2011年6月14日火曜日

内観とは

お釈迦さまは
内観をしなさいと
お弟子さんに
よく言っていました。

内観とは
内を観ること
字の如しです。

それでは
内を観るとは
どういうことでしょう。

自らの内の
神性を観る
と言うことです。

瞑想と
同じことです。
私たちの
本質の価値観である
無限
一なるもの
久遠を観る
と言うことです。

神の
性質であるところの


真理
完全性を観る
と言うことです。

なぜ、
お釈迦さまは
弟子たちに
内観を
勧めたのでしょうか

私たちは
日常
肉体を持った
人間として、
どうしても、
物質に
重きを置いた
生活をしがちです。

お釈迦さまの時代の
2600年前に遡っても
眼・耳・鼻・
舌・身・意の
感覚器官が
お弟子さん
ひとりひとりの
迷妄の元だったようです。

世を捨て
出家をした
お弟子さんでさえ
この肉体の持つ
五感に
惑わされることも
少なくなかったのでしょう。

内観とは
本来の意識に
戻る行為です。

その意識は
全知全能
無限エネルギー
プラスの
エントロピーです。

日常に在るとき
私たちは
肉体の持つ器官に
縛られている状態です。
自縄自縛です。
そうすると
エネルギーが
低くなっていきます。

内観とは
その自縄から
自分を
解放する行為です。
自らが
自らを束縛し
自らが
自らを制約した
低い意識から
解放し
エネルギーを
高めることです。

私たちは、
その一瞬一瞬を
創造しているのです。
私たちは、
自分が思っている
通りのもので、
それ以上のものでも、
それ以下のものでも
ありません。

神は無限者です。
その本質は
私たちにも
厳然として
備わっています。

自我を見るか
真我(神我)を観るか

偽我を見るか
無限我を観るか

肉体我を見るか
久遠我を観るか
なのです。

私たちは、
修業して
無限となる
のではありません。

お釈迦さまも
長い迷妄から
自らを
解き放ちました。

お釈迦さまは
シャーキャ族の
カピラヴァストゥ国の
城主の王子として
物質的には
何不自由ない
裕福な生活を
送っていました。

しかし、
その生活に
疑問を感じ
29歳の時に
出家をし
その後
6年間に亘り
厳しい修行を
続けました。

ある時
水辺で
身体を清めている時
あまりの
やせ衰えた
お釈迦様の姿に
見るに見兼ねて
一人の乙女が
乳粥を差し上げました。

この乙女が
スジャータという人で
コーヒーのお供
スジャータという
ミルクの名称にも
なった方です。

その乳粥を食べて
顔に赤みがさし
みるみる
元気になっていきました。

その時の悟りが、
自分が王子として
何不自由なく
毎日を送っていたことも

厳しい修行に
明け暮れて
このように
痩せさらばえたとしても、
そのどちらにも
真理はなかった。
中道の道(正しい道)にこそ
真理があった。
それが
四諦八正道という
有名な教えになりました。

それは、
その身そのままで、
今、即、仏である。
今、即、無限である。

私たちには、
元々
仏の持つ性質
即ち、
仏性が皆に備わっている。
「一切衆生 悉有仏性」である。

その、仏のように
正しく見
正しく語り
正しく思い
正しく行い
正しく生活し
正しく努力し
正しく念じ
正しく内観する
ことが
真理への道であると
悟ったのです。

真実の
内観とは、
私たちの
本質であるところの
無限を
凝視する、
無限への
一心集中です。

私たちの
こころの内の
神仏に
スポットを当て
私たちを
光り輝かせる
ことなのです。

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