2011年7月30日土曜日

宗教とは?

今日は
宗教についての
質問のメールが
ありましたので、
テーマとしてみます。

いろいろ
書いてあるのですが、
質問の核心は
「アーカメロディさんは
宗教について
どう思っていますか?」
というものですので、
それについて
今の私の考えを
書いてみたいと思います。

私は
24歳の時に
谷口雅春先生の
「生命の実相」を
私の先輩でもあり
師でもある方に
はじめて
教えていただきました。

以前にも書きましたが
真理とは程遠い
生き方を
していた私には
衝撃的な出会いでした。
「人間は神の子」
「人間本来病なし!」
「人間本来死なし!」等々、
目からウロコの状態でした。

それ以来
精神世界の書籍や
宗教関係の書籍に
これまで
40年近くに
亘って
勉強してきました。

その間、
人からの勧めで
宗教にも入会し
宗教活動も
経験しています。

その観点からしますと
宗教そのものに
反対する立場では
ありません。

古くから見ますと
イエスさまが
説いた教えも
お釈迦さまが
説いた教えも
おおもとは
根本神(仏)から
霊感を受けて説いたものです。

イエスさまや
お釈迦さまの
個性があって、
若干、表現方法は
違うところもありますが
本質においては
変わりません、

しかし
イエスさまや
お釈迦さまのレベルの
表現の違いは
何も問題はありませんが、

キリスト教においては
イエスさまの弟子たち
マタイさん
マルコさん
ルカさん
ヨハネさん
パウロさん
ヤコブさん
ペテロさん
そしてユダさんによる
書簡や福音書、手紙が
纏められて
生まれたのが
新約聖書です。

その弟子たちの
視点からの
イエスさまの
教えですので、
そこに
おおもとからの
ズレは生じます。

そして、
時代を経て、
国の勢力争いの中で
時の権力者が
統治しやすいように
都合の良い解釈を加え
システムを
加味していきます。

やがて、限定され
歪められていき、
イエスさまから
遠い教えに
なっていきます。

仏教においても
お釈迦さまは
教えを
書き残すことを
しませんでしたので、

お釈迦様の
入滅後
十大弟子である
マハーカーシャパさん
が中心となり、
アニルッダさん
スブーティーさん
プールナさん
カーティヤーヤナさん
ウパーリさん
ラーフラさん(お釈迦さまの一人息子)
アーナンダさん
の八人の弟子たちを中心に
他の弟子たちと一緒に
会議をして
教えを纏めていきました。

シャーリプトラさん
マウドガリヤーヤナさんは
お釈迦さまより
早く亡くなっていたようで
その会議には
参加していません。

教えについては
アーナンダさんが
中心となり

戒律については
ウパーリさんが
中心となり会議を
進めましたが

弟子たちの中で
戒律についての
考え方や

自己の悟りのみに
中心を置く信者と

この教えを大衆に
広げることに
中心を置く信者の
違いが明確となり

後に
それが上座部(保守派)と
大衆部(革新派)に
分裂をして
いくことになります。

大衆部から生じた
グループを
大乗仏教と言い
それに対して
上座部を小乗仏教と
いうようになりました。
その後
多くの経典が
作られています。

このように
イエスさまの教えも
お釈迦さまの教えも
時代を経て
いろいろな解釈が
されてきました。

キリスト教でも
カソリックや
プロテスタントと
分かれています。

実際に
宗教上の問題が
原因で生じた戦争も
今までたくさん起き、
政治的な
覇権争いに発展し
多くの尊い命を
犠牲にしています。

今でも、
何も変わっていません。
宗教という名の下に
殺し合いを
続けています。

結局
「神も仏もいるもんか!
いるんだったら、
なぜ、宗教同士の争いで
殺し合いをやっているんだ!」
となるのです、

私が
思いますのは、
教義が適用される
プロセスや背景に
問題があると、
思っています。

私たち
ひとりひとりに
神性が備わっています。
その内在する神を
信じることこそ
究極の宗教です。

私たちと
神とを分離させ
外に神を
求めさせる教義は
また、
万人が
内に持つ力よりも
対象となる
特定の人間や物を
偶像として
力を与える教義が
問題なのです。

私たちは
ひとりひとりが
自らの内奥にある神性を

自らが課した
あらゆる体験を通して
顕現していく
目的で
この現象界に
生まれてきます。

どんな苦難や困難
病や死にも
重要な意味が
隠されています。

その価値を経ずして
何かがあると
外に依存して、
その苦を
取り払おうとする行為は
自らが持つ神を
否定する行為です。

すべてとは
言いませんが
多くの
宗教の中に
神や仏と
私たちを分離し

神を恐れの対象にしたり
それを信じないものを
排斥したりします。

人間には
それぞれの
真理の発見の
仕方があります。

それぞれに
自分の問題集を
解いています。

真理に至る道も
それぞれです。
問題ではありません。

愛から発する、
あたたかみや
慈しみを感じ
共感できるものこそ
真理なのです。

最終的な判断は
私たちの
内なる声から
聞こえるところの
直感に従がうことです

いつも、
その声を
見逃さないことです。

自らの
頭脳が働かない
知性を黙らせる
環境を
それぞれのやり方で
創ってください。

瞑想をしたり、
好きな音楽を
聴きながら
静かに散歩しながら
鳥や虫の
鳴き声を聞きながら
アロマエキスを
楽しみながら
お風呂にゆったりと
浸かりながらでも

なんであろうと
自らの喜びの中心に
焦点を合わせて
その声に
耳を傾けてください。。

形や定義は
ものごとを明快にする
ためのものであり、
それに
囚われるための
ものではありません。

内なる静けさの中に
内なる真理の中に
自分のやり方で
入ってください。

内部のこの直感を
生み出す神性は
元々
生まれながらに
持っているものです。
私たちの存在の
エッセンスなのです。
魂の叡智への宝なのです。

この内部の宝を
語らない
宗教からは
離れることです。

究極は
神と一体になる
プロセスなのです。

その道を
歩むことこそ
宗教と言えるのでは
ないでしょうか。

宗教を
金儲けの手段にしたり
教団の勢力拡大ばかりに
現を抜かす宗教は
宗教の名を借りた
企業体でしかありません。

私はそう思っています。

ありがとうございました、

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