校を出たこの2人が、今立派にこの仕事をしています。
その職場に実習に来たのが、
知的障害と自閉症を併せ持つという、
高校3年生のたかゆき君です。
たかゆき君はこのパレット修理の仕事の実習に来ました。
8月の暑い5日間でした。

事前にたかゆき君のお母さんから、
サポートブックが送られてきました。
私は、きっと彼も私たちのことを知りたいだろうと思い、
会社のサポートブックを作って彼に送りました。
彼はそれが気に入って何度もながめていたそうです。
実習が始まりましたが、
たかゆき君はよくわからない仕草をしたり、
講義中に大あくびをしたり、場違いなところで大笑いしたり、
仕事中に扇風機にあたったり、外をうろついたりしました。
障害ある社員たちが実習の担当をしました。
最初の2日ぐらいは、なかなか意思が伝わらず、
重たい雰囲気でした。
社員は「くぎうちをやってみよう」「のこぎりで切ってみよう」と
根気強く同じ声をかけ続けました。
3日めぐらいから意思がスムーズに伝わるようになり、
たかゆき君は7種類の工具を使いこなし、
4日めの午後にはくぎうち機という機械も使えるようになり、
5日めには1枚のパレットを1人で修理するという、
修了課題を難なくこなしました。

実習も終わって社員たちとお別れのとき、社員の一人が
「ようがんばったな。自信持てよ」と言ったら、
たかゆき君はふいにボロボロと涙を流しました。
高校生なのに純真だなぐらいに、私は思っていました。
後でたかゆき君のお母さんからこんなお話を聞きました。

----たかゆきは3歳のときまだ言葉がなく、
私はいつかこの子の声を聞きたいと、
毎日同じことを何十回も声かけしていました。
この実習で、会社の方がそれと同じように、
一つ一つの作業に、「これをやってみよう」
「これはできるかな」と、
5日間続けてくれているのを見て、胸が熱くなりました。
私は、たかゆきが感動して涙を流す姿を初めて見ました。
自閉の子には、そんな表現は難しく、18になるこの子には
もうそんなことはないのだと、私はあきらめていました。
人の心にたかゆきが動かされ、自然に涙が出たのでしょう。
私はたかゆきに言いました。
「痛いときだけ、涙が出るんじゃないよ。
嬉しいとき、お別れするのが寂しいときにも、
涙は出るんだよ。それはすてきなことなんだよ」
と。たかゆきが自閉症の診断を受けたとき、
周りからは「早期療育が大事。
3歳では遅すぎる」と言われました。
「療育」で頭がいっぱいになった私は、
たかゆきに無理やりいろんなことを教え込もうとしていました。
そんなある日私は気がつきました。
これはたかゆきのためではない。
私の自己満足のためにやっているんだ。
これからはこの子のペースで楽しくやっていこうと。
療育のスタートが遅れたことで、
自分を責める気持ちもずっと消えたことはありませんでした。
でもこの実習で、素直に明日が信じられるようになりました。

私は障害のことは何も知りませんでしたが、
お母さんの話を聞いて「人の可能性って、
測り知れないなあ」と思いました。
でもその可能性も、私たちに「人を受け入れる力」がなければ、
一生埋もれたままです。
障害者支援というけれど、
この子たちの光をさえぎっている、私たちが変わること。
それが最高の支援だと、私は思います。
私はコスモスが大好きです。
風にゆらいで頼りなげだけど、みんなで支え合って、
またお日様に向かっていくのです。
コスモスを見ると、
私の大好きな子どもたちを思い出します。
子どもたちは教えてくれました。
この社会はパズルみたいだねって。
人はそれぞれ、できること、できないことあるのだけど、
みんなが合わさって、一つの絵が完成するのです。
重要なピースとそうでないピースなんて区別はありません。
どのピースも同じ大切さを持っています。
この社会には易しい役割から難しい役割まで、
いろんな役割が必要です。
だから、いろんな役割を担うために、
人はいろんな違いを持って生まれてくるのだと思います。
パズルのピースのように、お芝居のキャストのように、
みんながそろわなければ、この社会も完結しない。
その「ちがい」こそ、私たちが生きていく力なのだと。
だから
誰が欠けてもいけない。みんなで一つの命なんだと、
私の大好きな子どもたちは教えてくれました。
そして、それは私ひとりが知っているだけでは、
取るに足らない小さなことです。
「ひとりひとりが大切で、すてきな存在だということを、
世界中の人が当たり前に知っている世の中にしたい。」
だから、私は、この子どもたちが教えてくれたことを、
みんなに伝えていこうと決めました。・・・・・

