2011年8月7日日曜日

「万里の波濤を乗り越えて」

今日も優れた人たちの
学びを
書いていきます。

度々
お釈迦さまの
説いた教えを
書かせて
いただいていいます。

昨日も
空海さんと
お会いして
お話を伺っていたのですが、
注)昨日のブログ
優れた人たちに
会いにいきませんか
!」参照

空海さんの時代に
お釈迦さまの教えを
学ぶことは
一生をかける程の
難事業でした。

お釈迦さまの説いた
教えは
インドから始まり
南は
スリランカや
ミャンマー
タイ方面に
伝わっていきます。
北は
中国や
チベット
そして
我が日本にも
伝わってきました。

南に伝わった仏教を
南伝仏教といい
上座部仏教とも言い
修行を中心とした
自己の悟りを得ることを
目的とした仏教です。

北に伝わった仏教を
北伝仏教といい
大乗仏教とも言い
下化衆生を通じて
自己の悟りを得ることを
目的とした仏教です。

北伝の
大乗仏教に対して
南伝の
上座部仏教のことを
一般的に
小乗仏教とも言います。

空海さんの
時代は
1200年以上前ですから、
この仏教の
真髄を学ぶには
中国に留学して
学ぶことが
ステータスでした。

しかし、
今とは違い
飛行機で
“一っ飛び~”と
いう訳にはいきませんから、
簡単にはまいりません。

空海さんは、
遣唐使として
中国に渡りました。
第十六次遣唐使として
留学生として
選ばれました。。

この遣唐使に選ばれる
だけでも
空海さんが
大変、
優秀だったことは
うかがい知ることが
できます。

空海さんを始め
遣唐使一行は
当時の首都である
長安を目指して
出発しました。

長安は、
紀元前3世紀から。
西周を始めとして
隋、唐までの
12の王朝がここに都を置く、
中国の古都の一つとして
3000年からの
歴史を刻んできた
城郭都市でありました。

当時は
渡航するしか
ありませんので
船で海を
渡って行ったのです。

遣唐使船は「よつのふね」と
呼ばれ、
藤原葛野麻呂を団長に
お医者さんや神主さん
占い師、雅楽のリーダーや
楽師、画師
ガラス工から鍛冶鍛金工、
鋳物師や
船大工から木工職人
警備員や船の乗組員等々
それ以外に
空海さんたちのような
留学生や留学僧
それの従者達
総勢500名の大使節団が
四船「よつのふね」に乗り込みます。

延暦23年(西暦804年)
5月12日に出航して
その年の12圧23日に
唐土に着いたと言われています。
途中、東シナ海で
一ヶ月以上も漂流したり、
何十回もの
危ない目に
遭遇しながらも
まさに
決死の旅でした。
7ヶ月半近くもかけて
さまざまな文化や歴史
さまざまな学問を
学びに
そして
空海さんは
仏教を学びに
行ったのです。

そして唐について
これらの随行員のなかから
大使以下朝貢の随行員
長期滞在の留学生
留学僧・通訳など
総勢50名~60名程度が
選ばれ大唐の都
長安に赴きます。

その長安行きを
選定する権限は
唐側にあったそうです。
長安に行く者の
旅費滞在費などの費用は
唐側が負担するので
余程優秀な人でないと
選ばれることは
ありません。

選ばれなかった者は
その船に乗って
日本へ帰るのです。

如何でしょう?
自己研鑽と猛烈な学習を
通じて、学問的にも
優秀でなければ
遣唐使として選ばれなかった
ことはもとより、
周囲のサポートや
引き立てもなくては
なりませんが、
何よりも、
決死の覚悟が
必要でした。

空海さんは
お釈迦さまの教えを
決死の覚悟で
学びにいったのです。

いかに
お釈迦さまの教えが
如何に深く又高く
広い、珠玉の教えで
あったかの証明です。
どんなものより
尊いのです。

空海さんが
命を賭けてでも
学びたい
お釈迦さまの
思想の深さを
物語るお話があります。
ちょっと、
ここで共有してください。


 『あるバラモンの問い』

 「沙門よ、わたしは田を耕し、種をまいて食を得ている。
  あなたも自ら耕し、種をまいて食を得てはどうか」

  すると仏陀はサラリと答えて言った。

 「バラモンよ、私も耕し、種をまいて食を得ている」

  それを聞いて、彼のバラモンはわが耳を疑うような顔をして、
  じっと仏陀のおもてを見つめていたが、
  やがて問うて言った。

 「だが、わたしどもは、誰もまだ、あなたが田を耕したり、
  種をまいたりする姿を見たものはいない。
  いったいあなたの鋤はどこにあるのか。
  あなたの牛はどこにいるのか。
  あなたは何の種をまくのか。」

  仏陀は言った。

 「信はわがまく種である。
  智慧はわが耕す鋤である。
  身口意の悪業を制するは、
  わが田における除草である。
  精進はわがひく牛にして、
  行きて変えることなく、
  われを安らけき心にはこぶ」

