2011年6月30日木曜日

身・口・意を正す


お釈迦さまは、
よく
弟子たちを集め
説法しました。

『人間は
生まれによって
尊いのでも
賤しいのでもない。
その人の
行為によって
尊くも
賤しくもなるのである。』



2600年前のインドは
カースト制度であり、
徹底的な
人種差別の時代でした。

その時代に、
お釈迦さまは

人の貴賎は
身分ではなく
その人の
行為そのものである。
と、喝破されました。

それが、
『三業』(さんごう)と言って、
仏教の
根幹を為す
教えの
ひとつになっています。

一つ目は
身業(しんごう)です。

汝、盗むなかれ
汝、姦淫するなかれ
汝、殺すなかれ

そんなの
当たり前すぎると
思いますか?

当時のインドは、
カースト制度による
差別が
差別をする側
差別をされる側共に
その立場においての
心の荒廃があった時代です。

しかしながら、
今の時代でも
盗むなかれや
姦淫するなかれを
一度も
経験したことがないと
言い切れる人は
少ないと思います。

そして、
世界では
今も
戦争が止むことはなく
殺しあっています。

私たちが、
悪い行いをしたならば、
これは身の罪になります。

二つ目は
口業(くごう)です。

汝、妄語を語るなかれ
汝、悪口を語るなかれ
汝、両舌を語るなかれ
汝、綺語を語るなかれ

私たちが
嘘を言ったり
悪口を言ったり
二枚舌を使ったり、
飾った言葉で
しゃべったりしたならば、
これは口の罪になります。

三つ目は
意業(いごう)です。

「貪欲(とんよく)を
生じ
瞋恚(しんい)を
おこすことも、
そのみなもとをいえば、
みな愚痴よりいでたり。」

仏教でいう
最も、根本的な
三つの煩悩、
貪(とん)
瞋(じん)
癡・痴(ち)を
心の三毒(さんどく)
と言います。

必要以上に物を求める心
貪(むさぼり)りの心
怒(瞋)りの心
愚痴の心
愚痴という意味は
「グチを言う」
という風に
使われていますが
ここで言う愚痴は
真理に対する
無知を意味します。
癡(痴)の心です。

私たちが、
このような心を
持つならば、
これは意の罪になります。

お釈迦さまは、
身分が
高いことによって
低い身分の人間を
奴隷以下に扱い
悪業の限りを
尽くしている人たちに
警鐘を鳴らし、

身・口・意の
三つの悪業から離れ
善業を
為すことの道を
説いたのです。

今の時代の
私たちにも
充分に
心しなければならない
教えです。

私たちは、
身・口・意でしか、
その
霊的エネルギーを
使用することはできません。

ですから、
私たちは、
身を正し、
口を正し、
想い(意)を
正さなくてはなりません。

「汝、幼子の如くあれ」

私たちにも、
幼い日々がありました。

純粋な子供の頃
あなたは
神の子そのもの
光の子
そのものでした。

自らの心を
曇らせるものは
何も
存在しませんでした。

唯、
存在しているだけで
周囲を
輝かせてきました。

周囲は
あなたを見て、
微笑んでいます。

その微笑む姿を見て、
あなたも、
微笑み返します。

あなたは、
もう愛そのもの、
幸せそのもの、
光そのものでした。

しかし、
時が経ち
あなたの本性である
光を
徐々に曇らせていきます。

まず、
親が持つ
習慣性の中にある
無知が
光を閉ざす
要因になります。

あなたは、
その習慣性を
身につけるように
なってきます。

そして、
大人なればなるほど
いろいろな欲望の虜に
嵌っていきます。

怒り
憎み
誹り
罵り
嫉妬し

さまざまなものを
引き寄せ
身・口・意を
曇らせて、
賎しいものに
なってきました。

このように
悪意というもは
後天的に
生まれるのです。

私たちは、
赤ちゃんの時は、
みんなが
可愛い善意識です。
在るだけで
尊いのです。

なぜならば、
生命が
生まれるからです。

生かし産ませる
善エネルギーが
生命を
宿しているからです。

その後の
成長過程で
悪意が生まれ、
賎しくなってきます。

であるならば、
お釈迦さまの
仰るとおり、

悪を想わず
悪を語らず
悪を為さないと意識し、
身・口・意の業を
点検し、
チェックする
ことだと思います。

自らの
生命であるところの
善なる
エネルギーに
照らし

正していく
プロセスを
経ていくことが
尊さに
繋がっていきます。

本質としての
神性や仏性は
光一元です。

後天的に
二次的に
発生したものは
あくまでも幻想に
過ぎません。
必ず、
消え去っていくものです。

今の一瞬、一瞬を
大切にし、
目の前に現れる
人や出来事に
善を
為していくことこそが
何よりも
尊いのでは
ないでしょうか。

有難うございます。

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