最後に、なぜ私がこの仕事をするようになったのか、
そのきっかけをお話しします。
それは4年前の5月のことでした。
ある日の夕方受付から電話がありました。
「森安さん。養護学校の先生、来られてますけど・・・」
先生が電話口に出て来られて
「こちらの会社では養護学校の生徒の
職場実習をやってもらえないでしょう
か」と。
養護学校?職場実習?そんなの会社の仕事と関係ないよ。
私は電話口で断ってしまおうと思いました。
でも私は思い直しました。
知らない学校の先生が会社に来るなどということは、
なかなかありそうにないことです。
話だけでも聞いてみようかと思い、私は先生を迎え入れました。

先生は「職場実習のお願い」という紙を見せて、
「こんな生徒たちで、就職も難しい。
せめて職場実習だけでもやってほしい。
一人でもいいからお願いします」と。
それを聞いても私はピンとこなくて、
別にうちの会社でやらなくてもいいよね、なんて思っていました。
やっぱり断ろうと思ったのだけど、私はもう一度思い直しました。
この話の主役は養護学校の生徒たちです。
会ったこともないのに、断ってはいけないかなあと思い、私は先生に
「生徒たちに会わせてくれますか」と言いました。

10日後に約束して、私は学校に行きました。
でも、本当は学校の前まで行って、私は学校に入れませんでした。
ちょうど休み時間で子どもたちが遊んでいたのだけど、
叫び声や奇声が聞こえてきて、私は怖くなりました。
やっぱりこんなところに来るんじゃなかった。もう会社に戻ろう。
そう思って、一度は門の前を通り過ぎ、
でも・・約束だから・・・また戻ってきて・・・
そんなことをしているうちに、先生に見つかって、
私はしかたなく学校に入りました。
そうして恐る恐る出会った子どもたちだったのだけど、
子どもたちは、とても優しく、温かく、私を迎えてくれました。
「思っていたのと違うなあ。何てかわいい子どもたちなんだろう」
そのとき私はそう思いました。
こんなかわいい子どもたちが、
障害があるために、幸せになれないんだって。
でも、そのとき、私はとても心が痛みました。
私は、障害とは、体が不自由なことだと思っていました。
知能の発達が遅れていることだと思っていました。
でも、この子どもたちから見たとき、
本当の障害とは、この子どもたちを受け入れてくれない
この社会のことだと気がつきました。
そして、それは、
この子どもたちを知ろうともしていなかった、私のことでした。

こんな私を優しく迎えてくれた子どもたちが、
私はその場で大好きになりました。
これから、この子どもたちが幸せになる仕事を、私はしよう。
そう心に決めて4年がたちました。
私の大好きな子どもたち、
そしてこんなすばらしい子どもたちを
育ててくださっているみなさまに、私の感謝の気持ちを捧げます。
そして、私たちの当たり前を、社会の当たり前に。
それが私の願いです。つたないお話でした。ご清聴あり
がとうございました。森安 英憲・・・・・』

森安さん
ありがとうございました。
森安さんと
ハンデを持った方との
心の絆を感じました。

お互いにお互いを
必要としている
このつながりは
永遠の魂の中で
育んでいるんだと
感じさせていただきました。

「宮ぷー こころの架橋プロジェクト」は、
こんなすばらしいお話が
毎日のように届けられます。
かっこちゃんが発した
愛情がインフルエンスして
愛の架け橋になっています。

最後に
メルマガの登録URL等
載せておきます。

共有ありがとうございます。

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