  (阿含教 中部経典34 牧牛者小経)

バラモンとは
ヒンズー教徒のことを
指す言葉で、
沙門とは
バラモン以外の
修行僧のことを
指して言います。

お釈迦様は
2600年の前に
真理を悟られました。
その教えが
あったからこそ、
空海さんは
万里の波濤を乗り越えて
仏法真理を
学びに行ったのです。

空海さんが
当時の唐の時代に
一番影響を受けたであろう
玄奘さんは
空海さんが
長安に来る200年近く前に
お釈迦さまの
唯識思想に関心をもち
当時では
国交がなかった
インドに
国禁を犯してまで
仏教を学びに行きました。

玄奘さんは
インドで
各地にあるお釈迦さまが
辿ったであろう仏跡を
巡りつつ
657部に及ぶ
大量の大乗仏典の梵本
(サンスクリット原典)を収集し、
645年長安に
それを持ち帰りました。
有名な『西遊記』の
もととなった
『大唐西域記』は
その紀行記でありました。
玄奘さんは
三蔵法師のモデルです。

玄奘さんは
その持ち帰った経典を
漢訳にして完成させのが
あの有名な
『大般若波羅蜜多経』
(だいはんにゃ
はらみったきょう)です。
大乗仏教の
基礎的教義が
書かれている経典です。
通称は
『大般若経』です。
600巻余の
膨大な経典です。

いずれにしても
玄奘さんも
空海さんも
お釈迦さまの教えを
学ぶために
命がけの努力を
されたことが
見て取れると思います。

私たちは
玄奘さんや
空海さんの
血の滲むような努力の
お陰で
少しの努力で
お釈迦様の教えを
学ぶことができます。

そして、
空海さんは
『吽字義』の中で
こう仰っています。

「法身の三密は繊芥(せんかい)に
入れどもせまからず、
大虚(たいこ)に亙れども寛からず。
瓦石草木をえらばず、人天鬼畜をきらわず。
いずれのところにかあまねからざる。
何物をかおさめざらんや、故に等持と名づく」

「この宇宙にある一切のものに、仏の光明は、
あまねく行き渡っている。朝、ご来迎を拝もうと、
山頂に立つと、遥か彼方から、仏の光明が
自分の全身を照らす。
草や木、瓦や石、虫や動物と、どんなものにも、
仏の光明は等しく注がれているのだ。
生きていることのすばらしさ、ありがたさは、
仏の光明を、合掌して受け止められる人の心に浸透するのだ。」

私たち一人ひとりに
あまねく
仏の光の光明が
注がれている。
仏性が備わっている
ということを
そして
その仏の光明を
受け止めた者の
心に芽を出すと
言ってくれているのです。

ほんとうに
その事を自覚して
お釈迦さまの教えを
学ぶならば
以外にたやすく
腑に落ちるのでは
ないでしょうか。

お釈迦さまも
仰っています。

真理と言う宝は
自らの内に
既に備わっている
という教えを
「衣裏繫珠の譬え」
(えりけいじゅのたとえ)
として、
弟子たちに
お話になりました。

今日は
松原泰道先生の
著書の中の現代風に
アレンジした解説が
解りやすいので
引用させていただきます。

『衣裏繫珠の譬え』仏教
『ある男が親友の家を訪ねた。
親友の心からの歓待を受けて男は酔いしれ眠ってしまった
親友は勤務のため出かけなければならないが、
この男を起こすのに忍びず、
値段の付けられないほどの高価な宝玉を
この男の衣服の端に縫い付けておいた。

さて、この男は目が覚めたが
親友がいないので家を去り、他国に赴くが、
落ちぶれて衣食にも事欠くようになる。
しかし、男は別に自分の貧しさを苦にする様子がない。

たまたま、この男は衣服に宝玉を縫いこんだ親友に会う。
親友は、彼の零落した姿を見て悲しんで言う。
「おい君、君はどうして貧乏になったのだ。
ぼくは君が充分に安楽に暮らせるようにと、
高価な宝玉を君の服の端に縫いこんでおいてあげたのだが、
その宝玉はどうしたのかね」と

そして、その善き友は彼の服の一端を示して
「それ、今もここに宝玉があるではないか」
「これを売ったらこんなに貧乏しなくてもすむではないか」』

このように
私たち一人ひとりの
服の襟(心の中)には
高価な宝玉(仏性)が
縫いこんである
(既に備わっている)
のです。
ただ、それに
この男(衆生、私たち)は
気がつかないだけなのです。
気づけばいいのです。

どうか
そのことに
気づくことこそ
お釈迦さまが
お説きくださった。
教えを

命を賭して
インドまで学び
そして中国に伝えた
玄奘さんや
中国に教えを求め
学び
そして日本に伝えた
空海さんの
恩に報いることでは
ないでしょうか。

共有、ありがとうございます。

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